A.D.221 夷道
「あなたが投降者を独断で処分した件についてなのですが・・・・・」
慎重に言葉を選びながら、陸遜は静かに切り出した。
東呉水軍にその人ありと知られた猛将は、険悪な目でこちらをすくいあげるように睨んでいる。話の中身は判っていると言いたげな顔だ。
投降者を独断で処分した件。
先だって、当初からの呂蒙の策に沿って、張飛に刺客を差し向けた。魏が動けぬ間に確実に劉備を引きずり出す為である。
刺客は張飛の部下に紛れ込み、首尾良く使命を果たしてのけ、そのまま東呉に逃げ帰って来た。手柄にこそなれ処分される謂われはない…筈、なのだが。
益州出身の甘寧を名指して投降した刺客は、あろうことか甘寧に斬り殺された。
うちが送った刺客ではないか何を考えていると張昭に怒鳴られた甘寧は、刺客送るなんざ聞いてねえこれは子明の策だろがあの阿蒙にそんな洒落た真似思いつく頭があるなんざ誰が考えるってんだと怒鳴り返したらしい。俺ア人もあろうに上官殺して逃げるようなヤツは嫌いなんだよ、とも。
確かにこれは秘策で漏れては話にならないから、一部の者しか知らぬことであったが。
…子明殿と親しかった興覇殿なら、聞いておられそうなものなのに。
結局睨み合う二人の間に入ったのが孫権で、投降者があるだろうと周知していなかった自分が至らなかった、これは自分の責任である、甘寧に罪はないということで場を収めた。次第を報告してきた張昭の文は、まだ冷めやらぬ怒りの勢いで書かれたとみえて、相当に文字が荒れていたけれど。
「丁承淵。あなたの所から来た。彼を見ていて、あなたがどんな将なのか、だいたい判るような気がするのです。」
理不尽な上の者には反抗するかもしれない。特に自分の方が正しいと信じている場合は譲らないだろう。下の者にはむしろ手厚く、己の出世やまして政治向きのことには全く関心がない。
「上官殺して逃げるようなヤツは嫌いだからなどという理由で、安易に人の命を奪うようなことをなさる方とはとても思えません。」
言われた甘寧がなにやら居心地の悪そうな顔をした。
「失礼ながら、あなたがなさりそうなことといえば、その手のややこしいことは面倒だとばかりに、張飛の首ごとさっさと誰かに押しつけることです。違いますか」
どうやら違わなかったらしい。甘寧の唇がへの字に歪んだ。
「何故、殺したのです」
睨みつけてくる目。喧嘩でも売っているような目。だが、陸遜は言葉を続ける。
「前にもこんなことがありましたね。子明殿の家で、料理人を殺したという。劉備軍の刺客だとあなたが見分けた、そう聞きましたが」
「あア?」
その話を持ち出されるとは思っていなかったのか。甘寧の眉が釣り上がった。
「今更何を言い出すんだ?今そんなこたア関係ねえだろ?」
喰ってかかられたところで、陸遜は動じない。
凄んで見せることで自分の動揺を隠す…、彼はそうやって生きてきた男なのだから。むしろ自分の考えは当たっているのだ。自信を持って陸遜は尋ねた。
「どうやって見分けたんです」
はっきりと甘寧が動揺を見せる。
「その場で訊問して…とは考えにくいですよね。仮にも刺客である者が、そう簡単に尻尾を出すかどうか。それに子明殿は『見分けた』と仰有いました。ならば…」
そう、あの瞳は…あの澄んだおおきな瞳は、嘘というものがつけなかった。彼が「見分けた」と言った以上、それは文字通り「見分けた」のだ。「気付いた」のでも「突き止めた」のでもないのだ。
やはり自分の推測は正しいのだ。硬直してしまった甘寧を見据え、陸遜は自信を持って続けた。
「職業的な暗殺者の集団がいて、彼らの間には、何か、仲間を見分ける印のようなものがある。それを知っていたあなたは見ただけでそれが刺客だと判った。そうでしょう?」
この沈黙は否定ではない。内心で頷き、さらに続ける。
「今回もそうだったのでは・・・・・」
「判ってんなら聞くな!」
開き直った凄みのある声が、陸遜の言葉を遮った。
「ああそうだよ。陣に乗り込んで来た時、ウチの荒くれ共がちいと手荒な迎え方したんで、俺の前に来た時アいささか着衣ってヤツが乱れてた」
やけくそのように、甘寧が言う。
