…あれは、いつだったろう。
「儂にはどうしても判らん。なんでみんな北へ行きたがるんだ?お前、ろくに米もできねえ所だぜ?江北でこんなに旨い酒が飲めっかよ!なあ?」
酒焼けのした赤ら顔。あたりも憚らぬ胴間声。
「天下の魯子敬に判らねえことが、俺に判るかよ」
からかったら睨んできやがった酔眼には、深い絶望の色があった。
「天下の魯子敬?へっ!口ばかり上手い商人あがりが、、いいように殿を誑かして、劉備なんぞと同盟しやがって。建業で言われてんのはどうせそんなこったろ?はン、何が伯符さまの遺言だ!いつまで死んだヤツに拘ってんだよ。どんな凄い男だったか知らねえけどよ、もう死んだんだぜ?この世は生きている奴のもんだ。そうだろう!」
何かを振り払うように杯を呷って、胴間声はしつこくくだを巻いた。
「みんな判ってねえんだ。戦火で荒れた中原なんか取っても、面倒が増えるだけだ。それより、戦を控え、東呉を富ませる。そして、船を造るんだ。今のよりもっと頑丈な、外海向けの船を」
あいつはあの酔眼であの時何を見ていたのだろう。
ああいう時だけあの男、いっちょまえに格好良く見えたんだよな。弓腰姫が惚れたのも、もっともだ。
「今まで、孫家や魯家でちまちまやっていた交易を、国家としてやれば、相当でっかいことが出来るのに。殿は、ちっとも聞いてくださらねえ」
苛立たしげに、舌打ちをして。
「土地が欲しきゃあ、南にいくらもあるじゃないか。零陵から、南に下って、蒼梧、合浦、交阯、西に行けば、夜郎、建寧、雲南。益州を獲ったっつっても、劉備はまだあのへんは押さえてねえからな。盤越国と誼を通じれば、海路を使って、もっと西に乗り出せる。臨児。車離。天竺。見たこともないような文物がいっぱいあるって言うじゃないか。それから、遙か、安息国、大秦国…。」
はるかな海、見知らぬ国。それが、儂の、夢だった。
どこかに、同じ夢を見てくれる者がいる。儂の、海の王。その者に巡り会うために、儂は生まれてきたのだ。
だが・・・・・
「しゃーねえだろが。豪族連中がそれじゃあ納得しねえんだからよ…」
「だから何で天下天下天下って、死んだヤツの夢に拘るのかってえ話じゃねえか!」
手酌で満たした杯を、子敬はまた、乱暴に呷った。
「儂は、殿を、海の王にしたかったのに・・・・・」
「いつまでもクダ巻いてんじゃねえ。いったいてめえはよ、飲み過ぎなんだよ」
あいつがあんなに荒れたのは、あの時だけだった。
建業から何かよっぽど頭に来る通達でも来たんだろう。俺も、まつりごと系に深入りするのは嫌で、尋ねなかったが。
気持ちが判らぬではなかったが、付き合わされるのにもうんざりで、俺は話を換えようとした。
「だいいちあれだぜ、西域には血の色をした酒がある。この甘興覇に似合いの酒だ。そういったのはあんただぜ。西と交易をやって、蔵いっぱい仕入れて、思う存分飲ませてくれるんじゃあなかったのかい。夜光の盃とやらでよ」
だが。子敬は乗ってこない。黙って酒を呷るばかり。
ややあって。
「血の色の酒・・・飲ませてやれねえかもな」
あいつの口から弱気な言葉が出るのを、初めて聞いた。
「おい…」
「なあ興覇。儂ぁ疲れた。」
もう、とことん、疲れたよ・・・・・・
重ねて酒を呷ったその顔に浮かんだ、どす黒く、澱んだもの。
小覇王の夢に潰されるようにして、子敬は、死んだ。
果たされなかった夢だけが残った。
・・・儂は、殿を、海の王にしたかった・・・・・
だが、…なあ、子敬。俺は思うんだが。
お前が間違えたってこたあねえか?
