※ご注意※
このおはなしで程普が患ったのは、「癩」という病です(史書による)。
現代の医学では完治する病ですし、遺伝性の疾患でもありません。感染力も弱いものです。
しかし、このおはなしの当時は治療法がなく、ゆえに、非常に怖れられておりました。
そのことをご理解の上でお読みくださいますようお願いいたします。







 江夏。
 その文を受け取った時、太守の厳しい表情が、ふと、和んだ。
「ご家族からですか」
 従僕の声に、少し照れたように肯いて。文に目を通していた太守…程普の顔に、優しい笑みが浮かんでいる。
「娘の婚約が、無事、整ったようだ」
 秋に建業へ戻った時、良い縁談が来ているというから話を進めるように言ってあったのが、どうやらうまく運んだらしい。息子からの文は、無事に婚約が整ったという報せを伝えていた。
「それは、おめでとうございます。…では、ご婚儀は…」
「次の秋に、なるだろうか…」
 程普は、ふと、目を、窓の外に泳がせた。
 窓の外。風に揺れる、冬枯れの木々。
「本来なら、戻って祝ってやりたいところだが…」
 結納の場にも、自分は、顔を出せなかった。軍務が予断を許さぬ状態では、やむを得ぬといえばやむを得ぬが。
 父親らしいことを、一つもしてやれなかったな…
 老いた皺深い程普の顔を、重い溜息が揺るがせた。
 武人という生き方を選んだ以上、仕方ないとはいいながら。戦に明け暮れ、ろくに家に戻れもしなかった自分。
 息子とはそれでもまだ、男同士ということもあって、会えば話も出来るのだが、娘には…。己が娘といいながら、どんな言葉をかけてやればよいのかも判らず。
 それはどうやら向こうも同じであるらしく、たまさかにに建業に戻った時でも、ろくろく話も出来なかった。晴れの結納の場に顔さえ見せることのなかった父を、娘はどう思っているだろう。
 任地が、江夏でなければ、家族を呼び寄せて、一緒に暮らすことも出来たかもしれぬが…
 今、ここ荊州は、紆余曲折の末、湘水の線で分断されている。湘水より西が我々の領土、そうして東は…劉備の支配下。
 益州を手にした劉備は、中央に手を伸ばす為にも、喉から手が出るほど荊州が欲しいはずだ。実質的に同盟を破棄したのは向こう。そうして、実際に兵を入れてきた。去年の、夏のことだ。
 それが中断されたのは、北の…、曹操との防壁になっていた漢中の張魯が曹操に降り、本拠地の益州が脅かされかねぬ状況になったため。
 劉備は我らとの同盟を復活させ、慌てて益州に戻っていった。
 同盟が復活したのだから、荊州は安全かというと、それがそうでもない。曹操次第でいつまた劉備が動かぬとも限らぬ。
 …いや、現に。劉備軍こそ動いてはいないが、…不穏な動きがないわけではないのだ。
 豪族たちや異民族の叛乱が頻発している。明らかに、劉備の仕業だ。奴の手の者が動いて、あわよくば荊州から我々を追い出そうとしている。
 叛乱する者たちは口々に言う。孫仲謀は頼りにならぬ、戦が弱い。去年も合肥で酷い負け方をしたではないか、揚州内でも威信が衰えているという・・・・・。
 否定は出来ない。
 去年の敗北は…あれはひどかった。命からがら逃げ帰ったに近い有様だった。威信も確かに低下している。武名のなさが災いしている、それも事実だ。
 だが、…そもそも兵力が足りぬ中、あんなところで戦をしなければならなかったのは何故か。劉備が益州に戻るまで、曹操の目を引きつけておくためではなかったか!それを…。
 汚い。…本当に汚い。あの筵売り上がりの詐欺師野郎は…!
 豪族たちも豪族たちだ。叛乱を起こす本当の理由は、そんなことではないくせに。
 …この地を久しく領有していた劉表は、我らが殿のお父上を…孫文台様を殺した。それゆえ、ご先代の頃は、我ら東呉は劉表を仇と見なし、何度も小競り合いを繰り返して来た。
 その時積み上がった恨みと憎しみが、お前たちを叛乱に走らせるのだろうに…!
 こうして乱世は続いてゆくのだ。恨みと憎しみが新たな憎悪を呼び、戦を起こし、人を殺させる。
 どうにも、…ならぬのだろうか。
 これから産まれてくる孫の世には、穏やかな日常が戻っていてほしいが。軍務に追われ娘の結納にも顔を出せぬ、…そんな者などおらぬようになっておればよいが。
 ああ。
「そうだ。江夏に、腕のいい銀細工師はおるか?」
 唐突な質問に、従僕が戸惑った目をあげた・・・・・



