男の肖像
〜小説・太史慈伝〜

〔七〕太史慈は曹操の誘いをどのように受け止めたか

 呉夫人のもとに。ひとりの、ぽっちゃりとして可愛らしい娘が、仕えていた。
 名を、陳鴦という。
 家柄のさしてよくない彼女は、侍女というよりはむしろ召使に近い位置にいて、厨の仕事などもしていたのだが…

「鴦。おまえ、子義どのを、どう思う?」
 そう言ったとたんに、陳鴦の顔が真っ赤になった。呉夫人は、思わず、微笑んでいた。
「…あら。そうなの。じゃあ、…この縁談、進めてもよいのね?」
「え、縁談?」
「ええ。子義どのが、お前を嫁に貰いたいって」
「え…!!」
 陳鴦の顔が、ぱあっと輝いた。
「まことで、ございますか?あんなお偉い方が、わたしのようなものなど…」
「お偉い、ねえ…」
 呉夫人は、人を見る目のある女である。あの男を、「偉い」と言っていいのかどうか、…多少同意しがたいという顔をしたが。
「お偉いですとも!この前、亡くなった劉刺吏さまの兵をまとめてこちら方につかせたのは、あの方だというではありませんか!家中の方は、あの方のことを、信用できない男だとか、華子魚どのと同郷だからそちらに走るんじゃないかとか、西の荊州に行ってしまうんじゃないかとか、いろいろおっしゃってたみたいですけど、ちゃんと二月もしないうちに兵をまとめてもどっていらしたし。このたびの予章平定には、あの方が持ち帰られた情報がとっても役に立ったって、評判ですし」
 珍しく口数の多くなった陳鴦に、呉夫人は、目をぱちぱちさせた。
 …あらあら。この子。よっぽどあの男に惚れてるのね…?
 信用できないという声があったのは、本当だ。実際、太史慈は、孔融のところにも劉ヨウのところにも長居はしなかったし…、一度は独立して旗揚げまでした人物である。彼がこれだけ長く一つの勢力のもとにとどまっているのは、初めてのことなのだ。
 息子と太史慈が、妙に気が合うことを知っている呉夫人は、裏切りの心配だけはしたことはなかったのだけれど。まして、頭半分食べ物のことで埋まっているような男だ。ちゃんと食べるものを食べさせている限り、太史慈が孫家を去ることは、あり得ないことだと思っていた。そう…
 …子義どのがどうやってもとの劉刺吏の配下たちを説得したのか聞かせてやったら、この子、どんな顔するかしら…
 呉夫人の顔に、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
 一度は干戈を交えた一万余人が、ごくあっさりとこちら側についたので、…孫策はともかく、張昭や程普あたりが、「こちらについたと見せかけて、内部からこちらを切り崩そうというのではあるまいな」と気を廻し、太史慈に、どうやって説得したのかを聞きただした。その時、太史慈は、
「いや。うちに来れば食いっぱぐれはないぞと言ったら、みんなついて来たんですが」
他にどう説得するというのですか、と、不思議そうな顔で言ったものだ。
 無理もない。予章方面では、小さな勢力が次々に蜂起して、劉刺吏配下のものどもは、食料調達にも苦労する有様だったのだから。確実に食えると言われれば、それは、こちらにつくだろう。…確かにそれは間違ってはいないが、あまりにもあの男らしくて、話を聞いたときは思わず吹き出したものだ。
  …それを見越して彼をやったのなら、策も成長したというものだけれど…
 幾つになっても、おなかをすかせた子供のような…、およそ、裏表のない男。可愛げのある男とは、彼のような男を言うのだろう。こちらを裏切ってどうこうというようなややこしいことを、あの男が間違ってもする筈はない。ここにいれば、食える。まして、主君とは、気が合う。あの男にはそれで、十分なのだ。
 情報を集めて来たというのも、孫策が、「あっちの様子はどうだ?」と言ったら、「直接聞いてください」と、連れて来た連中の中で頭立ったものを引っ張ってきたというだけで…本人が何をしたわけでもないのだけれど。何となく太史慈の手柄になってしまうのは…、まあ、人徳というものなのだろう。
「…そんなお偉い方なのに、とってもお優しいのですよ!この前わたしが井戸端で青菜を洗っておりましたら、あの方が通りかかって、手伝ってくださったのです!」
「ええっ?」
 呉夫人が目を丸くした。陳鴦が、頬を染めて、うなずく。
「そうなのです!何も言わずにそばにいらしたと思ったら、黙って一緒に…」
 …あのゴツい手が青菜を洗っているところなど、呉夫人には想像もつかなかったが。
「よろしいですと、お止めしたのですけれど…、『手が荒れるだろ』っておっしゃって…」
 ・・・・・。
 …まさか、男がそんなことするなんて…!
 子義どのも、よっぽどこの子に惚れてるのね…。
「まあ…、それならきっと、うまくいくわね。おまえは料理も上手だし」
 美味しいものをいっぱい食べさせてさしあげなさいと言うと、陳鴦は、はい、と、にこにこ頷いた。
 しかし。
 太史慈の洗った青菜を食べたかもしれないというのは、…正直、あまり嬉しいことではなくて。呉夫人はこっそり顔を顰めた。



 惚れているというのは、間違ってはいないのだけれど。
 よもや。求婚する時は野菜を洗うものだと思い込んでいる太史慈が、陳鴦が野菜を洗う日を、今か今かと待ち構えていたとは。
 呉夫人の想像を越えたことであった。



