夜の闇。
 仄白く、河は輝く。天空を横切る、銀の河が。
 その煌めきは星々の輝きか。それとも永遠なるものの栄光が、天をゆく水に照り映えているのか。
 煌めきを分けて、船がゆく。数えきれぬほどの軍船の群れが。
 旗艦に翻る旗は、赤。赤字に黒の、「孫」の旗。
 逞しい腕を分厚い胸の前で組んで、満足げに頷いた男は総大将か。
 雄々しい顔に浮かんだ笑みに、子供のような無邪気さがある。
 斜め後ろに控えた銀の甲冑…、そちらが船団を指揮する武将であろう。
 端麗とでも言うしかない美貌の額に、一筋乱れた髪が落ちた。
 勢いよく振り返った総大将。その陽気な笑みに頷いてみせて。

 …出航ーっ!

 月光は声となり闇を斬る。高々と上がった将の右手。その右の手の促すままに、船はゆく。東呉の船が。
 一糸乱れぬその動き。眩しい光の軌跡を描いて―――
 

 
「殿?」



 呪文は、破られた。
 己が船を出すべきは、かの、煌めく銀の河ではなく。
 己の肩が担うべきは、その、銀の河を渡る船団ではなく。
 あの懐かしい無邪気な笑みに端麗とでも言うしかない美貌にもう一度巡り会うその日までに、己には成さねばならぬことがある。
 …もう!しっかりしてよ兄上!人事を尽くさずして天命を待つなって言うでしょ!
 間違えて覚えたままの言葉で(いや、彼女のことだ、わざとに間違えていたのかもしれないが)諫めてくれた妹も、もういない。
 俺が、やらなければ。
 いや・・・・・

「伯言」

 俺たち、だよな。
 苦笑を浮かべた孫権は、自室に陸遜を導き入れた。



Act.1〜A.D.219 建業



 建安24(A.D.219)年、7月。
 劉備は、宿願ともいえる漢中の確保を果たし、自ら漢中王を称した。
 それに先立つ戦いの中で、曹魏は、曹操に当初から付き従ってきた従兄弟の勇将・夏侯淵を失っている。
 曹魏の勢いに翳りが見えた。誰もがそう思った。荊州を任されていた関羽も、また。
 時の勢いは、こちらにある。この潮を逃せば次はない。
 そうして関羽は出陣した。
 目指すは北。曹仁が守る、樊の城へと。
 彼が本拠の南郡を空けた今こそが、呉にとっては、荊州奪還の絶好の機会…の、筈、なのだが。

