Act.2〜A.D.219 荊州
「ご気分は、いかがですかな」
「仲翔どの」
旗艦の船室で横になっていた呂蒙は、半身を起こし、入ってきた人影に呼びかけた。
窓から差し込む西日が、壁を、やわらかな色に染めている。
虞翻、字は仲翔。
学識豊かで医術の心得もある彼を、孫権は今回、呂蒙に同行させていた。
彼だけではない。今回の荊州攻めにはかなりの文官が同行している。調略の重要性もさることながら、洪水が発生している以上可能な限り早く内政を整えねばならないからと、呂蒙が特に希望したのだ。
劉備が報復に来る前に、どうしても、荊州は固めてしまわなければならない。しかし、この地は長年、劉家と孫家で奪い合いを繰り返してきた地でもある。
苦難の折に広く手を差し伸べたという実績でもないと、民の心を獲るのは難しい・・・・・
単に人道的見地からではなく、今後の戦略を考える上でも、どうでも必要な措置であった。
「この分なら、いけそうです。仲翔どのの薬よく効きますね!」
「おだてても、何も出んぞ」
誉め言葉を鼻であしらった虞翻の手が、てきぱきと呂蒙を診察し、…それでなくとも悪相じみた顔が、眉間の皺という新たな負の要素を加えた。
「どこが『いけそう』だ!熱上がってるだろうが!自分で判らんのかこの阿蒙!」
「え、でも」
慌てて抗弁するのに、押し被せるように。
「こんなで戦陣に出て何が出来るってんだ、え?!」
頭からぴしゃりと決めつけた口調は、「医は仁術」という言葉をこれ以上ないくらい裏切っていたが。
「冗談…!明日は南郡を囲もうってのに、大将いないなんて、士気が・・・・・」
「あんたは馬鹿だから自覚がないだけだ!この寒さが堪えていない筈がない!」
不満げな口元に薬湯を押しつける手は、ひどく優しい。
「馬鹿だからじゃなくて、気合いが入って・・・・・」
「ほらほら」
薬湯を飲もうとして咳き込んだ背を撫でる手の、労るような動き。
狷介だの酒癖が悪いのと、人は虞翻をとやかく言うが。本当は優しすぎるほど優しい男なのだ。呂蒙はよく知っていた。
「関羽と一戦するんだろうが。だったら体調整えとくのが向こうさんへの礼儀でもあるだろう。」
「けど…」
「あ?実は関羽が怖くて、その前にさっさと死にたい?だったら戦場に出るまでもない、いつでも私が一服盛って・・・・」
「またそんな口の悪い」
苦笑して飲み干した薬湯の苦いこと苦いこと。呂蒙のしかめ面を見て、虞翻が意地悪そうに笑う。
「子明ど・・・・・、あ、失礼。診察中でしたか」
戸口からひょいと覗いた、健康そのもののような顔。陸遜だ。
何故かその顔がまぶしく見えて、呂蒙はついと目を細めた。
「もう済んだよ。何かあった?」
「ええ」
拱手して入って来た陸遜に向かい、虞翻が不機嫌に訴える。
「伯言。この頑固者めがな、どうでも明日は先陣切って突っ込むと・・・・・」
「違う違う包囲の指揮するだけですよお!俺が先頭に立って斬り込むような場面にはならない・・・・・」
「そうなったらやる気マンマンなんだろうが!口先で俺を誤魔化そうなんざ10年早いんだ!」
図星だったらしい。呂蒙が困った顔で笑った。
…こんなやりとりが出来るのも、そう長いことではあるまい。見よ、骨と皮ばかりに痩せ衰えたあの腕を。
「実は、そのことで参りました」
突きつけられた事実から目を逸らすように、陸遜が急き込んだ調子で言った。
「もしかすると、戦にはならないかもしれません」
「殿の予測が、当たったのか?」
南郡の麋芳は関羽とうまくいっていないと、見送りに来た孫権は言っていたが。
「ええ」
身を乗り出すようにした呂蒙の手に、陸遜が書簡を差し出した。
「こちらから働きかけようと思った矢先に、先方からこんなものを寄越しました。具体的なことはまだ判りませんが、…話があるから、明朝、城の近くまで出向いて欲しいと言っています」
ざっと目を通し、呂蒙が、暫し、考え込む。
「来いというのが気になるな・・・・・」
「麋芳は降伏したがっているのではないかと、私は思いますが」
陸遜が考え深げに言った。
「…でも、それなら向こうから来るのが普通だろ?」
「それはそうですが、…攻められたという形だけ作りたいのではないかと」
「形だけ…? 降伏したけど攻められたから仕方なくだって、言い訳できるようにってこと?」
