Act.2〜A.D.219 荊州



 長江に並んだ、軍船の群。旗艦に翻るは、呂蒙の牙旗。
 同じ「呂」の旗であっても、これが「男には華がなくては!」が持論の呂範の部曲(部隊)であれば、華やいだ装飾のひとつもあるだろうに。
 ひたすら実用一辺倒で揃えられた船団は、質素を通り越してみすぼらしくさえ見えた。
「殿!」
 からりと晴れた秋空のような声。呂蒙が渡し板を駆け下りてくる。
「わざわざ見送りに来てくださったのですか」
 ぱしっと音を立てて拱手する、きびきびした動作、愛嬌のある笑顔。
 …寒くなったからと案じていたが・・・・・。
 孫権は、安堵の吐息をついた。
「元気そうだな」
「戦になると、元気が出てくるんです。昔から、そうでした」
 強い光を宿した目が、まっすぐこちらを見つめてくる。
 胸に刺さった何かから目を背けるように、孫権は傍らを振り返った。
「関羽は狙いどおり、南郡と公安の守備兵を引き上げたそうだな。お前一体何と書いてやったんだ、伯言」
「え」
 軍装の美丈夫のきりりとした顔に、珍しく困惑の色が浮かんだ。
「えと、一介の書生にすぎない無能な私が、思いもよらぬ大任をおおせつかり、もうどうしてよいのかわかりません?」
 少し掠れたあかるいいろの声が、からかうように言い。
「はあ?」
 孫権の目の方が丸くなる。
「関将軍は歴戦の勇将、こんな方がお近くにおられて本当に心強いです。どうか、愚かな私に武将の心得をお教えください。こんな感じだったっけ?」
「武将の心得!陸家の総帥がか?」
 ぶっと孫権が吹きだした。
 ここは笑うところだ。笑うしかない。
 卓抜した政治力で東呉の屋台骨を支えてきた江東一の豪族の当主が、無能だの武将の心得を教えろだのと!
 陸遜は憮然としているが、…いくらなんでも、それはない。
「策だから仕方ありませんでしょう!」
 孫家の娘が陸家に嫁ぐという、一連の流れの中で発表された人事。
 呂蒙の後任として陸口に入るのは、最近孫家の婿になったばかりの若輩。関羽は、孫権が身内を引き立てたくて馬鹿な人事をしたとたかをくくったらしい。
 そう思わせようというのがこちらの策だった。策は見事に嵌ったのだ。
 そこへ駄目押しのようなこの手紙。武将としての心得から尋ねなければならない若造が、自分の背後を突くはずがない。
 安心しきった関羽は、心おきなく、南郡と公安の守備兵を引き抜いた。
 十分な兵力を得た彼の軍は今、北荊州の中心、魏将曹仁が守る樊城を攻めている・・・・・・
「ここまでは、うまく嵌っているが・・・これからだな」
 これからだ。
 これから東呉は蜀漢との同盟を切り、関羽の背後を衝く。
 この軍は、その為に動く軍・・・・・・
「ああ、湘関から、知らせが来たぞ。関羽のヤツ、あそこの兵粮集積所を襲ってな、糧秣を奪っていきやがった。」
 今度は呂蒙が目を丸くした。
「殿の許可もなしに?何でまた」
 今の時点では同盟国なのだから、いきなり襲うようなことをせず、まずこちらに許可を求めるのが筋だろうに。
「このあいだ、奴が于禁を捕らえたっつってたろ?あれで軍が2万人ほどふくれあがったらしいが、どうも、南郡が全く兵粮を送らんらしくてな」
「全く、って…、文字通り、ですか?」
 呂蒙と陸遜が顔を見合わせる。
「おう。それで、軍が餓えて、断る余裕もなかったんじゃないか。だから、借用・・・てか強奪だな、ありゃ。怪我人も出てるからな」
 これで、同盟を破る大義名分が出来たようなものだけれども。
「確かに、今年は天候不順で、荊州の作柄はよくないようですが・・・・・」
 陸遜が、首を傾げた。
 于禁は曹操のもとでかなりの功績をあげてきた将だ。その彼が関羽にあっさり捕らえられたのは、漢水が氾濫し、軍が泥の中で動きが取れなくなったからだという。
 言い換えれば、川が氾濫するほど雨が多かったということだ。
「あ、うん。避難民がかなり南下してるって聞いた」
 脇から呂蒙も頷いた。
「兵糧、出そうにも出せなかったのかな…」
「いやあ、どうかな」
 しかし孫権は慎重である。
「麋芳ってのは、兄姉の七光で出世した無能な男で、若い頃はヤクザ者の仲間に入って親を泣かせていたとかいうぞ」
 日頃から無礼な言動が多く、関羽とは何かと衝突していたらしい。
「腹いせにやったんじゃないかって声もある。ま、決めつけるのもなんだが…、案外、蜀の扱いが不満で、呉に寝返りたいのかもしれん。心しておいてくれ」
「心得ました」
 二人の将が頷いた時。
「呂将軍!全船、出航準備、完了しました!」
 旗艦の船上から、声が呼んだ。
 呂蒙の目が、孫権に向けられた。痛いほどまっすぐな、おおきな瞳。
 蒼い目が視線をしっかりと受け止め、信頼を籠めて見つめ返す。
 微笑んで。
 ひとつ、拱手して。
 渡り板を駆け上がる痩せた背中を、孫権の視線が追いかけた・・・・・



