それは。
対曹操戦を控えた、ある日の夕暮れ。
「子明」
「はいっ」
呂蒙は、彼の「大将」…周瑜…に、秋の空のような晴れ晴れとした笑顔で答えた。
「こたびの戦で、陸遜に、私づきの校尉をつとめて貰うことにした」
「え?」
呂蒙が怪訝そうな顔になる。
「でも…」
都督づきの校尉といえば、呼び名はともかく、実質的には周瑜の秘書、雑用係のようなものだ。
かたや、陸遜といえば。若いとはいえ、江東一の大豪族・陸家の総帥。
その彼が就くような地位ではない。
陸家の総帥の出陣となれば、私兵を…、それも五十や百ではなく、一軍と呼べるほどのものを率いての参加になるのが当然であろうに。
…なんで、…あ、そっか。
おおきな瞳が、瞬いた。
自分たち水軍は出陣して曹操を迎え撃つが、軍はなにも水軍だけではない。本拠地の柴桑にも、守備兵を一万残してゆく。
広さの割に人口の少ない東呉のこと、万一のことがあってはそれでは不安だ。それは、万一のことなどないようにするのが、自分たち水軍のつとめなのだが…
…陸家の主力は殿んとこ合流するんだな、きっと。土地のことよく判ってるし、宮廷にも繋がりあるもんな、陸家なら。
たとえ万が一があったとしても、殿の命までは取られぬよう宮廷の上の方の誰かを動かす…そういうことも彼らなら出来るかもしれない。
だが。
…あれ、でも、だったら…、伯言は柴桑にいた方がいいんじゃないかと思うんだけど…
周瑜が仄かに微笑んだ。
このおおきな瞳はまるで、心の窓のようだ。彼が心に思うことを、何もかも映し出してしまう。
「やっぱりお前は、阿蒙だな」
「えー」
不満げに膨れた頬を、周瑜は可笑しそうに見た。
「判らんのなら、それでいい。…ともかく陸遜は、外敵との戦は初めてだ。私はいろいろと忙しいし…」
何か。僅かに感じた、違和感。
その正体を捉えかね、呂蒙は僅かに眉を寄せたが。
「…お前が、目を離すな。頼んだぞ」
ぴしりと告げられた命令に、慌てて拱手の礼を取った。
「はい!」
頷いて周瑜が歩み去る。
僅かに感じた違和感は、うやむやのうちに、かき消えた・・・・・
軍議で、緒戦の陣立てが、発表された。
先鋒は、凌公績と、甘興覇・・・
その晩、俺はこっそり、大将の幕舎を訪ねた。
いつもなら、大将の先鋒は、俺と公績に決まっている。どうして今回、俺を外したのか、聞きたかった。それに・・・
興覇が入ったのは、判るんだ。劉表のところから流れてきたヤツは、もともとが水賊。このあたりの長江は、ヤツにとっては、庭みたいなもんだから。でも、公績でなく、俺を外したというのが、解せないんだ。
だって。公績は、興覇を、親父の仇と狙ってるんだぞ。そんなんでうまく連携取れるかどうか。興覇の言うこと聞かないで変な突っ込み方でもしたら、二人とも危なくなっちゃうじゃないか。
水戦の腕なら、俺だってあいつにひけはとらない自信がある。公績の気持ちを汲んで、俺を先鋒に戻し、あいつの方を中軍に廻してやってはくれないか・・・。こっそり、そう訴えてみるつもりだったのだが。
幕舎には、先客がいた。
「曹軍の間者を洗い出させる?本気で言うのか、お前!」
外まで聞こえる、怒鳴り声。声をかけようとした俺の足は、そこで止まった。
魯子敬どのの、声だ。
「いい方法だろ。曹軍の間者は、陸遜に必ず接触してくる。適役だと、思うがな」
「馬鹿か、お前は!」
大将の返事に、また子敬どのが、怒鳴り返す。
「これだけ戦力差があるんだ。そんな小細工、仕掛けてくるかよ。だいたいあいつは切れる。そんな役を命じたら、お前がどういうつもりか、判っちまうだろうが!そうやって追いつめたら、本当に、裏切りに走るかもしれんぞ!」
「そうなったらすっぱり殺してしまえばいいさ」
「そして陸家を蜂起させるのか?今、柴桑には、一万しかいないんだぞっ!」
…陸家?
