「ならぬと仰せですかっ!」
目の前にずらりと、顔、顔、顔。復仇の兵を挙げよ孫策を討て。口いっぱいに喚く赤鬼のような顔。
「何故に!孫策は貴方にとっては義父上の仇でございましょうっ!なのに」
「それは、私情です」
私の声を打ち消すように響いた怒りの叫び。陸家の邸の広間を揺るがす程に。
私は懸命に声を高めた。心で祈った。ちちうえと祈った。
「私情で戦を起こすことは、亡き養父上もお望みになりますまい!」
ちちうえ、ちちうえ、お助けください。夢中だった。必死だった。
義父上の名を出したことで、族人たちが少しは静まった。私はほっと息をついた。とりあえずもう、絶叫せずともよい。
「しかし…」
「匹夫野人ではない、我らは陸家。まず、揚州のことを第一に考えよ。それが、養父上が口癖のように仰有っていたことでした」
そうだろう。そうではないか。
我らは陸家。この江東を護る者。
江東の地は我らの地。呉会の海は我らの海。そうしてそこに住む民は。
「陸家と孫家の争いとなれば、この揚州は、どうなるか。今、我らが孫策を恨みに思うのと同じように、孫家の人々も我らを恨むことでしょう。」
私の民だ。陸家の民だ。別の家の配下にあろうとも、江東の民は全て、この陸家総帥・陸議の民だ!
「この揚州を恨みの渦巻く地にすることは、養父上のお望みになるところではございますまい。」
私の民が私の民を恨む。私の民が私の民を殺す。いやだ。いやだ。それだけはいやだ。
「しかし、伯言どの!」
「それに貴方もご存じでしょう、徐州がどうなったか」
仇討ちを叫んで乗り込んで来た曹操の軍が、徐州の民に何をしたか。
「感情のままに兵を動かせば、思いも寄らぬことが起こる。この揚州がああなったらどうなさる?」
ちちうえ、ちちうえ、お助けください。どうかお力をお貸し下さい。
「ちちうえ」とは義父上なのか、顔も覚えていない実の父上なのか。それとも何かその上にいる、大いなるもののことなのか。
判らぬままに私は呼んだ。必死に心で呼びかけた。
ちちうえ、ちちうえ、お助けください。どうかこの議にお力を。
守りたいのです。穢したくないのです。私の国を私の海を私の民を。
誰にも殺させたくないのです。誰も死なせたくないのです。なにもかもみんな、だいじなのです。ぜんぶ、だいすきなのです。
ですから、どうか、どうか、どうか。
どうか、私に、力を!
「陸家の総帥として、申します」
あの時あの力はどこから湧いてきたのだろう。皆を承伏させたあの力は。
今でも私には判らない・・・・・
「復仇は、ならぬ!」
・・・・・わたしはじゅうにさいだった。
A.D.222 夷陵
「総帥」
此処では大都督であろうと、窘めるべきなのは判っていたが。
あえてそう呼びかけてきた理由が痛いほど判るから、言われた彼もあえて咎めなかった。
「いよいよでございますな」
「ああ、…いよいよだ」
この江東から出た者が、項王のように、今一度天下を窺う。…今は亡き小覇王が見せた夢。
その夢あったがゆえに、漢が衰えた時、江東は一つに纏まることが出来ず。地力を養うべき時に、無駄な戦で勢力を削ぎ。
その夢に喰われて周公瑾は死に。その夢に抗って魯子敬は斃れ。
だが、今やっと、時が来たのだ。江東の小覇王と戦う時が。
疾風のようにこの江東を席巻した、孫策という魔物と戦う時が。
陸家にとっては先の総帥の仇。そうして。
…この、江東の、真の敵。
「私の国だ。私が守る。」
言い切って総帥は歩を進めた。これが最後となる軍議の場へ。
子明殿。
お約束は守ります。
我ら陸家は総力を挙げて、あなたの策を成功させます。
あなたが「好き」だった「みんな」の国は、我ら陸家が護ってみせます。
ですから…どうか―――
軍議に出ればあの小憎たらしい丁奉めの顔を見なければならない。
韓当の機嫌は非常に悪かった。
じゃかあしいだの耄碌したのかだの、よくもよくもこの韓義公にあれだけの大口を叩けたものだと思う。
…俺が生まれる前に死んだヤツのことばっかり言いやがってだと?儂はお前が生まれる前から戦場に出てたんだ、馬鹿にするな!
