男の肖像
〜小説・太史慈伝〜







「すみませんすみませんすみませんっ!!」
 村長の前で、謝り倒しているのは、一人の女。
「ああ、
母一人子一人で私のしつけが行き届かなかったから…!!大事の坊ちゃんに怪我をさせるなんて…、本当に申し訳ございません!!」
壮絶といっても良いその謝り方を見れば、迂闊な者は騙されるに違いない。けれど、村長の鋭い目は、しっかり見ていた。代わる代わる目に袖を押し当てて涙を拭うそぶりをする女…、けれど、その目は全然、濡れていない。
「ほんとにもうあの子ったら、誰に似たのでしょう!!皆様にご迷惑ばかりかけて…」
 …あんたにそっくりなんだと、村長は、内心で溜息をついた。
「もう口ばっかり達者で母親の言うことなんかこれっぽっちも聞きません…」
 …だからその、口達者なところが、そっくりなのだというのに。
「大きななりをして人様に乱暴ばかりして本当にお恥ずかしいです!これもみんな私が至らないせいで…、本当にもう何とおわびをして良いやら…!」
 …儂は、覚えているぞ。あんた、娘時分、棒きれ持って近所の男の子追い回してたじゃないか。
 言いたいことはいろいろあったが、幸い、謝られている方は、隣村の人の好い金持ちである。
「何せ、
母一人子一人なものですからっ!!」
 何度目かのその台詞に、すっかり騙されて。
「太史の奥さんも、苦労なさいますなあ。…まあ、男の子は時が来れば変わるといいますから、あまり、気になさらずに…」
同情のていで、帰っていった。
 その姿が見えなくなると。
 今の今まで、米搗きバッタのように頭を下げていた女は、あっさり身を起こした。その顔は、泣いているどころか…
「畜生!!慈の野郎、あたしにこんな恥をかかしてっ!!」
怒りに頬を染めてすっくと立ち上がった女は、正気の人間なら絶対に近寄りたくないと思うようなシロモノで。
 …何度も思ったことだが…、よくまあ、この女に嫁の貰い手があったもんだ。慈の父親は、さぞかし後悔したろうなあ…
 村長は、女をしげしげと見て、もう何度目かの溜息をついた。
 だから、せめて我が子は優しい子になってほしいと、慈なんぞという名前をつけたのだろうが。どうやら、それは、完全に無駄であったらしい。
「…学問をすればちいとは大人しくなるだろうと思ったんだが…、無駄だったようだなあ…」
 この村の者は、太史慈の乱暴に手を焼いて。隣村の儒者の所に弟子入りさせたのだけれど。
 結局それは…、彼の被害者を、いたずらに拡大しただけで。
「長が学問なんか勧めるから余計乱暴になっちまったんですよっ!!」
 …普通は、逆なのだが…。
「いったい何を習ってるんだか、覇王こそ男の理想だとかなんだかわけのわからないこと言って、せっせと棒きれ振り回して、そんな暇があったら畑仕事の一つもしろってんですよ!!私がこの年で野良に出てるっていうのに、隣の順ちゃんだって向かいの昭くんだって親をちゃんと手伝ってるっていうのに、うちのあのドラ息子は…」
 …それは。孝行をしたくなる親かどうかという要素も関わってくるのではないだろうか。
 もし、この女が自分の母親であったら、恐らく自分も家には寄りつくまいと、村長はまたまた溜息をつく。
「覇王。項王、なあ…」
 項羽。劉邦の漢が、天下を統一するにあたって、最大の敵であった男。
 愛馬・騅を駆って、この中華を席巻した男。
 その力は山を抜くほどで、その気概は天下を覆うほどで…、そして、劉邦に敗れ、長江のほとりで自害した…。
「まあ…、一本気で魅力的な男ではあるが…」
どうして、張良でも蕭何でもいいけれど、もう少し穏当なものに憧れてくれなかったのだろう。あのでかいなりで、項王ばりに暴れられたら…、まわりの者はたまったものではない。隣村の金持ちの息子は、アザだらけになって帰って来て、熱を出して寝込んだというが、…よくまあ骨が折れなかったものだ。