何のことだ?子敬殿何言ってるんだ?
蜂起って…、蜂起って、何だ?
「だから子明に監視させている。目を離すなと、言っておいた。きちんとした証人がいれば…」
・・・監視だってえ?
ちょ、ちょっと待ってください大将!そんなことひとことも言わなかったじゃないですかっ!
俺…あいつの監視役だったんですか?!なんで…
「けっ、子明だって。」
子敬どのが、鼻で笑った。
「あの阿蒙に策謀なんか判るもんか。どうせあれだぜ、早く慣れるように面倒みてやれとか、そういう意味にとってるぜ」
・・・とってた。そういう意味に。
悔しいけど、その通りだ。今でも、何で監視しなきゃいけないのか、俺にはさっぱりわからない。
そういえばこのごろ、伯言、顔色がよくなかった。戦が近づいて、緊張しているせいだと思っていたけれど・・・
え?
ちょっと待て。
伯言は…、伯言だよな?
大将、どうしてあいつのこと、…あいつのことだけ陸遜て呼ぶんだ?
さっきも「陸遜」て言ってたじゃないか。
新参の興覇のことだって、一番若い公績のことだって、ちゃんと「興覇」とか「公績」とか、字で呼ぶのに。
なんで…伯言だけ?
あれ、なのか?
大将ってば本気で伯言疑ってんのか?伯言が曹操に通じてこっち裏切って蜂起するって?
違う…、違う!あいつは、そんなヤツじゃ…。
…そうやって追いつめたら、本当に、裏切りに走る…
頭の中を子敬どのの言った言葉がぐるぐる駆け回る。
何でだか知らないけど。大将に疑われて、監視されて。それじゃ…辛かっただろうに、あいつ。
俺ってば、自分が監視役だってことにさえ気づかなかったのに!
とにかく…、とにかく、行ってやらなくちゃ。
足音を忍ばせて、俺は、その場を離れた。
行き先?
もちろん、伯言のところさ・・・・・
「子明どの?」
陣地の隅に張られた、小さな幕舎。
…何故こんな時間に?あんなに暗い顔をして。まさか、族人の誰かが?
この国難に当たって、妄動することはならぬと、あれだけ戒めておいたのに…
陸遜の顔が、引きつった。立ち上がり、油断なく身構える。
「違う。聞きたいことがあるだけなんだ」
さすがに異様な気配を感じ取ったのか、呂蒙が、急いで言った。
「ええと、…あのさ。こんなこと聞いたら、馬鹿かと思うだろうけれど・・・」
「はい?」
いつもは柔らかく豊かな陸遜の声が、緊張の色合いを帯びていた。
「あの・・・出陣前に公瑾の大将がさ、俺に、お前から目を離すなって言ってたんだけど…」
「え?…ええ…」
陸遜が、ぽかんとして、呂蒙を見つめた。
…何を言い出すのだろう、この人は。
出陣してからこっち、ずっと私を構っていたではないか。これといった用もないのに、酒や菓子の差し入れにかこつけて、幕舎にまで何度もやってきたではないか。
あれは私を監視していたと…そういうことなのだろう?
「俺、お前の監視役なのか?」
「はあ…?」
茫然と見開かれた目と、真っ直ぐな視線が、薄闇の中で交錯した。
…ちょっと、待ってくれ、おい。
「な…、こっちが聞きたいですそんなこと!まさか、・・・都督殿は、…あなたには何も?」
「うん」
「はあ」
…何だ。何なんだそれは。
監視にしては妙に親切だと思わないでもなかったが、このひとは、何も判っていなかったのか。
そんな、馬鹿な。
しかも、当の私に、確かめに来るか、普通?