けれど。あの時、彼は言った。
「時代が変わるってことも知らねえのかよ!」と。それは。
…時代ってエのは変わるもんよ。いや、俺らのこの手で変えてやるのよ!
もう、久しく思い出しもしなかったが。…あの言葉は、遠い、むかしに・・・・・
晴れぬ思いを抱えたまま。拱手して迎えた大都督。
…え?
いつもと同じきびきびした足取り。いつもと同じ端正な横顔。だが、何かが違う。
この不思議な威厳のようなものは何なのか。この吸い込まれるような感覚は何なのか。
皆も同じ思いであるらしい。場に、ぴりりと緊張が走る。
大都督は、畏怖すら感じさせる目で、さっと一同を見回し、静かに言った。
「只今より、反攻に移る」
その瞬間背骨を駆け上がった訳のわからぬ感覚を、何と呼んだらよいのだろう。
…この、感覚。
甘寧が。朱然が。徐盛が。朱桓が。歴戦の武将達が気をのまれたように、まじまじと大都督を見つめている。
ああそうだお前らは知るまい。この感覚。この高揚感。
儂は知っている。この感覚を知っている。伯符さまの頃?いや、もっと前。
そう、徳謀がいた。公覆もいた・・・・・
目が無意識にかつての戦友を捜しているのに気づき、韓当は唇を引き締めた。白昼夢に耽っている場合ではない。だが。
そうしている間にも、力強く豊かな声は、てきぱきと配置を告げてゆく。
朱然と徐盛は別働隊を率い、山岳地帯を迂回、蜀軍の補給線を断つ。朱桓と丁奉は、馬鞍山上の、劉備本隊に攻撃を仕掛ける。
山の民の部隊は、駱統に任せる。蜀軍が逃走に移るのを見計らって、山側からその側面を衝け。
孫桓は夷道に下がり、そこの防衛に当たる。長引く滞陣に堪えきれなくなったのか、蜀漢軍の一部が、西岸からこちらの背後を衝くいう動きを見せているからだ。
甘寧率いる全水軍は、長江を遡り、陽動として上陸の構えを見せる。
「ただし劉備だけは親衛隊をつけて逃がしてやってください。魏と対抗してゆくためには蜀漢に滅亡して貰っては困るので。」
余裕の笑みすら浮かべながら、大都督はきっぱりと言い切った。反論する気も起こらぬ迫力で。
そして。
「義公殿には、歴戦のあなたでなければできない任務を、お願いしたい」
ぞくり。
目が合った途端韓当の全身が震えた。
「3日後の払暁から、あなたの手勢で、敵陣に攻撃を掛けていただく」
「それは…」
流石に韓当が青ざめる。まさか自分に死ねというのか?
「敵を油断させるための策です。東呉がいよいよ反攻に出たが、大したことはないと思わせる。そうすれば、彼らは、夜襲を警戒することもないでしょう。適当なところで諦めたように見せかけて、本陣に戻ってくださればそれでよい。もちろん危険はありますが、なればこそ…、戦場の呼吸をよくよく心得たあなた以外の誰にも、そんな芸当はお任せ出来ない」
強い調子で投げかけられた言葉に、老いた血管を流れる武人の血が、炎のように沸き返る。
「やっていただけますね?」
「おう!やってやろうではないか!」
どこからともなく湧き出る自信に任せ、韓当はしっかりとうなずいた。
陸遜の口元が満足げに緩む。
もう一度皆を見回して、豊かな声は高らかに告げた。
「これは、時代を変える戦だ。東呉のために、どうしても必要な戦だ。そして我らは、必ず」
勝つ、と。
きっぱりと言い切られたその言葉に。
目も眩むような思いとともに、懐かしい思い出が溢れ出した。
…時代ってエのは変わるもんよ。いや、俺らのこの手で変えてやるのよ!
時代を変える。この手で変える。自分と、徳謀と、公覆と、…そして、もう一人。
どうして忘れていられたのか。あのひとを…儂らの「大将」を。
そうだあのひともこうだった。日輪のように眩しかった。…まあ、こう、色々とめちゃめちゃではあったが…、けれど一緒にいるだけで、やる気と自信だけは溢れてきた。
なつかしいその男より、この男の意志はさらに強い。あの男にはどこか間の抜けたところがあったが、この男には隙がない。
いける。勝てる。勝てぬはずがあるか!我らに出来ぬことなど、あるはずがない!