 長江に並んだ、軍船の群。旗艦に翻るは、「呂」の牙旗。
 (銀河ニ並ンダ、軍船ノ群。旗艦ニ翻ルハ、「孫」ノ牙旗。
 楼台に立つ大将は、育ちきらなかった子供のような背丈。おおきな瞳を輝かせ、腰に手を当てて薄い胸を張って。
 (楼台ニ立ツ大将ハ、子供ノヨウニ無邪気ナ顔。逞シイ腕ヲ分厚イ胸ノ前デ組ンデ。)
 その傍らで指揮を執る、颯爽たる美丈夫。気遣うように大将を振り返った彼に、大将はひとつ頷いてみせた。
 (斜メ後ロニ控エタ、銀ノ甲冑。風ガ散ラシタ乱レ髪。端麗ナ美貌ノソノ武人ヲ、大将ノ陽気ナ笑ミガ振リ返リ。)

 頷き返した美丈夫の右手が。(微笑ミ返シタ武人ノ右手ガ。)
 高々と。(高々ト。)

 「出航ーっ!」(「出航ーッ!」)

 船は、一斉に動いた。
 数えきれぬほどの軍船の群れが。秋の陽に煌めく水面を分けて。
 銀河を押し渡るかの船団の如く。一糸乱れぬ美しい動き。
 孫家のために戦い続けた男の、さいごの出陣。
 …子明!
 声に出さぬ叫びが聞こえたとでもいうのか。
 呂蒙がぱっとこちらを見て、痩せた腕をぶんぶんと振ってみせた。
 焼き付けておこうとしたその姿が、滲んで・・・・・