 和やかな会話は、駆け込んできた伝令に、中断された。
「叛乱です!この地の豪族が、異民族を語らって…、敵は数千人規模…!!」



 おかしい。
 儂も、年を取ったのだろうか。
 どうも、手足が上手く動かない。指も妙に強張って…、特に、左手がそうだ。剣を握っても、 どうかすると取り落としそうになる。
「…大丈夫ですか?」
 心配そうに尋ねた副官に、程普は苦笑してみせた。
「大丈夫だ。年を取ると、…寒さが堪えてな」
「確かに、冷えてきましたね。もう…、年の瀬ですから」
 柔らかく受けた穏やかな目が、その時だけは険しい光で、山の上の砦に注がれた。
 山上の砦。反乱を起こした豪族が、一族全部で立て籠もっているところ。
 水の手さえ切れればと思っていたが、意外に攻囲が長引いていた。どうやら、上の方にわき水があるらしい。
 攻めるにしても、道は一本。大人数で攻め登るのは無理だ。少人数では、みすみす矢や石の餌食になるだけである。攻めあぐねている、というのが正しい。
 食料が尽きるまで囲み続ければ、それは、もちろん落ちるだろうが。しかし・・・・・。
 今回の叛乱は、これまでのものとは違っていた。規模が大きかっただけではない。まつろわぬ異民族を語らい、時を同じくして複数の場所で…というのは、今回が初めてである。
 包囲にあまり時間をかけてはまずい。ここに自分たちを引きつけて置いて、別の豪族たちが…ということも、十分に考えられるのだ。
 …方法が、ないではないが・・・・・。
 程普の白くなった眉が厳しく寄った。
 あの砦には、女子供がいる。
 早期にこの砦を落とす方法。これしかないと判ってはいても、実行に移すのは躊躇われた。向こうもそれを見すまして女子供ともどもに籠城したのであろうと思えば腹立たしいが、しかし。
「やはり、火をかけるしかないか…」
 副官が、眉を顰めた。
「火攻めは…、女子供にも犠牲が出るでしょう。それはできれば、避けた方が…」
「見せしめ、ということもあるだろう」
 見せしめ。嫌な言葉。出来れば言わずにすませたかった言葉。
「程公?」
「このような叛乱が連鎖せぬように、孫家に背けばどうなるか…、一度、はっきり見せてやった方が良い」
 副官の顔が引きつった。…ああ、善人なのだな、こいつは。
 儂とてもできればこのようなことはせずに済ませたい。しかし。これほど叛乱が頻発するのでは、身動きが取れぬではないか!
 豪族どもは、支配下の農民を絞り上げ、あるいは兵を徴発し、武装させ、そして孫家に立ち向かわせる。こちらも、のべつに兵を動かすとなれば、おのずと、民に負担をかけねばならなくなる。
 これではいつまで経っても、民の暮らしは良くはならぬ。負担が重くなればなるほど、民の怨嗟は孫家に向かう。どのみち孫家は恨まれるのだ。
 なれば。…どうせ恨まれるなら、いっそ。
「程公!!」
 儂とてこのようなことはしたくない。だが、このような状態が続けば、いつまでも苦しみはなくならぬ。だから・・・・・
「山を囲み、下から、火をかける。一人も、逃さぬ」
 わかっている。女子供が、あそこにはいる。恐らくは、儂の娘と同じ年頃の者や、もっと幼い者もいることであろう。
 しかし、どうでもこの砦は落とさねばならぬ。もし、この規模の叛乱が荊州全土に連鎖したら、儂らの手には、負えなくなる。
 そうなれば、もっともっとたくさんの者が死なねばならぬ。戦って死ぬ者、巻き込まれる者…、そうして働き手を奪われて飢える者…。
 とにかく。とにかくどこかで止めねば。どうしようもなくなるのは目に見えている。殿が善政を布いてやりたいとお考えでも…、この状況ではどうにもならぬ。
 ああどうして叛乱なぞ起こしてくれたのだ!どうして儂にこんなことをさせるのだ…!
 娘の面影が、目の前をよぎる。
 あの子は、この父を、どう思うだろう。このように残酷なことを平然としてのける、この父を…。
 それでも。
 大きく息を吸い、程普は、触れを下した。
「部曲の長に、招集を!砦を、火攻めにする!」



