※この掌編は旧サイト26000打キリリク作品の再収録です
本編にこのエピソードを組み入れるのが難しかった為、こういう形で出させていただきました※



父親の 葬儀を終えて
訪ねて来た少年は わたしが貸してやった『孫子』を携えていた

「これを…お返ししなくてはと思いまして。長い間、ありがとうございました」
げっそりと 削げた頬をして けなげに少年は言った

乱世は むごいものだ
子供から親を奪い 女から夫を奪い…

「また、読みたいものがあれば、いつでも言いなさい」
けれど 少年の首は 横に振られた
「しばらくは…、そんな時間もなくなりそうです」
「では、出仕を?」
そうか
父を亡くした以上 この子が母を養っていかなくてはならないのだ
新しい環境に馴染むまでは 学問をする暇も 心の余裕もなかろう…
「ええ。父の部曲を引き継ぐようにと…、殿が」
「それは…!」
暗い瞳で それでも少年は 微笑んで見せた
「ええ。武官として、出仕することになりました」
「・・・・・。」


 もうひとつ、乱世が奪ってゆくものがある。
 それは…、「夢」。


 乱世とは…、むごいものだ。





Intermezzo〜幽夢A.D.204 柴桑






「張子綱だと?」
 甘寧の太い眉が、ぐっと寄せられた。
「張子綱っていやあ…、東呉の二張の片割れじゃねえか。…んなお偉い文官が、仕官したての水賊あがりに、何の用だよ」
腹の底に響くような声は、持ち主の不機嫌さを、はっきりと表していて。取り次いだ手下は、首を竦めた。
「んなこといったって…、来ちまってんですからさあ。んな偉い人…追い返すったって…」
「ちっ」
 甘寧の不機嫌には、原因がある。
 甘寧…、字を興覇という、この男。つい最近、荊州の黄祖を見限って、この江東の孫家に仕えるようになったばかりなのだが。
 黄祖というのは、孫家にしてみれば、先々代の孫堅…今の主人・孫権には父親に当たる…の仇にも当たる人間で。境界争いもあって、実際に、両軍は刃を交えている。
 これまで甘寧は、黄祖軍の一員であったのだから、無論、孫軍を敵に廻して戦っている。少なからぬ人数が、彼の強弓の犠牲となった。ゆえに…孫軍の中に、彼を、親の仇と見なし、命を狙う者がいるのだ。
 その者の名は、凌統。字は、公績。
 周囲は、父が討たれたのは戦場の習い、強い方に寝返るのは乱世の習いと諌めたが…、若い彼は、どうしても聞き入れず。何度も命を狙われて、甘寧はほとほと困っていた。
 そう。甘寧には、凌統をどうこうしようと気はない。
 彼は、先代からの家臣。孫権にもたいそう愛されているという。そんな相手を討ってしまえば、この揚州にはいられなくなってしまう。甘寧とて、自分ひとりの身ではない。彼を頼りにしている、水賊時代からの手下どもがいるのだ。今は、手柄を立てて、自分を認めさせ、少しでも孫軍内での地位を上げる…、手下どものためにも、そのことに専念すべき時であった。どこかの感傷的なガキに構っている余裕などはない。
 しかし。この凌統という若者が…、執念深いのだ。
 昨夜も…、酒宴の席で、剣舞に事寄せて斬りかかってきた。甘寧も、やむなく剣を抜いて応戦したが、酔った凌統は足元が定まらず、呂蒙…甘寧を孫権に推挙してくれた男だ…が間に入ってくれなかったら怪我をさせていたかもしれない…
 …もしや。張子綱の用というのは、それか?
 張子綱…、張紘、孫権ですら、敬意を持って、「東部」と…漢朝から賜ったという役職名で呼ぶ、あの、高位の文官は、昨夜のことを聞いて、それで…?
 甘寧の眉が、さらに、吊りあがる。
 …どうせ。あれだ。世間の連中は、面白おかしく、水賊上がりの乱暴者がまたガキを挑発して、人の良い子明(呂蒙)を困らせたとでも、噂しているのだろう。子明がこの件で困ってねえとは言わないが、…一番困ってんのは、この俺だってのに。あんなガキに構ってる場合じゃ、ねえってんだよ、たくもう。
 あの東部とやらは、凌公績を可愛がってるとかいう話だし。ひょっとして…文句を言いに来やがったんじゃあ…
 しかし。
 手下の言う通り。来てしまったものは…仕方がない。
 苛立たしげに、もう一度、舌打ちをして。甘寧は、来客を迎えるべく、室を出た。



