Prelude〜A.D.195 呉郡


 暑気払いの夕立を期待させた雲は、いたずらに暗く垂れ込めただけ。
「これは…、降りませぬかなあ」
「もう、いいさ。中途半端に降られたところで、夜が余計に寝苦しいだけだ」
 護衛を連れて街道をゆく荷馬車も、この猛暑にゆきなやむふうであった。
 道は白く。どこまでも白く。
 馬の腹から滴った汗が、その白に黒い点を落とす。
 風は、そよとも吹かぬ。
 大気は重く、ただ、蒸し暑く・・・・・

「お」

 護衛の一人が、目を瞠り、そうして空を指さした。
 上空には少しは風があるのか。垂れ込めた雲がひび割れたように開いている。
 その割れ目から、幾筋もの光。
 夕映えの色を仄かに乗せて、白く続く道に降り注ぐ。
「天使の梯子だ」
 耳慣れぬ言葉に、他の護衛たちも、御者も、怪訝な顔をする。
「あの光。以前、呉の湊で働いていた時、南の商人に教えて貰ったのだが…」
 遠い遠い西の果てに住んでいる、猶太(ユダヤ)という民。彼らはあの光をそう呼ぶのだと。
 少しばかり得意げな顔をして、護衛の男はそう言った。
「彼らの神話に、そういう夢を見る話があるらしい。なんでも、天地を結ぶ梯子が降りてきて、天の使いがそいつを昇ったり降りたりするそうな」
「ほお」
 髪に霜を置いた御者は物珍しげに瞬きをして、額に流れる汗を拭った。
「そのような話、この年になって初めて聞きましたが…、左様、そう言われてみればそう見えぬこともありませぬな」
 雲間から射しいでたその光は、確かに、天地を結ぶ梯子のようで、天の使いが昇り降りしても、何の不思議もなさそうに見えた。
 けれど・・・・・
「あれ?おい、あれ…」
 光に照らされた道の先。小さな影が手を振っている。
 …まさか、天の使い?
 ほんの一瞬皆の心を過ぎった思念は、近づいたところでかき消された。
 そこにいたのは神々しい天の使いどころか、垢じみた襤褸を纏った痩せこけた少年。
 道端に踞った窶れた女を庇うようにして立っている。
 物乞いの類かと、一瞬思った。
 だが、見上げてきたこぼれそうにおおきな瞳は、不思議なほど澄んだ光を湛えていて。
「あの…、すいません、近くの城市(まち)まで乗せてってくれませんか…」
 掠れて弱々しい、けれど、どこかあかるい色の声が、縋るように一同に訴える。
「かあちゃん、足…、痛めちゃって…、歩けなくなって・・・・・」