「頭下げたとこで、見えたんだよ、衿から背中が。貝殻骨ンとこまでな。そこんとこに印があったんだ」
子明の時のことがあったから、また蜀漢の刺客が来やがったと思った。だから斬った。印を確認しなかったもうひとりも合わせて、二人とも・・・・・
「張飛の首持って来たヤツだったてえのは、その後荷物調べて気付いたのよ。後先になったのが悪いてエなら謝るが…」
「どんな印か、教えてください」
今度遮ったのは、陸遜の方。甘寧の目が鋭さを増した。
「…聞いてどうしようってんだ」
警戒しているのがありありと判る。何故だろうと陸遜はちらりと思った。だが、ここで引き下がる訳にはゆかない。
「大切なことなのです、興覇どの。こちらが差し向けた刺客は一人だった。投降者は一人…、その印のない方だけの筈だったんです」
甘寧が、眉を寄せた。
「もう一人の・・・その印のあるほうは、恐らく、蜀漢の放った刺客でしょう。東呉に走った片方を追ってきて、言葉巧みに同道したに違いありません。こたびの刺客は何をする暇もなくあなたに殺されましたが…」
「あ」
「相手がまた同じ手を使ってこないとも限らないではありませんか」
甘寧は顔色を変え、ぐっと唇を噛んだ。そうだ。この男ならとうに気付いていておかしくなかった筈。表には出さなかったが、余程に動揺していたのだろう。
「そうだな。確かに…孫仲謀が危ねえ、か」
今、彼に万一のことがあったら。
後継と目される孫登はまだ幼い。この非常時に国を背負ってゆけるわけがない。今孫権が倒れるようなことがあれば、孫家の呉自体が瓦解してしまう。
「興覇殿、どうか、教えてください。この国の為なのです」
何かを言いかけた甘寧が、ふと、口を噤んだ。その目がふらりと遠くを見る。
「そう…だな。俺は…約束したし・・・・・」
いきなり衿をくつろげた甘寧に、陸遜はぎょっと目を瞠った。
「驚くなよ。見てえんだろが。ほれ、これだ。自分の目で確かめな」
脱いだ右肩。赤銅色の皮膚。命あるもののように踊る、青い龍。
節くれ立った指が示したのは、青い鱗の一点。その気で見なければ判らないが、それは・・・・・
…し…刺客って…なに…
戸惑い震えていたおおきな瞳。あの瞳には見せられなかった、闇に巣喰う者の印。
青い、五芒星。
世が乱れ始めたその当初。
益州を押さえた劉焉は、ひとつの村を作った。
暗殺者を養成するための村を。
「捨て子だった俺アその村で育てられたんだ」
人殺しの術だけを、教えられて。
「蜀漢が今でもあれを使ってやがるかが気になるんだろうが、あれ自体はもうねえんじゃねえか」
普通、抜けた奴には追っ手がかかるんだが、俺ン所には結局来なかった。あの後すぐ劉焉が死んで・・・あれも、そこで終わったんだろう。
「だから俺と同じようにそこで育った奴が、たまたま二回続けて差し向けられたってだけじゃねえか。あそこには、人殺しが楽しくなっちまった奴がいっぱいいたから、まあ、好んで引き受けもするからだろが、この印だけで見分けようってえのは甘いかも・・・・・」
しかし陸遜は反応しない。甘寧はぐっと顔を顰めた。
蔑まれるだろう、人道に外れた奴と罵倒されるだろう、最悪国から追い出されるだろう。思いながらも腹を括って打ち明けたというのに、まともに聞いてないのか聞く気がないのか。
「おい!聞いてんのかよ大都督!」
なに呆けてやがんだ聞く気はあるのか。そう、怒鳴ってやろうとしたのに。
当の陸遜は、何かに打たれたかのように、呆然と宙を見据えていて。
「おい…、伯言さんよ?」
これはまさか卒中でも起こしたかと心配になったところで。震える声が漸く答えた。
「起きた…本当に・・・・・」
「は?」
何のことかと、甘寧は思った。
「俺が起こすと仰有ったんですよね?起こしてみせると。…本当に起きた」
「起きたって、何・・・・・」
「奇跡ですよ!」
畏敬の念に打たれた声が、震えを帯びて跳ね上がる。
「子明殿は仰有ったんでしょう?逍遙津のあとで。奇跡が要るなら俺が起こすと!起きたではありませんか!」
「起きた、って、…これは、別に…、そんな大層なモンじゃ…」
