(こちらは2003年7月に閉鎖したサイトに置いていた作品です)

「子明!子明!!」
「はーい!」
 ぱたぱたという足音が駆けてくる。武具でも磨いていたのだろうか、布を持ったままの手。
 その手の主・呂蒙は、おおきな瞳で主人を見上げた。
「何でしょう、との?」
 この地方をどうにか平定したばかりの彼の主人は、苛立たしげに言った。
「仁が、またどっか行っちまったんだ。お前、見なかったか?」
 新調の衣装がやっと届いたから、母上が試着させたがっていらっしゃるのに。そう言って、「との」…孫策は、舌打ちをした。
「明日は髪上げ(女の子の成人式)するってえのに、ちっとも大人しくしていないのだから…」
「伯符が剣だの何だのを教えるからだ」
 綺麗な顔をぎゅっと顰めて、横でぼそっと言ったのは、周瑜。孫策の右腕といわれる男。
「公瑾だって賛成したろうが!袁術の奴が家族に手を伸ばすかもしれないんだから、自分の身くらい守れるようでなきゃ、って」
「喜んで賛成したわけではない!婦人は、たおやかで奥ゆかしいのが一番だ!」
「知るかよ、そんなこと!あいつがあれだけ剣術好きになったのは、半分はお前の所為…そうだ!お前、責任とって嫁に貰え!!」
 きょとんと、ふたりのやりとりを見上げていた、おおきな瞳が、わずかに曇った。
「あの…」
 何かいいかけた呂蒙の声に、かぶせるように、
「冗談じゃない!あんなじゃじゃ馬、絶対に、御免だ!俺の理想は高いんだ!!」
 間髪入れずに、周瑜が答えた。
「それに、言っただろ?この先、外のどんな勢力と手を結ぶことになるかも知れないんだから、一人しかいない姫を家臣に嫁がせるのはもったいないって」
「妹をその手のネタに使うのは嫌だって、俺も言っただろうが!」
「しかしな…」
「あのっ!!」
 どうしてか、それ以上聞いているのが辛くなってきて。
 呂蒙は、声を大きくして、言った。
「ひめさまがどっか行っちゃったんだったら、おれ、探してきます!」
「あ…ああ、そうしてくれるか、悪いな…」
 はっと我に返った孫策が言う。
「ひょっとして…、馬で外に出たのかもしれん。大人の衣装を着けるようになったらもう、気ままに遠乗りも出来ないって愚痴ってたから…」
「わかりました。じゃ、厩、覗いてきます!」
 ぱた、ぱたた。
 遠ざかる軽い足音は、どこか調子が狂っているように聞こえた・・・・・




 それは、子供の髪型は、男も女も同じだけれども。
「孫権だな」
…それはないと、彼女は思った。
「違う!」
 きっぱり言い切ったのに、
「嘘をついても、無駄だ!孫家の館を出た時からずっとつけていたのに、気づかなかったのか?」
「・・・・・!」
 迂闊だった。
 こうして自由に外に出られるのも今日で最後だと、ついその方に気をとられて、注意を払うのを怠った。
 仁姫がきゅうっと唇を噛んだ。
 川のほとり。さんざん走らた馬から降りて、水を飲ませていた所に、いきなり男がふたり現れたのだ。
 後ろは、川。逃げ場は、ない。
 それにしても、仲謀兄と間違えるとは…。それは、ちょっとそれは、ないだろう?
 妹だと教えてやろうかと思ったが、女だとバレたら余計ややこしいことになりそうな気がして。
「私に、何の用だ」
 できるだけ低く抑えた声で、言ってみる。
「何、一緒に来てくれりゃ、いいのよ。お前を人質にして、あの孫策めを誘き出そうってわけよ」
 首領格らしい方の男が、にんまりとあごひげを撫でた。
 …冗談じゃない!わたくしが捕まったら、伯符兄が…?
 戦って逃げるしか、ないのだろうか。
 短刀は、…
 懐の短刀に、手を伸ばした刹那。
「何だ?そこに何を持っている?」
 首領らしい方の男が、いきなり腕を伸ばし、仁姫の身体を抱え込んだ。動きを封じられてもがく彼女の懐に、武器を奪おうと、手が差し入れられる。その手が膨らみかけた胸に触れ…
「えっ?!」
 驚いた拍子に腕が緩んだ。その隙に、身体を捻って。
「…っ!」
 短刀を引き抜きざま、男の腹を力一杯刺した。教えられた通り、ねじるようにして引き抜く。熱いものが、腕を濡らしたが、気にかけている余裕はない。
 …ひめさまは女で、力が弱いんだから、速さで勝負しなきゃ。一撃で倒せるように、急所を狙って…
 あかるいいろの声が、耳元で囁いたように思った。
 咄嗟の出来事に反応できずにいるもう一人の男の胸に、飛び込むようにして、刃を突き立てる。
「ぐあっ!」
 ひどく嫌な感じが、腕を伝わって、頭のてっぺんにまで達した。
 刃を引き抜き、倒れかかってくる躰を避けて、最初の男の方に向き直る。
 腹を押さえて、蹲っていた男が、ゆっくりと、仁姫を見上げた。
 恨めしそうな光を湛えた目。唇から吹き出す、血の混じった泡…
 何ともしれない、嫌な匂いが、初夏の空気を汚してゆく。
 目を背けたいのに。動けない…

 もがいていた男がとうとう動かなくなるまで。
 仁姫は、呆けたような目で、ただただじっと見つめていた。
 …わたくしは…、人を、殺したの?…
 これが、死というものなのか。こんなに、あっけなくて、汚くて、臭いものが…!
 悪寒が、足元から駆け上がってくる。手も、足も、がたがたと震えた。
 とうとう立っていられなくなって。仁は、その場に、へたりこんだ。
 見れば。手も、衣服も。何ともしれぬ嫌な赤に、染まっていて。
 短刀を捨てて、洗いたいのに。手が、どうしても、離れてくれない。
 怖い。怖い。怖い…

 兄上…っ!!
 