 山が。燃えている。

「この程度で済んでようございました」
 軍医の手が、左腕の傷に、手早く包帯を施してゆく。
 火をかけるにあたり、程普は、自ら指揮をとって、砦への道に障害物を置かせた。その時に、矢を射かけられたのである。
「あの距離だ。かわせると思うたのだが…、やはり、年だな…」
「まさか、そのような」
「いや、本当だ。どうも最近、手が痺れたり…、躰が強張ったりしてかなわぬ。この寒さが堪えているのだろう」
 何気ない言葉であったが。
 手当をしていた軍医が、不意に、硬直した。
「どうした…?」
「・・・・・。」
 返事が、ない。
「どうした?震えているのか?」
「て…程公。この御手は…?」
「ああ」
 左手。薬指と小指の関節が、妙に膨れて、強張っている。
「霜焼けにでもなったかと思うておったのだが…」
「霜焼け…!とんでもない…」
 軍医の声までもが、震えている。程普の眉が、吊り上がった。
「違うのか?では…、これは、何だ?」
「もしや、痺れると仰せられましたのは…、この指では?」
「ああ…」
 言われてみれば、そうであった。左手は、全体に重いが、特にこの二本の指が…
 黙り込んだ軍医の表情が、容易ならぬ事態を告げていた。
「言いなさい」
 促されて。
 しぶしぶ、軍医が、病名を告げた。
 恐れを知らぬ武人の顔が、蒼白と化した。

 山が、燃えている。

 天罰か。
 老いた皺深い顔を、炎が赤く染めていた。
 あの炎の下で、今、数百人の者が、焼かれている。
 女も、子供も。子を抱いた母もいよう。年寄りもいよう。
 やりたくはなかった。だが、他に、どうしようもなかった。もし叛乱がこれ以上連鎖していたら・・・・・
 いや、それは、言い訳。これは、儂の罪。
 その罰が、降ったというのなら。甘んじて受けよう。ただ…
 軍医が告げた病名。それは恐ろしい病であった。
 家族にこの病にかかった者が一人でも出れば。その一家は住む場所から追われる…、それほどに怖れられている、治療法のない、病。
 無理もない。自分も、この病にかかった者を見たことがあるが…、皮膚が崩れ、唇も鼻も落ち、手足の指もなくなり…、それは怖ろしい有様であった。
 儂がこのような病にかかっていると、人に知れたら・・・・・。
 妻はどうなる。息子は。そして、縁談がととのったばかりの娘は。破談の憂き目を見るのみならず、…業病にかかった者の妻子として爪弾きされ・・・・・。
 耐えられぬ。
 ろくに一緒に暮らしてもおらなんだのだ。本当に伝染るものなら、従僕なり兵士なりに先に伝染っているだろう。だが、世間はそのようには思うまい。
 どうしたら…

 山が、燃えている。

 儂の、罪は、罪。しかし、あれらに何の罪がある?
 どうすれば、あれらを守ってやれる?
 武人である以上、戦場で散ることは、覚悟の前であった。しかし、まさかこのような運命が、自分を待ちかまえていようとは…!
 程普は、きつくきつく、唇を噛んだ。