陸遜の緊張が、ふっと、緩んだ。躰の力が抜けたように胡床に座り込む。
その口から、何か、奇妙な音が漏れた。必死に笑いをこらえているのだと判り、呂蒙の顔が、真っ赤になる。
「おい!伯言!」
「し…失礼」
まだ、笑っている。
悪戯っぽい目が、きらきら光って、呂蒙を見上げた。
「ええ、多分、そうですよ。あなたは私の、監視役。そして、私は…」
「子明殿!探しましたよっ!」
その答えは、飛び込んできた若者の怒声に、断ち切られた。
「何で、先鋒が、あいつなんです?!いったいどういうことなんですかっ!!」
凌統。凌公績であった。
「なんで俺が、親の仇と一緒に、先鋒をつとめなきゃならないんですか!」
陸遜のことなど目にも入らぬ様子で、凌統は呂蒙にくってかかった。
「それは、あいつを東呉に推挙したのは、子明殿かもしれませんけれど!何も、先鋒を譲らなくたって」
「俺が譲ったわけじゃない!」
呂蒙が鋭く凌統を睨む。
流石に、15年近く、最前線で戦ってきた将である。いざという時の呂蒙には迫力がある。凌統がびくりと身を竦めた。
「都督殿がお決めになったことだ。文句があるならそっちに言え」
「…もう、申し上げました」
「公績」
「子明には他にすることがあると。不満なら、柴桑に帰るか、と」
不満が若い校尉の全身から滲み出ていた。
「他にすることって、いったい、何なんです。どうして、先鋒から外れたんです?」
「それは・・・」
呂蒙が、困ったような目で、ちらりと陸遜の方を見た。
「子明殿っ!」
凌統の声が、跳ね上がる。
それまで黙っていた陸遜だが、途方に暮れたような呂蒙を見かねたか、ついに、口を開いた。
「子明殿には、人質の監視という任務があるのです、公績殿」
ようやく陸遜の存在に気づいたのか。きょとんとした目が、こちらに向けられる。
薄い唇が、きゅうっと歪んだ。
「なんでお前がんなこと知ってんだよっ!陸家の総帥だか何だか知らねえけど、いつもお高く止まりやがって!お前が、何でっ!」
「公績、あのな・・・」
おろおろと言いかけた呂蒙に向かい、安心させるように微笑んでみせて。陸遜は穏やかに爆弾を投げた。
「だって、私がその、人質ですから」
しんとなった幕舎の中。
陸遜は、ぽかんとしている二人に、事情を説明した。
対曹操戦に、ほぼ全軍を出した東呉は、ぎりぎりの兵力しか本拠の柴桑に残していない。この状況で一番怖いのは、有力な豪族の誰かが曹操と呼応し、領内の異民族を語らって、孫家に叛旗を翻すことである。孫家を裏切る候補の筆頭は、自分の率いる陸家だ。なぜなら。
「なぜなら、孫家は、私の養父の敵ですから。」
凌統が、凍りついた。
だから周瑜は、自分を手元に置き、同時に、一族の中で自分の次に位置する従兄弟の公紀を、理由をつけて辺地の鬱林に行かせた。
淡々と、穏やかに、伯言は語った。
そして、最後に、ひとこと。
「私が校尉として従軍させられたのは…、もし一門の誰かが暴挙に走ったら即座に私を殺すと、…陸家をそういって脅すためなのですよ」
当の人質本人に自分の任務を説明されるまで、俺は、自分が人質の監視役だなんて、これっぽっちも思わなかった。
大将は、陸家一門が東呉を裏切ることがないように、わざわざ総帥の彼を呼び寄せて、手元に置いたのだ。もし、陸家の誰かが不穏な動きを起こしたら、・・・あるいは、伯言自身が、曹軍と接触を図ったりしたら、直ちに、彼を殺す。そのために。
陸家の総帥だ。流石に身一つというわけにはいかない。校尉ではあっても二百ほど兵を連れて来てて、そいつらは大将の下についてる。
その部隊が戦場で曹操と呼応して動く可能性もある。大将は、そう考えてるんだ。
だから、中軍に置いて、俺の部隊と自分のとで、両方から挟み込んで……
俺が先鋒から外れたのは、それでだ。
俺の隊はその、監視の役目があるから、今は動かせないってことなんだ…。
ああ、もう!
こんな格好悪いことってないよな。人質本人から、自分が人質ですから監視しなさいって教えられるなんて…!
