男の肖像
〜小説・太史慈伝〜

〔四〕長江を渡った太史慈に何が起こったか

 …変なものが、来た。
 揚州刺吏をつとめる劉ヨウ…劉正礼は、眉を顰めた。
 目の前には、ゴツい…、むさくるしい、髭面が、ひとつ。
「武者修行の途次、長江を渡りましたので…、同郷の貴兄にご挨拶をと」
 いわずと知れた、太史慈である。
 何のことはない。孔融の誘いを断ったことで、郷里でも白い目で見られるようになり。褒美にもらった金子で懐も暖かかったこととて、
 …ちょいとばかし、世間を見て来るかな…?
 とまあ、こんなところまでやって来たのだけれど。そろそろ路銀も乏しくなったところで、曲阿にいる揚州刺吏が同郷だということを聞きつけ、
 …お♪これは、喰わせてもらえるかも…
と、いそいそと長江を渡ってきたのである。
 このあたりでは、漢朝と、袁術だの何だのが、どうやら勢力争いをしているようで。ひょっとしてこの前の北海の時のように、オイシイ思いが(尻にとってはともかくも)出来るんじゃないか…、そんな甘い期待もあったのだが。
 劉刺吏の視線は、冷たい。
 無理もないのだ。彼は、その姓でも判る通り、先祖を辿れば漢朝にゆきつくという名家の出で、清廉なことで知られ、この揚州で、土地の士人たちとも融和し、治政の実を挙げているという…非常にまっとうな人物。彼の目から見れば、太史慈は、いつぞやの上表棄却事件一つをとっても、秩序を乱すとんでもない奴としか、思えない。北海の援軍一件にしても…
 …何か、裏があるのではないか?噂のような立派な人物には、どうも、見えぬ…
 劉正礼の目には、太史慈は、故郷を出てウロウロしているうちに、食い詰めて自分を頼ってきた流れ者としか、見えなかった。
 …うーむ。あの目つき…、うちの犬がエサをくれと寄ってくる時の目を思い出させるのだが…
 流石、揚州刺吏をつとめるほどの男である。この観察は、間違っていないのだが…
 …いや。私の偏見かもしれない。そうだ、幸いこの城には、人相を見ることにたけた許子将(許ショウ)どのがいらっしゃるから…
 劉正礼は、実に公正な人物であった。
「…ともかくしばらくこちらに滞在するとよい。ゆっくりしていなさい」
 そう、言った。太史慈は、嬉々として、一礼する。
 …やっぱり、なあ…?
 劉正礼は、こっそりと、首を傾げた。



「いけませんな。あれは。」
 案の定。許子将の意見も、同じであった。
「あれは…、口ばかり達者で、分別がなく、食い意地の張った男です!」
「人相に、出ておりますか」
「出ています」
きっぱりと、許子将の首が、縦に振られる。
「あれではないですか、援軍を呼んできたというのも、篭城戦の空腹に耐えかねて、どうせ死ぬなら同じだとやけくそで暴れこんだら偶然敵陣を抜けてしまったとか、そういうことなのではないですか。力だけは強そうですからな。ああいうものを召し抱えると、ろくなことにはなりませんぞ」
 流石は、許子将。見事に言い当ててみせた。
「ああいう『もの』ですか。これは手厳しい」
温厚な劉正礼は、苦笑する。
「…しかし、妙にこう…憎めぬ男ではありますよ。愛嬌があるというのか…」
「まあ、熊の仔が可愛いという程度には、可愛いかもしれませんが」
許子将は、容赦がない。



 そんなことが、あったから。
 太史慈が、言われたとおり「ゆっくり」している間に、敵対する袁術の軍が迫ってきたときも。
 太史慈を大将軍にして敵に当たろうという配下の進言に対し、劉正礼は、首を横に振ったのである。
 何か役に立たせてくれという太史慈に与えられたのは、敵情を偵察するという、それだけの任務で…

 …篭城が長引いて、腹を空かせたら…、何をしでかすやら判ったものではないからな…
 適当に外に出してやろうというのである。

 実に正しい選択であった。





「おい、偵察行こう、偵察」
「…朝も行ったじゃないですか」
「だって…暇だしよお〜」
 ぶーっとむくれた太史慈に、部下としてつけられた男…祖志、という名である…は、苦笑した。
 祖志は、山越族と言われる…いわば、異民族の出身。ここに来て太史慈が任された部隊の者には、この、山越出身の者が多かった。それは、それだけ、劉正礼が太史慈を重く見ていないということでもあったのだが…
 しかし。この連中と、太史慈。思いのほかに、気が合った。
 山越族に対する差別の原因のひとつが、儒教の礼に従わぬ奴ということであったが…、太史慈も、儒の礼は、苦手なほうである。それに、ものごとに対する彼の基準は、「格好いいかどうか」「うまいメシが食えるかどうか」。漢族だから偉いとか、風俗習慣が違うから卑しいとか…そういう妙な偏見はもののみごとに持っていない。漢族の持つ偏見に悩まされてきた山越族のものには、太史慈は、実に気持ちのよい、心の広い男に見えた。
 …ほんっと、豪傑なんだからこの人は…
 だから。結局、祖志は、苦笑しながらも、
「んじゃ、お供しましょうか?」
と、言ったのだ。とたん、太史慈の仏頂面が、楽しそうな笑顔に変わる。
 …たくもう。ガキみてえなお人だな。じっとしてるのが嫌でしょうがねえんだな…
ということで。
 太史慈は、うきうきと、偵察に出かけたのだが…


