じっとりと生暖かい空気が、指先にまとわりつく。うるさそうに虞翻は首を振った。
 一度、二度。深呼吸して心をおちつけ、いつもの笑みで武装する。そして、病室へ。
 患者が、牀の上から、微笑みかけてくる。秋の空のように、透明な、明るい微笑み。
「仲翔どの」
 その顔が、いつになく白い。
 瞬間、虞翻の呼吸が、止まった。



Act.2〜A.D.219 荊州



 南郡を明け渡した麋芳は、城内の館に住まわせられていた。
 特に監視がつくでもなく、何かを要求されるわけでもない。東呉はひどく寛大だった。今は、そっとしておいてもらえるのが、ひたすらありがたかった。
 誰か、趣味人の館ででもあったのだろうか。瀟洒な庭には、池が掘られている。何をするでもなく、ただ、ぼんやりと池の面を見つめる・・・そうして日を消してゆくのが、今の麋芳の暮らしであった。
 時折、虞翻が訪ねてくる。相変わらず悪態をつきながら、酒を下げて。彼なりに慰めようとしてくれているのだ。
 このところ、それが、途絶えていた。呂蒙の病が重いのだろう。虞翻が、あの、あたたかい声の将軍を心底気遣っていることを、麋芳は知っていた。
 その夜。
 麋芳は、眠れぬままに、庭へ出た。
 空には重く雲が垂れこめ、月や星の光もない。重く淀んだ空気は何かを待っているようでもある。
 手にした紙燭の光が、芽を吹くには早い柳の枝を浮かび上がらせ、地に不気味ともいえる影を落とす。その影が、死んだ男のご自慢だったあの髭を思わせて、麋芳はそっと唇を噛んだ。
 死んだ男。自分が死なせた男。…関羽。
 後悔はしていない。恥じてもいない。もう一度同じ場面に置かれたら間違いない、自分は同じ選択をする。…否、同じ選択しか出来ない。
 柳に桃が実るというのか。魚が空を飛ぶというのか。同じことだ。
 東海の悪ガキは所詮、東海の悪ガキでしかない。
 天下国家の大計の為目の前の悲惨には心を鬼にする…、それは出来ない。それが自分だ。
 それでも、それでも。
 死なせたかったわけではない、裏切りたかったわけでもないのだと。
 どうしようもない心の痛みを溜息にしてはき出した時、館の門が荒々しく叩かれた。
「何だ・・・?」
 関羽を慕う者がまだこの城市にもいて、自分を仇と憎み、殺しに・・・?まずそれが閃いた。
 …ま、それもいいか。
 それで心が晴れるというなら殺されてやってもいい。だが、喚いている声は、…虞翻の声?
 …え?
 知らず、麋芳は走り出していた。
 喚き声が大きくなる。何を言っているのかはっきり聞こえる。
「裏切り者!城門を開いて、われらを容れたくせに!閉めるべきときに開けて、開けるべき時に閉めるのか!早く開けろ!この裏切り者めが!」
 松明の灯りが見えた。
 従僕どもが、門の前でおろおろしている。
「何してんだ。早く、開けてさしあげんか!」
「しかし、ご主人さま。ご主人さまのことを、あのように・・・」
「裏切り者!何とか言え!」
 また、門が叩かれる。
 ざわざわと人声が聞こえる。近所の館の者が起き出したようだ。こんなかれを人目にさらしたくはない。麋芳は閂に手をかけた。
「ご主人さま!」
 声を震わせ制止しようとする従僕を、悲痛な瞳がぎろりと睨む。
「馬鹿、わからんのか!あんなに泣いているじゃあねえか!」
「しかし」
「赤ん坊はおぎゃあって泣くだろう!あの人はな…」
 裏切り者って、泣くんだよ!
 閂を引き抜き、門を開けば、待ちかねたように転げ込んで来た躰。好奇の目を閉め出すように門扉を叩きつけ、振り返れば・・・・・・

 真っ暗とでもしかいいようのない瞳を、地面に伏せた虞翻がいた。



 回廊に、床几を置いて。
 二人の男が、黙然と、闇を見つめていた。
 紙燭は、とうに、燃え尽きた。今は、庭も見えない。風があれば、葉ずれの音がそこに在る木々を感じさせてくれるのだろうが、今夜は、それさえもなかった。