かわいそうな、伯言。人質だということにすら、気づいてもらえなかったなんて。
「それでお前、誰とも親しい口をきかなかったのか。下手に親しくなったらそいつまで疑われると思って…」
そう、公績が…公績だけじゃないけど、お高くとまってるって思ってしまうくらいに。
伯言が、困ったように笑う。
「申し訳ありません」
それは、そうだよな。まさか、監視役と親しくなるわけにもいかないよな。しつこくされて、さぞ、困ったろうな。
可笑しいんだか、情けないんだか。俺も、たいがい奇妙な顔をしていたと思う。
「なんで、そんなことできるんだよ…」
公績が、まだ唖然とした顔のままで、ぽつりと言った。
「なんで?なんでそんな、平然と、親の仇に仕えられんだ?あんた、心がないのかよ?」
「公績っ!」
あわてて黙らせようとしたが、伯言はまた、笑っただけ。
「孫家を恨むことは、私の立場では、許されませんから。陸家の総帥だということは、そういうことです」
穏やかな中にも、威厳のある口調。
名家の御曹子とはこういうものか。俺は、茫然として、伯言を見つめた。
「陸家の総帥が孫家に逆らうということは、二つの家の間で争いが起こるということです。そうなれば、どうなります?この江東が、戦場になってしまうでしょう?」
そう言った時の伯言は、なんだかとても、悲しそうだった。
「いくさともなれば、どうしても、たくさんの人を巻き込んでしまう。あなたのように父親を亡くす子供もいるでしょうし、夫を亡くす妻もいるでしょう。自分ひとりの私情のために、どれだけの人が巻き込まれるかを考えると・・・私には、孫家を恨むことなど、できません」
ああ…そっか。そうなんだ。俺が何となく思ってた通りだ。
大将、間違ってる。
こいつが曹操に通じるなんて、…この東呉を裏切るなんて、そんなことは、絶対ない。
東呉のためなら、こいつは、どんなことでもやる。東呉を戦場にするようなことは、こいつには、出来ない。
現にこいつ、親の仇の家に、こうして仕えてるじゃないか。陸家と孫家が争うようなことになっちゃいけないからって…、その一心で…!
「でもそれで、あんたは、平気なのか?」
気を呑まれたような公績に、伯言の静かな声が答えた。
「総帥となったとき、…孫討逆殿が、わが養父を討った時。私は、12歳でした。人間は何にでも慣れるものです」
12歳?
たった12で、あの大豪族を?
「12歳って…、まだ遊びたい盛りじゃないか…!俺…、俺は…」
公績が俯いた。肩が震えてる。
「俺だって…諦めようとしたんだ!俺にしたって…人、殺してきてる。俺だって誰かの仇なんだ。だから、もう、仇討ちだなんだって言えないんだ。…でも」
ああまたそんな、泣き出しそうな目を。
「どうしても駄目なんだ。あいつが憎くて堪らないんだ。あいつと組むのは…イヤなんだ!」
…何て言ってやれば、いいんだろ。
ああもう、駄目だ。また、言葉が出て来ない。
「いいじゃないですか。親の仇を、恨んでも」
驚いた。
伯言がそんなこと言うとは、思わなかったから。
東呉のために復讐諦めたこいつなら、…それでも恨んじゃいけないって、そう言うと思ったから。
けど、…伯言は笑ってた。
「一本気なあなたらしいですよ。…だいたい、人間は人間でしかないのです。大切な人を殺した相手なんですから、恨んで当たり前だと思います」
そうして彼は言ったんだ、悲しいくらい穏やかな声で。
「…心の中でだけくらい、自由でいても…いいでしょう」
己の自儘は何一つ許されぬ、陸家の総帥である、彼は。
沢山の出会いを繰り返し。出会うたびに何かを学び。
そうして紅顔の少年たちは、大人の男になってゆく。
もう、阿蒙でいちゃ、いけない。
唇を噛んで、呂蒙は思った。
こんな不細工なのは、もう嫌だ。
大将の考えてることが判らなかったなんて。自分が何してるのか判ってなかったなんて。策謀が全然わかんないなんて。
それでなくても辛い立場の伯言をもっと困らせてたなんて。公績にかけてやる言葉が見つけられないなんて。
こんなの、もう、嫌だ。こんなんじゃ…駄目だ。
もう、阿蒙でいちゃ、いけない。もっとしっかりしたい。みんなの役に立ちたい。
だって・・・・・
きっと前を見据えたおおきな瞳は、やはりどこまでも澄んでいた。
俺、みんな、好きだから。
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