「ええ、手の者によれば、関羽は守兵を五百ほどしか残さなかったようです。そんな状態で本当に攻め込まれた場合、交渉の余地があるかというと・・・・」
「あー」
確かに。本当に戦闘になってしまったら、何も出来ないうちに城門を抜かれかねない。当然城市にも被害が出る。
「どうせその程度の数です。こちらが戦闘準備を整えて上陸すれば何も出来ませんでしょう。何かしたらしたでそのまま囲んでしまえば良い訳ですし」
「うん」
「万が一がありますから、船の方にも臨戦態勢を取らせる。それで如何でしょう」
きびきびした声に、よし、と、呂蒙が頷く。
「なんと、汚い字だ!」
呂蒙の手元を覗き込んだ虞翻が、鼻で笑った。
「こんな字を書く奴にろくな奴はおらん。きっと裏切りの相談だぞ」
「俺の字だって大差ないですよお」
呂蒙が不服そうに言う。
「そう。あんたもろくなもんじゃない。医者の言うことを聞かずに出陣するあんたもな。」
ふん、と一言、吐き捨てて。
さっさと戸口に向かう、痩せた背中。
「一度くらい、素直に、心配だって言えないのかなあ…」
その背にぼやいた声は、小さかったけれど。
「あア?」
きっと振り向いた虞翻の顔は、殺気立つほどに真剣だった。
…口デ言ッテ聞クヨウナ素直ナタマカヨ、テメエラガ!
はっと呂蒙が息を呑む。
「ごめ・・・・・」
けれど、それは一瞬。
「いや」
虞翻の顔には、いつものように、人を小馬鹿にした笑みが浮かんだ。
「ま、人は自分に見合った医者を選ぶってこった」
あんたには俺が似合いだよ、と。
ぱたりと閉まった、室の扉。
「行くなとは…仰有いませんでしたね」
見送った伯言が、ぽつりと言った。
うんと呂蒙が頷いた。
そう、…虞翻はとうとう言わなかった。
明日は寝ていろ、戦に出るな、とは・・・・・。
男には、いや、人というものには、譲れぬもの譲れぬ時がある。
己が己であるために、己の思いを貫くために、譲れぬもの譲れぬ時がある。
みんなみんな大事だという子明の思い。
どうしても。どうしても、それだけは。たとえ汚名に塗れても。たとえ命を縮めても。
判っているから。だから。
(この俺様が手伝ってやる。一日でも一刻でも長く生かしてやる。)
だが。
(本当は、俺は・・・・・)
「何やってんだ、あれ?」
呂蒙は唖然として呟いた。
南郡へと進んだ呉軍の前に出現したのは、異様な光景。
開かれた城門の前に座り込んでいる兵士。積み上げられた武器の山。
いや…、それだけなら通常の降伏の光景だったろう。
だが、見えた。城壁周辺。びっしりと張られた夥しい幕舎。
あちらこちらで上がっているのは炊事の煙か。
列をなした人々。決して戦闘要員ではない。老若男女とりまぜて、誰も彼も貧しげな身なりの・・・・・
陸遜が、眉を顰めた。
「炊き出し・・・に見えますね、どう見ても。北からの難民が流れ込んでいると聞きましたが、それでしょうか」
「凄い数だな」
何人いるだろう。1万か、2万か。いや、もっと多いかもしれない。一郡がまるごと引っ越して来たような数だ。
「これでは、兵粮を出せぬ道理です。このあたりもろくな収穫はなかったはずですし・・・・・」
こちらへ向かってつかつか歩いてくる男に気づき、陸遜は続きを飲み込んだ。
平服の男。武装はしていないようだ。どこか身なりが乱れている。日焼けした顔に厳しい色。
矢の届く頃合いまで近づいて、立ち止まった男が大声で叫んだ。
「俺が、この城を預かっている、麋芳だ。お前らのアタマに会わせてくれ!」
「あなたが、呂…将軍、か」
居並ぶ幕僚たちの前に連れてこられた男は、呂蒙の目をまっすぐに見た。呂蒙が頷くのを確かめて、ほっとしたように息をつく。
「よかった。あなたのような人で」
陸遜がまた、眉を顰めた。
どことなく着くずれた、汚れた袍。冠も曲がっているようだ。
他国の軍を率いる者との会談の席だというのに、どうしてこんな格好で来るのだろう。
先ほどの申し入れの仕様といい、礼儀を知らぬという評判通りか・・・・・
「お一人で来られるとは、なかなかの度胸ですね、麋将軍。で、お話とは?」
呂蒙の声が帯びた暖かい響きに、陸遜が意外そうな顔になる。
何故だろう、このような男に。
何か自分とは違うものが見えたのか・・・?
