「権の奴…情けねえったら全くもう!今度だってついてきてるかと思えば来ないで…、びーびー泣いてばっかいやがって!子明はちーとも怖がらねえのにな」
「え−」
「お前くらい勇敢だったら、俺も安心なんだが…」
「おれ…、べつに、ゆうかんとかじゃ…」
「勇敢だったじゃないか。今回だって、ずいぶん、敵の首あげてただろ?偉いぞ」
「んなこと、ないですよお。あれは、だって、とのが…」
「俺が?」
「とのってば、どんどんどんどん、飛び出してっちゃうんですもん!おまもりしなきゃって必死におっかけてただけで、えらくなんか…」
「あ?」
「とのってばすんごくはやいんですもん!ついてくだけでせいいっぱいで、こわいとか思ってるヒマ、ないんですよお」
「ぶ、何だそりゃ。じゃあ、子明が勇敢なのは、俺のおかげかよ?」
「ちがいますってば!おれ、ゆうかんとかじゃなくて、うん、いそがしいんです!あんまりむちゃくちゃしないでください!」
「あんなのにやられる俺かよ」
「それは、そうだけど…」
 …それは。とのは、だれより、強いけど。
「でも、おれ、とのがちょっとでもケガしたり、痛い思いしたりするの、いやですもん」
 俺、とののこと、すきですから!



 …ンなこと言いやがんだよ参ったぜと、亡き伯符様は笑っておられたけれど。




Act.4〜A.D.219 荊州



 人として、生きる為には。
 彼には何かが欠けている、…そんな気が、ずっとしていた。
 こう言えば、良心がないとか恥を知らないとか何か、悪く聞こえるかもしれないが、そうではない。そういう意味ではないのだ。
 たとえば。
 勇敢じゃないんだ忙しいんだと言いながら、伯符様の後を懸命に追いかけて戦場を駆け回っていた、あの頃。
 彼が己自身のことを考えたことが、一度でもあっただろうか?
 我が身をかえりみず孫家に仕える忠義な将と、誰もが彼を賞賛するけれど。
 そもそもかえりみるべき「我が身」というものを、彼は持っていたのだろうか。
 この虞翻、虞仲翔がひねくれている、それだけの話かもしれない。確かに俺はひねくれ者だ。言われなくても判っている。人に好かれるような男ではない。
 そんな俺でも。
 …俺、みんな、好きですから!
 彼の言う「みんな」の中には入っている。それが正直、不思議だった。
 彼が言うからにはそうなのだろう。あの明るい声をあのおおきな瞳を、疑ったことは一度もない。けれど。
 けれど。

 そう言っているのは本当に「ひと」なのだろうか。

 あの声の向こうあの瞳の向こうに、本当に、呂子明という人間の男はいるのだろうか。
 そこにいるのは「ひと」ではなく。
 喩えるならば…、空。
 果てしなく広がる蒼穹。どこまでも澄んだ、雲ひとつない。
 その空が。
 俺、みんな、好きですから、と…、そう言ってくれているような、…そんな気がして・・・・・

 人が生きながら空の一部でもあるなどと、そんなことがあり得る筈もないのだが。



 
 
 活気に満ちた、南郡城内。
 病人の室へ通じる廻廊…、静かである筈のこの場所にまで、風がざわめきを運んでくる。
 呉の主君である孫仲謀自身が、この前線まで出て来たのだ。いやがうえにも士気は高まっている。
 民の顔も明るい。荊州の惨状を見た彼が、来年の租税を免除するという布告を出したからだ。自ら親しく民を慰問したことも効果があった。
 …偽善さ。あざといことこの上ない。人の心を獲りたいだけよ。
 政なんざそうしたものさと鼻で嗤った虞翻とて、判っているのだ。
 曹操が健在でいるうちに、何としても、どうしても、荊州支配を確実なものにしておかねばならぬということは。
 劉備との同盟における力関係を逆転させなければ。東呉の人心を再び孫家に向けさせねば。
 内乱になる。身内同士の殺し合いが起きる。何がどうでも起こしてはならぬ、呂蒙が命に換えても止めようとしている、この世で最も悲惨な戦が。
 …命に、換えても、・・・・・か。
 今朝。当陽まで引き返していた関羽の軍が、ついに四散したという情報が入った。孫権が自ら来たと聞いて、なけなしの兵も怖じ気づいたらしい。
 関羽は少数の側近を連れて、西へ・・・蜀の地へと逃走を開始したという。
 それを受けた孫権は、朱然と潘璋に追撃を命じた。
 …間に合うか。
 呂蒙のか細い命の火はもう、いつ消えてもおかしくはない。今日もまた熱が高く、意識も朦朧としている有様だ。
 …せめて、関羽の首だけは…、あいつの策の最初の実だけは、見せてやりたいが・・・・・
 保って、くれるのか。保たせられるのか。
 唇を噛んだ虞翻の鼻先を、ふっと掠めた―――

「おお、仲翔」

 駄目だ!