「留守番のひとがいっぱいいて邪魔なんです、だと」
 困ったように瞬いていたおおきな瞳を思い出し、孫権は寂しげに微笑んだ。
「相変わらずですね、あの方は」
 悪戯を目論む子供のような言い方は、陸遜の口元をも緩ませたが。
 それを発した瞳の主の、この夏以来の窶れようを思えば。
「今関羽は、南郡に万余の守兵を置いて我らに備えておりますと…、そのように仰有ればよいものを」
 どこまでも阿蒙でいらっしゃると浮かぶ筈だった微笑みは、どこか歪にゆがんだまま、横顔の影に消えるしかない。
 そう。
 別れの日は、近いのだ。
「俺なんか阿蒙なんだから絶対関羽油断すると思ったんですけどって、真剣に首傾げてやがってな」
 ほろ苦い口調で孫権は言った。
「零陵の一件が響いてるんじゃないのかって言ったら、情けない顔で眉下げてさ、あーやっぱわるいことしちゃだめですねえ、って」
 それでも今はやらなきゃしょうがないんだけどと、きっぱりと言い切った掠れた声は。
 同盟相手を裏切ろうとしている今さえ、秋空のように澄んだあかるさを帯びていて。
 俺たちの国の為に全ての泥を被ってゆく覚悟でいやがるんだと、孫権の胸を震わせた。
「…零陵。そうですね…、零陵。あれもまあ、詐術に近いものがありましたから・・・・・」
 先年、零陵を開城させた時。呂蒙は、偽りの情報を掴ませて城門を開かせるという、騙し討ちともいえる手段に訴えた。
 守将の赫普の死は、策に乗せられた己を恥じてのもので、呂蒙自身は彼を殺そうとまでは思っていなかったようだが。
「そうですね、…あの件が響いているのは、間違いないかと」
 陸遜の口調が苦みを帯びた。
 呂蒙という人物をよく知っているだけに、関羽も彼のことなら信用するに違いないと、つい、頭から決め込んでしまったが。
 関羽にしてみれば呂蒙は零陵を策に絡めて開城させた将。
 その彼が陸口でこちらを窺っている以上全軍で北上するわけにはゆかぬ…、そう関羽が判断したのは、寧ろ、道理だ。
「これ以上の好機はないのですけれどねえ…。敵も、一枚岩ではないようですし」
「そうなのか?」
「ええ。他の将たちが関羽に反感を持っているようです」
 孫権が考える顔になった。
「仁(弓腰姫)がよく、関羽は半端なく誇り高い男だと言ってたが、…傲慢な振る舞いでもあったのか?」
「傲慢、というか…」
 陸遜の眉間にも皺がある。
「今回の北進にあたって、兵粮や兵のことでかなり無理な要求を出し、要求を呑まなかった者たちには、戦が終わったら厳罰に処すると脅しをかけて行ったとか…」
「それは…、曹操が相手だと思えば俺だって、一兵でも多くかき集めたいと思うだろうが、・・・・・・兵糧?」
 おい、と。
 孫権が身を乗り出した。
「そういや、…あれだよな?今年、春先からずっと、江の水位、高いよな?」
「ええ」
 言われた陸遜も頷いた。
「上流で相当の降雨があったものと思われます。先日も、このまま秋の嵐を迎えたら堤防の弱いところが決壊する虞があると、曼才殿が…」
「ああ、その件は聞いている。今点検を急がせて、…もう何カ所か修復の指示を出したが」
 下流のこちらにまで影響が出ているのだから、…上流では相当酷い状況になっているのではないか?
 こちらでは、水位こそ上がっているものの、天候自体に問題はなく作物の生育も順調だが、…上流では?
 雨が多かったということは、必然的に、日照が不足したということで、…ならば、作柄は・・・・・
「傲慢ゆえに反感を買ったのではなく、…本当に無理を押し通そうとしているのか?」
「恐らく…」
「何故」
 ここまで、漢室復興と仁の文字を旗印にしてきた劉備が、何故、そこまで民に負担をかけるようなことを。
「蜀漢にとっても絶好の機会なのは確かなのですよね…」
 夏侯淵を討ち取られ漢中を失った曹操、彼の力に翳りが見えている今なら。
 逆に自分たちは勢いに乗っているのだから、この潮を、うまく掴めば。
「以前お話いたしました、洛陽での謀叛の話。…あれもどうやら動き出しそうですし」
 曹操が誘いの隙を作っている、謀叛を起こさせる気でいると、…前に、二人で話し合ったことがあったが。
「糸を引いているのは蜀漢か」
「はい」
「お前はやり方がなっちゃいない上手くいくわけがないみたいなこと言ってたが」
「ええもう全然です。全然ですが、同時に蜀漢が本格的な攻勢に出るのなら」
 そんな連中の起こす騒動でも多少は役に立ちましょうと、せせら笑うような口調で言って。
「関羽は、武人ですから。目の前の民がどうであれ、劉備の天下の為には今兵を動かさねばならぬ。そう思ったのでしょうね」
 戦う、という主題だけを追求するならば、彼の目は間違ってはいない。…間違っては、いない、のだ、けれども。
「補給を担当する文官たちが、その目を共有出来るかというと…、どうでしょう。もし、水害が起きているのだとしたら…」
 堤防修復の為の人夫が必要だろう。水損した農地の手当や被災民の庇護も必要だろう。
 そこで、戦をするから兵と兵糧をと言われて、果たして、出せるのか、それが。
 いや、…出すことは、正しいのか。
 如何にそれが国家の大計、漢室復興の大義の為であっても・・・・・
 ふっと、孫権が笑った。
「まあ、今は、荊州の民の心配をしている場合ではないな」
 この絶好の好機に荊州を何としてでも奪還しなければ。
 東呉は内乱の巷という、なまじな水害よりも悲惨な状況に陥りかねぬ。
「その状況なら、関羽としても、南郡の兵を手許で使いたかろう」
「ええ、…殿が仰有った通り、曹操を相手にするのですから、少しでも兵力が欲しい筈です」