いぶかしげに見やった視線の先。
男・・・麋芳は、まっすぐ相手の目を見つめ、大きく息を吸いこんだ。
「南郡は、東呉に、降伏する」
掌の上に、鍵の束・・・・・
「ここにいる兵士は、俺の五百のみ。見ての通り、既に武装は解いた。城内の鍵はこれですべて開く。これでこの城はそちらのものだ。そのかわり、頼みがある!」
唐突に、跳ね上がった声。
…刺客?!
「伯言」
束にかけようと踊った手は、呂蒙の視線に止められた。
斬られぬうちにと焦ったか、麋芳が早口で喚きたてる。
「食料が足りない!疫病も流行りかけてる!何とか助けて欲しい、それを頼みに来た!」
「疫病?」
東呉の幕僚に動揺が走った。
「ああ」
頷いて握りしめられた麋芳の拳に、関節が白く浮き上がる。
「北からの難民だ。漢水が溢れて、南へ逃げてきた連中よ。喰わせるモンもろくにねえとこへ、疫病まで始まりやがった。喰ってねえから、治るもんも、治らねえ!」
その拳を、我が膝に叩きつけて。
「それがあの髭野郎には通じねえ!兵粮を出せ出せって…、喰うもんなんざもうねえんだって!この上搾り取るなんざ、俺には出来ねえ!人が毎日バタバタ死んでるってのによお!」
睨むようにこちらを見つめてきた目には、涙さえもが滲んでいるように見えた。
「まさか、そこまでひどい状況だとは…」
暗澹とした呂蒙の呟きが、静まりかえった幕舎に響く。
げっそりと、やつれた顔。
袍に飛んだ粥の染み、煤。
着崩れているように見えたのは、袖を捲り上げて働いていたため。
「ご自分で、炊き出しを…」
「南郡太守なんていわれても、俺は、見ての通りのくだらん男だ。そんなことしかできねえから…」
せめて最後の最後までと、やっていたのだ、この男は。己のつとめと信じたことを。
そちらから出向いてくれと言ってきたのは、このためだ。
自分は非礼だと思っただけだったが…、呂蒙には一目で判ったのか。
敵わない。
陸遜がぎゅっと唇を噛んだ。
「これから俺のやることは、国への裏切りだ」
溢れる言葉。溢れる思い。。
「これで俺らは荊州を失うだろう。殿は天下を獲れなくなるかも知れん。いくらあの髭野郎でも見殺しにするのは辛いし、まして殿は…、俺ア徐州から一緒だったんだぜ?」
でもよ。それでもよ。
「今、目の前で死んでく奴ら、俺は、どうでも見捨てられねえ!」
麋芳は、呂蒙の前に跪き、叩頭した。
「俺なんざ所詮は東海の悪ガキよ。頭悪イし、学もねえ。こんなときどうしていいのか、判らねえ。だから、あんたらに頼む」
こんな、役立たずの頭は、斬っぱらってくれて構わねえから。だから。
「あいつら、…あいつらを助けてやってくれ!頼む!なあ、あんたなら、判ってくれるよな?」
頼む、と、重ねて、頭を下げた、その土の上に、滴るもの。
ああ…、そうだ。彼にもあるのだ。
譲れぬもの、譲れぬ時。たとえ汚名に塗れても。たとえ命を縮めても。
荊州侵攻を決めた自分たちと同じように。
今こそが、その、時・・・・・!
