(旧サイトであさき様のリクエストで書いたもの。私が一番好きな短編なので…本編に蒋公奕ちらっとしか出てませんが、ここで。)





 その日。
 私は殿のお供をして遠乗りに出かけたのだが。
「なあ、伯言。…なんか、空模様、怪しくないか?」
 突然、地平線からむくむくと真っ黒な雲が涌いてきて。
「ああ。これは、降りそうですよね…」
 どこか、雨宿りするところは…。私はとっさに頭を巡らせた。
 私一人ならばどうとでもするが、何せ、殿がご一緒である。殿は、茶色い髪に蒼い目という異相のお方。誰が見ても一目で殿だと判ってしまう。江東の豪族たちは、まだ、すべてが殿に心服したというわけではない。迂闊なところに雨宿りしては、危険だ…
「あ、そうだ」
 ふと、思いついたことがあって。私は、殿の方を、振り向いた。
「たしか、蒋公奕(蒋欽)どののお邸が、この近くに」
「あ?そうなのか?」
「ええ。一度、皆で飲みに行った時、酔いつぶれた公奕どのをお送りしたことがあります。あの、先ですよ」
 そう。門のところまでお送りしたことがある。道は覚えている。公奕どののお邸なら、安心だ…


 雲に追いつかれない先にと、私たちは、馬を急がせ、そして…


「おい?ここ…ほんとに、公奕の邸か?人、住んでないんじゃないのか?」
「いえ…たしかに、ここですが…」
 記憶にある道を辿って行った先にあったのは、…ぼろぼろの、門だった。



「引っ越し、なさったのでしょうかね?」
「いやあ。そんな話は聞いてないぞ?」
 どうやら、門番もいないらしい。壊れかけた扉は、押してみると、あっさりと開いた。
 中には、ごくごくつつましやかな家が…立ってはいたが。何だか、えらく、荒れた様子で…
「ともかく…建物はあるようです。様子を見て来ますから、殿は、ここで…」
 そう、私が言った時。
 中から甲高い女の声が…

「もーうこんな家出てってやる!!何さ、妾になったらきれいなもん着せてうまいもん食べさせてやるって!!約束が違うじゃないのさ!!」
「そんなこと言ったって、あの宿六が家にちっとも金入れないんだから、しょーがないだろーっ!!」

 ・・・・・。

「なあ、伯言」
「はあ…」
「なんか…、マズいとこ来たような、気がせんか」
「…します、ねえ…」
 うむ。非常に。
 これは戻ったほうがよろしいでしょうかと、言いかけた時。家の中から、粗末ななりをした女が顔を出して…
「きゃーっ!!」
 …そんな、悲鳴を上げられても…
「圭さん圭さん!!男が門のとこ立ってるうっ!!」
「男ぉ?…また賭場の借金取りじゃないのかいっ!!」
 どうやら女は3人いるらしい。さっきとは別の…しわがれた声がきいきいと叫ぶ。
 しかし…。賭場の借金取り、ねえ…
 えらいものに間違えられたなあと、ちらりと殿の方を見ると。殿も、あきれ顔で。
「やっぱ…ここ、あいつんちだよな」
「…ですね、ええ」
 公奕どのは、博打好きでは、孫軍でも1・2を争うお方だから…
 また、別の女、顔を出した。粗末ななりは…下女だろうか。きらきら光る目で、ぐっとこちらを睨んで…それから、きょとんとした顔になった。
「あ、あの…、どちらさんでしょう…」
 借金取りが馬に乗ってくるのは変だと、思い至ったらしい。最初に宿六がどうとか言っていた声が、いぶかしげに尋ねる…あれ。ということは、この女性、公奕どのの奥方か?!
 そんな、身分ある将の奥方が…、自ら客を迎えるなんて…
「ああ、済まん。ここは、蒋公奕の家か?」
一瞬言葉に詰まった私を制して、殿が、のんびりと声をおかけになった。
「…はあ」
 まだ借金取りの疑いは晴れないのか。女が警戒心丸出しで、答えた。
「雲行きが、怪しいのでな。ちょっと、軒先を貸してくれんか。俺は孫仲謀だ」
「孫…て」
 そこで漸く、女は、殿の蒼い目に気づいたらしい。ふええ、というような異様な叫びが、女の口から漏れて…え?中に引っ込んだ?!

「ちょっとあんたらっ!!殿だよっ!!殿がお見えだよっ!!」
「えーっ!!ちょ、ちょっと、どうしようっ!!」
「かーちゃん、とのってなにー」
「なんでもいいから、壱!休!そのナニ片づけてっ!おかーちゃんっ!!その着物背中に穴がっ…!」
「穴ったってあんた他に着るもんなんて…」
「夜着!夜着着ててっ!あれなら破れてないからっ!!ちょっとあんたもぼやぼやしてないでそれ厨に持ってって…」

 ・・・・・。

「なんか…えらい世話場のようだが…」
「悪かった、でしょうか…」
 こんな状態…、私は、想像したこともなかったが…
 しかし、今更戻るに戻れず、私たちは、途方に暮れて馬を並べていた。
 その間にも、みるみる空は暗くなって…