お前、南郡取り返してからの孫仲謀見てねえからあれだが…、洪水にやられた荊州立て直そうって時のあいつは、戦場でのあいつとはまるで別人だったんだぜ。生き生きしてるっつーか、何つーかよ…。
あれアとことん内政向きの男だ。大海原でいざ冒険てなことには、向いてねえ。お前には悪いが俺はそう思う。
なあ、子敬。
海の王になる筈だったのは、もしかすると―――
A.D.221 夷道
夷道には、戦の匂いがぷんぷん漂っていた。
兵粮や武器を船積みするために、忙しく動き回る人足たち。監督の兵。演習でも終わったのか、汗を拭いながら戻ってくる歩兵たち。荒っぽい男どもの声が、あちこちで飛び交っている。
呂蒙が予測していた通り、彼の後を追うようにして曹操は死んだ。
後継である曹丕の実力は、まだ未知数。軍事には疎いというのがもっぱらの評判である。
曹操亡き後軍を掌握していた夏侯惇も死んだ。
今だ。劉備の頭を抑えるのは今しかない。
早速刺客が蜀漢に走り、首尾良く張飛の命を奪い・・・・・
それに続いて起こった嫌なことは、今は思い出さないことにして。
「おっしゃ!上陸するぜ!」
陸の空気を甘寧は胸一杯に吸い込んだ。
水の匂い。埃の匂い。何より、ぴんと張りつめた、この空気。
悪くねえとにんまり笑ったところで。
「かしらあ!」
出迎えてくれたのは、陽気な声。
「よう!」
つい2年前まで自分の下にいた若者が、転がるように駆けてくる。
「承淵か。見違えたぜ、お前。でっかくなりやがって・・・」
南郡攻略直前。本隊の陸遜…今の大都督から、関羽軍の物見を始末するのにイキのいい水軍の将が欲しいと言われた時、甘寧は迷わず彼を選んだ。
イキの良さには文句はない。機転の程は、逍遙津で自分と凌統を無事水軍に収容したことで証明済みだ。剣の方もスジがいい。それに、…有能とはいえ野菜売りの子。有力な豪族の後ろ盾がなければ、後の出世に響かないとも限らない。この際顔を繋いでおくのもよかろう、…まあ、そう思ったからだったが。
…すっかり一人前になりやがったなこん畜生。
初めて船に来た頃はまだ少年の細さを残していた首廻りに、みっしりと筋肉がついている。甘寧は細い眼をさらに細くした。
「肩書きだけ。一応、中郎将なんすよ、俺。かしらにはお変わりもなく。」
さっと拱手する動作に声に、眩しいほどの若さが弾ける。
「お待ちしてました。大都督の伝言です。お疲れのところ申し訳ないが、水軍が到着し次第軍議を開く、将軍には是非ご出席をとのことです」
「ほう。一応まともな口をきけるようになったじゃねえか」
二年前は敬語を使おうとするたび、舌を噛みそうになっていたというのに。
かりかりとうなじを引っ掻いて、若い将が苦笑した。
「怖えんですよ、うちの『将軍』は。敬語忘れたって何も言われやしねえけど、ぞんざいな口きけねえ感じでさあ」
翻訳すれば、威厳のある男だという意味なのだろう。
表現の仕方は昔通り。根っこのところは変わってねえやと、甘寧の唇にも笑みが浮かぶ。
「なんせもう、すっげえ人なんですよ。ここを落とした時なんかでもね」
丁奉の顔が輝いた。弾む声が、一昨年の…当時宜城と呼ばれていたこの地を陥した戦を語る。
「俺についてこいっつって先頭立って斬り込んで…、ほら、天にも将軍がいるって言うじゃないっすかあ。天将とか神将とか。まるっきりあんなだったんすよ!マジ本当!」
「へええ」
すっかり惚れ込んだらしく、手放しで上官を誉めあげる彼に、甘寧が柔らかく微笑んだ。
「よかったな。いい上官に当たって」
「かしらのお陰です。流石かしらのお仕込みだって、俺、いっつも褒めてもらってんすよ!」
「当然だ」
「ね!」
重なる陽気な笑い声。
悪くねえなと、また、甘寧は思った。
「今回の戦は、持久戦になると思っていただきたい」
間者を警戒し、厳重に防備を固めた幕舎の中で、自信に溢れた豊かな声が、静かに告げた。
東呉軍の大都督、陸遜…、陸伯言。
いかにも名家の出というにふさわしい美丈夫だ。半ば俯いて地図を見ている目には、強い光が宿っている。太い眉、意志の強そうな口元。
かつての周都督にどこか似た雰囲気を持っているが、彼のような鋭さや冷たさは感じられない。もっとおおらかで逞しい感じだ。
…承淵が惚れ込むだけのこたアありそうだな。さて・・・
甘寧は幕僚の顔を見渡した。朱然・・・朱義封の、生真面目な顔。先々代からの臣下、韓当・・・韓義公の白髯。徐盛・・・徐文嚮の赤ら顔。孫権の従兄弟である孫桓、孫叔武の落ち着いた顔もある。まだ若い、朱桓という男は、いかにも意地の強そうな顔だ。字は、休穆といったか。駱統・・・駱公緒もいる。他にもまだ、いくつか知らない顔があった。
錚々たる面々に怯むこともなく、落ち着いた声音でてきぱきと作戦を説明する大都督の姿には、いっそ余裕すら感じられる。
曰く。劉備を引き込めるだけ引き込んで、叩く。最終的な防衛線は、この夷陵。地図を指す指先を、一同の目が追った。この、長江が渓谷から平野部に出る、ここで劉備を止める。反撃に移る機は、追って報せる。かなりの期間、防備に徹することになるだろう…云々。
まともだ。妥当だ。何も間違ってはいない。陸遜も自信を持っているようだ。
なのに。
…なんか…何だろう?すっきりしねえっつうか何つうか・・・・・
何故かと首を傾げたところで、甘寧の眉がぐっと寄った。
…ああ。
本当なら今あそこで策を語るのは、痩せた小柄な男の筈だったのだ。
痩せて小柄で、目ばかりでかい男が、あかるいいろの声にどこか子供じみたもの言いで、訥々と策を語っている筈だったのだ。
…子明。
今ここにあのおおきな瞳が見えないことが、何故か不安を掻き立てる。
…びびってんじゃねえよ甘興覇…、約束したろうがてめえはよ!この国は俺が守ってやるって。呂子明ってえあの馬鹿によ!