降将の傍らに膝をついたのは、呂蒙であった。
「判った」
震える肩に、手をかけて。
「伯言」
「はっ」
「城の接収を頼む。それから、…疫病が発生してるんなら・・・・・」
「私が」
幕僚の中から虞翻が進み出た。
「疫病ならすぐ対策を立てないと、広がったらえらいことになる。私の仕事だ」
「頼みます」
頷いた呂蒙が麋芳の手を取り、くしゃくしゃの顔を上げさせた。
「決して悪いようにはしない。すぐ食料と医薬の手配をする。それでいいな」
あたたかく見つめてくるおおきな瞳に、降将の肩から、力が抜けた。
「済まん」
麋芳は抑えた声で言い、もう一度深々と叩頭した。
「歩いて来られたのでしたね。馬は・・・」
「喰っちまったから。馬で行くんなら、貸してもらわねえと」
あの陸遜が、絶句した。
身震いするように首を振った彼が、その場から飛び出してゆく。てきぱきと馬の手配を命じる声。
麋芳の腕をつかんだのは、虞翻だった。
「さあ行くぞ、この裏切り者。案内してもらおう」
…ちょ、仲翔さん!それは・・・・・!
ちらとあの零陵の一件が脳裏をよぎり、呂蒙はぞっと目を瞠ったが。
苦笑して立ち上がった麋芳は、激高するそぶりもみせぬ。ただ、僅かに蹌踉めいた、その足許。
…ああ、そっか。
乱暴に掴んだようでいて、虞翻の腕は、しっかりと麋芳を支えていた。
彼らしいと呂蒙の口元が緩む。
「あんた何日食べてないんだ!ろくに寝てないような顔をして!寝てない食べてないで頭が回るか!止めてくれるまともな部下もおらんようだな!」
悪態をついてはいるものの、虞翻にしては珍しいことだが、心配が素直に顔に出ていた。麋芳にはどうやらそれが通じているようで。
「悪い」
あっさり礼(らしい)を言われた虞翻が、今度は思い切り顔を顰めた。
…照れてる。仲翔さん照れてるよ!
呂蒙が笑いを押し殺す。
立ち去り際。麋芳は、強く顔を拭って拱手した。
「感謝する」
己を貫き通した者の、満足げな笑みが、そこにあった・・・・・
まるで、水上に要塞が出現したような。
曹操の水軍30万。これから、この大軍勢と、戦うんだ。背筋がぞくぞくする。何、武者ぶるいさ。何たって、俺たちの大将は、負けたことがないんだもの!
俺は、そばにいる大将を見上げる。すっごく背の高い美男子だ。色白で、鼻筋が通って、切れ長の目で。
これ言うと本人は「女顔なだけだろ」って怒るんだけどね。
「風が変わったら出航するぞ。用意は出来ているか、子明」
声もいいんだ、この人は。月光に音をつけたら、こんなかもしれないな。
「もちろん!いつでもいけますよ!」
当たり前だ。俺の船は、いつでも出航できるようにしてある。何たって、俺は、この大将の先峰なんだから。私の先峰はお前だって、いつも言ってくれるんだから。
「本当に?」
「何、念押してんですか。俺は、いつだって・・・」
あれ。
何か、忘れているような気がする。何だっけ。
長江を見る。水が…何だか変だ。きらきら光って、まるで星の川みたい・・・・・
「公瑾どの?」
どうしたんだろう。どうしてそんな心配そうな顔をする?