 そっと目を拭って見直した時。船団は、もう、遠くなっていた。





 同じ頃。
 長江のはるか上流を、一艘の商船が遡上していた。
「おーい、そこの船!止まれ!こっちに寄せろ」
 船頭らしいまだ若い男が、露骨に嫌そうな顔をした。日に焼けた顔の中で、切れ長の目が、どこか剣呑な光を帯びる。
 それでも彼が振った手に、船は機敏に向きを変えた。
 岸に近づいた所で、若者は、不機嫌を露わにして喚いた。
「何回船を止めれば気が済むんスか、おたくらは!」
 蜀漢軍だか何だか知らねえけどよ、こっちの積み荷は干し魚なんだよっ!
「のたのたしてたら傷んじまわあ!そうなったら弁償してくれんのかよ!」
「るせえ、こっちも仕事なんだ!船ア全部止めて中を確認しろって命令が出てんだよ。ぐだぐだ言ってる間にさっさと板を渡せ」
 船頭らしい若者が大きく舌打ちをし、…しぶしぶのていで渡り板を渡した。大きな足音を響かせて、検問所の兵たちが船に乗り込む。
 むわっと鼻をつく魚の臭いに、顔を顰めて。
「馬鹿だぜ、こいつら。袖の下でもちょっと渡してくれたら、見逃してや…っ!」
 嘯きかけた兵の言葉は、くぐもったようなうめき声になって消えた。
 荷を覆っているとしか見えなかった筵の下から突き出た槍が、いきなり胸を貫いたのだ。
「お…」
 狼狽えた仲間の兵が何かを言うより、さきの若者が、どこに隠し持っていたのだろう、短剣を抜く方が早かった。
「かかれーっ!一兵も逃すなっ!」
 別人のように機敏な動き。水面に響いた叱咤の声。
 筵の下から船倉から、わらわらと兵が湧き出した。
 船に乗り込んできていた敵守備兵が、血飛沫とともに倒れ伏す。切れ長の目がちらりとそれを確かめ、大きな鳥のように岸へと飛んだ。
 湧き起こる、剣戟の渦。
 ざっと、翼の音がした。
 刃の触れ合う音と光に驚き、水鳥が一斉に飛び立ったのだ。
 追いかけるように水面を走った、男どもの悲鳴と喚き声。
 だが、…それも、束の間。
 もとより見張りのためだけに置かれた兵。東呉の精鋭の敵ではない。その上不意をつかれたのだ。狼煙を上げる間とてあろうはずがなかった。
「何回同じ手にひっかかれば済むんですかねえ、おたくらは」
 切れ長の目の若者の唇が、嘲るように吊り上がった。
「校尉どの!全員、片づけたぜ!逃げた奴はいねえ!」
「よし、よくやった!怪我人はねえか」
「そんなトロい奴がうちの船にいっかよ!なあ?」
 弾けるような笑い声。
 校尉どのと呼ばれた若者…丁奉は、顔に飛んだ返り血を、ぐい、と押し拭い、身軽く船に飛び乗った。
「これで三つ目か。公安まで、検問所五つだったよな?」
 検問所さえ潰してしまえば、東呉水軍が長江を遡上していると南郡に伝える者はない。
 関羽の本拠地・南郡を急襲する…、その電撃作戦の最も重要な部分を、この若者の隊が担っていた。
 懐から地図を取り出して。現在の位置を確かめて。
「うん。あと二つ。軽い軽い」
 にやりと笑った日に焼けた顔に、部下のひとりが声をかけた。
「校尉どの、その表着、替えた方がいいっすよ。だいぶ血が飛んでらあ」
「ああ」
 兵が持ってきた表着を受け取って、丁奉は思い切り顔をしかめた。
「やっぱ、臭うなあ・・・・・」
 古参兵らしい男が不満げに頷いた
「言いたかねえけど、校尉どの、積み荷、干し魚でなきゃ駄目だったのかねえ。ちゃんと臭いもさせとかなきゃやばいってなあ、判るけどよ」
 確かに、目くらましのため、本当に干し魚を包んでいた筵を使っているので、船の中の臭いときたら相当なものであった。
「あんときゃ他に思いつかなかったんだって。俺も今、酒にしときゃよかったって思ってんだ」
 情けなさそうな答えに、湧き起こったのは、爆笑。

「おっしゃあ!あと2つサクっと片付けて、この臭えのとおさらばしようぜ!」
「おーっ!」

 商船を装った東呉の先鋒隊は、意気揚々と次の獲物にむかって行った・・・・・





 彼らが目指す南郡の守将は、麋芳。






「兵粮を、一万石だとオ?」
 怒りに任せて叩きつけた竹簡。湿った石畳に一筋、白い傷。
「馬鹿か、あいつは!」
 命令書を持参した使者が息を飲み、おずおずと麋芳の顔を見上げる。
「あの…」
 どこか気遣わしげなその視線に、頭に昇った血もいったんは冷えたが。
「ああ、…お前のせいじゃあねえ。お前が悪いんじゃねえが、しかしな」
 言葉を紡ごうとすればまた、腹の底が煮えるような気がする。
「漢水が、溢れたんだぞ?!それがどういうことか!お前も、ここまでの道中で見ただろう?!」
 どれだけの人間が、この洪水で、土地を家を生業を失ったか。
 食を求めて彷徨う民。蹌踉めくようなその足取り。
 目ばかり大きく見開かれた顔。枯れ木のように痩せた手足。
 母親の腕で力なく泣いている、病的に腹ばかり膨れた赤子・・・・・

「飢えた連中がこっちにまで流れ込んで来てんだ!この辺だって雨続き、ろくな収穫なかったってえのに!」
 麋芳の唇がわなわなと震えた。
「あいつらからまだ搾り取れっていうのかよ!あいつらは飢えてもいいって言うのかよ!自分の軍さえ食えりゃいいのかよ!」
 戦しか能のない馬鹿野郎めと、ここにはいない男に悪罵を浴びせて。
 しばし、身を震わせた後。
 気を呑まれて立ちつくす使者に向かい、麋芳はすっぱりと頭を下げた。
「お前たちには、申し訳ない。だが、兵粮は、出せねえ。出そうにも、ねえんだ。…許してくれ。」
 言われた使者の顔が、ぎゅうっと歪んだ!
「お止めください、将軍!」
 音が出る程の勢いで、首を振って。
「お気持ちはよく判ります。仰有るとおり、私も、見ました。力つきて倒れた死体が、道端に、幾つも…。私の知っている者も」
「お前、荊州の出か」
 それ以上言えずに言葉を切った震える肩を、麋芳は、慰めるように叩いた。顔を背け、そのまま座り込む。
「俺は、太守失格、だな。大局から言やあ何としても命令通りにしなきゃって判んだよ。判んだけどよ、…けど、出来ねえ!」
 俺にはどうしても出来ねえんだと、ごつい両手が、顔を覆う。
「麋将軍・・・・・」