 呉都、建業。
 宮殿の一室には、老いた長吏。向かい合っているのは、無頼の匂いを色濃く残す、鷹のように鋭い目をした武人。
「孫叔朗(孫皎)どのから、訴えが届いている。衆人監視の中で、そなたに殴りつけられたと…。まことか」
 長吏…、張公と人々から敬われている張昭は、厳しい声で問い質した。
 うっそりと肯いた武人の名は、甘寧…、甘興覇。
「この訴えによれば、そもそもそなたが軍医を殺し、それを咎めたらいきなり殴りかかってきたのだとあるが…。相違ないか」
 老いた長吏を甘寧が睨みつける。並みの者なら臆してしまってものも言えなくなるだろう。
「ごちゃごちゃ言ってねえで、この首はねるなり何なり、さっさと処分を言え」
「…そなたは」
 張昭が眉を顰め、溜息をついた。
「そなたは、そのような態度を取るから誤解されるのだろうが。…せっかく殿が、『興覇がそのような行動を取ったのには、何か理由があるのだろう。お前の方から聞いてみてくれ』と仰せになっているというのに」
「え…?」
 ひょいと上がった目は、心底意外そうな色で。
 白い髯に覆われた唇から、また、憂鬱そうなな溜息が零れる。
「そなたまさか…、あの、逍遥津の一件。殿があれを根に持っているだろうとでも思っていたのか?」
 先の合肥の戦いで、張遼の猛追を受けた時。退却を肯んじない殿を、この男が、力ずくで下がらせたということがあった。あれからまだ月日は幾らも立ってはいない。
「あの時はお前の判断が正しかったのだ!現に誰にも咎められなかっただろうが!…殿が臣下に諫められたくらいで根に持つ方だなど…、そのようなこと思うだに非礼であろう!」
 厳しい声で叱りつけると、
甘寧の口が、への字に曲がった。
 ああやっぱり思っていたのだなと、張昭の眉も吊り上がる。
「殿はそのようなお方ではない。お前の気持ちは、ちゃんと判っておられるし、…感謝しておられる。このたびも、『興覇は乱暴だが、理由もなしに人を傷つける男ではない』と仰せられたのだぞ」
 ただでさえ険悪な甘寧の顔が、見るも怖ろしい顰め面になった。
 一瞬、何という無礼な奴かと思ったが。
「んな…、俺ぁ…」
 もごもごと、口ごもるのを聞いていると…、うーむ。
「何を照れておる」
「照れてなんかいねえ!馬鹿にすんな!」
 …案外子供のようなところがあるのだな。
 成る程子明が懐く筈だと、張昭は内心で頷いた。
「で、…いったい、何故なのだね。その軍医が、何かしたのか?」
 叔朗殿の上奏には、何の理由とも書かれていないが…。
「・・・・・。」
 答えの代わりに返ってきた、値踏みをするような視線。
 この男は、俺の話を聞いてくれるだろうか。ちゃんと理解してくれるのだろうか…。心中の思案が、透けて見える。
 張昭は、臆することなく、その視線を真っ直ぐに受け止めた。
「よっしゃ。あんたを信用するぜ」
 彼の審査に通ったのか。重い口は、漸く開いた。

「広まっちゃあまずい話なんだ。…あの軍医には可哀想なことだったんだが…、仕方なくてよ・・・・・」



 あの日の夕方…、蔡の奴が、俺の船に、顔を出した。
 賊やってた頃、俺んとこにいて。赤壁の後、程公が、自分の船団の世話を見るやつが欲しいってんで、あっちに移った奴だ。
 程公亡くなってからまた俺んとこ戻ってきてたんだけどな。
 こいつ、荊州の出でよ。もとを正せば、襄陽の、でかい米屋の息子なんだわ。
 あまり話したがらねえが、とうやら、父親ってヤツがかなりあくどい商売してたみてえでな。こいつは、その父親に反発し、ろくに家には寄りつかねえで。
 その晩も…街の者が米屋の店を焼き打ちした晩も、どっかの妓楼にしけ込んでたんだと。
 ひでえやり方だったそうだ。外から、戸を塞いで。誰も逃げられねえようにして。
 両親も妹も、それだけじゃねえ、使用人まで、その晩焼き殺されたんだとよ。
「暫く前から、親父は、躰の具合が悪かったんです。その親父を診た医者が…、癩だって。で、街の人に言い触らしたもんだから…」
 蔡を拾ったのは、長江沿いの、小さな町。
 そこに嫁いだ姉さんを頼って来たんだが、その姉さんってえのも、父親の病のことが知れて、婚家の奴らに叩き出されてな。
 あいつが来た時はもう、3つになる子を抱いて、長江に身を投げた後だったそうだ。
 それを恨んで、婚家を襲って、火をつけて、…で、役人に追われてたのを俺が拾ったって寸法よ。
 あのときも。自分だっていつ、あの病になるかも知れねえ。それでもいいのかと、念を押して…。
 バカらしい。
 賊になろうって奴は、太く短くこの世を渡る覚悟が出来てんだから、誰もそんなこと気にしやしねえ。
 実際、ずっと一緒にやってて、病の気振も見えなかったから。程公のところにやった時はもう、そんなこと俺、忘れてたんだけどよ。

