(こちらは2003年7月に閉鎖したサイトに置いていた作品です)


 あるじの留守に館を訪ねてきた男は、甘興覇と名乗った。

「呂将軍からの書簡を持参した」
 どこかそぐわぬ口調とともに、無愛想に差し出された書簡は…、見覚えのある、どこかぎこちない手蹟だった。
 読んで。
 小喬の顔がさあっと蒼ざめた。
「…あ、あの…、これは…」
 たしかなことなのですかと言う声すら、震えて。
 甘興覇と名乗った男の人相の悪い顔の中から、痛ましげな目が小喬を見やる。
「…残念だが…」
 怖ろしげな外見に似ず、その声は…、なにやらひどく、優しいもので。

 呂将軍…呂蒙が寄越した、報せとは。
 現在、征蜀軍を率いて巴丘にある夫・周瑜が、重い病で明日をも知れぬ容態だというものであった。



「会いに行くなら…、俺の船で、送るが。俺の船なら東呉一速いぜ?」
 甘寧の申し出に、一瞬、小喬は躊躇った。
「そんな…、ご迷惑を、かけるわけには…」
「…こんな荒くれの船に乗るのは、物騒だと?」
 にんまり笑って、甘寧が言う。
 躊躇った理由を見透かされ、小喬がさっと頬を染めた。
「いえ、あの…、船なら、周家の船が…」
「…そうか」
 押して勧めることもせず。
「だが、急いだ方がいい。言っちゃあなんだが、…もう、本当に、いつ命の火が消えてもおかしくねえ感じだった」
「あ…」
 色を失った小喬の唇が震えた。
 では、と、一礼し、甘寧が、踵を返す。
「あ…、あの…!」
 大股で遠ざかる広い背中に、震える声が呼びかけた。鋭い目が、ちらりと、こちらを振り向く。
「どうぞ…、お連れください!今、支度をします」
 …甘興覇というのは、とかく噂のある男。…何をされるか知れたものではないけれど。
 もしこちらの出した船で間に合わなかったら、きっと、生涯、後悔する…!
 声をかけはしたものの、足が震える思いであったが、にっと嬉しげに笑った顔は、優しくなくもないように見えた。
「あ、あの…」
 どうせ、行くのならと。思い切って、切りだしかけた小喬に。
「子供らか?」
 なぜ、判ったのか。言い当てた甘寧の細い目は、優しく。
「それがいい。連れてこ…連れて来なさい。まだちっちぇえ…じゃねえ、小さいんだから…、顔、忘れちまうかもしれねえし、な」
 自分を怯えさせまいと、それなり言葉を選んでくれているのが判り、強ばっていた肩から力が抜けた。
 …この人は悪い人ではない。
 ひとつ、こくりとうなずいて。
 小喬は奥へと駆け込んだ。





 …うわ。風出てきた。
 おおきな瞳は、気がかりそうに、窓の外を見た。
 …なんか…かなりひどいよな、これ。
 興覇の船、もう、折り返しにかかってるはずだ。あいつに限って、これくらいの荒れでどうかすることはないだろうけど…。
 それでもやっぱり、気がかりで、呂蒙の顔に、影が差す。
 周瑜の奥方が船に乗っているなら、…深窓で育った女性のことだ、さぞ、怖い思いをしているだろうと思うと、気が気ではない。
 …興覇って見た目悪いから、怖がって別の船にしてるかもしんないけど…、それなら余計心配だし。
 だが、…他の船ではきっと間に合うまい。保って明日中だと軍医は言っていた。甘寧の船なら明日の昼には着くだろうが、他の船だと・・・・・
 ああ、もう。
 …とにかくこの風、どうにかならないかなあ…
 呂蒙の瞳は、また、窓の外へと彷徨って行った。