 …それにしても、項王も、400年後に自分が子供の喧嘩のタネになるとは、よもや、思わなかったろう。
 今日の喧嘩の原因が、それであった。
 


「しょーがねーだろーっ!!あいつが項羽なんか脳味噌まで筋肉でできてるんだとか何とか言うからいけねえんだ!!劉邦の方がよっぽど皇帝の器だとか何とかいいやがって…、痛っ!!」
「だからって何で手をださなきゃならないんだよ!!この馬鹿息子!!」
 …また、始まった。
 夜。村の者たちは、溜息をついた。
 当時の農村には、そんなにがっちりした家があるわけではない。太史家の親子喧嘩は、外まで丸聞こえであった。
 二人のわめき声に、起こされたのか。どこやらで、犬までもが、鳴き始める。
「手ェ出したのは向こうが先だって!俺が、劉邦みたいな疑り深くて功臣を次々殺して廻って、挙げ句の果てにろくでもない女を女房にして、危なく天下を奪われるとこだったような男のどこが皇帝に相応しいんだってったらよ、漢室の祖を馬鹿にすんのかとか何とかいって…」
 太史親子は、声が大きい。しかも、いったいどこで息継ぎをしているのだろうと思うほど、口が廻る。
「当たり前だろうっ!そんな天子様に失礼なこと言ったのかい、お前はっ!!」
「いてっ…、かーちゃん、痛えって〜!!俺は何も悪くねえんだってば…」
「いいやお前が悪いに決まってる!!だいたい何で項羽の話なんかになったんだよ!!また項羽が格好いいとか男は項羽みたいでなきゃとか言ったんだろうが!!」
「だってそうじゃねえか!!俺は絶対覇王になって皇帝の座についてやるんだ、項羽が俺の理想だってったらあいつが…」
「お前はそんなとんでもないこと言ったのかいっ!!」
「うわっ!!」
 板戸が乱暴に開けられて、太史慈の、大きな躰が転がりだして来た。ぴしぴしと、痛そうな音が聞こえる。…どうやら、母親が、物差しででも息子を殴っているらしい。
「なんでだよ〜!!男なら項羽みたいになりてえ、あーいうのが格好いいって思うの当たり前…」
「皇帝になりたいとか言ったらお前、謀叛だろうっ!!今の天子様に楯突く気かいっ!!」
「・・・・・あ」
 どうやらそこまでは考えていなかったらしく。太史慈が、黙り込んだ。
 こういうあたり。どこか、抜けている。
「謀反人に喰わせるメシは、この家にはないよっ!!どこにでも行ってのたれ死にしちまいな、このゴク潰し!!」
 ばたんと、板戸が閉まる。
 ・・・・・。
 …全くもう。親も親なら、子も子だ…
 入れてくれと、どんどん、板戸を叩く音がする。…あれでは、隣近所の者は、眠れまい。
 村長は、苦笑しながら、腰を上げた。
 外に出ると、空には、満天の星。
 身を切るような冬の夜の冷気に、村長は、ぶるっと身震いをした。松明の灯りの中に、息だけが、白い。
「こら、慈」
 振り向いた顔は、それなり、男前で…、まだ生えそろわぬ髭が、丸い顎を縁取ってはいるけれど、まだ、どこか子供っぽくて。
 松明の灯りの中で、その顔の中から、わたしはなんにもわるくありませんというような、大きな無邪気な目が、きらきらとこちらを見つめて来た。
 …何か、憎めないのだよな、この母子は…
「今夜は、うちにおいで。ちょうど、話もあるし…」
 ぶん、と、勢いよく肯けば。人の好さそうな笑顔が、弾ける。
「お!村長、話せるじゃないですか。助かりますよお、俺は何も悪くないっていってんのにおふくろってば全然俺の話聞いてくれねえで、一方的に俺のこと叩き出すんだからもう、こんな寒い晩に一晩中外にいたらいくら俺だって風邪引いちまいま」
「ちょっと、黙りなさい!!そんな大声でまくし立てたら、皆が起きる!!」
「あう゛」
 ここで長を怒らせたら、本当に今夜は野宿する羽目になると判断したのだろう。太史慈が、むっつりと、黙り込んだ。
 …黙ってさえいれば、それなり見られるのだがなあ…
 また、苦笑いをして。
 長は、村の厄介者を、自分の家へと誘った。