「かしら…、あの病なんすけど」
 そう、その蔡が、やってきたのよ。真っ青な顔して。
「俺は何ともなくても、周りの奴に伝染ることって、あるんすかねえ…?」
「まさかあ。ンなこたねえだろ」
 誰か、あの病にかかったのかと、尋ねると
「程公が…」
「は?」
 何馬鹿なこと言ってんだと、俺は思った。
「誰がンなことを。あの人は…、江夏の城壁から落ちて…」
 そう。公式にはそういうことになってんだろ?
 なんしか…寒い夜で、地面凍ってたからか、あちこち潰れちまって見る影もない有様だったって聞いたぜ。着物の柄がなかったら、程公だってわかんなかったかも、ってよ。
 その前から寒さが堪えると言っていたらしいし、もう、年齢も年齢だし…、夜中に城壁の見回りに出て卒中でも起こしたんだろって、みんなで言ってたんだ。そういう話になってんだよな?
 それがよ、違うって言うのよ。
「でも、あの病にかかって、世をはかなんだんだって、酒場で…」
 誰がンな馬鹿抜かしてんだって問いつめたら、あんた、程公んとこいた軍医だって言うじゃねえか。
 あいつもう見てらんねえような顔してやがったし、もしかして 劉備の奴が、こっちの士気を下げようとして、変な噂流してんじゃねえかってのもあったしでよ。
 とにかく確かめてみようってんで、噂を聞いたという酒場に行って。
 そこに…、その、軍医がいた。

