男の肖像
〜小説・太史慈伝〜

〔一〕太史慈はなぜ文官になれなかったか

 …やっぱり、あれだな、うん。
 べらべら喋らない男ってのは、世間の評価も高いんだな…。
 東莱郡の、役所。
 にんまりと、笑みを浮かべて、巨体を丸めて卓に向かうこの男…、そう。太史慈である。
「太史慈は、無口だが、いわれたことはきちんとやる、信頼できる奴だ」
役所に仕えたからには、出世せねば、…いつまでも下働きでは村の連中に格好がつかないと、骨身を惜しまず働いた甲斐があって、今の彼は奏曹史…まあ、下っ端といえば下っ端だが、それでも役人の端くれである。
 そんな彼を、ひらいた窓の向こうから、じっと見つめる二組の目があった。

「あの男か」
「ええ」
 問うたのは、この郡の太守。答えたのは、太史慈の、直属の上司である。
「口の重い、信頼出来る男です。巨体に似合わず、身ごなしも軽い。彼なら…」
「そうだな。そういう男なら…、使者の任も務まろう」
 太守が、何度も頷いた。
「とにかく、事は急を要する。この問題に関する限り、先に上聞した者が、絶対に有利なのだから。すぐに、彼を、私のところへ」
「はっ」
 太守は、慌ただしく言うと、自分の執務室へと引き上げていった・・・・・
 


 

 …役所の仕事なんて、退屈なだけかと思ってたけれど。
 なんだ。こういう面白い仕事もあるんじゃねえか。
 太史慈は、嬉々として馬を飛ばしていた。
「この上表を、州の役所よりも先に、都に届けねばならんのだ!州の上章が先に届いたら、我等にはいかい不利になる。」
 頼める者は、お前しかいない。行ってくれるなと、太守に言われて。太史慈は、じつにいい気分であった。
 路銀も十分貰ったし、駅の馬を自由に使って良いとの手形も貰ったし。ここで失敗したら男じゃねえとばかりに、太史慈は、寝る間も惜しんで馬を進めた。
 …成功すれば、絶対出世が俺を待ってるよな。うん。何としてもここは、敵の上聞を阻止して…
 出世して偉い役人になれば、女にもモテるに違いない!そうすれば、村の苑なんかより、もっと綺麗な女房を貰って…、うん、妾なんかも置けるよな。
 バラ色の未来を思い描いて、太史慈は、一心に、馬を駆る。
 しかし。
 洛陽に到着し。言われた通り、宮城の南門に廻り、
 …えーと、上表の受付は…、公車とか言うんだよな?あ、あれか?
役所の前まで来たところで。その、美女に囲まれたバラ色の未来を、邪魔するものが現れた。
「青州から参りました。上章文を持参しております。担当の方にお取り次ぎを…」

 ・・・・・!!

 …これはまずい。ここでこいつに先を越されては、俺の出世がパアになる!!

 郡の役所の連中から、役立たずと馬鹿にされる自分の情けない姿が、太史慈の脳裏に閃いた。
 …冗談じゃねえ!そんな格好悪いこと…
 幸い。
 上章を持っていくんなら身なりもちゃんとしないとと思って…そんなところで格好をつけているから遅くなるのだが…、自分は、それなり見られるなりをしている。これは、はったりでもって、あの上章を取り上げるしかない!
 門衛が、うなずいて、役所の中に消えたのを見定めると。太史慈は、さも「担当の方」のような顔をして、青州の役人に近づいた。
 運の良いことに、青州の役人は、すっかりおのぼりさん状態で。賑やかな都の雑踏に気を取られ、太史慈が、建物の中から出てきたのか、そうでないのかを、ちゃんと見ていなかった。
「上章を持って来たのは、そなたか?」
 役人らしく、偉そうに言うと。
「はい。さようでございます」
 青州の役人は、すっかり騙されて、へいこらと頭を下げた。
「で、どこにあるのだ」
「あ、あの、…車の上に…」
「持って来い。表書きに間違いはないだろうな…?」
 言われるままに、役人は、上章を取りに行った。
 …よしよし。ここで、上章を受け取って、そのまま走って逃げれば…
 いかにも文官らしい相手の動作ののろさを見て、太史慈はにんまりうなずいたのだが。その時、背後で、声がした。
「…青州の役人が来ていると…?それは、例の件か…?」
 …やばい!!
 本物が、来やがった!!…なんでだよ、なんでそんなあっさり取り次がれちまうんだよ〜!!もうちっとこう、のんびり出てきてくれりゃ…
 …えーい、もう…、こうなったら…
「これでございます。お確かめを」
「貸せっ!!」
 青州の役人が差し出した、丁寧に巻かれた竹簡を、太史慈は、むずと掴み取ると、力任せに2つにへし折った。