「それで、どうしたのです」
 訊ねたのは、あの少年と同じような年頃の…、けれど、質素ながらこざっぱりとした衣装を纏った少年。
「は。…僭越かとは存じましたが、呉へ参ると申しましたので…、我らの船で」
 答えたのはあの日御者を務めていた男。
「送ってやったのですか」
 懸念を少し眉に浮かべた少年は、どこか威厳めいたものを身に纏っており。
「は…」
 その視線を避けるように俯く男の態度も、あるじに対するものであった。
「伯言さまのご懸念はよう判りますが、あの澄んだ瞳をご覧になればお判りになります。それはもう、天の使いなればさもあろうかというように、明るく澄んでおりまして…」
 今の時世は、まこと助けを求めている者であっても、もしや賊の一味でこちらに入り込んで手引きをしようとしているのではとまず疑ってかからねばならぬ…、そういう時世であった。
 この中華を支配していた漢の権威は既に地に落ちて久しい。各地で群雄とも呼べぬような小勢力が割拠し、帝すら彼らの間で品物のように奪い合われている。怪しげな宗教勢力が暴れ、戦で生計(たつき)の道を失った民が食を求めて賊に堕ちる。
 まさしく、天下は麻の如くに乱れていた。
「あのような瞳の主が、胡乱な者であろう筈が…」
 身元も知れぬ親子を送り届けたその親切が、あとあとどのような災いを招かぬとも限らぬと…、あるじの懸念はそれであろうと男は弁解するように言ったが、
「いや、あなたの人を見る目を疑っているわけではありません」
 伯言と言われた少年は、穏やかに首を振ってみせた。
「あなたが言うなら間違いはありますまい。私もその親子を疑おうとは思いません。ただ、護衛の中にはあなたほど人を見る目のない者もいる。よからぬ前例にならねばよいがと案じたまでで…、その懸念も、今の言葉で消えました」
 あなたがそこまで言うからにはよほど特別なものがあったのだろう、これを以て前例とは誰も言えまいと。
 年長者に対する礼を忘れぬながら、威厳のある口調で伯言が言う。
 男は、感服したように溜息をついた。
「それを案じておいででしたか…」
 自分が信じられていたのも嬉しいが、それより、自分の話を聞いただけで、他の者への影響を慮っておられたとは。
 やはりこのかたは、多くの人の上に立つべく生まれついていらっしゃるのだ。
 生まれながらの陸家の総帥と皆が申し上げるのも、もっともなこと。
「流石、伯言さま」
「いえ…。懸念が表に現れるようではまだまだです。なかなか義父上のようにはなれませぬ」
 謙虚に伏せられた大人びた目は、鋭くなって引き上げられた。
「それで…、情勢の方は…」
「はい」
 男も顔色を改めた。
「その親子のお陰で、思わぬ情報が手に入りましてな。彼らは汝南の富坡から来たそうですが、その途中、舒の城市を抜けたそうで…」
 伯言の瞳が鋭さを増した。
「その女が…母親が足を痛めましたのは、舒を抜けて江に近づいたところで、後ろから凄い勢いで走って来た騎馬の集団があり、…それを避けそこなったからだというのです」
「騎馬の集団…」
「先頭の馬がどこかを引っかけたようで、それで転倒して足をくじいたそうです。最後尾の騎馬が、立ち上がれぬ女を見て、先頭の騎馬に『周郎!』と声をかけたとか」
「周、郎・・・・・?」
 微かに引きつった伯言の顔に合わせるかのように、男の顔も険しくなった。
「はい。確かに周郎と申したと。あの子が、あんなきれいなひとがこの世にいるんですねえとか何とかうっとり言うておりましたから、間違いございますまい」
「顔を見たのですか?」
「はい。振り向きざまに「すまぬ、今は構ってはおれぬのだ。友が私を待っている」と言い捨て、そのまま駆け去ったそうで…」
 哀れに思ったか、その、最後尾の男が、小銭を投げてくれたが…
「酷い扱いを」
 伯言が呻くように眉を寄せた。
「よう送ってやってくださいました。我ら揚州の豪族は貧しい者をそのように扱うのだなどと思われては、この揚州の恥ともなるところでした」
「いや、それが…」
 男はしかし、困ったような顔になる。
「あの子…、判っておらぬのですよ。自分が何をされたのか。無垢というのか…、ほんとうにきれいなひとだった、謝ってくれたからいいんだって…」
「そんな」
 伯言が、唖然とした。
「まだ…幼いのですか、その子…。そんな、旅の途中で母親に怪我をさせられ、物乞いのように銭を投げられ…」
 それがまともな扱いでないということも判らない年頃なのだろうか。
「いや、…お年は伯言さまと変わりますまい。いや…、あの子の方が上かもしれませぬな」
 あの少年は、小柄だった。骨と皮ばかりに痩せていた。
 きっと腹一杯食べたことなどないのであろう。それで体格が良くなる道理がない。
「富坡ではどうやら、ひどい暮らしをしていたようです。その程度ではひどいことをされたとも思えぬ程」
「・・・・・・。」