「本当です!嘘じゃない。」
 お前か、要らぬ噂を広めてる奴は。そう言って迫る俺に、蒼白な顔で、奴は言い募った。
「あれはきっと、あの豪族を皆殺しにした祟りで…」
「祟りなんてもんがあるなら、徐州で大虐殺やった曹操が、なんで元気で生きてんだよ?んなもなあ、ねえよ」
 ここぞとばかりに突っ込むと、奴は、黙った。
「俺ぁ、葬式に出たんだぜ?遺体も見た。あれの何処が、癩なんだよ」
 本当は遺体は既に棺の中で、フタ開けたわけじゃあねえんだけどな。俺がきっぱり言い放つと、遠巻きで見ていた連中みんなほっとした顔になりやがった。
 そらそうだよな。上官が祟りでそんな病になったなんて言われちゃあ、そん時下にいた連中は、ひょっとして自分も…て思うだろうじゃねえか。
 それだけじゃねえ。程公が預かってた兵は、江夏に残った奴だけじゃねえ、荊州中あっちこっちに移されてんだ。こんな噂が広まったら、行った先で八分にされるのは目に見えている。
 そんなところを、劉備や曹操につけ込まれたら…なあ。考えるまでもねえこった。
「…病の、徴候は。まだ、左手にしか…」
 それで黙りゃあいいものを、あのバカ軍医、しつこく言い募ってよ。
「ご覧になったでしょ?左手の指…、潰れてたでしょう?城壁から落ちて、あんな潰れ方をするわけはない。あれはあらかじめ、石か何かで、ご自分で叩き潰して…」
 ああもうこいつは生かちゃおけねえって…、そこで俺は覚悟を決めたんだ。
「はん。語るに、落ちたな」
 具体的な証拠を挙げられないのなら生かしておくことも出来たんだが…、なあ。さっきも行った通り、…皆が、よ・・・・・。
「俺ぁ遺体も見たって言ったろうが。いい加減な事を言うなよな」
 剣を抜いて、剣先を口ン中突っ込んでやった。これ以上反論されちゃあまずいからな。
「俺はなあ。捕虜を拷問するときに、何本も指を叩き潰して来たんだよ。あんな具合には、絶対、ならねえよ…」
 いや、しねえぜ、ンなこと、ほんとは。しなくったって甘興覇って聞けば、向こうさんだいたい素直になってくれっからよ。
 けどほれ、俺の評判が、評判だろ。兵士どもは真に受けたみてえでよ、やっと酒場の雰囲気が変わった。
 誰かが、「劉備の回し者じゃねえか」と言い出して、同意の声があちこちであがって。
 ざわざわしてきたのを見計らって、怯えきってがたがた震えてる軍医に、ゆっくりと顔を近づけた。あいつの言葉を俺だけが聞いたとしても、不自然に見えねえようにな。
「そうなのか。お前…、劉備に、幾らもらった?え?」
 わざと、口の中を傷つけるようにして剣先を引き抜くと、狙った通り、あいつ、ひいとか何とか言ってくれたから。
「五百金だと!!」
 さも、あいつがそう言ったように、怒鳴りつけて。
「てめえ、そんなはした金で、東呉を売ったのかっ!!」
 剣でこう、首の血脈を、な。
 あんたには判らねえかもしれねえが、一番派手なやり方よ。全身の血が其処から噴き出すんだ、見てる方は震え上がる。
 そうなったら、「甘興覇が劉備の間者を成敗した」ってことしか、皆の頭には残らねえ。
 震え上がった連中の頭にゃあ、あいつが本当に金を貰ったと言ったかどうか確かめようなんて殊勝な考えも浮かばねえだろしな。

 …顔顰めんなよ。殺される方には、これ、まだしも楽なやられ方なんだぜ? 上手い奴なら一瞬で済ましてやれっからよ。…勿論、そうしたよ。
 その死体を、片手で引きずってって外に放り出して。血染めの剣を持ったまま、俺は、酒場の主に命じた。
「酒だ!こんな嫌な話を聞いて、飲まずにはいられねえ!」
 返り血に濡れたまま酒を呷る俺は、さぞかし怖ろしげに見えたんだろう。他の連中、逃げ出してったからな。
 あいつらの口から、変な噂を広めていた軍医が俺に殺されたという話が、全軍に伝わるだろう。
 そう願って。俺は、演じた。乱暴者の、甘興覇を…。



「俺ア、嘘つきだ」
 瞼を伏せた猛将は、絞り出すような声で呟いた。
「あいつはただ、小心者で、恐ろしい秘密を自分一人の心には収めておけなかったってだけなんだ。なのに…、ンな、濡れ衣着せて…」
 程公の兵たちを守ってやるためには、劉備や曹操につけこまれぬようにするためには、もう、そうするしかなかったのだけれど。
「ひでえ話だよ、なあ。…だから、よ。どんな罰受けても仕方ねえって、ま、首洗って来たってわけなんだが…」
 聞いて貰えるたあ思ってなかったと、苦笑まじりに甘寧が言う。
「いや・・・・・」
 何と、言ってやればよいのか。張昭は言葉が出なかった。
 程公も哀れだ、軍医も哀れだ、…そして、この男もまた、哀れだ。
 どうしてこうなってしまうのか。他の結末はなかったのか。感情が激しく渦を巻いて、…どうにも言葉になってくれない。
 ただ。
 やるせないと。
 やるせないとでも言うしかなくて・・・・・

「それで…、それでそなた、叔朗殿には、その話・・・・・」
「ああ。してねえよ。訊かれなかったからな」
 ぶっきらぼうな返答が、どこか、悲しげに聞こえる。
「いつまで水賊気分でいるのだ、乱暴者めが、やはり出自は争えぬ…、満座の中で、いきなり、罵られたよ」
「・・・・・。」