 飲むか、と尋ねた麋芳に首を振って、低い声で、虞翻は答えたのだった。
「子明が死ぬ夜に、酔っていたくはない」
 眉を上げて、問いかける顔に、
「朝までは、保たないだろう」
 麋芳は頷いた。何も言わずに。



 午後だった。
 公用を片づけ、子明の部屋に入った自分は、明るい笑みを浮かべた真っ白な顔を見た。一目で判った。時が来た、と。
 瞬間、呼吸ができなくなった。医術などを学んだことが、判ってしまったことが、心底、恨めしかった。
 もう、熱もない。よくなったのではない。躰が病と闘う力を失ったのだ。
 …今日は、気分がいいんだ。関羽を無事討ち取ったと聞いて、ほっとしたからかな。
 気づいているのか、いないのか。子明は妙に明るかった。
 いろんなことを、話した。過ぎた戦のこと。周公瑾のこと。過去のことばかりを、繰り返し、繰り返し。咳に何度も中断されながら。



「ここでいい」
 回廊まで来て、虞翻は、足を止めた。いぶかしげに、麋芳が振り向く。
「部屋に入った方がいい。流石に冷えてきた」
「いや。ここがいい」
 …このごろ、公瑾どのの夢ばかり見るんだ。烏林のときの。風が変わったら出航だって、命令される夢・・・・・
 呂蒙の言葉が頭に蘇る。ならば。せめてその風を、この身に感じたいと、虞翻は思った。
 麋芳はそれ以上強いることなく、どこからか床几を持ち出してくると、虞翻に勧め、自分も腰を据えた。
 


 かすかに。ほんのかすかに、空気が動く。



「いいのか?」
 どれほど時間が経ったろう。
 麋芳が、ぽつりと言った。いいのか、側についていなくて。
 長い間をおいて、ああ、と、虞翻が答える。
 再び、沈黙。
「後悔するぞ」
「ふん」
「最期に何か言い遺すかもしれんじゃないか。お前さん…」
「しない。というより、できない」
 虞翻がゆっくりと立ち上がる。
「朝まで目を覚まさない。それだけの量を、飲ませた」
 言葉を失う麋芳を右手に感じて、仰いだ空は、ただ、重く。
 午後の出来事が、脳裏に蘇る・・・・・



 次第に子明が苦しそうになってきていた。咳で話が途切れることが多くなる。
 このようになった者を、診たことがある。意識は鮮明なまま、身体はどんどん力を失ってゆく。息ができなくなって、苦しみもがいて、窒息して死ぬまで・・・
 誰より元気で明るかった、子明が。
 だめだ。堪えられない。もうこれ以上見ていられない。
「ほら。あんまりはしゃぐからだ。もう、喋るんじゃない」
 何度目かに子明が激しく咳き込んだ時、彼を制して開いた、薬箱。
「熱がないんだから、ちょっと、薬を変える。その咳を何とかせんと…」
 私の手は震えていなかったろうか。
 子明はおとなしく薬湯を飲んだ。眠り薬入りの、薬湯。
 これで意識はなくなる。もう苦しみは感じまい。薬が切れる前に、きっと、命の方が絶える筈。
 それからもしばらく子明は喋っていたが、やがて、薬が効き目を顕した。
 眠そうに瞬いたあの瞳を、私は見ていた。じっと見ていた。
「眠いのか」
「ん・・・・・」
「しばらく眠りなさい。眠るまで、ここにいるから」
 うん、と、素直に頷いて。私たちの阿蒙が目を閉じた。
 あの、おおきな、澄んだ、秋の空のような瞳を。

「おやすみ、子明」

 永遠に・・・・・



「風が、変わったな」



 東南の風の最初のひと吹きが、木々の梢を、ざっと揺らした。
 重く垂れこめていた雲が、唐突に途切れ。二人の男は、息をのんだ。
 白く、冬の銀河。
 雲の絶え間に、皓々と。
 常なれば冷たい筈のその光が。まるで母の白い腕のように。優しく、温かく、下界に向かって―――

 …出航ーッ!

 ―――ああ!

