A.D.222 夷陵
足元に小さく赤い灯が見える。蜀漢軍の兵粮集積所だ。
今夜は、風ひとつない。夏の夜の甘い匂いと昼の名残の暑さが、全身に鬱陶しく絡みつく。
「目標はあの灯だ。号令に合わせて、一斉に火矢を射かける」
朱然の冷静な声が、最後の命令を発した。
「上手く行くでしょうか。こう風がなくては、燃え広がらないのでは…」
不安げに囁く兵に、
「なに、ここ数日晴天が続いたからな。大丈夫だ。」
朱然は落ち着いた声で答えた。
「あれが燃え上がったら、平地に降りて、蜀軍の退路を塞ぐぞ。一人でも多くの敵兵を倒せ。ただ、劉備にだけは手を出さぬように。いいな」
定められた時が、近づいていた。
「風がありゃあ最高なんすけどねえ。うまく燃えてくれるかなあ」
馬鞍山の麓。ひっそりと呉軍が動いている。その先頭で丁奉が、気がかりそうに囁いた。
「大丈夫。火攻めってのは、敵を混乱させるのが目的で、焼き殺そうってわけじゃないんだから。それくらいは燃えるさ。あとは、斬り込んで、暴れるだけだ」
楽しそうに、朱桓が言う。暴れたくてうずうずしているらしい。こういう人は好きだなと丁奉は思った。
「それより承淵、偵察に出たんだろ?厩はどっち側にあった?西?」
「いや、東南っす。…そっか、厩のある所を狙えば。馬って、火ィ嫌いですもんね」
「うん。馬が暴れたら、大混乱になるぜ。よし、全軍停止!」
朱桓がぴしっと号令をかけた。
「これより山麓に展開する。弩隊は、東南斜面。厩を狙え。炎があがったら、一斉に突っ込む。本隊を北側に追い落とすんだ。」
北側にある山の上では、駱統の軍が待ち受けている。山から逃げ下りた劉備軍本隊に彼らが逆落としに突っ込む段取りだ。その頃には、後詰めの呉軍本隊も到着するだろう。
…劉備さんとやら。もう、あんたの時代じゃねえんだよ。
闇の中。二人の将は目を見交わし、にっと不敵な笑みを浮かべた。
長江の上。
水軍の上陸を警戒してあたふたと障害物を並べる敵兵を、甘寧のふてぶてしい顔が、にんまりと眺めていた。
…てめえらの葬式の用意かよ。手回しのいいこった。おーお、あの乾いた材木。よく燃えそうじゃねえか。
水軍はもとより上陸する気はない。水夫以外は全て弓を携えている。
上陸する気配を見せ、蜀軍を牽制する。障害物を出してくれれば都合がよい。目的は、火矢を射かけ、相手を混乱させることだからだ。燃えるものは、多ければ多いほどよい。上陸に備えて兵を廻してくれれば、馬鞍山の本陣を衝く丁奉たちの仕事が楽になる。
要するに、今回の役どころは、陽動であった。
額に乱れかかる髪が、汗ではりつく。暑い。空気は、ぴくりとも動かない。
「風があると、嬉しいんだがな、子明」
亡き友がそこにいるかのように、甘寧は小声で呟いた。。
赤壁の時と同じ東南の風が吹けば、火は、一斉に燃え広がり、劉備の軍を地獄にたたき込むだろう。
…お前が乗っていったのも、東南の風だったよな。あの風を送ってくれると助かるんだがなあ。
「そろそろだな。火矢、用意しとけよ」
楽しげにすら聞こえる声で、低く命じて。獲物を狙う鷹の目が、鋭く光る。
・・・風だ。風を寄越せ、…子明!