「将軍っ!大変ですっ!」
 救われぬ沈黙を破ったのは、駆け込んできた見張りの兵。
 引きつったその顔を見ただけで、何やら用意ならぬ事態だと知れた。
「どうした!」
 麋芳が勢いよく立ち上がる。
「と、東呉が…!東呉軍が来ました!」
「はア?!」
「東呉の船隊が、長江を塞いで…!」
「なんだって?!」



 見張り台まで一気に駆け上がったら、息が切れた。
 …くそっ。喰ってねえからだ。
 麋芳は兄の麋竺とは違い、間違っても君子の評判を取れる柄ではないが。
 洪水を逃れてきた飢民を横目に見ながら自分だけはしっかり腹一杯食べる、そんな神経を持ち合わせている男ではない。
 特に、ここ数日は、寝食を忘れて動き回っていた。避難民の間に疫病が発生したからだ。
 城壁のそばにずらりと並んだ、避難民の為に用意した幕舎。疫病が城内に入らぬよう、彼らはそこに収容している。
 並んだ幕舎の向こうには、長江が見える、筈だった。
 だが・・・・・

「うっ・・・」

 河面が見えぬ程に並んだの軍船の群。秋の風に翻る赤い旗。
 黒く染め抜かれた文字は、「孫」。
「東呉が、なんで。狼煙は・・・?長江の見張りは何やってたんだ!」
「狼煙はあがりませんでした。私にも、何が何だか・・・」
 見張りの兵がうろたえた口調で応えた。
「東呉め、何か、しやがったな」
 舌打ちして麋芳は踵を返した。
「しょうがない。来ちまったものは来ちまったものだ。ええもう、守兵を引っこ抜かれてなければなあ…」
 呂蒙の後任は、武人ともいえぬ若僧。背後を突かれる心配などない。関羽はそう言い切ったのに。
「ち…っきしょう・・・・・」
 自分たちは、嵌められたのだ。
「すぐ、斥候を出せ。東呉がどれくらい連れてきたか確かめる。それから、関将軍に早馬…」

 言葉は、唐突に途切れた。

「いや待て!」

 飛び出しかけた伝令の肩を、掴んだものは、冷たい手。
 その手が細かく震えているのを、伝令兵が訝しげに見る。
「…将軍?」

「あれだけの軍船を動かせるってこたア・・・・・・」

 震えていたのは、手だけではない。呟いたその声もまた。
 青ざめた麋芳の目の前を、数日来目にしてきた光景が過ぎる。
 乳の出なくなった胸に死んだ赤ん坊を抱いて、どうしても放そうとしなかった若い女。
 おっ母を頼むと息絶えた若者の、縋りつくように震えた手。
 小さな弟妹が食べ終えるまで与えられた粥に手をつけようとしなかった、あの少年の親は死んだのだった。
 目ばかり大きく見開かれた顔。枯れ木のように痩せた手足。病的に腹ばかり膨れた赤子。今にも途切れそうな弱々しい泣き声・・・・・
 天井が、ぐるりと廻った。
 今度浮かんだのは、近しい者たちの笑顔。
 蜀漢の重臣として成都にいる、兄。劉備夫人であった、亡姉・・・・・

 判っている。判っているのだ。
 救援を求める使者を立てるべきなのだ。かなわぬまでも一戦するべきなのだ。避難民の手にも武器を持たせるべきなのだ。枯れ枝のようなあの手にも。
 けれど。けれど。…けれど!

「…喰い物は、…あるんだよ、なア。…東呉にはよ・・・・・」

 …できねえ!兄者、姉者、…できねえ!目の前で腹減らしてるあいつらのこと、俺ア、どうでも見捨てらんねえ!

「将軍!」

 いつか廻りに兵が集まっていた。麋芳自身の子飼いの兵たちが。
 不安げに自分を見上げてくる、顔、顔、顔。
 そのひとつひとつを覗き込んで。

「おまえら、許してくれるか。俺が、何をしても・・・・・」

 …許してくれ、兄者、姉者、…殿…っ!

 どこからか起こったすすり泣きの声を、秋風がさっと吹き払う。

 麋芳の震える唇は、取り返しのつかぬひとことを押し出した。