・・・・・
「起こしてしまいましたか」
端正な顔が心配そうにこちらを覗き込んでいる。でも。
公瑾どのじゃ、ない。
「よく眠っておられたので、このまま行くつもりでしたが…、すみません」
柔らかく、豊かな声。伯言の声だ。
ああ。そうか。
ここは、南郡で。
俺は、関羽の首を見るまでは、死ねないのだった。
「後詰めの先発隊が到着しましたので、私は、明日早々に、宜都に向かいます。そのご挨拶に伺いました。できれば房陵まで押さえたいと思っています。しばらく戻れませんが・・・・・」
陸遜は、呂蒙の口元に目を据えて言った。熱に潤んだ目をできるだけ、見ないようにして。
「房陵?そんなところまで?上庸の孟達と、ぶつかるんじゃ…」
房陵のすぐ北、上庸郡は、蜀漢の孟達が守っている。
「出てこない…と期待しているんですが。実は、上庸には、魏の息がかかっているのです」
こちらから差し向けた者が孟達と魏の間者が密会しているところを確認したと、肩を竦めて。
「こちらに寝返ってもらえればよかったのですが…、ちょっと出遅れましたね」
苦笑を浮かべた陸遜が、言葉を継いだ。
「房陵を押さえるのは、魏の調略が成功したのを見定めてからにしますから、ご心配なさらないでください。あ、水、飲まれますか」
枕元の水差しをとり、乾いた唇にあてがう。ちらっと苦笑を浮かべた口が、それでも、水を飲み込んだ。
二口、三口。
南郡に入った翌朝だった。起きあがろうとしたところで、呂蒙はとうとう倒れたのだ。
「何かとんでもなく痛いものが背骨を走り回って」いたそうで、しばらくは目を開くことすらできなかった。
あれ以来、熱が下がらない。身体を起こそうとするとまた激痛が走る。じっと横になっているしかなかった。
「情けないなあ」
呟きはそれでも、あの、秋の空のいろをとどめていて。こみ上げたものを飲み込むのには、陸家の総帥として私情を抑えるのに慣れた陸遜にとっても、いささか努力が必要だった。
自ずと、報告する声が事務的になる。
「城内は平穏です。疫病も広がらずに済みそうです。後詰めの兵が揃うのは明日の午後になるでしょう。要求した食料や薬も、その時に。殿自らのご親征ですよ」
さらっと言われた言葉に、呂蒙が、目を瞠った。
「殿が?」
「この際、荊州を完全に心服させたいというお心のようですね」
危難の折に、君主自ら慰問したとなれば、荊州の民も懐くだろう。孫権は本気で荊州を獲る気なのだ…、呂蒙の思いを汲み取って。
呂蒙にもその思いは通じたのだろう、削げた頬の線が柔らかく緩む。感情が喉から溢れ出しそうで、陸遜は急いで話題を変えた。
「それからまた関羽が使者を寄越しました。此度も荊州の者でしたので、同様の措置を…」
「効果、出てるか?」
「ええ、先方の軍はかなり痩せています。脱走の連続で収拾がつかない程だとか。手の者にも確認させました」
南郡が奪われたと知った関羽は、問責の使者を寄越した。使者は、平穏な城市の様子を見、東呉が、民を虐げるどころか避難民までも懸命に保護しているのを見て、感動した様子であった。荊州出身の男だったのである。
呂蒙はそこで策を用い、市民や避難民に、関羽軍に従軍している者への手紙を書くことを許した。親しい者たちが無事に…関羽が兵粮を無理に集めていた頃より寧ろ楽に暮らしていると知れば、士気も下がるだろうと考えての措置であった。
「兵の中に、漢水周辺の者がかなりいたようで。洪水で死んだと思っていた身内がここで無事に保護されていたわけですから、それは、戦う気もなくしましょう。策はうまくいっております、ご心配なく」
おおきな瞳がにこりと微笑み、…しかしすぐ懸念の色に染まった。
「でもさ、何でこんな早く、バレたんだろ。急報なんて、どこにも、出させてない筈なんだけど…」
気づかれぬうちに南郡を押さえるべく万全の体勢で臨んだにも関わらず、思いの外早く関羽に知られたのは、何故なのか。