「そろそろですな」
韓当の言葉に、陸遜がうなずいた。
東呉軍本隊は、夜陰に乗じ、ひそかに動き始めていた。今朝韓当がぶつかった平野の一万、まずはあれを血祭りにあげる。
全部隊は、もう、配置についた頃だ。
しかし、…今夜は風がなさすぎる。
「少し、風が欲しいですね。風で火が燃え広がれば、こちらの損害は僅少で済むのに」
「大都督は、贅沢ですな。なに、混乱さえしてくれればこっちのものだ。待たされた分、思いっきり暴れてやりますよ」
昼の疲れも見せず楽しげに言い放つ白髯の老将に、陸遜は、にやりと笑ってみせた。
「期待していますよ、義公どの」
陽気な笑みが返ってくる。
空にかかる月の傾きからして、もう、二更は、近い。
これで風が吹けば。東南の風が吹けば。東呉の勝利は、確定する。
…風が、欲しい・・・・・
そのとき。
いつかとおなじように。
かすかに。
ほんのかすかに、なにかが、うごいた。
得体の知れない衝動が陸遜の魂を揺さぶった。
その衝動の赴くまま。
両手を高く天に上げた彼は、声高らかに呼ばわった。
「我が江東の大地よ!我が呉会の海よ!」
「都…督?」
呆然とした韓当の目は見た。江東の王を、確かに見た。
その瞬間、陸遜…否、陸議、陸伯言は。紛れもなくこの地の王であった。
「我に勝利を!我に、汝の力を!」
東南の風を寄越せと。江東の王の朗々たる声が、遙か千里の彼方に命じ―――
その声に。
その命に。
天地が、感応した。
突然東南から湧き起こった風が、夷陵から白帝に至る長江沿いの渓谷に、一気に吹き込んだのである。
「今だ!」敵陣を見下ろして、朱然が叫んだ。
「行けーっ!!」馬鞍山の下で、丁奉が喚いた。
「火矢っ!」長江の上で、甘寧が怒鳴った。
幾千幾万の赤い光の雨が、一斉に、蜀漢軍に向かって降り注ぐ。
炎と、煙と、人馬の絶叫が、山に谺し、野に溢れた。
その喧噪を圧して、荒れ狂う波濤の響きのような声が、東呉の本隊に命を下す。
「全軍、進撃!」
力強くうち振られた王の手のもと、江東の健児たちが、蜀漢軍に殺到する。
一際高く掲げられた「陸」の旗が、逃げまどう敵兵の群れを、切り裂き、包み込み、そして・・・・・
馬鞍山山上。
老いた男は、自分の軍と自分の夢が、自分の拓いた時代もろともに、美しいほどの煌めきに灼きつくされて滅び去るのを、見た。
どうだ、子明。
俺は約束を守ったぜ。
お前の大事な孫家の呉、俺らがきっちり守ってやったぜ。
なあ。だから、いいだろ、もう・・・・・
…知ってっか?西域にはよ、血の色をした酒があんだよ。お前に似合いの酒だ。夜光の杯ってえ透き通ったヤツがあんだけどよ、あれに入れるとそりゃあ綺麗だぜ。
…へええ。そらあ一回拝んでみてえな。
…おう。そのうち西とも交易やれるようになるだろから、思う存分呑ませてやるよ。蔵一杯仕入れてな!
葡萄の美酒、夜光の杯。波の上には白い月。傍らに美姫を侍らせて、遙かな国の楽を聴き。
そこは・・・・・
「次の戦が終わったら、俺は、東呉を去る」
海の見える崖の上。
松籟に袖をはためかせ、男は静かに彼を見た。唐突に切り出された言葉にも、僅かに眉を上げただけで。
「魯子敬が、西の国には、俺に似合う血の色の酒があると言った。そいつを飲みに行く」
「海に…ゆかれる…?」
「ああ。ちいと、江の窮まる処っつうのを見てみたくなってよ。交州の商人にはもう、渡りをつけた」
男が、ゆったりと微笑んだ。
葡萄の美酒、夜光の盃、波の上には白い月。傍らに美姫を侍らせて、はるかな国の楽を聞き。
「止めねえのか?」
「似合いますよ、その方が。貴方には。」
「そうか」
唇を緩めた甘寧はしかし、物言いたげな顔になった。何を言いたいのか、男には判る。
「子明殿だって、そう仰有いますよ。大丈夫です。…約束はもう、十分に果たしてくださいました」
…テメエの大事な孫家の呉は、この甘興覇が守ってやる。それで文句ねえなっ!
