男の肖像
〜小説・太史慈伝〜

〔三〕太史慈は如何にして援軍を呼びに行ったのか


 きゅるきゅるきゅる。
 …腹が減った。
 戦というものは、暴れ回るものだと思っていたのに。まさか、こんな、じっと空っ腹に耐えるもんだなんて!!
 ここの孔文挙(孔融)てとのさま、戦、下手なんじゃねえのか?
 城壁の上から、太史慈は、不機嫌そうに敵陣を見やった。
 現在。北海の城は、黄巾軍の攻囲を受けている。
 流石に矢は届かぬが、敵の陣が、そちこちに見える。そして…メシを焚いているのだろう。煙が…
 きゅるきゅるきゅる、ぐー。
 また、腹が鳴って。太史慈が、顔を顰めた。
 籠城戦というものは、むろん、外部との連絡が遮断される。当然食料も、入ってはこない。とりあえず貯蔵してあるものが配給されるのだが、攻囲がいつまで続くか判らない状況では、そう、おいそれと食べてしまうわけにもゆかぬ。おのずから配給は少な目になり…、太史慈の巨体では、足りるわけはなかった。
 …だから、ここに来たとき、先手を取ってわーっと攻めてしまえって言ったのに。あの人は、言うこと聞かねえから…
 母への心遣いの返礼に来たと言うと、何と立派な心がけだと大歓迎はしてくれたけれど。…とにかく、喰う物が、足りない。
 …あー。腹減った…
 ぼんやりと外を眺めていた太史慈の顔が、突然、ぱっと輝いた。
 城の外の野原に、何やら動くものがある。
 …ウサギだっ!!
 ウサギには、籠城も包囲も関係ないのだけれど。たぶん、城外に巣を作っていて、どこかに行こうにも、黄巾賊がわらわら出てきては行くこともできず、やむなくそのまま留まっていたのだろう。
 …やった!!ウサギが喰える!!
 太史慈は、弓をひっつかむと、一気に城壁を駆け下りた。

「おい!!門開けろ!!」
「へ?あ、あんた、武装もしねえで…」
「うっせー!いいから開けろっ!!ウサギが逃げちまう!!」

 視界の彼方の黄巾軍より、目の前の、血相変えた大男が恐ろしく。
 門を守る兵士は、おずおずと、潜り門を開いたが…





「何か、城から出てきたぜ?」
「敵襲か!!」
黄巾軍の陣地が、色めき立った。
「…なんだよ。一人じゃねえか」
「いや、弓持ってるぞ!こっち来るのか?」
「慌てるな!暫く様子を見て…あれ」
つがえられた矢は、あらぬ方角に飛んで行った。
「・・・・・?」
 城から出てきた大男は、矢の飛んでいった方角に大股で歩み寄ると、地面から何やら取り上げた。
 そして、足取りも軽く、門の方へと引き返してゆく。何やら喚くと潜り門がまた開き…、男は、城の中に、吸い込まれた。
「…狩りか?」
「…みてえ、だなあ…」
 それは、敵陣の前で狩をしてはいけないなどという決まりはないのだけれど。あまりに…妙で。
 黄巾の兵たちは、顔を見合わせた。
「…あれ、かなあ。城の食料、だいぶ乏しくなってんのかなあ」
「てことは、あれじゃねえの。この城落としたって、喰う物、ねえんじゃねえの?」
「うーん」
「ま、あいつ、デカいしなあ。配られたもんじゃ、足りねえんじゃねえか?」
「だと、いいけどなあ…」



 そう。
 黄巾軍とはいっても、基本的には、飢えた民である。
 城市を襲い、蓄えられた食料を奪う。喰うものがなくなると、次へ行く。
 世直し云々と言っても…、やっていることは、実質的にはイナゴやなにかと変わらない。
 攻囲が長引けば、腹が減ってくるのは、黄巾軍とて同じことで。
 それからも、その「腹を減らしたデカいオッサン」は、何度か現れては、たまたま通り過ぎていった渡り鳥やら、トロくて逃げ遅れたウサギやらを獲っていったのだが。「なんかその気持ち、わかるよなあ…」ということで、誰もオッサンを襲ったりはしなかった。そのうち、その奇妙な光景にも、いつか慣れてしまって。
「またオッサン出て来たぜ?」
「そうか?」
と、誰も気に留めなくなっていった。
 そうこうするうちに、黄巾軍の方も、食料が乏しくなってきて。
「これは…そのへんの村から、出してもらうしかねえか…」
 何のことはない。ていのいい、強奪である。
 村の者を脅して、食料を出させ、首尾良く牛までせしめたのだが。
 牛も、自分が喰われると察したのであろう。陣まで牽いてきたところで…、死にものぐるいで暴れだした。

「あーっ!!この野郎!蹴飛ばしやがった!!」
「押さえろ!!押さえろ!!」
「駄目だぁ…!!」
「あっ!!ま、まずいぞ!!そっちへ言ったら…」
 牛は、一目散に、城の方を目指して駆けてゆく。
「…お、おい。どうする…?」

 黄巾軍には。
 命を落とす危険を顧みず、城の射程内まで牛を捕まえに行こうというような、勇敢な…あるいは馬鹿な者は、いなかった。

 だが。
 太史慈は、そうではない。

…喰い物だっ!!