 いいんだ。みなの前で言える話でもねえし。
 程公、必死で家族の人とか庇ったんだからよ。…表沙汰にはしたくねえじゃねえか、なあ。
 俺が悪者ンなってことが済むってんなら、それでいいんだ。

 だって、よ。
 あん人、なんだかんだと口喧しかったが、俺なんかにもほんっと、よくしてくれたからよ・・・・・







 秋。
 一人の男が、喪に服している程公の邸の門を叩いた。
「奥方さまに、お取り次ぎ願いたい」
 一応辞は低くしているが、見るからに怖ろしげないずまいに、門番の顔が青ざめる。
 喪中の家に来て、面識もない未亡人に面会を申し入れるなど、無礼の極みもいいところだと言ってやりたかったが。なんといっても相手が相手である。
 …迂闊な対応をすれば、後でどんな仇をされるか…。
 やむを得ぬと判断した門番は、その訪問客を取り次いだ。

「甘興覇どの?」
 眉を顰めた未亡人が口を開く前に、居合わせた息子が、飛び上がった。
「喪中の家に来て、いきなり、何を…!そんな奴は、追い返してしまえ!」
「で、でもございましょうが…、水賊あがりの男でございますぞ。後でどんな仇をされるか…」
「どうせ、あれだ。母上に何か下心があって来たに、決まっている!母上もお会いになることはありませんぞ!だいたいこの前も、人を殺したとかで召還されていた乱暴者です。家に入れたら何をするか…」
「でも、そのとき殺された人は、おとうさまのことで悪い噂を撒いていたのでしょう?」
 やさしい声が、息子の罵声を止めた。
 声の主は、まだ若い娘。
「お兄さまはそうおっしゃるけれど、あんな噂…、その方が、はっきり嘘だと証明してくださらなかったら、私の縁談も駄目になるところだったのよ。そんな、悪い方だとは思えない…。」
 妹の言葉に憮然と口を噤んだ息子を、厳しく見やって。
「噂だけで人を決めつけるのは、よくありませんよ。お会いします。私もお伺いしたいことがあったし…」
 未亡人は、ゆっくりと立ち上がった。
「母上!」
「おまえが、私をまだきれいだと思ってくれるのは、嬉しいけれどね。私はもう50前。よしんば下心がおありだとしても、実物をご覧になれば、お気持ちも変わるでしょう」
 絶句した息子に、微笑みかけて。未亡人は、部屋を出る。
 しかし、その目は、笑ってはいなかった。