「そう思ってくれるか」
甘寧が小さく溜息をつき、今度こそ本当に笑みを浮かべた。
「俺もまあ、そうは思ったのよ。けど、あんたに言って貰えるとやっぱ、安心だわ。何つっても…」
俺らが戦ってきた本当の敵は、あんたがあの世に送ってやったんだからな。
「…そう、ですね・・・・・」
男はそっと目を伏せた。
この、江東の、真の敵。内部からこの国を噛み裂いていたもの。それは…
「魯子敬が言ってたんだ。この国を駄目にしたのは、孫伯符の見せた夢だ、ってな」
「ええ」
確かにそれはその通りだ。孫策が命を落として二十年…、その間ずっと、この国は、彼の見せた夢に苦しめられてきた。
「それがなきゃあ、孫仲謀だって、あいつが望んだ通り、西方との交易にもっと本腰入れてたかもしれねえ。あいつの言う海の王になってたかも…」
ふと、甘寧が言葉を切った。
「だが、なあ」
眼下に、碧。広がる、碧。
水平線の彼方まで、一面の碧がうねっている。秋の陽射しが、戯れるように、様々な模様を描いては崩れる。
「俺はあんたの方が似合いだと思ったんだが」
「私?」
「そうよ。…てかあんた、なんでこの国を獲らなかったんだ?やろうと思えばいつでも出来たんだろうに」
実際陸家の力添えがなければ、孫家は江東を維持出来ないのだから。
松籟。
男は僅かに顔を背けた。
視線の先に、海。呉郡の海。
逸らしたその視線がもう一度、自分の上に戻ってきた時。
「…それしかないかと、覚悟したことはあった。二度。孫策が死んだ時と、逍遙津の戦いの後。」
甘興覇は東呉の王を見た。
「孫家が江東を纏めきれぬというのなら、我らがとってかわるしかないと思った。内乱が避けられぬならせめて泥仕合にならぬよう、陸家の名を以て一気に江東を抑えるしかない、と」
我らは陸家、この江東を護る者。
「決して、進んでそうしたかった訳ではないが…」
我が大地を我が海を、我が民の血で穢すことだけは、陸家の総帥として見過ごす訳にはゆかぬ。内乱の泥沼だけは避け通す。どんな手段を使ってもこの江東を護りぬく。
その為に、私は在る。
「いよいよとなれば孫家を滅ぼす覚悟だったと?」
細い眼を瞠って、甘寧は言い。
「そうだ」
王はきっぱりと頷いた。
「もちろんそれは最後の手段だが…、いざとなれば私がそうするとよくご存じだったあの方は、だから、あんなに必死に、策を・・・・・」
骨身を削るようにして。病んだ我が身を省みず。泥は全て自分が被る覚悟で。
…俺は嫌だ。殿と伯言が殺し合うのは嫌だ。俺が育ててきた兵たちが、仲間の誰かに向けられるのも嫌だ。
…俺は、みんな、好きだから。みんなにしあわせでいてほしいから。
潮の香りと松籟の彼方に、微かに響いた、遠い谺。
さながら今日の空の如く、澄んだあかるい色をして。
その谺があかるさを失った夜の記憶が、王の脳裏に蘇る。
あのおおきな瞳が歪みあのあかるい声が震え、弱々しく色を失った唇が、途切れがちな言葉を紡いだ夜を。
…俺、ひめさまのこと、だいじだったんだ。ちっちゃいころから…ずっと、見てて…、ひめさまも、よく、懐いてくれて。
…そのひとを。…そのひとの命を。奪ってまで動かした策なのに。もう策は動き始めているのに。
…俺、最後までやるつもりだったのに。…劉備討つとこまで、俺が。なのに。俺、は・・・・・
「あの方にあんな顔をされたらもう、叛乱など出来ぬ。ああまで我らを思っておられるあの方に」
谺に王が微笑み返した。半ば苦笑に似た微笑みを。
「堪らなくなって…、勢いで約束してしまった。どんなにしてもあなたの策、成功させてやると」
…我らがおります!劉備に東呉の地は踏ませません!何としてでも止めてみせます!
「勢いって…」
「勢いだ」
王は今度こそ苦笑した。しかし。
「まあ、結果、江東の真の敵が倒せたのだし、己の国を護り通せたのだから、私は満足だが」
爽やかに続けた江東の王の豊かな声に陰はない。
「そうか」
そうかと甘寧は繰り返した。言葉の重さを噛みしめながら。
「やっぱり俺アあんたに仕えてみたかったぜ」
海の王よ。
二人の男は肩を並べて、果てなく続く碧を眺めた。
彼らの全てを見つめてきた江の水が、最後の最後に行き着く処。…水の、窮まる処。
「…やり遂げたな」
亡霊の夢は遂に祓われた。この江東は今度こそ、孫権の下一つに纏まるだろう。
王は肯いて笑みを浮かべた。心の底まで沁み通るような笑みを。
そう。
あの日。夷陵で。
「私は、小覇王に、勝った」
松籟が頭上を越えてゆく。果てなく続く碧の彼方へ。
血の色の酒が手に入ったらこっちにも是非分けてくれ。王が豪華に笑って言った。
おうよと甘寧もいい顔で笑った。
葡萄の美酒、夜光の杯。波の上には白い月。傍らに美姫を侍らせて、遙かな国の楽を聴き。
其処は。
水の窮まる処。