「偶然?これだけ偶然が重なるなんてことがあり得るんですか?刺客を見分けるべき時に見分ける能力を持った人材がいて刺客の来る場所にきっちり居合わせる。そんな都合のいい偶然、物語の世界にだって…」
「いや、刺客を育ててた場所が益州なんだから、益州の刺客として雇われるのはまあ普通じゃね?で、だからこっち来るにしても益州出身の俺ンとこ来たってだけの話…」
「料理番の時は違ったでしょう!」
それは、…まあ。確かにそうだが。
「一度なら偶然かもしれません。でも、二度ですよ?二度同じことが繰り返されたんです!これが奇跡でなくて何です!」
「あのな…」
「あなたは正しかった」
あっけに取られる甘寧の手を掴んで、陸遜は叫ぶように言った。
「あなたの仰有った通り!子明殿は今も生きておられる!生きて、この策を動かしておられる!」
「・・・・・。」
最初からあいつはこの世のモンじゃねえんだ。
あいつは生きてる。生きててめえの策動かしてやがる。「みんな」の為に練った策をな。「だって、俺、みんな、好きだから」な。
判るな。あいつは死んじゃあいねえんだ。な・・・・・
護っているのだ。あの瞳は、今も。
彼が「好き」だった「みんな」の国を。
「だいたいあなたが此処にいらっしゃるということが…、あなたを東呉に招いたのはあの方でしょう?」
「うー、まあ、そうとも言うが…」
釈然としない顔で甘寧が呟いた。
「妓楼の入り口で酔い潰れてたヤツ踏んづけたのが奇跡か?」
「え、そうだったんですか?」
「ああ。それで介抱してやったのがまあ、きっかけなんだが・・・・・」
あれを奇跡と言われてもなあと甘寧が呟き、陸遜の表情も少し緩む。
「それでも奇跡ですよ。私はそう思います。考えてみれば、あの方がそこにいらしたこと自体がそうかもしれません。子明殿は、本来孫家に仕えるような立場の方ではなかった。」
「ああ、どこだ…富坡?小作の出で腹一杯喰ってなかったからちまいんだっていつも笑ってたが…」
「ええ。因業な庄屋に村を追い出されなかったなら、江を渡ってくる筈もない方でした」
父親が病に倒れなかったら。姉が孫策の部将のひとりに見初められ嫁いでいなかったら。恐らく彼は富坡で土地を耕して生涯を終えた筈だった…
「天使の梯子」
ぽつり。
溜息のように、陸遜は言った。
「…梯子?なんだそりゃ」
甘寧は怪訝な顔をしたが。
「いつでしたか、お話しましたでしょう。子明殿を、呉までご案内したのが、うちの族人で・・・・・」
「ああ」
その話は確かに聞いた。いよいよ東呉に仕えるとなった時、総帥に話を通さなきゃならねえと言い出した、陸家の族人が手下にいて・・・・・
「あんたと初めて会った時だな」
「ええ。『天使の梯子』というのは、その族人の話に出てくるのですよ。西方の、猶太(ユダヤ)という民の神話では、雲の切れ目から差し出る光をそう呼ぶのだそうです。その光を通って、天使たちが登ったり降りたりすると…」
垂れ込めた雲。ひび割れたような筋。
白く続く道の上に降り注いだ光。
夕映えの色を仄かに乗せて、天と地とを繋ぐように。
光に照らされた道の先で、手を振っていた小柄な少年。
「子明か」
「はい」
一瞬誰もが思ったのだという。天使が天下ったと思ったのだという。
「あの方は、本当にそうであったのではないかと。この世のものではなかったのではないかと…」
何の寝言だ馬鹿馬鹿しいと、言おうとして言い切れなかったのは。
それは甘寧自身が、それにあの勘のいい丁奉が、折に触れ感じていたことだったから。
「そんなあの方に張り合おうとしても、最初から無理な話でした」
ふっと笑って、肩を竦めて。どこか力の抜けた口調が言った。
「張り合う?」
なんでと、甘寧は思った。豪族の家に生まれ、容姿にも体格にも頭脳にも恵まれた彼が、なんでまた小作あがりのあの貧相で一つ策を練るたびにうんうん言っていた男と「張り合う」などと言わねばならぬのか。
「ええ。…ずっと、口惜しかったのです。私はとてもあの方に及ばないということが」
子明殿は、及ぶ及ばないの話じゃない、ただ俺たちは違うってだけだと言ってくれたけれど。
「そうでしょう?軍議ひとつ開いても、私にはあの方のように皆の心は獲れない」
「あー・・・・・」
今日の軍議で感じた違和感を、甘寧は思い出した。