「今日はどうだ?また熱が出ているのか?」
「との」
 声が、喉に絡む。
「陸兵を江の西岸に移そうと思ってな、…万一、劉備が関羽の救援に来たら、宜都を攻めてる陸遜の軍が危なくなるだろ?」
 何を…
「あの城はどうでも落としておきたいし、なら、俺の親征って形で後方から圧力を・・・・」
 何を言っているんだ!そんななりで!
 戦のことしか頭にないのか!今、死のうとしている臣下を思い遣る気持ちは、あんたにはないのか!

「駄目だ!」
 
「仲・・・・・」
 ぎょっと目を剥いた腕を掴んだ。驚いて振り払おうとする、ああ、…その袖から、また!
「駄目だ!こんな袍で…」
「袍?…おい、お前…、乱心か?…誰か・・・・・」
「香っ!」
 はっと相手の動きが止まる。
「匂い!窒息させる気かっ?」
 判らないのか。判らねえのか。あそこまで病が進んぢまうと、強い匂いでさえ、呼吸の負担になるってことが。
 そりゃあ、仮にもあんたは呉の主君。侍従どもが威厳を持たせようと、衣装に香を焚きしめるのは判る。
 判るが、…あんた、今は・・・・・
「あ・・・・・」
 息を呑んだ目が俺を見る。碧眼児と言われた不思議な色の目が。
 その目が聞いた。モウ駄目ナノカ。答えるつもりはなかった…だが、顔が答えてしまったらしい。
 アア、ソウダ。
 みるみるその目が絶望の色に染まり。そうして…、そうして・・・・・

「ち…くしょう…っ!」

「殿っ!」
 ばたばたと、乱れた足音。綾織りの袍が駆け去ったのは、病室の方角。
「馬鹿っ!だから、駄目だと…」
 主君に言う言葉ではない?知るか、んなもんっ!
 必死で追った。止めようと追った。あの瞳をこれ以上苦しめたくない。ぼろぼろの肺にこれ以上負担をかけたくない。
 だが、…翻った裾が消えたのは。病室ではない。隣の部屋。
「と…」
 鼻を衝いたのは香の匂い。耳を衝いたのはがじがじという音。
 かじかじと。がりがりと。
「畜生…、ちくしょう…っ!!」
 足元まで飛んできた、漆喰の欠片。
「殿!何やって…」
「近寄らなきゃ、いいんだろうっ!」
 がじがじ。がりがり。
 華奢な作りの懐刀が、壁に向かって振り下ろされる。
「だったらっ!壁に穴あけて、そっから覗けば!!そしたら、…そしたら、匂い、なんて・・・・・っ」
 がりがり。がじがじ。
 宝石を嵌めた束頭が光る。

「ずっと、…一緒で」

 …権の奴…情けねえったら全くもう!今度だってついてきてるかと思えば来ないで…、びーびー泣いてばっかいやがって!子明はちーとも怖がらねえのにな!
 …え−・・・・・

「ずっと、俺とっ!俺らの、呉の為に、戦って」

 …公瑾殿ー!
 …ああ、子明?どう…
 …俺、敵のアタマ、狙いますから!援護願います!

「頑張って、…がんばって…、りっぱな、軍師に、なって…くれて」

 …長江の守りを確かなものにし、この地を落ち着かせ、国を富ませる。外で何かが起こっても中がごたごたしないようにする。今すべきことは、それでしょう…?

「なのに」
 否。光ったのは、宝石ではなく。
「なのに、なんで…っ!」
 涙が。
「なんで…、なんで!もう最後なのに、もう、あえなく、なるのに!!なんで…っ!!」
 主君の目から溢れる涙が。
「殿…!」
「せめて」
 せめて。
 今、ひと目・・・・・・

 ぴいん、と。
 音を立てて、刃が折れた。

「ち、くしょう…っ!!」

 拳が、床で鳴った。何度も、何度も。繰り返し、繰り返し。
 畜生、畜生、畜生と、孫呉の主君が泣き喚く。
 いい年をして情けない、人の上に立つ者が何のざまだ…、そう言われても仕方のない醜態を曝して。
 けれど。
 けれど…!

 …思い遣る気持ちがないだって?とんでもねえ見損ないだ、この虞仲翔ともあろうものが!