 めきめきめきめき。

 巻いた竹簡などというものは、尋常な力で折れるものではないが…、そこは、火事場の何とやら。まあ、もともと太史慈は、馬鹿力の持ち主でもあったのだが…

「あ!!あ、あ・・・・・」
「来いっ!!」

 あまりのことに言葉を失った役人を、太史慈は、引きずるようにして、その場を逃げ出した。
「おや?その役人はどうした?」
「あれ?今の今までここにいたのですが…」
 不思議そうな声が後ろで聞こえていたが、そんなことに構ってはいられない。
 哀れな役人は、殆ど恐慌状態で、目を白黒させるばかり。咄嗟には、悲鳴も出ない。

 人気のない路地に入ったところで、太史慈は、ゆるゆると役人を脅しにかかった。
「なあ、あんた。これは、あんたの責任だぜ?そうだろ」
「なな、なんで。あ、あんたが、俺んとこの上章を…」
 普通なら折れる筈のないあの竹簡が、どういう運命を辿ったかを思い返すと、それだけで、足が震えてきて。役人は、ろくに口を利くこともできない。
「あんたが騙されて俺に渡さなかったら、俺だって上章を壊したり出来ねえじゃねえか。やっぱあんたの責任だぜ、こりゃあ」
 にんまり笑っている目の前の男が、バケモノに見えて。役人はもう、反論する気力もない。
「青州に戻ったらどうなるかなあ。騙されて上章を無頼漢に渡した大馬鹿者って、そこら中の人間に指さされるだろうなあ〜。いや、そんなことで済めば運がいいよな。下手したら、上章を破損した罪で、縛り首…」
「し、縛り首っ!!」
「ああ、そう簡単には殺してくれねえか。叩きとか。棒でめった打ちにされて殺されるんだ。身体中の骨が折れて…皮膚を突き破って、こう…外に飛び出すんだ。しまいに、おまえさん、血まみれの袋みたいなもんになって、…うん、人間の形もとどめねえ有様に…。うはは、痛いだろうなあ…」
「・・・・・」
 あんまり役人が怯えるので、ついつい、太史慈も、調子に乗ってしまった。残酷な杖刑の描写に、ひときわ力が籠もり。ますます役人は竦み上がる。
「骨ってのは、一本折れるだけでも、すっげえ痛いんだぜ?どうだ、試しに一本、折ってやろうか…」
「ひ…」
 太史慈の馬鹿力は、先程の竹簡で、見せつけられている。…まさか自分も二つに折られるのではと、役人の目が、飛び出しそうに見開かれた。
 にたにたと、太史慈が手を伸ばすと。
「ひええーっ!!」
 人間のものとも思えぬ悲鳴を残して、役人は、一目散に逃げ出した。
 その方向が、例の役所とは完全に逆であるのを確かめて、太史慈が、うむと頷く。
 …よし!今のうちだ!
 太史慈は、今来た道を、いっさんに駆け戻った・・・・・