「逝った、な…」

 船は、出たのだ。銀河を渡る船は。

「ああ」

 夜明け前。まだ、闇は深い。

「私は・・・卑怯か」
 虞翻が小さく呟いた。
「子明の苦しみを見ておれず薬を盛った私は、卑怯か」
「…じゃあ、俺は卑怯か」
 麋芳が、優しく応じる。
「民の飢えを見かねて国と主君を裏切った俺は、卑怯か」
 裏切り者と自分を罵りながら、この男は自分を責めていたのだ。
 その気持ちが麋芳には、痛いほど判った。
「判らんだろ?…俺にも判らん。判ってるのはただ、どうしようもなかったってことだ。俺にはああしか出来ねえってこった」
 何度やり直しても、結局同じだ。それだけは判ってる。俺という男にはああしか選べない。もし違う選択をするならば。
「そんなのはもう、俺じゃあねえや。東海の悪ガキの、あれが精一杯よ。それで許せねえってんならもう、この首どうぞって差し出すしかねえ」
「あんた…」
「お互い、お互いが出来る限りのことを、精一杯やったんだ、なあ。いいも悪いも、お前さん」

 それ以上どうしようもねえ…、そうだろ?

「ああ…」

 そうだなと虞翻が呟いた。そうさと麋芳が頷いた。

 精一杯生かしてやろうとした。せめて関羽の首だけは、と。
 精一杯やって、手を尽くして、もうこれまでとなった時。
 せめてこれ以上苦しませたくはないと・・・・・

「ああしか出来ない、それが虞仲翔だ。…うん、これ以上、どうしようもねえな」
 
 それって全然ひねくれてないじゃないですかと、あの大きな瞳は笑うだろうか・・・・・

 風がどんどん強くなる。雲がちぎれて飛ばされてゆく。

「中、入るか」
「うむ」



 それがおまえたちのせいいっぱいだったのなら
 だれもおまえたちをとがめたりはしないから
 ほんとうにほんとうのこころからのねがいは
 かならずてんにとどくから



 誰もいなくなった回廊で、東南の風が囁いた。



 だって・・・・・







「おいでにならない?」
 問うたのは、陸遜、陸伯言。肯いたのは、丁奉、丁承淵。
「何故。曹操が倒れた今、魏が攻め寄せてくることはないでしょう。葬儀の間くらい、興覇殿が濡須を離れたところで…」
「俺もそう言ったんですけどさ」
 丁奉はぎゅっと顔を顰めた。
「かしら、茶番につきあうほど暇じゃねえって」
「茶番?」
 こくり。もうひとつ頷いて。
「茶番だっつんです。子明は死んでねえ、死んでねえ奴に葬式なんざいらねえって」
「しかし…」
 陸遜が、眉を寄せた。
 あの二人は誰より近しかった。甘寧が東呉に士官したのも、そもそもが呂蒙の推挙であった。
 …彼の死を認めたくない、認められないと…そういうことか?いや、興覇殿はそういう逃げ方をする男ではない筈・・・・・
「策だってんです」
「策?いや…」
「いや、だからほら、マジ、ギリだったじゃないですかあ」
「ぎり?」
 あー、と。相変わらず「偉いさん」の前でうまく喋れない自分に、苛立ったように舌打ちをして。
「だからあ。荊州獲るのギリギリだったって、そでしょ?もし、もう一月でも遅かったら、曹操がぶっ倒れて−」
「ああ」
 確かにそうだ。ギリギリだった。曹操が先に倒れでいたら、きっと、豪族たちは・・・・・
「いやまあそりゃいいんですよ。いいんですけどさ、んと、つまり、獲った途端に魏が動けなくなっちまったんだから、劉備、ガーって来てもおかしくねえだろってんです。そですよね」
「え」
 はっと、陸遜が目を瞠った。
「今だ今こそ関羽の仇を!てなもんでさ、ワーっと攻めて来たっておかしくねえっつうんですよ、かしらは。それが来てねえのはなんでかってんです」
「それは…」
 彼の言わんとすることは判る。荊州急襲の策を指揮した呂蒙、その呂蒙が直後に亡くなったことで、気勢が削がれた…そう言いたいのだろう。
「しかし…判っておられる筈だ、興覇殿とて。これは決して」
「俺だってそう言いましたよ。策じゃなくてあのひとほんとに死んぢまったんだからちゃんと送ってあげねえと、らしくもねえちゃんと現実見てくださいって、言いましたよ。そしたらさ」
 …あア?んなもん当たり前だろが、あちらさんをなめちゃあいけねえ。間者の一人も入れてるだろうがよ、芝居で誤魔化せっか、馬鹿が。
「え?お前、亡くなったのではないと仰有ったと、さっき…」
「うん、そうなんすけど、…あ−、何しか…、ええもう、かしらの言ったのそのまま言いますよ?」
 …あんだけ馬鹿な無茶やらかしたんだ、病で死ぬなア決まったようなもんだ。で、どうせ死ぬならてめえの策に一番都合のいい時機選んで死にやがった。大した軍師じゃねえか、なあ?
「で、俺言ったんですよ。あれはほんとに病で死んだんで、自害とかじゃねえんだから、選ぶとかそゆの出来るわけねえって。そしたら」
 …馬鹿ぬかせ!お前、東呉一の名将に、それくらい出来ねえ筈があるか!
「でね。お前関羽討つって言い出した時のあいつ、見てねえだろ、って・・・・・」