「今回の作戦では、最大の敵は、劉備軍ではない。10万の大軍を前に心が堪えられるか、それが勝負の分かれ目になる。自分の心の中の不安や焦り、逸る気持ち。それが最大の敵だと思っていただきたい」
大都督に自分の内心を言い当てられたような気がして、甘寧はそっと目を伏せた。
だが、逆に目を上げた者もいる。白髯の老将、韓当だ。
「そのように策を明かしてよろしいのか。赤壁での周都督は、最後の最後まで、作戦を伏せておられた。あれは間者を警戒してのことであろう。敵の間者は当然この陣営にも入っておる。ご自身の腹の中に収めておかれるべきではないのかな」
…あ?楯突く気かこのじいさん?お前は周公瑾に劣るとでも?…馬鹿抜かせ、あン時あギリギリまで誰も策思いつけなかっただけじゃねえか。思いついたのは・・・・・
思いついたのは。
…子明!
そう。あれは彼が最初に思いついた策だった。
風が南に変わった時に、火船を仕立てて敵陣に突っ込ませれば…と。
「みんなのため」に一生懸命考えて。躰を張って偵察をして。そう…歴戦の黄蓋が「無茶しおる」と呆れるほどの距離まで近づいて。
それでも彼は笑っていた。悪戯を見つかって誤魔化そうとしている子供のように…。
「あの時は、風が変わる可能性があることを、先方に伏せておく必要がありました。今回の場合、こちらが持久戦の構えなのは、見れば判ることです。隠しても意味がありませんし、自分のやっていることの意味が判っているほうが、不安にも耐えやすいでしょう。事実、赤壁の時は、脱走兵が出て困った」
言いがかりにも似た韓当の言葉にも、しかし、大都督は表情を変えなかった。
反撃に移る、その機と、方法。これは直前まで明かさない。それが判らなければ、劉備は、持久戦の構えだと知ったところで、何もできない。自分を信じて任せてほしい。
自信に溢れた口調がすらすらと解説する。…なのに。何故だろう。
何故その言葉は、「ええと」「あの」を連発していたどこか頼りない呂蒙の言葉ほど、説得力を持たないのだろう。
「だが、こんな所まで蜀軍を引き込んで、本当に大丈夫か?もし万一・・・・・」
同じ思いを共有しているのか、孫桓が口を挟んだ。「万一」とはらしからぬ意見だ。どちらかといえば「猛将」の部類で、やたら突っ込みたがって困ると呂蒙にぼやかせていた彼なのに。
「曹操が死んで魏が動けない間に劉備を引っ張り出そうとして、煽るだけ煽りましたからね。最初は、尋常ならず士気が高い筈です。いきなりぶつかるのは不利というものでしょう。それに…、中途半端な叩き方をして逃げられ、満を持して改めて出直されては、困るのです。曹丕もそのうち軍を掌握してしまうでしょうし、劉備と戦っている最中に変な絡み方をされては、荊州が獲れなくなる可能性がある。劉備は徹底的に叩く。十分な打撃を与えるには、そう簡単に引っ込めないところまで来てもらう方がいい。」
力の籠もった目が一同を見渡す。けれど、…それはあのおおきな瞳ではない。
何かが違う。何かが呂蒙の時と違う。
「その作戦は結構だ。だが、信陵の潘文珪は?真っ先に蜀とぶつかるのはあいつだが…」
続いて口を開いたのは朱然。
「支えきれないようなら退却するようにお願いしてある。心配はないだろう。無理押しして全滅するようなことにはならない。まさか先に撤退させておくわけにもゆくまい?」
「しかし損害は出るでしょう」
「多少は仕方がない。そう考えている」
それはそうだ。それはそうだが。
…子明ならそうは言わなかったろうな。
うん怪我人とか出ないように上手に撤退しろって言ってある、文珪ならきっと大丈夫だよ俺信じてるんだ。秋の空のような笑顔を浮かべてそう言い切っただろう。
そうして朱然は引き下がっただろう。内心で「この阿蒙」と思っていたとしても、こんな、いかにも理屈で太刀打ち出来ず不承不承口を噤みましたと露骨に見せるような顔はしなかった筈だ。