「あの方の策を私が成功させるんだと、気負いすぎていたのかもしれませんね。」
所詮私はただの人。奇跡など、到底起こせはしないのに・・・・・
何となく、違和感の正体が掴めたような気がした。
「いやあ、あんたも捨てたもんじゃねえと俺は思ったがな」
呂蒙にはなかったものが彼にはある。その代わり、呂蒙にあったものがない。それは。
「言われて気付いたが、まあ、立場が違うわな。…これはそもそもはあんたが考えた策じゃなねえ、元を正せば子明の策だ」
「ええ。ですから余計、成功させなければと…」
「そこんとこよ」
策を成功させねばと必死になるあまり、策そのものにばかり目が行って。
「命令聞いてるひとりひとりがきっちり見えてなかった。…そういうことじゃねえか?」
例えば、朱然への対応にしても。
「義封が文珪は大丈夫かって言い出した時もよ…、ほれ、関羽追っかけてった時、あいつ、文珪と組んでたんじゃなかったか?」
「え?ええ」
「あらあ、あんたや策に文句言いたかったわけじゃなくて、本気で、一緒に命張った仲間の心配してたんだぜ。文珪んとこの兵の顔だってあいつ知ってるわけで…、多少の損害は仕方ねえなんて言い方されちゃあ、そら、判ってねえなって顔にもなるだろよ」
「あ・・・・・」
「子明の野郎はとにかく『みんな好き』だったからな、自然に言葉選んでた。どんなヤツでもにこにこ受け入れてたしな。だからあれだ、俺らも、こいつの為にやってやらにゃあってえ気になったんだ」
そう。呂子明という、馬鹿の為に。
「あんたは及ばねえんじゃねえ、逆だ。寧ろ及び過ぎてんだよ」
「はあ」
「過ぎたるは猶及ばざるがごとしって誰か言ってなかったか?そういうこった。俺なんかいなくてもお前さんひとりでどうにか出来んじゃねえか、しくじったらクソミソに言われんじゃねえかって…、いや、言わねえとは思うけどよ?なんか、こう、構えちまうんだよ。こっちがよ」
「そう言われても…」
子明くらい抜けてるヤツの方が安心出来るんだと言われ、陸遜が思わず苦笑した。
「抜けてる…ですか」
「おう。自分だって完璧じゃねえんだから、少々のことは大目に見て受け入れてくれるだろ、みてえな…、あ」
そうだ。受け入れるといえば。
「そういや、いいのか?」
「はい?」
「あんた、…いいのか?このまま俺に水軍任せて」
「は?」
きょとんとした目で見つめられ、言い出した甘寧が困惑した。
「いや、その…、あんた、暗殺者あがりの将でも何にも言わなかったがと思ってよ・・・・・」
そんな男に水軍任せていいのかと言われ。
「ああ」
ぱちぱち。
音の出そうな瞬きをした陸遜が、いい顔で笑った。
「そんな昔のこと。…それに、それだって奇跡の一部じゃありませんか」
「奇跡の…一部…」
「そうですとも」
もし甘寧がその村で育ったのでなかったら。刺客を見分けることなど出来なかった筈で。
ならば、料理番が毒を盛ろうとしたその日が、呂蒙の命日になっていた筈で。
呂蒙がそこで斃れていれば、関羽を討とうなどという話にはならなかった筈で。
そうなれば、…今頃、この国は・・・・・
「奇跡、なんです。何もかも。あなたがそこで育ったことも、あなたがここにいることも」
天の使いが起こした奇跡の一部なんですよ。
「俺が…、奇跡・・・・・・」
興覇、と。
あのなつかしいあかるいいろの声が、どこかで自分の名を呼んだ気がした。
「錦帆賊の甘興覇が、奇跡…?」
「ええ。妓楼の入り口で酔い潰れてたところを踏まれた人が起こした奇跡の一部です」
「ぶ」
見合わせた顔。はじけた笑い声。
「確かに、あいつの起こす奇跡なら、それくらい間が抜けてても不思議はねえが…、そうか」
まだ半分笑った顔のまま、かみしめるように甘寧は言った。
「…そういうことか」
そうだよ。そういうことだよ。
これで全部、よかったんだよ。な?
およそ邪気のないおおきな瞳が、どこか遠くでにこにこ笑う。
「あンの、阿蒙・・・・・」
ああ、判った。やってやらあ。
お前が始めたこの奇跡、見事成功させてやらあ。
そう、それが約束だった。俺はお前に約束した。
この国は俺が守ってやると・・・・・
呂、子明っていう、馬鹿の為に。