 目が、合った。
 
「…行けと?」
 
 陸家の旗は、これまで一度も、外敵相手の戦場に翻ったことはない。
 孫家の敵は外にばかりいたわけではないからだ。
 外敵との戦の間揚州に留まり、豪族たちの不穏な動きを抑えてきた…、それが陸家。
 関羽は己の武を恃む誇り高い男。恐らく、揚州の内情には疎かろう。
 恐らく彼は、陸伯言の名を知らぬ。
「そうですね、…私が陸口に入り、若輩ゆえと口先でうまくあの者をおだてあげれば、関羽も油断するかもしれませんね」
 油断して、守兵を引き上げ、北に連れて行ってくれれば。それをみすまして一気に攻め込めば。
「満足な兵力もなしに残された連中が、今の状態で、我らに抵抗するとは思えない」
 そうなれば、関羽の軍は孤軍となる。呉と魏の間で孤立する。
 いかな猛将関羽といえど、孤立させ、補給もない状態に追い込めば。
「…討てぬ筈はございませんね」
 孫権がきっぱりと頷いた。
「問題は豪族たちの動きだが、…俺が、荊州を奪還し江東に割拠すると宣言すれば、暫くは動かないのではないか」
 彼らの心が離れたのは、孫権が、劉備に振り回されているように見えたことが大きいのだから。
「ええ・・・・・、ですが」
 名も知らぬ者のいきなりの抜擢となれば、関羽も不審に思うであろう。
 調べれば、すぐに判る筈だ。…陸遜が、江東第一の大豪族・陸家を率いる総帥であることは。
 そうなった時・・・・・
「その者が、孫家の婿であってもか?」
「婿?」
 きらり。陸遜の目が光る。
「兄上の娘な、…何つっても赤ん坊だったからな。正式の婚儀はまだだろ?」
 それを今、盛大に執り行い。
 一連の流れの中で、陸遜に辞令を出せば。
 身内可愛さに孫権が馬鹿な人事をしたと、…関羽はきっと、そう思う。
「なるほど・・・・・」

「行ってくれるな、…陸家の総帥」

 孫家の為に、頼むのではない。
 この江東を護る為。この地を安定させる為。
 …俺、みんな、好きですから。みんなに殺し合いなんて、させたくありませんから。
 秋の空のような声で言い切った、あの、真っ直ぐな、おおきな瞳。
「子明に応えられなければ、俺は男ではない。伯言、頼む」

 俺に、力を貸せ。

「言われるまでもございません」

 我らは陸家。この江東を護る者。
「この地に乱を許し、互いの恨み憎しみで呉会の海を穢すなど、…陸家の総帥として許すわけには参りませぬ」
 だいいち。
 …この陸伯言が…、陸家の総帥が、呂虎威将軍に申し上げているのです!私がおりますと!
 己の言葉ひとつ守れずして、何の陸家か、何の総帥か。
 己はあの日。誓ったではないか。
 呂蒙の策。
 たとえあの、おおきな瞳が、策の途上で閉ざされたとしても。
 この陸伯言が、否、我ら陸家がその総力を挙げて、どんなにしてでも成功させると。
 劉備の軍にこの東呉の地は一歩たりとも踏ませはせぬと…!