「武陵の異民族が、蜀漢についたと聞きますが。このあたりの異民族に連鎖すると怖い。何か対策は立てていらっしゃいますか」
彼の感情が他にも伝染したのか、今度は、朱桓が鋭い口調で言った。
「連鎖はしない。武陵の者たちも、利につられてあちらについただけだ。いずれ戻ってくる。」
疑わしげな視線を押し返すように、大都督が語調を強める。
「異民族を説得しているのは馬良という男だが、どうも融通のきかない堅物らしい。蜀漢についた異民族に、はっきり蜀漢兵だと判るようにせよと、髪型や服装を改めさせた」
…ああ。こいつちゃんと目配りしてんだな。
対異民族戦の経験のある東呉の将には、これだけで判る。
異民族たちは、自分たちの文化を捨てることを、最も嫌がる。事実、異民族の部隊を抱えているものたちは、服装や髪型に関しては、彼らの好きにさせていた。その部隊もこの戦線に投入される。
自分たちの文化を認める東呉か、中華の文化を押しつける蜀漢か。実物を見た時に異民族たちがどちらにつくかは、明白であろう。
…理屈はちゃんと通ってる。裏付けもある。決してこいつは出来損ないじゃねえ。
なのに。
「水軍は、この合流点で、長江を塞いでください」
大都督の指が、別の一点を指した。夷道のすぐそば、長江に夷水が注ぐところだ。
「作戦・指揮は、すべて、甘将軍の方にお任せいたします。荊州の長江についてはあなた以上に詳しい者はおりませんから」
「おうよ」
「ここから東に、蜀の水軍を入れない。もう一つ。蜀の陸軍に、夷水を渡らせない。当面、この二点を中心にお願いします」
「了解」
甘寧は軽く一礼した。
正直、任せるっつったんじゃねえのかどの口がそういうこと抜かすんだんなこたア言われなくても判ってらあと突っ込んでやりたくならなかったわけではないが。
何がなし皆が不信感を持っているような状態である。今その雰囲気を煽るようなことをしても、いいことなど何もありはしない。
…子明なら「任せた」と言ったら文字通り任せっぱなしで、下手したらそっち方面のこと忘れちまってただろな。
それでいい筈は全くねえがと、甘寧は内心で苦笑した。
…しかし、あの件には触れて来ねえな。
軍議の目的は作戦の伝達という一点に絞っているということだろう。まあ正直、今触れられても困るのだが。
補給のこと。配置のこと。打ち合わせは続いた。幕僚たちの質問を、落ち着いた声は的確にさばいてゆく。
呂蒙であれば、ここまでの軍議で一度や二度は「えーと…」と詰まっただろうし、下手をしたら「あ!それ考えてなかったどうしよう!」と情けなく眉を下げていたかもしれない。
言葉通り文字に起こして誰かに読ませれば、10人中10人までが、陸遜の方が優れた指揮官だと言うだろう。
なのに。
質問が途切れた所で、大都督の目が、強い光で一同を見渡した。
「本日の軍議はこれまで。明日早暁には、各自、打ち合わせ通りに、兵を動かす。以上、よろしくお願いします」
威厳に満ちたその声に、無頼で聞こえた甘寧までもが、自然に礼を取っていた。
丁奉が「ぞんざいな口はきけない」と言っていた、その感覚が身をもって理解できる。
この大都督はそれほどの男なのに。なのに、何故。
何故呂蒙の頃のように気分は高揚しないのか。何故呂蒙の頃のように…何と言えばいいか、しゃあねえなこの阿蒙けどまあなんとかなるだろう、みたいな、妙な…改めて思えば確かに妙だとしか言いようのない…自信が湧いてこないのか。
…何故だ?
首を傾げて、立ち上がったところで。
「あ、興覇どの。すみませんがちょっと残っていただけますか」
物言いだけは丁重な言葉が鋭く甘寧を呼び止めた。
…来た。
おおよそ話の見当はつく。…あの件だ。
「おう」
うっそりと立ち上がった歴戦の猛将を、大都督が私室へといざなった。