「攻撃開始は、3日後の夜。敵陣に、一斉に、火攻めをかける。」
我らは、勝つ。
諸将が一斉に拱手した。
…うん、いけるよ。大丈夫だよ。
…赤壁のとき公覆どのも言ってたろ? みんなのために一生懸命考えてすることには、きっと、ご先祖さまの加護がある、って。
…大丈夫だから。信じて、いいから。
…明けない夜なんて、ないから!
一日目。
朱然と徐盛に率いられた別働隊が、密かに北上を開始した。
二日目。
深夜。甘寧の東呉水軍が、遡上を開始した。
三日目。
払暁。韓当の軍が、平野部に突出した劉備軍に、攻撃を仕掛けた。
すわ、反攻か。
五千と一万一千が、荊州の平野で、激突した・・・
退却の鐘が鳴っている。
韓当の軍が戻ってきた。流石にかなり痩せたようだが、陣形を保ち、整然と。
流石だ…が、敵の騎馬隊がしつこい。
「弩兵!一斉に射かけろ!馬を狙え!」
最後まで追いすがってきた連中を、呉軍の弩の斉射が襲う。
「韓将軍!韓将軍はご無事か!」
退いてゆく騎馬隊には目もくれず、白い髭面を必死に探す。あの老将軍は?義公殿は?…いた!
「義公殿ー!」
「伯言殿!」
元気に手を振る老将の姿に、やっと浮かんだ安堵の笑み。
「義公どの!お怪我は?」
韓当は、肩で息をしながらも、笑みを浮かべて首を振った。白い髯が、返り血に赤い。
「お見事でした。さあ、とりあえず、一息入れてください」
「年寄り扱いなさるな!腕など借りずとも…」
借りずに勢いよく馬から飛び降りたはいいが、…顔を顰めて抑えた腰。見なかったことにしてあげようと、陸遜が笑いを噛み殺す。
「これで、役目は果たせましたかな」
掠れた声で、それでも、胸を張る彼に、豪華な笑顔で酬いてやって。
「ええ、お見事でした。見事に敵を騙してきてくださった。これで、今夜の夜襲はきっと、上手く行きます。」
まだ息の荒い肩をぽんぽんと叩く。…本当に、見事だった。
「興覇が巧く連携を取ってくれたからな。正直、劉備の本隊が出てきたら死ぬなあと思うておったが、奴が上陸の構えを見せていたので用心したらしい。助かった」
「いえ!流石だと思いましたよ。長年戦場に出ておられるだけのことはある」
褒められた韓当が嬉しそうに笑う。
緒戦は勝ったと、陸遜は思った。
気難しいこの老将が、軍議が始まって以来一度も、孫策の名を口にしてはいない。
やっと彼の心から小覇王の幻を拭い去ることが出来たのだ。
さあ。この調子で、次は・・・・・
「都督!夷道の孫安東将軍から、連絡が。胡班ひきいる蜀軍一万が、夷道を囲んだと」
「やはりそう来たか」
陸遜が不敵な笑みを浮かべた。
「…どうなさる。救援に行かなくてよろしいのか」
案じ顔の韓当の言葉にも、その笑みは消えない。
「下手に兵を廻して本隊を殲滅し損なったら、その方が余程危ない。孫将軍なら、一日くらい楽に持ちこたえてくださる」
「一日?」
「ええ、一日です。明日の今頃までには本隊を殲滅してしまいますから。それで別働隊も消滅する筈です」
陸遜はきっぱりと言い切った。
「殲滅…?」
それは、ただの勝利ではなく。
一兵たりとも逃さぬという宣言で・・・・・
「ええ、殲滅です」
…子明殿!
「劉備の軍に東呉の地は、一歩たりとも踏ませはしません!」
知らず、陸遜は祈っていた。
十二歳であったあの日のように。
あの方との約束を果たしたい。
守りたい。穢したくない。私の国、私の海、私の民。
どうしても。どんなことをしても。全てを失っても。…命に、換えても。
我が大地よ。我が海よ。…ちちうえ。ちちうえ。ちちうえ!
どうか、どうか、どうか、どうか。
―――どうか、私に、力を!
「全て予定通りに。今夜、二更」
…だって、ぜんぶ、だいすきですから。