男の肖像
〜小説・太史慈伝〜
〔六〕太史慈はなぜ丹楊太守を名乗ったのか
「子義どの」
それは。劉ヨウが、孫策に、敗北し。敗残の兵が、蕪湖まで逃げてきたときのことだった。
「折り入ってお話があるんですが…」
やってきたのは、祖志。
「んー」
敗走中の軍で、糧食が、十分に行き渡るわけはない。太史慈は、もちろん空腹で…、言うまでもないが、非常に機嫌が悪かった。
しかし、祖志は、おそろしく真剣な顔をしていて。
「あの…、俺の部族のいるとこ、こっから近いんですけど…」
「へ?」
「子義どの…、俺らの部隊と一緒に、そこ、行きませんか?」
「お、お前っ!!」
これは、いけない。いくら負けたからといって…でもって嫌いな奴だからといって。
「ここで刺吏どの見捨てろってか!んなの男のするこっちゃねえだろが!!」
そう。逃げるなんて、格好が悪い。とんでもない野郎だ。
ゴツい手が、ぐいと胸座を掴んだが…それでも祖志は、ひるまない。
「やっぱ、子義どのだ!きっとそう言うと思った」
「だったら!」
「でも、見捨てるんじゃ、ねえっすよ。取って代わるんです」
「…?」
取って、代わる…?
意外な返事に、思わず手を離した太史慈に向かって、祖志は、語った…
「俺らは何も、好きで、従軍したわけじゃねえんです。暮らしのためなんですよ。
俺ら、山越の者にかかってくる税って、漢族にかかる税より、ずっと、重いんです。まともに払ってたらね、食ってけないんですよ。
だから俺らは、傭兵やってるんです」
それでなくても、腹が減っているところである。「食う」という言葉に、太史慈が、反応した。
「食ってけないって?」
…自分の村でも。税は…決して軽くはなかった。作物の出来が悪い年などは…そう、本当に腹が減って…
「そうなんです。漢族の連中は、俺らが、奴らの礼法とか服装とかそういうの受け入れないから、何してもいいと思ってる。思いっきり絞り上げるんですよ。」
「何だそれ」
故郷では、異民族といえば、北から襲ってくる遊牧民のことである。同じ地域に2つの民族が住んでいるという状態を、太史慈は知らない。
「いいじゃねえか。てめえで稼いで、着たいもの着て食いたいもの食って、何が悪い?俺だって北じゃあ、麦食ってて、こっち来るまで米なんざ食ったことなかったけどよ、…それと同じじゃねえか」
「子義どのはそう思ってくれるけど…、思ってくれない人のほうが、多いんですよ。ほんと…、子義どのが初めてですよ。こんな有名な人なのに、俺らのこと対等に扱ってくれて、山越だからどうこうって言わないなんて」
・・・・・。
「とにかくね、俺らがここにいるのは、税払うためなんです。税払うために、傭兵やってんですよ。俺らの部隊は、それなんです。そうしねえと…、家族が、食ってけないんですよ」
「おい、ちょっと待て」
食える食えないの話になると、太史慈は、勘が良い。
「お前らそれ…前払いで貰って…」
ねえよなあ。
「…後払いですよ」
祖志の顔に、ああやっぱこの人はわかってくれたと、安心したような色が浮かんだ。
「おい…、てことは…」
この戦、負けてしまったわけだし。敗走中の劉刺吏が、無事に予章に落ち着いたとしても…なあ。
報酬が貰えねえってことは…、こいつらや、こいつらの家族は…
・・・・・。
自分の空腹をかんがみて。太史慈の顔が、同情に歪んだ。
…こうなったら、もう。税を払わない以外に、食う手はない。けれど、税を払わずに済ませようと思えば…叛乱しかない。それは…負けたら殺されるかもしれないけれど、人間、食えなければ確実に、死ぬのだ。あの山中で、空腹のあまり虎まで食った自分にはよくわかる…
虎を食うのが穏当かどうかはともかく。太史慈は、珍しく、まっとうなことを考えた。
…こいつら死にに帰るんだ…
ここでこいつら見捨てたら、それこそ、男が立たねえじゃねえか!
劉刺吏は有名人だし…、親戚だっているだろうし。どっかに逃げ込めば、てめえの食い扶持くらいはなんとかなるだろうけど、こいつらは…
「それで…、俺に、何が出来るんだ?」
祖志の顔が、喜びに、輝いた。
要するに。
祖志たちは、旗印が欲しかったのである。
自分の部族だけで叛乱を起こしても、また山越が暴れているで、討伐されておしまいだ。けれど、太史慈の名前は、あの救援を呼びに行った件以来、それなりに知られている。
太史慈が、立ったとなれば。きっと人も集まるだろうし…、山越の者を差別したりはしない、彼だから。この人のもとで、山越の者も漢族も、平等に食える国を作ろうと呼びかければ、周囲の他の山越の者も、同調するだろう。
そして。
その思惑通りになった。
「どうせなら何か肩書きつけませんか?」
「肩書き?」
「ええ。ちょうど丹楊太守がいま、空席だし。…名乗っちゃったら?これだけ人集まったんだし…」
「丹楊太守かあ。…いいのかそんな…」
そこで。従卒が。メシが出来たと呼びに来たものだから。
「あ、適当にやっといてくれ!」
太史慈は、いそいそと、食事に行き…
かくして。
丹楊太守・太史慈が、出来上がった。
そう。
祖志の思惑は、見事に当たった。
そのままいけば、もしかしたら…、太史慈は、一つの独立勢力として、立派に立ったかもしれない。
ただ。一つだけ、祖志にも読みきれなかったものがあった。
それは…
「これで、呉会の地は全て、殿のものです」
程普の言葉に、孫策が、満足げに頷く。
「次は、西ですか」
「そうだな。ほれあの…、俺の兜持ってった奴。あいつが今、丹楊太守名乗ってるらしいじゃないか。生意気な」
「太史慈…ですか」
程普が、首を傾げた。
「しかし…それ、本当に太史慈だったのですか?あそこで殿と喧嘩していたのは…」
それなり名の通った豪傑が。偵察をしていたとか何とかいうのならともかくも、敵陣近くで狩をしていたというのが、それなり良識の持ち主である程普には、理解に余ることであった。
「だと思うぜ?だって…他に、俺と対等にやれる奴が、あの劉ヨウのところにいるとは思えない。だいたい、敵陣近くで狩が出来るなんて、いかにも豪傑じゃないか!」
「うーん…」
程普はまだ、納得しがたいという顔をしていたが。
「でも、あいつ、面白いよな!ほんと、あんなとこで狩するなんて!俺と気が合うかもしれないし…、捕まえて配下にするのもいいかもな」
孫策は、上機嫌だったが。
…殿がもう一人増えたら…面倒見切れんのじゃないか…
程普は、内心、嘆息する思いであった。
そう。
祖志の誤算は。孫策という形をしていた。
孫策が、あまりに早く呉会の地を平定してしまったこと。
太史慈が、地盤を固める前に・・・・・
そして。決戦の時は来た。