 現れたのは…無頼の匂いを色濃く残す男。
 だらしなく着崩れた袍の胸元からは、あろうことか、山越族のような刺青がのぞき。ぞんざいに結いあげた髪が幾筋か、赤銅色に日焼けした額に影を落としている。太い眉。ぐっと結ばれた薄い唇。一重瞼の下から、狼のような目が、値踏みするようにこちらを窺っている。
 これが、甘興覇。
 これまでも…、乱暴者だとか、無法者だとか、とかくの噂のある人間は、ご先代の孫伯符…漢朝から頂いた称号で及びするなら、孫討逆将軍の下にも集まっていたけれど。彼らはどこか…人の好い、可愛げのある連中ばかりで。
 本当の無頼とは、こういう男をいうのだと、わたしは、思った。
 世間の枠には納まりきらぬ…、一人、船の舳先で風に吹かれているのが似合う、…そんな男だ。
 およそ。仕官など…、この男には、似合わぬのに…
「東部どのともあろうお方が、この無頼に、何の用だ」
 腹に響く声が、無愛想に、問い糺す。
 何故か。答えるのが、ためらわれた。
 このような、男。…わたしの頼みなど、鼻先であしらうだけではないだろうか。
 だが、言わねばならぬ。このような男なら…、あの子の細首ひとつくらい、ためらうことなく斬りとばすに違いない。わたしは、その時、そう思った。
「凌公績のことで…参った」
 太い眉が、脅すようにつり上がる。
「あの子は、まだ、若い。分別の…つかぬところはあろうが…、ここは、ご自分を抑えて…、味方同士で殺し合うような真似は、止めていただきたいと…」
 狼が、にたりと笑った。
「俺は、殺し合いなんざ、しちゃいねえぜ」
 ・・・・・。
「あのガキが勝手に俺を仇と狙ってやがるだけだ。…殺し合うも何も…、この俺が、あいつの手に合う相手と思うかよ?」
 思わない。思えるわけがない。
 この男が本気になれば…、あの子の首など、いとも簡単に宙に舞うことだろう。
「あんた、何か勘違いしてんじゃねえのか?止めるんならあのガキの方だろうよ。」
 俺はあいつに手など出していない、挑発した覚えもないと、嘲るように、狼が言う。
「俺はガキなんぞ相手にするほど暇人じゃあねえが…、もののはずみってこともある。いい加減に止めさせねえと、…あいつの方が、怪我するぜ?」
「だから、頼んでいるのだ」
 狼の目が、鋭くなった。
「あの子を…傷つけないでもらいたいと。あなたの腕なら、それくらい、容易いであろう。あれは…可哀想な子で…」
「可哀想?」
 吐き捨てるように、狼が言う。
「命を狙われてんなあ、俺だぜ?俺は可哀想じゃねえってのかよ?そらあ…あんた方君子の皆さんにしてみりゃあ、こんな無頼より、あいつの方が大切かもしれねえけどよ…」
 わたしの服装を、値踏みするように見て。狼が、せせら笑う。
「わたしは…そんなことは…」
「とにかく」
 弁解しようとした、わたしの言葉は、冷たい言葉に遮られた。
「止めるんなら、あのガキの方だ。俺に言っても、時間の無駄だ」
東部どのが、お帰りだと、手下を呼ぼうとした彼に、わたしは、必死の思いで言った。
「あなたが、殺したのは、あの子の父親だけではない。あなたは…あの子の夢を、殺したのだ」
 眉を寄せ、彼が振り向く。
「…何の、話だ」
 そう。このことは…だれも、知らぬ。わたししか。だから…言わねばならぬ。
「あの子は…、父親の死で、父の部曲を受け継ぐことになった。武官として、仕えて…、今に至る。だが…」
 あの子は。怜悧で。学問が好きで。いつか東部さまのように、国政を預かる文官になりたいと、あの目をきらきらさせて、いつも…
「父親が死ななければ…、あの子は、わたしのもとで…、文官としての修行をする筈であったのだ」
 まじまじと、彼が、わたしを見つめた。
 …通じたのだろうか。わたしの言葉は。
 父親を失ったことで…あの子は、未来への希望を失ったのだと。だから、…その絶望と苛立ちが、仇討ちという形で、全て、この男に向いているのだと…
 伝えたかったのは、そのことなのだが…

「どうなすった」
 哀れむように、彼が、苦笑した。
「東呉の二張の片割れともあろうお人が。情に目が眩んだか」

 …情に?