 激しく揺りあげられたかと思えば、すぐまた、どすんと突き落とされる。
 左右へのうねりまで入っているようで、小喬はもう、生きた心地もしなかった。
 怯えた幼い子供たちが、泣きながらしがみついてくるのだけれど、さっきから、ひどい吐き気がして。それを堪えるのが精一杯で、安心させてやることも出来ない。
 流石に年嵩の周循は、兄だという自覚があるからか、懸命に堪えているようだが…
 どんどん。
 何かが扉に、当たる音。もしや、船が壊れて…
「ははうえ!」
 子供たちの手に力がこもる。
「おい!大丈夫か?!」
 外から声をかけられて、やっと、扉が叩かれたのだと判った。
 母親に目で訴えられ、周循が、扉を開けに行く。
「おう、坊主!頑張ってるな!」
 甘寧の声だ。
 ぽんぽんと頭を撫でられて、周循が、嬉しそうな顔になった。
「大丈夫か、奥方。…おいおい、情けねえな、チビ。お前、男だろうが!」
 どうやら一目で状況を見てとったらしい。母親にしがみついていた子供の一人…男の子の方を、甘寧の大きな手が抱き取った。
「にいちゃんを見てみろよ、あん?おまえのお父上は、ずーっとこんな船で、いくさやってたんだぜ?あのお父上の子が、このていたらくじゃあおまえ…、はずかしいぞ?どんな顔して父上に会うんだよ」
 暖かく話しかけられて。膝の上であやされて。男の子…周胤が、懸命に涙を堪えようとする。
「…そうそう。偉い偉い。…男の子は、泣くもんじゃねえ」
 その間にも船は、激しく揺れる。
「こ…は、どの。この、船は…」
「ああ、こんなの、大したことねえ」
 甘寧は、小喬に向かい、不敵な笑みを浮かべてみせた。
「風が斜め横からだから、ちと揺れてるが…、なに、この甘興覇の船がこんなもんでひっくり返るもんか。心配はいらねえよ」
 その声は、あくまで、優しくて。
「それにな。揺れはひどいが…、風のおかげでかなり速度が出てる。…あんたを間に合うように都督殿んとこ連れてってやろうって、湘君(長江の女神)も応援してくださってんだよ、な。そう思って、あんたも頑張れ。もうしばらくの辛抱だ」
「あ・・・・・」

 …荒くれ男だと思っていたのに。
 このかたは…、なんと優しいことを…

「李爺」
 甘寧が外に声をかけると、部下らしい初老の男が、小桶と竹筒を持って現れた。
「気分が悪いんだったら、無理に我慢しねえで、これ、使え。水、こっちな。おい坊主、母上の介抱は、任せっからな?」
 けなげに頷く周循に、元気づけるような笑みを送り、一瞬躊躇った甘寧の手が、女の子の方にすうっと伸びた。
「嬢ちゃん。そんなにしがみついたら、母上が、苦しいだろ。こっちイ、来な」
 女の子は、瞬間、怯えたように竦んだが。母を気遣う兄に目顔で促され、いかにもこわごわといった感じで、甘寧の方に近づいた。
「…ほれ、見てみ」
 その子を引き寄せた甘寧が、衣の胸をくつろげて見せる。
 そこに踊っているのは…、青い、竜の刺青。
 そんなものは見たことがないから、女の子の目が、まんまるになった。
「ああ、怖いもんじゃねえんだ。龍ってのはほれ、水の神さんだろ?」
 こくりと頷くちいさな頭に、甘寧が優しく微笑んだ。
「こやってな、俺には、水の神さんがついててくれんだ。船がどうかなったりは、絶対、しねえから。だから、安心してろ、な」
 それで、多少は安心して。…でもやっぱり、揺れるのは怖くて。
「ああ。大丈夫。大丈夫だ…」
 ぎゅうっとしがみついてきた女の子に、甘寧が、また、微笑みかける。
 ふたりの子供を膝に抱いた彼は…、まるでその子たちの父親のようで…