「使者じゃなくて本人戻ってきてたら…、てか、なんで来なかったのか、俺判らないんだけど、…ちょっと、きつかったよな?」
「魏が…焚城の曹仁が教えたのでは?包囲を解かせるために」
「曹仁?」
「ええ。切羽詰まればそれくらいのことはするでしょう。関羽がすぐに戻らなかったのですから、焚城は相当危なかったに違いない。そう、ここで諦めるのは惜しいと思う程」
すらすらと分析してみせる陸遜を、呂蒙はぽかんと見ていたが、
「そ…っかあ。魏・・・・・」
半ば溜息のような声を出した。
陸遜の分析は、恐らく、正しい。
こちらが動くのを知っているのは、魏だ。東呉が背後を襲うから何とか持ちこたえよという指令が、前線に飛んだに違いない。
いよいよ駄目かという時に、焚城の曹仁は、それを関羽に教えたのだろう。あわよくば兵を引いてくれはせぬかと思って。
確かに、城が今にも落ちそうなのでなければ、関羽とて、策略かもしれないと思ったにしても、一応軍を返したはずだ。本当にぎりぎりの瀬戸際だったからこそ、まず使者を寄越して事実を確認させた…、それなら判る。
「お前、すごい、なあ…」
「とんでもない」
しかし陸遜は首を振った。
「あなたには、敵いません。糜将軍が…子方殿が降った時、痛感しました」
私の目には、彼はただの無礼な男にしか見えなかった。しかしあなたの目には、あの方がぎりぎりまで避難民の為に尽くしておられたことがしっかり映っていた。
「あなたには、私の見えないものが見える。私はあなたに遠く及ばな…」
「違う」
遮ったのは、呂蒙の声。
「それ、違う、伯言。敵うとか及ぶとか、どっちが上とか、そんなんじゃない」
ただ俺たちは違うってだけなんだと、掠れた、それでもあかるい声。
「そりゃさ、あれは判るよお。俺、あやって炊き出しの列並んでさ、飯貰ったことあるもん」
俺一番下からここまで来たから、と、そんなことさえも懐かしそうに。
「伯言は陸家の総帥だもん。列に並ぶどころか、現場で仕事のもいっこ上の、炊き出ししろって命じる立場じゃん。まして、江東第一の名家だし」
現場を見に来るとしても、陸家総帥が自ら炊き出しの視察に…という形にしかならないのだから。
「現場の人たちだってさ、カッコちゃんと直してきちんと挨拶して…だろ?手桶持ったままこんにちはってことないだろ?」
炊き出し真っ最中の奴とかお前見たことなかっただけじゃないかと、おおきな瞳は微笑んだ。
「どっちが上とかそんなんじゃないんだ。お前みたいな奴がいてちゃんと段取りしてくんないと、炊き出しなんてうまくいかない。でも、俺たちみたいな小作がちゃんと米作らなかったら、それはそれで炊き出すものないわけだし」
これまでそれぞれ違う役割を果たしてきたと、…ただそれだけのことなのだと。
「てか、魏のこと、きれいさっぱり忘れてた俺は、どうなんだよ」
「え」
呂蒙が小さく笑い声を立てた。
「うん。忘れてたんだ。…ほんと、阿蒙だよな、俺って」
「はあ…」
返答に困っている陸遜の瞳を、おおきな瞳がまっすぐ見据える。
なあ、伯言。
ひとりで何もかもなんて、誰にも出来ない。他の誰かになんてなれやしない。
自分に出来ることしか出来ないし、自分にしかなれない。そうだよ、それが当たり前だ。
いろんな奴がいて、いろんなことをする。それでいいんだ。それで世の中回ってるんだ。
そんなこんな、考えてさ。
もう、さ、自分を精一杯生きたら、それでいいんじゃないかって。そう思うようになったんだよ、俺。
うん。…そう思う。
俺は、呂子明を。お前は、陸伯言を。自分はこうって思った通り、精一杯生きたら、もう、それで・・・・・
「子明殿・・・・・っ」
うん、そうだ。…それでいいんだ。
命なんて、惜しくない。汚名に塗れたって構わない。
最期まで呂子明を貫き通せたら、…俺はもう、それだけでいいんだ。
「俺、みんな、好き」だった、呂子明というこの男を。