「今、この中華で。のんびり夢を見られる人間が、どれだけいると思ってんだ。叶う夢がどれだけあると思ってんだよ」
 あんたも、徐州の出なんだろ。だったら…見たんだろ。曹操の軍が、徐州で暴れまわった時、何が起こったか。
 いち早く逃げることができたのは…、結局、カネのある奴ばかり。逃げるための馬車も持たぬ、貧しい者たちは。曹操の騎馬隊の蹄にかかり…
「ああ、夢があったろうよ。あんとき道端に転がってた死体のひとつひとつにな。家族揃って元気で暮らすとか、秋になったら嫁を貰うとか…そんなささやかな夢でもよ」
 それを全て、踏みにじって。嵐のように、荒れ狂う。それが、乱世。
「よしんば戦に巻き込まれなかったとしても…、軍備のために、どこも、税が重い。明日メシが食えるか…、それより先のことは考えられない、飢えと背中合わせの人間が、今、この中華にどれだけいると思ってんだ」
 夢なんざ、見られただけでも幸せじゃねえか。
「だいたい、あれだろうが。幾ら武官になれと言われたとしても…どうしても嫌なら、断る機会はあったんだろ?」
 …それは、そうだが。
 殿の仰せでも…、そして、部曲の者たちもそれを望んでいたにしても。断ることが、不可能だったわけではないが…
「なら、あいつは、選べたんだ。その辺の田んぼで這いずり回って田植えしてる小作の連中なんか、あんた…、選ぶことだって出来ねえんだぜ?」
 選べるだけ、幸せなのだと。自分で選んでおいてぐだぐだぬかすのは男のすることではないと。呆れたように、彼は言う。
「なにあのガキの味方になって、甘ったれたことぬかしてんだ。あんたの名が、泣くぜ」
 反駁の余地もない、正しい理屈。
 …そう、かもしれぬ。
 わたしは、情にとらわれて…、道理を見失っているのかもしれぬ。
 だが…
「だからこそ、なのだ」
「東部殿?」
 だからこそ。叶う夢などあまりに少ない、この乱世だからこそ。
「それでも…、懸命に生きようとするあの子が、無残に殺されるのは…、偲びなくて…」

「必死で生きてんのは、俺の手下も一緒だ」
 彼の声が、鋭くなった。
「判ってんのかあんた?…賊やってたってことはな、他に生きる道がねえってことなんだ。…あいつらには、帰る故郷も、迎えてくれる家族も、もう、ねえんだよ」
 ここでやってくしかねえんだと。鋭い声が、耳を打つ。
「ここで俺があんなガキに殺されてみろ。あいつらは、どうなるよ。でなきゃ…俺があのガキを殺したとして。その後も、俺が東呉にいられると思うのか?」
 ・・・・・!
「俺を頼ってるあいつらのために、俺は…殺られるわけにも、殺るわけにも、いかねえんだよ!だから止めてくれって言ってんだろうが!!」



 あいつらが食ってけるか行けねえかは、この俺にかかっているのだと、彼は言った。
 情に絡まれてる場合じゃねえんだと、彼は言った。
 追い出されるように、彼の船を降りて。だが…、わたしの心は、軽かった。

 何としても。仲間たちを。「帰る故郷も、迎えてくれる家族も、もう、ねえ」人たちの、暮らしが立つようにしてやろうと。
 下がらぬ頭を、無理に下げて。似合わぬ、仕官なぞをして…
 もし、あの仲間たちがいなければ。彼は…仕官など、間違ってもしたりはしなかっただろうに。

 情に絡まれているのは、あなたも同じだ…、甘、興覇。

 優しい、男なのだ。
 わたしなどより、よほど、優しい…
 あの男は。決して、公績を、殺したりはすまい。あの子がいつか…一人前の男になるまで。あの子の思いを黙って、受け止めてやってくれるだろう…


 わたしがあの子のために、何故、動いたか。あの男は…気づいただろうか。


 わたしは、後継に、あの子を望んでいた。
 息子たちのだれより怜悧で、鋭い感性を持つ、あの子を。
 そう。
 乱世が叩き潰したのは…、わたしの、夢。
 このわたしが学んできたことを受け継がせる…、かけがえのない、器…

 せめて、その器が、殺されぬように。
 わたしは、この張東部は、私情で動いた。
 国の為でも、あの子の為でもなく。
 ただ。
 己の私情で…動いたのだ。


 乱世はなんとむごいものなのか
 わたしから故郷の徐州を奪い 友人を奪い 血縁の者を奪い
 そうして
 老いさらばえたこの身から 夢までもなお取り上げる

 わたしは・・・・・







「父の部曲を引き継ぐようにと…、殿が」
「それは…!」
暗い瞳で それでも少年は 微笑んで見せた
「ええ。武官として、出仕することになりました」
「・・・・・。」

武官になる以上は 誰より優れた武官になってみせると
少年は けなげに言った
わたしにできたのは ただ うなずくことだけ
丁寧に 一礼して 
わたしのすべてを託そうと思っていた少年が 歩み去ってゆくのを
わたしは ただ 見つめていただけ…

そう
選んだのは 彼なのだから





 乱世が奪ってゆくもの。
 それは…、「夢」。


 乱世とは…、むごいものだ。




※05.05 一部改訂※