「ひめさま!」

 冥い視界を吹き払うような、あかるいいろの声がした。
 血相を変えた、まだ、少年といった方がいいような青年が、ぽすん、と目の前に飛び降りてくる。
 返事を、したいのに。唇が震えて、声も出せない。
 呂蒙のおおきな澄んだ瞳は、どうやら一目で状況を見てとったようで。
「ひめさま…」
 それ以上、何も言わずに。
 痩せた腕が、骨張った胸に、仁姫をしっかりと抱きしめた。



 転がっている2つの屍と、その前で座り込んでいる仁姫と。状況は、一目瞭然だった。
 あの気の強い仁姫が、全身をがくがく震わせながら、縋るような目で見上げてくる。
 思わず…抱きしめていた。
 子供のころにしてやったように、あやすように髪を撫でていると、ようやく、か細い声が出る。
「子明…、手が、離れない…」
「ああ…」
 自分も、そうだった。ちょうど、ひめさまくらいのとき。はじめて戦に出て…人を殺したとき。
 その時はもう必死だったからあれなんだけど、全部終わってから…震えが来て。
 手ががちがちに固まってしまって、どうしても刀を離せなかった。
 …ひめさま、あの時の俺みたいな気持ちなんだよな。
 だから。
 あの時義兄がしてくれたように、氷のような手を自分の手で包み込んで、白くなって固まった関節を、一つ一つ優しく揉みほぐしてやる。
 やっと少し緩んだ手から、血まみれの刀を取り上げて。川の縁まで連れて行って、血に染まった手を、洗ってやる。
 嫌な匂いが残らないように、爪の隙間まで、丁寧に。
 手がもとの白さに戻るにつれ、仁姫も、少しは落ち着いたようで。
「ごめんなさい、子明。わたくしが、迂闊だったの…」
 詫びの言葉を口にする仁姫の口調は、どこか今朝までとは違っていた。
 衝撃が彼女を一気に成長させたのだろうか。
「ごぶじで、よかったです。…あ」
 血でごわごわになった表着に、手が触れた。
「そのままじゃ、気持ち悪いでしょ?ボロいですけど、こっちに、着替えて…」
 自分の表着を脱いで、渡してやる。
「蒙は、目をつぶってますから。その陰で、着替えてください」
 力一杯目をつぶってみせると、ふわりと笑う気配がした。
「では…、わたくしが着替えている間に、その…それを、調べて」
 目を開けると、まだ微かに震えながら。仁姫が、屍の方を指さしていた。
「何か、…孫家の子を人質に取って、伯符兄を誘き出すとか、言ってたの。身元が判らないと…、兄上が、危ないから…」
 目こそ背けたままだったが…、流石、孫家の姫。
 …俺だったら怖くて泣きわめくだろうに…。
 こんなときでも気丈な仁姫に、呂蒙の心臓がきゅっとなった。
 …あれ?
 なんか、へんな感じ…。





 ひめさまの馬は、どっかに行っちゃったから、おれの鞍の前に乗ってもらって。
 後ろから抱きかかえるようにして、おれは、手綱を取る。
 柔らかい髪が、いいにおいで。なんでか、どきどきする。
 ずっとこのままでいたいなあなんて、こんな時にそんなこと、思ってる場合じゃないのに。
「ねえ、子明」
「はい?」
 …おれの声、ヘンじゃないよな?
「ヤなものね…、人を殺すって。」
 命が抜けてゆく感じがはっきり判ったのって、身震いしながら、ひめさまが、自分の手を見た。
「嫌ですよ。でも…、ひめさまがそうやって、戦ってくださらなかったら、今度は『との』が危なかったですもん。なんかあれ、袁術の回し者みたいでしたよ」
「・・・・・。」
「いいとか、悪いとかじゃなくて。そーいうこともしないと、生きていけない時代なんじゃないかな。自分が死ぬだけだったらまだいいけど…って、ひ、ひめさまが死んでもいいなんて意味じゃないですよ?…、でないと、大事な人も、守れない…」
 うまくしゃべれない、おれ。あ、でも。ひめさま、笑ってくれた。
「ほんと、よかったです。ご無事で」
「…ありがと」
 沈黙。
 だめだ。何かしゃべってないと。おれの心臓の音、ひめさまに、聞こえちゃうんじゃないだろうか。
「子明の、おかげなの」
「え?」
 心臓が、でんぐりかえりした。
「刀を抜いた時に、子明の声が聞こえたの。私は力が弱いんだから、速さで勝負しろって。一撃で倒せるように、急所を狙え、って…。剣を教えてくれるとき、いつもそう言ってるでしょ?」
 返事、できなくなっちゃった。顔が、かあっと熱くなる。
「明日は、髪上げをするけど…、大人の格好になっても、また、剣、教えてくれるわよね?」
「はい」
「奥での儀式が終わったら、真っ先に、子明に見せに行くから!庭の、桂の木のとこで、待ってて!」
「はい!」
 絶対それまでに仕事かたづけようと、おれは、心に誓った。

 このまま、永遠に、館につかなければいい。そんなことを思ってしまう自分が、不思議で。
 このかたは『との』の妹君なんだぞって自分に言い聞かせても、抱きしめたい思いは、止まらなくて。




 年端もゆかぬ身で、軍に入って。
 戦ばかりに、明け暮れて。
 ぱたぱた、ぱたぱた、走り回って。
 恋という字も、知らないで。



 …おれ、どうしたんだろ?
 わけのわからない胸の内に、呂蒙はそっと、首を捻った。