「あ〜!雉だ!」
「ちょ…、ちょっと!子義どの!偵察は狩じゃないんすよ?」
「いいからいいから!今夜皆で雉の羹喰おうぜ!」
 ぶん。
 弓の弦が鳴って、雉は、すうっと薮の向こうに落ちていった。
「よーし!」
 嬉々として、太史慈が薮に飛び込んでゆく。
「あーちょっと、子義どの!!…あぁもう、お前ら、ここで待ってろよ!」
 どこに敵兵がいるか、判らないのだ。
 祖志は、急いでその後を追った。


「…なんだ?」
 突然、弓の弦が鳴る音がして。馬上の男は、すわ敵かと、厳しく身構えた。…が。
 …あれ?
 …目の前に、音を立てて降ってきたものは…
 確認しようと、男は、馬から飛び降りた。落ちてきたものを、拾い上げる。
 …雉?
 ということは、今のは、狩人の射た矢であったのか。
 …しかし、こんな前線で狩をするバカがどこにいるんだ?曲阿はもう目の前じゃないか…
 

 がさがさがさ。


「あーっ!この野郎!それは、俺の獲物だっ!!」



 薮から出てみれば。どっかの男が、自分の射落とした雉を持っていたものだから。
 …俺の獲物を、盗りやがったっ!!
 太史慈は、逆上した。

「何猫ババしてやがんだこの野郎!返せ〜っ!」

 自分の獲物を取り返すべく、太史慈は、馬上から、弓で男を殴りつけた。
「おっと」
 この男。なかなか、素早い。さっと身を翻し、ぶん。弓が、空を切る。
「この野郎!何しやがんだ!」
「それはこっちの台詞だ!畜生、返せ!」
 蹴飛ばしてしまえと、馬の腹を蹴れば、
「こんの…」
 地を転がって避けた男が、すらりと剣を抜いた。男がきちんと武装を整えていることに、太史慈が漸く、気づく。
 …え。武装してる男なんてここんとこ見慣れてたから気づかなかったけど…、こ、これって…、もしや、敵?!
 驚いて、動きが止まった。男が、すかさずそれに付け込む。
「うわーっ!」
 いきなり足を刺されて、馬が棹立ちになって。太史慈は、地面に叩き落された。
「もらったあ!」
 男が飛び掛ってくる。振り下ろされた剣を、太史慈は、とっさに手戟で払いのけた。きいん、と音がして、剣が宙に舞う。
「こいつ!猟師のくせにそんなもん持ってんじゃねえ!」
男が、力任せに、太史慈の手戟を奪い取る。
「あーっ!俺の手戟!この…」
 


 薮をかきわけて出てみれば。
 太史慈が、見知らぬ男と、殴り合いの真っ最中で。
「ちょ、ちょっと!子義どの!!馬はどうしたんですか?!」
 祖志の方が、慌てた。
 そして、慌てた人々は、他にもいたのである。

「殿ーっ!また一人で飛び出して…、と、殿?!!」
 蹄の音と共に、一団の騎馬武者が現れた。見知らぬ男にも、護衛がついていたのである。
 …すわ、敵の斥候かっ?!…
 ここは、敵前。そう思い、護衛集団は、おっとり刀で駆けつけようとしたのだが…

「雉だけでなく手戟まで盗る気かこのぉ!」
「るせえ!この馬鹿力!」
 ・・・・・?

 見れば。殴り合いの勢いでふっとばされたらしく、矢で射られた雉が、地面にぐんなりと横たわっていて…
 ・・・・・喧嘩か、これは?!

「殿ーっ!何をしておられるんですかーっ!」

 護衛たちの怒りの叫びは、殴り合いに夢中になっている二人の耳にも、しっかり届いた。
 …え。殿?

「お、お前…、孫策か?」
 太史慈が、唖然とした。
「孫策で、悪いかっ!」
 見知らぬ男が、応じた。

 そんな、バカな!
 なんで敵の総大将がこんなとこで一人で…

 まず、冷静になったのは、祖志であった。

「孫策だ〜!孫策がいたぞ!出会え、出会え〜っ!!」
 声に応えて、薮の向こうから、武器の触れ合う音や蹄の音が響いてくる。

 慌てたのは、孫策が連れてきたらしい、騎馬武者たちである。
「殿!早くこちらへ…」
 孫策が、太史慈をはねのけて、馬の方へ行こうとする。
 …逃がして、たまるか!敵の総大将を生け捕ったとなれば、大手柄…
 ここを先途と、太史慈が、孫策の兜を掴む。捕まってたまるかと、孫策が、兜の紐をぐいと握り締める。
 ぶち。

「わっ!!」
 どすん、と尻餅をついた太史慈を尻目に、孫策は、自分の馬に飛び乗ると、一散に味方の方へと駆け出した。
 …あ〜!あいつ、俺の手戟、持っていきやがった!!
 そして…



「まさか。敵の総大将が、そんなところにふらりと一騎で現れるなど…」
 非常にまっとうな人物である、劉刺吏は。これが孫策の兜だと見せられても、頭から、太史慈のいうことなど、信じなかった。
 孫策の方がまっとうな人物ではないという認識は、この、優秀な刺吏の頭にはなかったのである。

 …俺、こいつ、嫌いだ。

 太史慈としては、非常に不愉快である。
 機会があり次第、こういう男とは袂を分かとうと、太史慈は心に誓った。
 機会。
 それは、予章への敗走という形で、訪れた・・・・・

 

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