「東莱郡の者でございます。上章文を持参しております。担当の方にお取り次ぎを…!」






「・・・・・。」
 報告を、終えたところで。
 目の前の大きな男は、当然誉められるだろうという顔をして、満足げなのだけれど。
 東莱郡太守の心中は…、およそ、満足とはほど遠いものであった。
 どうやら、あの、青州役人は。我に返ると州に馳せ戻り、謎の男に脅されて上章を奪われたとでも報告したらしい。州の方でも、捨て置けぬと調査を行ったようで、その結果、
「そちらの手の者が、こちらの使者の骨をへし折ると脅迫し、上章を取り上げた挙げ句、それを破棄してしまった」件について、州から郡に強烈な抗議が来ているのだ。とりあえず、事実関係を調査すると言って、時間を稼いではみたものの…、当の太史慈がなかなか帰ってこない。
 どうしてこんなに遅くなったのだと問い詰めたら、しゃあしゃあと、せっかくなので都を見物してきたと言うし。報告を聞けば…、州が抗議してくるのも尤もで、これでは弁解の余地がない。
 …それにしても、竹簡を、へし折っただと?
 どうすれば、そんなことが出来るのか。
 盛り上がった太史慈の肩のあたりを、郡太守は、気味悪そうに見つめた。
「…えらいことを、してくれたなあ…」
溜息をついたところ。太史慈の眉が、ぐぐっと顰められた。
「何故だ?敵の上表は、ちゃんと、阻止した」
 その方法が問題なのだが、…下手なことを言ったら今度は自分のクビがへし折られそうで。必死に言葉を探していると、
「こうして、上表を阻止したのだから、郡に有利な判決が出ることは間違いない。私の、手柄だろう?」
 …それは、まあ。そうとも言うが…。
 黙っているうちに、どんどん、太史慈の顔が、険悪になってくる。ああ、こんなものに使者を頼むのではなかったと、郡太守は、心底後悔した。
 …こんな何をしでかすか判らん奴は、追い払うに限る。しかし…手柄を立てたと思い込んでいる者を、どうやったら…。
 州の役所が討っ手を差し向けようとしているとでも言ってみようかと思ったが。なにせ、この、面構えである。
「討っ手?!望むところだ、返り討ちにしてくれる!!」
とか何とか言い出すのは目に見えている気がして。郡太守のこめかみに、汗が滲んだ。
「…しかし…、よくまあ、巻いた竹簡などというものが、折れたものだ…」
 とにかく何かを言わなくてはと、無理矢理押し出した言葉に、太史慈が、反応した。
「それは…、日頃から、躰は鍛えてある。一朝事あった時、男たる者、武器の一つもとれないようでは…」

 …これだっ!!

 現状を打開する一縷の望みに、郡太守は必死にしがみついた。

「うむ。見事だ。それだけの力に、筆など持たせておくのは惜しい!」
「…いや、それほどでも…」
 …照れくさそうに、太史慈が、頭を掻いた。
「どうだ。いっそ、武官に鞍替えしては?」
「武官?」
「うむ。武官として、朝廷に仕えるのだ」
「・・・・・?」
「最近はあちこちで叛乱の噂も聞くし。うん、武官の口はこれからどんどん増えるに違いない。どうだ、やってみんか」
「・・・・。」
 太史慈が、その方が面白そうだなあという顔になる。
 よし。もう一押し。
「で。武芸は…、何が得意だ?」
「武芸?」
「うむ。槍とか戟とか…、剣とか…」
 農村出の、彼のことである。多分、あまりそういうものには縁がなかっただろうと思い、希望を籠めて尋ねると。案の定。太史慈が、顔を顰めた。
「いや…、力には自信があるが…」
 やっぱり。
「それは…いかんなあ。武官として仕えるのなら、何か得意なものを…」
態と、考え込むふうを装ってみせる。太史慈も、困ったなあという顔で、こちらを見ている。
「そうだ、そなた、武者修行に出んか?」
「武者修行?」
「うむ。たとえば…山に籠もり、熊や狼を相手に武芸を磨くのだ。…漢の名将と謳われた霍去病も、そうして自得するところがあったと聞くぞ!」
 これは、嘘である。しかし、太史慈は、すっかり乗り気になったようで、大きな目をきらきらさせている。
「武者修行か…」
「うむ。是非、そうしなさい!」
 路銀も出そう、武器庫からよさそうなものを見繕っていくと良い、お前なら稀代の豪傑になるぞと、調子の良い言葉で勧められ。太史慈は、すっかりその気になってしまった。
 …やった。助かった…
 嬉々として太史慈が出ていった後。郡太守は、ほっと息をついて、額の汗を拭った。
 …さて。あとは、州への報告書だが…

 

 今回の件を調査いたしましたところ、、使者の太史慈が一存でやったことだと判りました。当方には全くそのようなつもりはございませんでした。当人を召し取りそちらに引き渡すべきところですが、討っ手を差し向ける前に逃亡し、現在行方が知れません・・・・・





 と、いうことで。
 太史慈の、文官としての経歴は。奏曹史で終わりを告げたのであった。





 

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