男の肖像
〜小説・太史慈伝〜





「子義が、病?!」
 報せを受けた東呉の君主…孫権は、驚いて立ち上がった。
 太史慈といえば、殺しても死ななさそうな、頑丈な男。それが、急な病に倒れるなど…
「…はい。何か…ヘンなもの食ったらしくて…」
 …それなら、判るか。
 何せ食い意地のはった、子義のことだ。どこで何を食ってるか、わかったもんではない。
「それで…容態は…」
 使者が立つほどなのだから、軽いわけはない。案の定、
「医師は…、もう…」
「そんな…」
 こんなに、急に。
 孫権は、きりきりと、唇を噛んだ。
 …バカか子義お前は!何やってんだよ!!…
「とにかく、急ぎ、見舞いの使者を!こちらからも、医師を、差し遣わす」
 騒然となった孫氏の館から、慌しく使者が立てられた。





「あなた!ご主君から、お見舞いの方が…」



 いとしい妻の声に、重い瞼を、こじあけると。
 霞む視界に…、皆の、悲しそうな顔。
 妻と。子と。ああ、祖志。…泣くなよ。男が泣くなんて、格好悪いだろ…
 俺も、いよいよ…、駄目ってことなのかな…

 うつろな瞳が、ぼんやりと、宙を彷徨う。

 ああ。あれが、お見舞いかあ…
 何言ってんだか、よく、わかんねえけど…、わざわざ、見舞い寄越してくれるなんて、やっぱ、仲謀さまは、いい方だよな。
 俺は、やっぱ…、伯符さまの方が、好きだったけど。
 あの世に行ったら…また、会えるのかな。…会えるよな。
 なんか…あんまり怖くねえのは、あれだよな。あっち行きゃあ殿がいるって、そんな気がするからかもな。
 前に…、覚悟決めた時は、あんなに、怖かったのに…

 ぼやけていく、意識の中。脳裏にあの日の己が映る。
 縄をつけられ、孫策の前に、引き出され。…俺もここまでかと顔を引き攣らせていた、あの日の。
 怖いのを紛らわせようと、一生懸命最期の台詞を考えていた、あの時の。
 陽気な声に、目を上げれば、あの懐かしい、太陽のような笑顔…

 蒼ざめた、太史慈の顔に、かすかに笑みが浮かんだ。

「…大丈夫、たる者…」

 乾いた唇が、のろのろと、言葉を綴る。居合わせたものたちは、聞き逃すまいと耳をそばだてた。

「世に生きては、七尺の、剣を帯びて…、天子の階を、升(のぼ)るべきものを…」

 そこで。見舞いの使者の顔が、引き攣った。
 けれど。霞んだ目は、もう、それを捉えることは、出来なくて。
「し、子義どの?!?!」
 慌てた祖志の制止の声も、もう、耳には入らなくて。

「…いまだ、その志も、果たさぬままに…、このようなところで…死なねば、ならぬのか…」

 …よし。これで…

 それが、最期の、言葉となった。
 唖然として顔を見合わせた、一同をよそに。
 永遠に瞳を閉ざした、あの、ごつい顔には、これでどうだとでもいうような、満足そうな笑みが浮かんでいた。
 最期の言葉の中身にも拘わらず。

 …もぉっ!この人ときたら、最後まで…
 人前も憚らず、祖志が号泣し。泣き崩れる母を、享が支える。

 太史慈の、波乱そのもののような生涯は、41歳を一期に、幕を閉じた・・・・・





「子義が、謀反?!?!」
 孫権は、きょとんと目を瞠った。
 呉都にとって返した見舞いの使者は、慌しい口調で、太史慈最期の顛末を報告したのである。
「はい!確かにそう、申されました!『大丈夫たる者、世に生きては、七尺の剣を帯びて天子の階を升(のぼ)るべきものを、いまだその志も果たさぬままに、このようなところで死なねばならぬのか』と!これは謀反のお心があったとしか…」
 まさか、南方の山越を語らって、何か企んででもいたのだろうか。…だが。
「…けど、お前…、子義、だろ…」
 彼に任せていた南で、飢饉でもあったのならともかくも。太史慈は、「食う」と「格好いい」が至上命題のような男であった。謀反のような、陰険な…彼の言葉を借りれば「男らしくない」ことをするとは、およそ、考えられなくて。
「何か、間違ったんじゃないのか?」
 幸いにも、孫権は、洞察力に優れた君主であった。
「あ!そういやあ…」
 たまたま御前に控えていて、ぽかんと使者の報告を聞いていた陳武が、そのとき、ぽん、と、手を打った。
「お、子烈(陳武)」
何か思い当たることがあるかと、尋ねられ。陳武のいかつい首が、縦に振られた。
「それ、あれですよ!前の殿に捕まったとき、練習してた台詞ですよ!」
「はあ?」
 ぱちぱちと瞬く、蒼い瞳に向かい、陳武が一息にまくし立てる。
「俺あんとき下っ端だったから、あの人捕まえて引きずってくとき、いたんですよ!そういえばあの人、大丈夫がどうとか七尺の剣とか、ずっと口の中でぶつぶつ言ってました。何やってんだヘンな奴って、俺、そう思ってたんスが…」

 最期の台詞、練習してたんだ、あの人ぁ。

「・・・・・。」

 どこかで。
 あの、愛すべき豪傑が。しまったと、頭を抱えてうずくまっているような気がして。

 顔を見合わせた孫権と陳武が、吹き出した。

 最期、格好よく決めたつもりだったんだ。
 あの時にはぴったりの言葉でも今の状況には全然そぐわないなんて、あいつ、思いもつかなかったんだ。
 だって…、何と言っても、子義なんだから…!!

 あまりに、似合いすぎていて。
 今頃どんなに後悔してるだろうと思うと、もう、おかしくて、おかしくて。
 笑って、笑って。涙が出るまで、笑って…

 …そうなんだぞ、子義。
 これは、笑いすぎたから出てきた涙なんだからな!
 悲しくて泣いてるとか、そんな、女々しい涙じゃないんだぞ!
 お前が、あんまり、抜けてるから。
 おかしくて…、笑いすぎて、涙が、止まらないんだからな…!!

 最後の、最後まで。
 なんとまあ、子義らしい。





「いい、漢だったよな」
 涙を拭って、孫権が言った。
 鼻を啜って、陳武が、頷いた。





「行くぜ子義!いっちょ派手にやってやろうや!!」
「あー、殿ぉ!抜け駆けはずるいっすよー!!!」





 風に乗って、あの爽やかな声が、どこからか聞こえたような気がして。
 その声を、どすどすと、地響き立てて追いかける…、あのおおきな背中まで、見えたような気がして…



 そう。笑って…、笑顔で、送ってやろう。
 あの男には、その方がずっと、似合うから。


 本当に。いい漢だった。
 誰もが、彼を、好きだった。



 さよなら、太史慈。



 涙に、濡れた目で。
 孫権は、もう一度、微笑んだ。







「行くぜ子義!いっちょ派手にやってやろうや!!」
「あー、殿ぉ!抜け駆けはずるいっすよー!!!」






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