 郡の役所が、下働きを募集している。上の者に見込まれれば、出世も夢ではない。どうだね、行ってみないか。
 長の話とは、そういうことであった。
 その実体は、ていのいい厄介払いで。少しは世間というものを見てくれば、天下を獲るだの何だのという馬鹿な夢ばかり喋ってないで、まともに働こうという気にもなるのではないかという、長の深慮遠謀から出た策であったのだが…、太史慈は、そんなことには気づかない。
 長が自分を見込んでくれていたのだと、小躍りして、喜んだ。
「あ、役所に出仕するんだったら、あれですよね?字もつけなきゃなりませんよねっ!!」
 嬉々として言われ。…こんな身分の者に字など、おこがましいと、長は思ったが。
「いやあ俺ずっと前から決めてたんですよ!字つけるんだったら絶対『仁義』にしようって!一番好きな言葉なんですよお。ね、格好いいでしょ?」
 …「仁義」「仁義」と人に呼ばれる彼を想像して、長は、げんなりした。
「そんな…、儒の教えの神髄ともいえる言葉を、お前、自分の名前に使うなんて…」
もうちょっと慎ましくしろと言われ、太史慈が、ぶーと膨れる。
「子仁…いや、これは似合わんな…」
 仁というのは、このゴツイ男からは、何やら対極にある言葉のような気がして。
「うん。子義がいい!子義にしなさい!!」
 何でもいいが、とにかく「仁義」よりはマシだろう。一生懸命勧めると、
「子義、ですか。…うん、なかなか響きがいいですね!」
 あっさりそうしますと頷くあたり、かわいげがあるというか…単純だというのか。笑顔になった太史慈…子義を見て、長は、ほっと息をついたのであった。
 長だけではない。あの、わけのわからない台風の目が、とりあえず村を出て行ってくれるというので、村の者たちも内心ほっとしていた。
 そんなことは、太史慈は知らない。
 荷物を作らなくてはと、いそいそと、わが家に向かったところで。
 村を流れる小川のほとりで。張さんのところの上の娘…苑が、一生懸命大根を洗っていた。漬け物にでもするのだろう。
 …そうだ。俺も、役人になるんなら、身の回りの世話してくれる女房が要るよな?
 あの、口うるさい母親がついてくるのは、正直、ぞっとしない。張さんとこの苑は、村一番の美人だし、どうせならあの子と世帯を持って…
 太史慈は、にたにたと、彼女の方に近づいた。