 呆れる程の感情の爆発を前にして、虞翻の胸が張り裂けそうに痛んだ。
 だが。
 ひねくれ者で鳴らした虞仲翔に、主君の肩を抱いて共に泣くような真似が出来る筈もなく。
 歪んだ唇が発したのは、至って冷静かつ実際的な言葉。

「だったらその辺の誰かの着てるモン剥いでいけばいいでしょーが」
「へ?」
「壁に穴開けるよりその方が早・・・・・」
「そうかっ!!」

 え。
 ちょ・・・・・

「あの…」
「ありがとう、仲翔!」

 …今のは俺のを剥いでいけという意味じゃねえんだが・・・・・

「ま、いいか」

 どこか苦笑めいた笑みを漏らして。
 肌着一枚に剥かれた男の手が、折れた刃を拾い上げた。
 その手が僅かに震えるのは、寒さのせいだと己に言いきかせて。
「ひでえ君主だ、ったく」
 そう、間違っても彼は認めはしない。
 自分が心の底まで揺さぶられるような、そんな光景を目にしたのだとは。
 ひとはひとをどれほど大切に思えるか…、その深さのほどをその目で見たのだとは。
「なあ、子明・・・・・」
 ひゅう。
 彼の呼吸の音にも似た、北風の響きが切なかった。





 ひと、とは。
 人という文字が表すように、互いに思い合い支え合って生きるもの。
 無論、生き様という形で目に映る時、それはさまざまな形を取るが・・・・・





 櫓が、燃えている。
 宜城。
 音ともいえぬ嫌な響きを残し城壁の下へ吹っ飛んだのは、戟の刃をまともに喰らった守備兵の躰。
 これで、6人。
 槍を構えて突っ込んできたのをあっさり見切ってかわし、思い切り背中を蹴飛ばした。7人目。背後の殺気に振るった戟が、何かを捉えた。8人か。
「ちっ」
 顔を狙った矢は手甲で払い、落ちていた槍を掴んで投げ返してやった。悲鳴。9人目だ。
 10人目と狙った雑兵は、歯の根も合わぬ恐怖に震えていた。戟を振り上げただけでうろたえた喚き声を上げ、転がるように石段を逃げ下りてゆく。
 道が空いた。
 陸遜を遮る者はもういない。
 …確か、騎馬隊がいた筈だが・・・・・
 しかし下には騎馬兵の姿はない。やはり。太守は奴らを連れて密かに逃げたか。
 北・東・南の3方から攻めた。怖じ気づいた太守が逃げやすいように。
 …計算通りか。
 にたりと笑った端正な顔は、舞い降りた天将のようであった。
「承淵っ!」
 おう、と景気のいい返事がして、若い校尉が駆け寄ってくる。道を塞ぐ雑兵の命を飛ばしながら。ああ、…いい腕だ。
「降りるぞ!ついて来い!」
 陽気に言い捨て、一気に石段を駆け下りる。ピン、と音がして、矢が肩を掠める。ぴったりと丁奉の足音が、そして味方の兵が続く。
「おまえたちは門を開け!」
 後ろの兵に一声どなっておいて、陸遜は、丁奉に、低く言った。
「行くぞ」
 不敵な笑いが返ってくる。
 門を守る兵たちに戦意はない、先頭に立って斬り込めば、右往左往して逃げにかかる。力一杯戟を振り回す。面白いように人が倒れる。
 頭から返り血を浴び燃え上がる火に照らされた自分がどれほど恐ろしげに見えているかに、陸遜は気づいていない。
 恐怖に目を閉じそれでも討ちかかってくる兵を、またひとり戟の刃がとらえた。何人目だろう。もう数えてもいられない。
 門が、開いた。
 雪崩れ込んできた味方の兵。
「将軍!馬を」
 投げ寄越された手綱を取って、ひらりと馬に跨れば。旗を背負って駆けてくる伝令。
「将軍!太守の樊友は、西門から、逃走しました!」
「よし!」
 陸遜は、胸一杯に、冷たい夜気を吸い込んだ。
「蜀漢の兵士よ!」
 豊かな声が戦場の喧噪を圧して響き渡った。瞬間、全ての動きが、止まる。
「おまえたちの太守は逃げた。これ以上の抵抗は、無意味。大人しく、我らに降れ。命は助ける。手向かいすれば、容赦はしない!」
 闇雲に突っ込んできた兵が顔面をたち割られ、脳漿と血を撒き散らしながらぶっ倒れる。
 降り注ぐ火の粉。流れる血。鬼神もかくやの凄まじさ。
 一人、二人。守備兵が武器を捨てて跪く。
 そうだ。それでいい。それで無駄な殺生をせずに済む。
 戦とはいえ、死ぬ奴は、一人でも少ない方が・・・・・
 …そうですよね、子明殿。
 勝ち鬨が天を揺るがした。
 白い息を吐いて見上げた城壁。北風を孕んで翻る旗。「孫」の旗だ。炎に照らされ、赤く、赤く―――