「ありがとう」

 頷き合った、両家の総帥。
 どこか辛そうだった孫権も、やっと晴れ晴れとした笑みを浮かべた。
 だがしかし、…敵は劉備だけではない。
 より難敵なのは、言うまでもなく・・・・・
「それで、…魏の方は」
 孫呉と蜀漢の争いに、曹魏が手を出してくるようなことになれば一大事だ。
 よもや、漢室復興を謳う蜀漢と組むことはないだろうが・・・・・。
「うん」
 懸念を浮かべた陸遜に、孫権はもう一度頷いてみせた。
「実は、曹操から書簡が来てるんだ。関羽を挟撃してくれれば、樊城以南の領有を認めると」
「ほお」
 ここまで打ってきた曹操懐柔の手が、効き目をあらわしたということだろうか。
「やはり、曹操も、考えているのですね。関羽を討てば、劉備が報復に来ると…」
「ああ、…だが、それにしてもだ。随分と弱気になったものだと思わないか」
 あの、乱世の奸雄ならば。
 劉備ごときが何をほざくと、鼻で嗤ってもよさそうなものなのに。
「漢中で戦った蜀漢の軍に、…かなりの手応えを感じたと?」
「実際、夏侯淵が死んでいるからな。…旗揚げ当初からの家臣だ。曹操としては片腕をもがれたような気持ちなのだろうが・・・・・」
「それだけとも言えない?」
「うん」
 そこにあるのはやはり、老いではないのか。
 呂蒙がかねがね言っていたように、曹操の寿命が尽きるのは、そう遠い先ではないのではないか。
 ならば、やはり。
 今この時が、この国を建て直す為に、天から与えられた最後の機会。
 この好機を逃してしまったら、最早東呉に明日はない。
 ひとつ、唇を噛みしめて、孫権は決然と口を開いた。
「・・・曹操には、諾と、返事をする。陛下の思し召しに従い、臣権、関羽を討伐いたします、…てな感じでな」
「臣…?!」
 陸遜の眉が吊り上がる。
 曹操に臣従する形を取るのか。
「殿!なにもそこまでなさらなくとも・・・」
 一時的な形だけのこととはいえ、そこまで彼はするというのか。
 己の誇り己の面子を擲つ、…そうしてまでも、この国の為に。
「実際問題、曹魏と蜀漢、一度に相手にはできないからな。臣従の形を取れば、向こうも、そう簡単には攻め込めないだろ?」
 劉備の全軍を引き受けたその後で、曹魏の軍と戦う力が、果たしてこの国に残っているだろうか。
 国を滅ぼす為の戦ではない。国を護り国を建て直す為の戦なのだ。
 やり直しのきかぬただ一度の好機、何としてでもものにしなければ・・・・・
「殿」
 お覚悟、身に沁みましたと。
 豪華な笑みを端正な顔に湛え、陸家の総帥は一礼した。
「そのお覚悟であれば、必ずや、この策、成功いたしましょう」
 赤壁で。
 黄蓋が…、かの老将が言っていた。
 己の為ではなく、皆の為を思ってすることには、きっと祖霊の加護が得られると。
 そうして、あの日の火計は、事実、無事に成功を収めたではないか。
「ああ」
 そうともと孫権は頷いた。噛みしめるように頷いた。
 己自身の中に保身の思いがないとはいわぬ。ひとはそこまできれいにはなれぬ。
 だが。
 …俺、みんな、好きですから!
 あかるい響きでそう言って、笑って見せたあの、おおきな瞳。これはあの瞳が立てた策。
 天があの瞳を見捨てるわけがない。瞳の主が好きだと言った、この地を見放すわけがない!

「曹魏は、俺が、来させはしない。おまえは、…蜀漢を頼む」
「はい」

 策は成る。きっと成る。
 俺たちは、間違ってはいない。