 …そういえば。
 あのひとは…、夫は、わたしたちには本当にやさしくしてくれるけれど。
 でも…

 これほど実のこもった言葉を、聞かせてくれたことが、あったろうか。
 これほどあたたかい笑顔を、我が子に見せたことが、あったろうか。

 ふいに躰を捉えた空恐ろしさに、小喬は、ぞっと身を震わせた。





「あ!しめーさんだ!」
 船着き場から手を振るおおきな瞳に、子供たちがわあっと歓声を上げた。
 右手に男の子、左手に女の子を抱いて、甘寧が器用に渡し板を降りる。長男に手を取られた小喬が、おずおずした足取りでそれに続く。
 …へえ。あの子たち、もうすっかり懐いてるじゃん。なんか興覇、あの子たちのおとうさんみたいだな。
 こんな時ではあったけれど、呂蒙の顔にも笑みが浮かんだ。
 地面に降ろして貰った子供たちが、ころころと、子犬のように駆け寄ってきた
 まとわりつく子供たちを、かがみこんで、抱き寄せて。にっこりと仰いだおおきな瞳は、驚くほど優しい目にぶつかった。
 甘寧が慌てて仏頂面を作り、そのままぷい横を向く。
 くすくす。
 呂蒙はついつい、笑い出していた。
「んだよ。礼くらい言えよ!」
 凄んでみせたって、手遅れだ。
「うん、ありがと」
 なんだかんだいって、興覇、ほんとに優しいんだから。
「お前が行ってほしそうにしてただけの話だ。いっか、これでひとつ、貸しだからな!」
 言葉はぶっきらぼうだったけれど。なんだか、声が、照れていて。
「うん」
 呂蒙がもう一度微笑んで、…そうして優しく小喬に言った。
「よかった、間に合って。さ、都督が、お待ちです…」





 昨夜の風が嘘のような それは穏やかな春の日で





 夫はずっと、わたしたちには、とてもとても優しかったから。…わたしは、まったく、気づかなかった。
 そう。あの船で…、子供たちを膝に抱いた興覇どのを見るまで。
 夫が…、わたしたちのことなど、ほんとうは、ろくに見てもいなかったのだということを。
 あのひとにとって、いちばん大切だったのは。わたしたちなどではなく。
 いつか…、いちばん大切な人と見た…

「都督、奥方に詫びたいっておっしゃってたから…、ほんと、よかったです、間に合って」

 そう言った、澄んだ、おおきな瞳。
 こちらの心の奥底まで見透かすような、…透明な光を放って。
 子明どのは、何もかもわかっていらしたのかもしれない。だからこのように、計らってくださったのかもしれない。
 そんな、気がした。



 すまなかったと、夫は、言ったのだ。



 なにかを成す男とは、そういうものなのかもしれない。妻や子供を置き捨て、ただ自分の夢や志だけを追って…、どこまでもはばたいてゆくものなのかもしれない。
 そうして、ときにはその夢が、人の形を取ることもあるのかもしれない。
 夫の夢は、…孫伯符という形をしていた。
 孫伯符の天下という、形を。
 
 その夢に、とらわれて。
 ただ、その夢のためだけに走り続けた男の目に、妻や子が映る筈もなかったのだ。
 もう…伯符さまが亡くなった以上、叶うはずもない夢なのに。



 窓の外。
 楠の枯れ葉が、風に流れる。
 それが夫の姿のようで。小喬は、顔を背けた。



 そう、だったのだ。
 孫伯符という風が。わたしから、夫を攫って。
 あの枯れ葉のように、吹き散らしてしまったのだ。
 孫伯符が死んだあの時から、夫はもう、夫ですらなかったのかもしれない。
 
 …あんたを、間に合うように都督殿んとこ連れてってやろうって、湘君(長江の女神)も応援してくださってんだよ…

 間に合うように。
 わたしたちに詫びるのに、間に合うように。
 してみると…夫は、あのうつくしかったひとは、湘君にも愛されていたのであろうか。
 なればあの怖ろしげな男は、湘君の使いであったのかも知れぬ。
 そして。あのおおきな瞳も、また…
 


 そう。
 夫は、最後の最期に…、わたしたちのところに戻ってきてくれた。
 いや。わたしたちのところ、では、ないかもしれない。
 夫は自分自身を取り戻した…、ただそれだけだったのかもしれない。





 すまなかったと、そう言って。