「申し訳ない。喪中のお宅に、非常識だとは判ってたが…」
 …乱暴者だと、聞いていたが。
 甘寧の態度は、それなりに、未亡人に対する敬意を表していて。ああは言ったものの多少不安であった彼女は、こっそりと胸をさすった。
「これを…届けに来た」
 何やら、大事そうに抱えていた包みを、ぶっきらぼうに差し出して、
「ご夫君が、亡くなる前に、江夏の銀細工師に注文なさった品だそうだ。」
 亡くなった当日にも、太守ともあろうものが、わざわざ自ら工房を訪ね、仕上がり具合を確かめていたという。
 よほど、大事な品なのだろうと、甘寧は言った。
 …銀細工?
 東呉でも名のある武将が、そんなものを、何故、わざわざ…
 恐縮する未亡人に向かい。
「報告にこっち来るついでが、あったから。いや、てし…部下が、その銀細工師と知り合いでな。金は貰っちまってるしどうしたものか困ってるって言うんで」
 用はそれだけだとあっさり帰ろうとする彼を、未亡人は、慌てて呼び止めた。
「お待ちください」
 驚いたように振り返った甘寧に。
「お伺いしたいことがございます」
 ぎくりと、甘寧の視線が泳いだ。
「噂は…、こちらにも、届いております」
 やはりという表情が浮かんだのは、…彼としても尋ねられるかもしれぬとは思っていたのか。
「お教えくださいませ。あの軍医は…、まことのことを言うておったのでは、ございませぬか」
 まっすぐに、甘寧を見つめて。
 夫は、慎重な人だった。卒中なりを起こしたにせよ、城壁の、そんな簡単に落ちるような場所を歩くとは、思えない…
 未亡人は、静かに、けれどしっかりした口調で、言った。
「夫は…、病を知って、自ら命を絶ったのではありませぬか…?」
 まっすぐな目が、じっと、甘寧を見つめる。
 一瞬、甘寧は、迷った。
 この女なら…、夫の身に何がふりかかったかを知っても、しっかりと受け止めることが出来るのではないか。病のことを知ったことで彼女が味わう苦悩より、それほど夫が自分たちを大事に思っていたという喜びの方が、はるかに大きいのではなかろうか。
 しかし。
 思い切って、口を開きかけたとき。甘寧の鋭い勘は、外で聞き耳を立てている者の存在を、察知した。
 息子か。娘か。いずれにしても…
 蔡のことが、頭を過ぎる。いつ自分も病になるかもしれぬと怯え、妻すらも娶らずにいる、彼のこと…。
 開きかけた口を、ぎゅっと、結び直して。無頼の匂いを漂わせた武人は、ゆっくりと首を左右に振った。
「違う」
 答えた声は、ぶっきらぼうだが、それはやさしい、やさしいもので。
「あの軍医は、確かに言った。劉備から金を受け取ったと」
 心で軍医に…そして程公に詫びながら。見つめる瞳をまっすぐ見返して。
 彼女にというより、外で聞いているだれかに向かって、甘寧はきっぱりと言い切った。
「そう…ですか」
 未亡人が初めて笑顔を見せた。とても柔らかい、優しい笑顔を。
「ありがとうございます…」
 その言葉は。甘寧には、こう、聞こえた。

 …ありがとうございます。嘘をつき通してくださって…  



 包みの中から出てきたのは、女物の、髪飾りが一式。
 嫁ぐ娘の為に、父親自ら、細工師に注文して誂えた品。珍しいことに山茶花を意匠にした、見事な細工。
「まあ…、何て、みごとな…」
 娘の瞳が、おおきく、見開かれた。
「おとうさまが、これを…、わたくしのために?」
 あの武骨な父親は、どんな思いでこれを誂えたのだろう。
 思うだけで胸が迫って、声を詰まらせた娘に向かい、母である未亡人はやさしく言った。
「その花はね…、山茶花は、私と父上の、想い出の花なのよ…」


 一緒になった頃は、あの人はまだ、ご主君ともども袁術の下にいて。暮らしも決して、楽ではなかった。
 縁あって一緒になったのだからとは思ったけれど、侍女のひとりも置けない暮らしは、それなりの家に育った私には辛いもので。こっそり涙を流す日も多かった。
 そんな、ある日。
 職務を終えて戻ったあの人の手にあった…、一枝の、白い、山茶花の花。
「どうなさったの?」
「いや…、今日、お館に伺候して…」
 庭に咲いていたのが、あんまり、綺麗に見えたから。柄にもなく、そんなことを言って。
 あの人は、私の髪にその花を飾った。
 今は、こんなものしかやれないけれど。いつか、出世して…、もっといい暮らしを、させてやるから。
 それまで辛抱してくれなと、家事で荒れた、私の手を取って…


「おとうさまが、そんなことを…?」
 あの、厳しかった父が、そんな優しいことを…。
 言葉をなくして俯いた娘に、母はやさしく肯いた。
「あの日、私が教えたのよ…、この花の、名前。それを、覚えていらしたのだわ…」
 遠い昔に、妻が名を教えた花を。嫁ぐ娘の髪飾りの意匠に、選んだ。
「おとうさま…」
 娘の頬を伝う涙を。母の指が、やさしく拭う。
「おとうさまは、私たちを、何より大事に思っていてくださった。それを、忘れないで…」
 泣きながら頷く娘を、あたたかく、抱きしめて…


 そう。
 あの人は、本当に優しい人だった。
 背負い込んだ病を知って、世間の目から私たちを守るため、自ら命を絶つ程に。





 かつてひとりの父がいた。

 愛する家族を守る為、命を捨てた父がいた。


 捨てたのひとことさえ、言わないで。