 例のごとくに、門を開けさせて。
…一矢で仕留めるのは、難しい。これは、手戟を投げて…
 牛は、ここまで来れば安全だと思ったのか、のんびりと突っ立っている。
 うしろからそろそろと近づいて。牛の後頭部を狙って、太史慈は、思いきり手戟を投げつけた。
…よし!!
 だが。運の悪いことに、まさに手戟が投げられたその瞬間、牛は、草を食べようと、ひょいと頭を下げたのである。
 狙い定めた手戟は、牛の角を掠めて、虚しく地面に突き刺さった。

…あー!ちっくしょー、あんの野郎…て、ええっ!!!

 牛だって、怒るのだ。
 一度ならず二度までも喰われそうになった牛は、激怒して…、そして、まっすぐに、太史慈めがけて突進してきた。

「うわーっ!!!」

 逃げようと、後ろを向いた時には…遅かった。
 ぼんと、角で空中に跳ね上げられて。
 …といっても、太史慈は、重い。あまり高くは飛ばされず、結果的に、牛の背中にどすんと着陸する羽目になった。
 乗られた牛も驚いたであろうが、乗った太史慈は、もっと驚いた。
 そうはいっても、貴重な「喰い物」である。突かれた尻の痛みも顧みず、逃してなるかと必死にしがみつく。牛は牛で、振り落とそうと、懸命に暴れる。
…冗談じゃねえ!ここまで来て、空手で帰れるかっ!!
 角を頼りに、がっちりと、太い足で腹を締め付けると、牛も怖くなったのか、今度は闇雲に突進しはじめた…

「お、おい!牛が…、牛が戻ってくるぜ?」
「あれ!あの、背中に乗ってんの…、いつものオッサンじゃ…」
「おいおいおい!!こっち突っ込んでくるぞ!!」
 慌てたのは、黄巾軍の兵士たちである。
 そうはいっても、相手は暴走する牛。とりあえず、刀や槍を構えてはみたものの、どうしていいのかわからない。
 太史慈は、太史慈で。
 武器を執って身構えた兵士たちを見て、自分の「喰い物」を横取りしようとしていると思い込んだ。
「お前らーっ!!こいつは俺の獲物だっ!!手ェ出すなこの野郎ーっ!!」
 喰い物の恨みは、恐ろしいという。
 あまりの形相に、兵士たちが、一瞬、怯んだ。
 その隙に。牛は、一気に、黄巾軍の陣地を、駆け抜けた・・・・・





 漸く。牛が、力尽きて。
「あいてっ!!」
 はずみで、太史慈も、地面に投げ出された。
「…たくもう、この野郎…。手間をかけさせやがって…」
 さあ、料理してやろうと。尻をさすりさすり立ち上がったところで、太史慈は、硬直した。
 そこは、どこかの村であるらしく。
 突然の乱入者に驚いた村人たちが、遠巻きにして、彼を見ている。中には、怯えて泣き出した子供もいた。
・・・・・!!
 はたと気づいて、振り返れば。北海の城はおろか、黄巾軍の陣地さえも、遙か彼方で。
 …や、やべ…。俺…
「これは、どういうことかね?」
 厳めしい顔の、長らしい男が。腕っ節の強そうな若い者を引き連れて、目の前に立った。
 …まずい!これでは…、喰い物に釣られて城を抜け出した、臆病者だと思われてしまう!!
 臆病かどうかはともかく、「喰い物に釣られて…」は間違っていないのだが。ともかくそれでは格好悪い。太史慈は、必死に頭を働かせた。
 …そうだ!確か、孔文挙どのが、平原の劉予州がどうとか…
「へ…平原に、行くのだ」
息を整えながら。太史慈は、閃いたことを、口にした。
「平原?」
「おう」
 頷いてみせて。
「力を、貸してくれ。北海から、平原の劉予州どのに、援軍を求めに行くところなのだ」
 長の顔色が改まる。
「孔北海どののご使者で?」
…やった!助かった!!
「うむ。攻囲を斬り破る際、奴らに馬を奪われた。そこにいた牛を奪ってここまで来たが…、牛ではどうにもならん」
 内心、しめしめと思いながら、太史慈は、嘘八百を並べた。
…こうなったらもう、救援呼んでくるしかないけど…、牛に乗ってゆくのは、格好悪すぎるもんな。
 それはまあ、…援軍を求められた方も、驚くだろうが。
「馬を、譲ってもらえんか?奴らを撃退したら、必ず、礼はする」
「礼だなどと!!」
 長は慌てて手を振った。
「孔北海どののお役に立てるとは、光栄です!!さ、今日はもう、日も暮れます。とりあえず今夜はこの村にお泊まりください。明日、若い者をつけて、平原までお送りいたしますから!!」
 …へえ。
 あの人けっこう、好かれてんだ…
 太史慈は何も知らなかったが、孔融というのは、孔子の子孫と言われ、儒教社会では名士なのである。
 …けど、あれだな。こんなとこ泊まってボロが出たら…、格好悪いよな。
 軍使などとは真っ赤な嘘。もし本物の軍使が後から来たら…、まあ、昨日の話では、攻囲を抜けるのは無理だろうと言っていたけれど、切羽詰まれば誰か来ないとも限らない。ここは急いで平原に行く手だ。
「いや!事は一刻を争う。ぐずぐずしている暇はない!」
 きっぱりと、言い切ったのは良いが。

 きゅるきゅるきゅる。

「…済まんが…、メシだけ、喰わせてくれ…」





 かくして。太史慈は。
 やむを得ず、援軍を求めにゆくことになった。








 

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