「どこかの金持ちの小作をしていたようですが…、春に父親が病で亡くなって。あの子ではまだ一人前の働きが出来ぬから、畑は任せられないと言われ、村を追われたのだそうですよ」
「…それで、呉に」
「ええ。そう、そのことですが」
 しんみりしていた男が、顔色を引き締めた。
「姉が嫁いだ男が袁術軍にいるのですが、…今、その男は孫策についていると」
「・・・・・・!」
 孫策。
 戦上手で知られる袁術配下の若手武将。昨年袁術が、廬江太守であった伯言の養父・陸康を攻めた時の総大将。
 あの戦いで陸康は完膚無きまでに破れ、あまたの族人が戦死した。
 その時。非戦闘員である女子供や老人を纏めて呉郡の本拠まで連れて逃げたのが、今の総帥であるこの伯言であった。
 江東第一と名高い豪族・陸家。その本家はこの伯言の血筋である。だが、伯言の実父が死んだ時、嫡男の彼はあまりに幼く…、それで父の従祖であり名望も高い陸康が、伯言の教育を引き受けるとともに、その成長までという約束で一時的に総帥の地位を預かっていたのであった。
 伯言が彼を「義父上」と呼ぶのは、そういう事情である。
 陸康が孫策に討たれた時、伯言は僅か12歳。本来なればまだ、これほどの豪族の総帥の座に就けよう筈もない。しかし、廬江から撤退したとき見せた統率力と機転、さらに、戦死した陸康の遺骸を手を廻して引き取らせた時の見事な手腕を見た族人たちは、「生まれながらの総帥」と彼を呼び、躊躇うことなくその地位を認めたのであった。
 その、孫策づきの武将が。家族を呉に置いているということは。
「先日呉郡太守の地位を乗っ取った朱治という男、孫策の息がかかっているというのはやはり、まことであったようですね」
 難しい顔で陸遜が言う。
「孫策…、この呉郡に腰を据えて、揚州を切り取りに乗り出すつもりですか。いずれは袁術のもとから独立しようというのでしょう」
「どうなさいます」
「どうって」
 ふっくらした唇を、きりりと噛んで。陸家の総帥は呟いた。
「どうも出来るわけはない。私はまだ子供、剣もろくに扱えない。昨年あれだけの族人を失ったばかり…、まともに戦ってあの戦上手な男に勝てるはずがありません。まして…その子の話では、江東の美周郎は、孫策のもとに走ったというのでしょう」
 その母親に怪我をさせた騎馬の主。見とれるほどの美貌の男、周郎という呼びかけ。
 間違いない。それは周瑜…、名門・廬江周家の分家の次男だ。
「そう、ですな…」
「間違っていたら言ってください。周家は、孫家に揚州を獲らせる方向で動いている…、それは、そういうことでしょう?」
 周瑜と孫策は親友といってもよい仲だという。しかし、今は乱世。豪族の子という立場に生まれた者が、友情などという甘いものだけで動くことなど許されはせぬ。
「…ええ、そういうことです」
 視線が合った。
「よろしいのか」
「・・・・・。」
「これではいずれ、我ら陸家が、孫家の…我らの仇のもとに跪くことになってしまいます!」
 それでも、よろしいのか。
 詰め寄る男のぎらぎら光る目を、伯言は静かに見返した。
「いいも、悪いも」
 声が、力を帯びる。
「我らがどう思うかは、問題ではない。…それが義父上のお教えでした」
 我らは陸家。この江東を護る者。
「家のことではなく江東のことを第一に考える。それでこそ我らは陸家を名乗れる。孫家のもとでこの地が繁栄するというのなら、それはそれで構わぬではありませんか」
「伯言さま!」
 抗議するように高まった声は、首の一振りで流された。
 短い、沈黙。
 そうして陸家の総帥は、考え深げに口を開いた。
「それより、…嫌な予感がします。周家は漢朝べったりだと聞きますが…」
「…ええ」
 周本家の当主は、今、漢朝で三公と呼ばれる人臣最高の位のひとつ、大尉の座に就いている。
「その名家が何で…、海商あがりの家のあんな狂犬のような男を援助するのか…、私にはそれが判らない」
 問いかけるように見つめられ、男も唸って首を振る。
「確かに…」
 それは。この幼い総帥の言う通りだが・・・・・

 今は様子を見ましょうと。
 総帥の瞳が底知れぬ光を湛えた。
「軽挙妄動は絶対にならぬと…、あなたからも、族人に」
「畏まりました」
「情報の収集…、ご苦労でした」
「いえ、あの親子のお陰ですし…」
 底知れぬ光を宿したまま、総帥の瞳は、空を見上げる。

「無垢・・・・・」

 その呟きは何故、男の胸に突き刺さったのだろう。

「その子…、呉で幸せになってくれればいいですが…」
「そうですな」
「孫策は下の者には手厚いといいますけれど」
「ええ」
「名は?名はなんというのですか、その子?」

 ああと頷いて。男は答えた。

「蒙。…呂蒙と」





 呂蒙。






 それが。

 揚州の大気が初めてその響きを己の裡に響かせた瞬間であった。





 呂蒙。

 のちの字(あざな)は、子明。