 …奇跡が要るなら起こせばいい。…俺が起こす。起こしてみせる」
 …張遼は討っても無駄だ。曹操は人材集めに熱心だった。代わりの将なんて、いくらもいるさ。すぐに次のが…ヘタをしたらもっとタチ悪いのが来る、それだけだ。でも、劉備は、違う。
 …外圧が減ればいいんだ。そうだろ?こんな劉備の使い走りみたいな戦で兵や将を失うから…だからみんな殿の力量疑うんだ。だったら、同盟の力関係を、逆転させればいいじゃないか。
 …どうせ劉備だって一国じゃ曹操に対抗出来ない。こっちに膝折ってくるしかないんだ。つけあがらせることないんだ。

「そいで宣言したんだっつうんです。凄いほど澄んだ目して。俺、関羽、討つ、って」
「・・・・・」
「そう言って、笑ったんですって、あの人」

 声が、震えた。

「だって俺みんな好きだからって、…そう言って、笑ったんですって」

 どこか剣のある切れ長の目から、つうと一筋、涙が溢れる。

 判るか、承淵。
 あいつの策はな、目に見える頭から出たもんじゃあねえ。どっかもっと上の方から湧いて出てんだよ。
 あのガリガリでボロボロの躰が本当の子明だなんて思うなよ。
 本当の子明はその、上の方にいるんだ。そっちにいて策を操ってんだ。己の躰の生き死にを含めてな。
 てめえだって言ってたろ?初めて鼈届けに行かせた時。あいつって「この世のものではないような」感じがしたって。
 その通りよ。
 最初からあいつはこの世のモンじゃねえんだ。
 あいつは生きてる。生きててめえの策動かしてやがる。「みんな」の為に練った策をな。「だって、俺、みんな、好きだから」な。
 判るな。あいつは死んじゃあいねえんだ。な、承淵・・・・・

「昔、約束したんですって。一緒に夷陵攻めた時」

 …心配要らねえよ。お前みたいなバカ、放ったらかしに出来っかよ。
 …夷陵はきっちり守ってやらあ。けどな…孫家の為にじゃねえ。揚州とやらの為にでもねえ。

「呂、子明っていう、馬鹿の為に、…って」

 一筋。二筋。止め処なく、涙が。

「だから動けねえって。自分をここに配置したのは子明の策だからって。策は、今も、動いてんだから、あいつが、動かして…んだから、こっちも、いつでも、動けなきゃ、ならねえ、隙、見せちゃ、なんねえって、…かしらは」

 かしらは・・・・・

「そうか…」

 ふっと、陸遜が微笑んだ。

「そう、私も…約束をした」

 …この陸伯言が…、陸家の総帥が、呂虎威将軍に申し上げているのです!私がおりますと!
 …あなたの策。たとえあなたが途中で倒れたとしても。私が、否、我ら陸家がその総力を挙げて、どんなにしてでも成功させると!

「興覇殿の仰有る通り。悲しんでいる暇はないな」
「…はい」
「みんな好きだと仰有ってくださった、あの方のお気持ち。…そのお気持ちに、応えなくては」
「はいっ!」



 約束を、したのだから。
 守ると、誓ったのだから。
 きっと願いは叶えると、あのおおきな瞳に、私たちは―――



 俺、みんな、好きだと笑った、…呂子明という、あの瞳に。