「…あら、慈」
 いきなり、歓迎しない口調で言われて、太史慈は、眉を顰めた。
「慈じゃねえ!子義だ!ちゃんと字もらったんだかんな」
「…ふうん」
 目をあげようともせず、苑は、黙々と大根を洗い続けている。
「なあ。俺今度、役所に出仕することになったんだよ」
「…下働きでしょう?」
 …このあま。
「おいおいに出世するって」
「…へえ」
 あきらかに、本気にしていない口調である。…しかし、ここで引き下がるのは、格好がつかない。
「だから、なあ。俺の女房になれよ」
「は?」
 初めて苑が、顔を上げた。
「お前が俺の女房になるんだ。何、出世なんて、すぐさ。そしたら大きな邸に住んで…」
 返事の代わりに、いきなり、大根が飛んできた。
「…うわ!!こ、こら、何しやがるんだっ!!」
「何しやがるとはこっちの台詞よっ!!冗談もほどほどにしてちょうだいっ!!そんな話、仲人も立てずにいきなり本人に持ってくるなんて!!あなた、正気なのっ!!」
 真っ赤な顔で怒鳴られて。
 …あ、そうなのか。仲人っていうのが、要るのか…
 初めて学習した、太史慈であった。
「んじゃ、なこうどってのを頼めば、いいんだな?」
「よくないっ!!」
 苑が、なかなかに気の強い娘であったことを、太史慈は思い出した。
「誰があなたの嫁になんかなるもんですか!!」
 怒りに燃える眼で、こちらを睨んできたところは。…どことなく、自分の母親に似ていて。
 …今はきれいだけれど。こいつ…30年経ったらあんな感じに…
 それは、嬉しくない。
 かくして、太史慈は、尻尾を巻いて、退散したのであった。
 投げつけられた大根を、しっかりと持ったまま。

 それにしても。
 …なんで、俺じゃ、駄目なんだろう?
 どうも、気になって。
 大根を抱えて、しばらく様子を窺っていると。
 野良仕事の帰りなのか。向かいの陳昭が、通りかかった。
「苑さん」
「あら!昭さん」
 自分の時とは全然、態度が違う。忌々しさに、太史慈の太い眉が、吊り上がった。
「慈が、いたようだが。…何か、あんたに迷惑かけてたんじゃねえだろうな?」
 無口な昭が、珍しく、長い文を喋った。
「ってほどじゃないけれど…、私を、嫁に貰いたいって…」
 苑が、さも汚いものに触れたかのように、手を振り回す。水が冷たいのだろう、その手が真っ赤になっているのに、太史慈は今更のように気がついた。
「・・・・・」
 昭の目が、まん丸になる。
「冗談じゃないわ!あんな、仕事もしないでホラばっかり吹いてる乱暴者なんか!!」
 …おいおいおい。それは、ないだろう。俺には志ってやつがあるんだ。そのへんの男とは、違うんだぞ?
「…ま。あいつには、大志とやらがあるからな」
 …そうそうそう。昭、判ってんじゃねえか。…何も苦笑して言わなくてもとは思うけどよ。
「大志があればご飯が食べられるってものじゃないでしょ?…私は、実のある男がいいの。口ばかり達者な男は、願い下げよ」
 …ちっ。女は、これだから…。目の前の生活のことしか、見えねえんだからなあ。
 ふわりと、笑って。昭が、自分の荷物を下ろし、苑のそばに屈み込んだ。
「半分、よこしな」
「え?」
「手が荒れる」
「・・・・・」
 頬を染めて。苑が、大根の籠を差し出す。
 二人が、仲良く並んで、大根を洗い始めた。その光景は、…なんともはや、妬ましいもので。

 …どういうこった?
 女ってのは、あんな、牛みてえな、喋らない男が好きなもんなのか?
 これは、考えなくてはならない。

 …しかし、なあ。
 女を口説こうと思ったら…、仲人立てて、大根まで洗わなきゃならねえのかよ…



 数日後。太史慈は、郡の役所に出仕するため、村を後にした。
 さぞかし偉そうなことを吹きまくるだろうと思っていた、村人たちは。
「では、行って来ます」
 それしか言わない太史慈に、首を傾げた。
 何か悪いものでも食べたのか、それとも下働きというのが不満だったのかと、村長は眉を寄せたけれど。

 …女にモテようと思ったら、べらべら喋らねえこった。そゆのが、格好いいらしいからな、うん。
 けど…大根は、洗いたくねえな、俺…

 太史慈が、そんなことを考えていようとは。村人の誰一人…、それを吹き込んだ当の苑すら…、思いつかなかったのであった。



 かくして。
 「忠義」の男、太史慈は。
 中華にその第一歩を記した。
 

 

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