「ど、どうぞっ!」
 さっきの奥方が、大きく扉を開いて、とってつけたような笑みで私たちを招く。

 軒先に、馬をつないで。家の中に滑り込んだところで、ざあっと、滝のような雨が降ってきた。
「助かりました。お世話をかけ…」
 作法通りに挨拶をと、思ったのだが。

「かーちゃん、おしっこー」

 ・・・・・。





「…俺は十分な俸禄を与えていたと思ったがな…?」
「面目ねえです!」
 呼び出された蒋欽は。何とも言えない顔をしていた。
「どうせ、あれだろ。飲む・打つ・買うでおおかた消えてしまったのだろう?」
「…女房がそう言ったんですか?」
 ただでさえ人相の悪い顔が、また、格段に悪くなる。
「いーや。奥方曰く『夫は貧しい人をいつも心にかけて、自分は質素な生活を』。…お前の奥方、嘘が下手だな」
 そう。作りかけの藁細工も、やりかけの仕立物も、破れた几帳では、隠しても、隠しきれなくて。
 そんな中でどんなに弁護しても…、この蒋欽が、家にちゃんと金を入れていないのは、明白で。
「いや、あいつは…圭は、正直だけが取り柄で…」
「公奕!!」
 睨まれて、蒋欽の眉が、情けなさそうに下がった。
「とにかく、当座要りそうなものは、こっちから届けておいたから!博打の元手にしたら、承知しないからな!」
「え?あ、あの…」
 知らないと、言うことは。
「ここんとこ帰ってないんだろう」
 賭場に、入り浸っていたのか。妓楼に流連け(いつづけ)していたのか…
「…面目ねえです…」
 ほうほうのていで、蒋欽は、御前から引き下がったのであった。










 それから、ずっと、時が流れて。
 魏との戦いが、始まって。もう、遠乗りに行く余裕などもなくなって。
 その慎ましい家を訪れる機会もなかったのだけれど…



 角を曲がれば、ささやかな門。
 記憶にあるよりは、きちんとして…、修理なども行き届いているようで。
「都護さま」
 連絡は、入れておいたから。待っていてくれたのだろう。門前には、きりりとした顔の、賢そうな若者。
 …あのときの、「壱」と呼ばれていた、少年だ。

 そして…

「恐れ入ります。都護さまがご自分で来てくださるなんて」

 出迎えたのは、喪服の奥方。

 そう。私が持ってきたのは…、公奕どのの死に関わる、殿の、書簡であった。



 蕪湖の二百戸と、田地二百頃を、ご遺族に。
「あいつのことだ、どうせ蓄えなんかないに決まってる!」と、殿は、おっしゃったのであった。
 案の定。
「…ありがとう、ございます」
 奥方は、ほっとしたような顔をなさった。…相変わらず、正直なお方だ。
「急な病で…、さぞ、お力落としだろうと、思いますが…」

「…嘘でしょ?」

 …え?

「あれが病で死ぬような男ですか」

 そう、言われても。
 まさか…本当のことが、言えるわけはない。
 戦勝の宴で、祝い酒に酔って、足を滑らせて長江に落ちたなんて…

「賭場の、出入り(喧嘩)だったんですか?それとも…、酔って江にでも落ちたんですか」

 ・・・・・・。

「江の、方ですか」
「それは…奥方」
「あの人らしい」

 優しい顔で、彼女が笑う。



 …あたしは、奥方なんて立派なもんじゃ、ないですよ。もともとは、あれですし。女郎ですしね。
 さんざん苦労もさせられましたけど、…なあに。女郎だったときのことを、思やあ、ねえ。
 そうなんですよ。あたしらは、惚れ合った仲で。あの人、あたしを落籍せて、女房に直してくれたんですよ。ええ。博打で勝ったお金で。…だから、止めろとも、言えなくてねえ。
 そんな人ちょっと、いませんよねえ?女郎落籍せて、女房に直すなんて。
 あの人が出世しはじめた時は、こらあ捨てられるなって、覚悟しましたよ。けどねえ…、あたしなんかがいたら、出世に障るんじゃないのって言ったら、ひっぱたかれたんです。俺あそんな男じゃねえ、見くびるなって。…あの人にぶたれたのは、あん時だけですよ。
 お酒と博打は、もう、ビョーキみたいなもんでしたねえ。女遊びも最後まで已まなくて。ええ…、いつかはこうなるんじゃないかって、思ってたんですよ。
 今ごろ、こんな格好悪い死に方ってねえとかって、じたばたしてんでしょうけどね。ほんと、見栄っぱりだったから…、あの人は。
 でも。
 なんだかんだ、言ってもね。ほんと、いい男でしたよ・・・・・



 それは。まるで。幸せなおとぎばなしのようにも、思われた。





「そっか」
 陸遜の話に、孫権は頷き…、そのままついと目を逸らす。
 陸遜の妻は…孫伯符の娘。
 政略結婚を、求めた者と。甘んじてそれを、受けた者と。
 彼らほどの身分になれば…、婚姻にも政が絡んでくるのは、仕方ないことなのだけれど。


 「そうなんですよ。あたしらは、惚れ合った仲で…」


 羨ましいと、言うことは。孫家の姫を娶った陸遜には、許されることではなく。
 羨ましいと、言うことは。婚姻で孫家の地盤を固めてきた孫権にも、許されることではなく。


 「なんだかんだ、言ってもね。ほんと、いい男でしたよ・・・・・」


「あの、幸せ者めが…」
 言えたのはそれがせいぜいで。
「ええ」
 出来たのはほろ苦く笑うことだけで。



 でも。
 心の底から。羨ましいと思ったのだ。







 ほんと。いい男でしたよ、あの人は・・・・・