 …戦が起きる起きないは、俺なんかがどうにかできることじゃない。でも、敵も味方も、出来るだけ殺さずにすむ…、そんな戦い方を工夫することなら、俺にだって出来る。
 …ちょっとでも少ない犠牲でしっかり勝つのが俺のお仕事だから、ていうか、俺、そのためにここにいるんだし。
 …俺は、呂子明を。お前は、陸伯言を。自分はこうって思った通り、精一杯生きたら、もう、それで・・・・・

「子明殿・・・・・っ」

 219年11月。蜀漢の宜城は、陸遜率いる孫軍の猛攻の前に、落城した。



 長江の水が、いつもと違う。まるで星のようにきらめいている。
 どうしたんだろ。なんだか心配になってきた。
「どうした、子明。何か気になることでもあるのか」
 月光のような声。公瑾の大将だ。白い戦袍の裾が北風に翻って、…絵になるよなあ、全く。
「もうすぐ風が変わるぞ。用意はできているな?」
 もちろん、といいかけて、俺は口をつぐむ。
 俺は何かを待っていて、その何かがまだ届いていないのだ。
 困って見上げる俺の耳に、静かな声が聞こえる。温度も、表情もない声。
「早くしないと、間に合わなくなるぞ」
 はい、と、口の中で言って、俺は俯いた。
 大将は、もう、人を怒鳴ったりはしない。穏やかに注意するだけなんだけど、それが、ものすごく怖い。何だか見捨てられたような気がするんだ。
 俺が何しても大将は何も感じないんじゃないか、俺のことなんか何とも思ってないんじゃないかって、うん、怖くなっちゃうんだよな
 こうなったのは、あのときからだ。

 …天下を獲ったら、仲謀謀にやる。俺は公瑾と西へ行くんだ。
 …ええ、どこまでもご一緒に。行けるところまで。

 殿が亡くなった、あのときから・・・・・



 兵と見えたものは、旗指物と並べられた兜。
 関羽はすでに、麦城を発っていた。
「ちっ。せこい手を使いやがって・・・。どうする。追うのかよ」
「当然」
 潘璋の問いに応えた朱然が、ざっと周囲を見渡した。
「これだけ兜を並べたということは、これだけ兵が減ったということだ。十分いける」
「そうだな」
 頷いた潘璋が肩を竦め、ぎろりと兵を振り返る。
「よーし、夜明けとともに追撃を開始する。こう暗くちゃ、わけがわからん」
 同意を求める視線に頷き返し、朱然の冷静な指示が飛ぶ。
「今夜は、ここ麦城で野営!すぐ準備にかかれ!」

 …たとえこの賭けに敗れ、この身を滅ぼすことになろうとも。あの日の絆…、捨てられませぬ・・・・・!

 そう。
 猛将関羽がどれほどの難敵であろうとも。あの方のため。己の国のため。…そうして。

 …俺は嫌だ。殿と伯言が殺し合うのは嫌だ。俺が育ててきた兵たちが、仲間の誰かに向けられるのも嫌だ。

 させませんとも、子明殿…!

 兵たちが、動き始めた。



 追われる獣が激しく喘いでいる。
 馬はもう、とうに潰れた。顔も手足も傷だらけ。縺れた髯には枯れ葉、枯れ枝…、あれほど自慢の髯だったのに。
 ナゼ、コウナッタノダ。ワシハ、ナニヲミオトシタノダ?
 考えようにももう理性は働かない。
 何かを見落としていたのは確かだ。だが、…もう、そんなことより。
 大哥ニ、ワビナクテハナラヌ。ヒトコトワビネバ、死ンデモ死ニキレヌ!
 浮かぶのはただ一人の顔。遠い昔義兄弟の約束を交わし男の顔。
 せめて、…せめて、今ひと目と、思い一つで獣は走る。
 行カナクテハ。…帰ラナクテハ!
 西。蜀の国。大哥のもとへ・・・・・



「子明」
 呼んでいるのは懐かしい月光の声。
 会いたい。でも。もう少し。もう少しだけ。
 そう。
 関羽を・・・・・



 ひとは互いに思い合い支え合って生きるもの。
 誰かが誰かを大切に思い。共に生きたいと願い。守りたいと望み。夢を叶えてやりたいと希い。
 思いと思いがぶつかり合って、一方が潰えることもある。
 けれど。たとえ、潰えたのだとしても。

 …俺は、呂子明を。お前は、陸伯言を。自分はこうって思った通り、精一杯生きたら、もう、それで・・・・・

 呂子明は呂子明を。、…そうして、関雲長は関雲長を。



「関将軍と、お見受け致す!」
 藪を抜け出した獣の目に、朝日に光る刃物が、映った。
 …大哥―――!



 精一杯、力の限り、生きて、生きて、生ききったのなら。

 もう。それで―――







 北風の止んだ朝。関羽が、死んだ。