 お互いに望んで結ばれた同士だから(陳鴦の料理の腕が上等だったせいもあって)、夫婦仲は、上々で。
 享という、子供も出来て。
 太史慈は、非常に幸せであった。
 任された荊州国境方面の統治も、「みながちゃんと食えるように」という、太史慈ならではの判りやすい方針が、民にも受け入れられ。
 彼の武名を怖れた劉表が、ちょっかいを出してくることもなくなって…、家中での太史慈の名は、着実に上がっていった。

 そして。
 その評判は、曹操の耳にまで達した・・・・・





「あら、あなた…、それ、どうなさったの?」
 何やら、薬草らしきものを持って現れた太史慈を、妻はにこやかな笑顔で迎えた。
「うん。こんなの送ってきた奴がいるんだけど…これ、何か知ってるか?」
 渡された草を見て、妻はにっこりと微笑んだ。
「ああ。これ、当帰って言うんですよ」
「当帰?」
 俺はそんなの見たこともないぞと、首を捻る夫を、妻はおかしそうに見上げた。
「それはそうですわ。あなたには御用のないものですもの」
「あん?」
「わたしのように、冬場、躰が冷えて困る者の薬ですわ。少しあると重宝…て、あ、あなた?どうなさったの?」
 見る見る血相を変えた太史慈を見て、妻は真っ青になった。

「あ、んの、野郎ーっ!!!」

「ちょ、ちょっと!あなた!あなた?!?!」
 突風のように家を飛び出して行った太史慈を、妻はただ、茫然として、見送った。



「殿ーっ!!!」

 折りしも、張昭と茶など喫していた孫策は、目をぱちくりさせた。
 無理もない。飛び込んできた台風は、当然任地にいる筈の、太史慈だったのだから。
「…子義?お前、何やってんだ…」
「殿っ!!お暇をください!」
「…は?」
 台風みたいであることにかけては、人に劣らぬ孫策だが。このときばかりは、面食らった。
「お暇って…お、お前、何言い出すんだ、いきなり?」
 日頃から、口数は少なくを心がけている太史慈は、いきなり、要件に入った。
「曹操の奴をぶっ殺してきます!」
「薮から棒に、何を言い出すんだ」
 それは。曹操は自分にとっても気になる存在ではあるが。いくらなんでも、それなりの地位と勢力のある相手である。いきなり「ぶっ殺してきます」と言われて、はいそうですかと言えるものではない。
「あの助平野郎、俺の女房にちょっかい出しやがった!」
太史慈はもはや噴火山状態で。
「はあ?」
 孫策は、陳鴦の顔を思い浮かべた。
 …そらまあ、ぽちゃっとして可愛らしい子ではあったが。何も、許都からはるばるちょっかいを出してくるほどの、いい女だとは思えない。
 いくら曹操が女好きだっていっても、なあ…
「あの野郎、俺の女房が冷え性だって聞きつけて、冷え性の薬を送ってきやがったんです!!」
「冷え性の、薬だぁ?!」
 こっくりと、太史慈が頷いた。
「当帰たらいう薬です!女房にちょっかい出されて黙っていたら、俺の男が廃る!ここは曹操の野郎に一発喰らわせねえと気が済まん!」
「あのな!お前…」
 咄嗟に言葉が出なくて。これはもう、殴り倒して止めるしかないかと、孫策は立ち上がったが。
「当帰、ですと?」
 呆れ顔で二人のやりとりを聞いていた張昭が、そこで、ふと、口を挟んだ。
「それは…謎かけではないのですか?」
「謎かけ?」
 異口同音に、繰り返し。二組の目が、きょとんと、張昭を見た。
「ええ。子義どのはもともと、北のご出身でしょう。ですから…、当帰で、「帰ル当シ」、帰るべし、ですよ。揚州を捨てて、北に戻って朝廷に仕える気はないかと…、そういう誘いではないのですか?」
「なんだとおっ!!」
 またまた二つの口が、異口同音に喚く。
 …うわ…
「あの野郎っ!ちょっと詩が作れるからって人をバカにしやがって!」
「人んちの家臣にちょっかい出すとは、なんて野郎だ!許せん!!」
 …余計なことを言わなければよかったと、張昭はいたく後悔した。
「殿!やはり俺は…、御免!」
 飛び出しかけた太史慈の腕を、孫策が、がっちりと掴んだ。
「こら子義!抜け駆けは許さんぞ!!」
「え」
 きょとんと、丸い目を瞠った太史慈に。
「いずれ、曹操とはやる気でいたんだ!これだけコケにされて黙ってられるか。なあ」
「我が君っ!!!」
 慌てる張昭に、孫策は、にやりと笑ってみせた。
「近々、奴は、袁紹と戦うことになる。そうだろ。その隙に、本拠地を落としてやる。許都を落として、帝を江の南に攫ってくるんだ」
「さ…攫って、どうするのです…」
「さあ?曹操は逆賊だとでも言わせればいいんじゃないの?そしたら、いまだに帝を有難がってる連中が、奴を袋叩きにしてくれるだろ?」
「…はあ…」
「帝はまだまだ、使えるぜ?うまくすれば、お前も徐州に帰れるぜ、子布。なあ子義」
 孫策は、太史慈を振り返った。
「一発派手にやってやろうや!そんときは…お前が、先鋒な!だから、それまで待て!」
「殿!」
 感激する太史慈の肩を、孫策が、ばんばんと叩く。







 一発派手にやってやろうや!そんときは…お前が、先鋒な!だから、それまで待て!・・・・・



 殿が、そう、おっしゃったから。
 俺は、待ってたんだ。
 俺が先頭に立って、許都の城門をくぐる日を、ずっとずっと、待っていたんだ…





 だが。
 その日は、永遠に、来なかった。





 討逆将軍・孫策…孫伯符は。
 北への出兵準備中に。あえなく、凶刃に倒れたのである。





 

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