Act.5〜A.D.217 長江
気心の知れた相手と酒を飲んでいた。
自然に話題はその方向に流れた。
先頃埋葬された魯粛と、彼に殉ずるように長江に沈んだあの姫君と。
「ひめさまほんとに子敬さんが好きだったんだねえ」
「そうだなあ、最後の頃なんざもう目のやり場に困るくれえだったもんなあ」
「いやあンなもんずっと前からだよ、なあ、子明?」
「そうだよ。そもそも子敬さんの策でなかったらさ、ひめさま劉備んとこなんか絶対行ってないよ」
「だよなあ親子くらいトシ離れてるもんなあ。ったく、あの野郎、東呉一いい女を…」
「んなこと言ってっとまた女房に怒られっぞ、公奕」
「るせーな放っときゃいいんだよあんな女!」
4人は4人それぞれに、死んだ2人を悼んでいた。思いは様々であろうとも、4人ともに彼らが好きだったのだ。
だから。
「…いろいろあったけど、劉備だってさ、ひめさま、大事だったんだろうな」
周泰がそう言ったのはただ、彼女は不幸だったわけではないのだと…彼自身がそう思いたかったからなのだろう。
「冗談!お前あいつが逃げて来た時に会ってねえからだよ!お前、あっちの嫡男人質にして国境まで逃げて来たんだぜ?常山の子龍とやらが手助けしてくれなかったらどうなってたか…」
「けどそれあれだろ?劉備が益州に出て留守だった間の話だろ?廻りはどうだったか知らねえけど、本人は、大事に思ってたんじゃねえかなあ」
そうでなければ、日頃口の重い周泰が、あえて甘寧に逆らう筈はない。
逆らって、そうして。彼はひとこと、言ったのだ。
「でなかったらさっさとひめさまのこと自由にしてやってたって」
「え?」
ゆっくり瞬いたのは、おおきな瞳。
「自由って、なに?」
「夫婦の縁、切らなかったろ?」
「え? なんで? 別れたんでしょあのふたり?」
「いいや?」
ぴりりと、何かが震えた。
「幼へ…」
蒋欽が慌てて止めようとした。だが、もう、遅かった。
実直で誠実で気のいい周泰という男は、その代わりどうしようもなく鈍感であったから。
「離縁状寄越さねえって、殿、困ってらしたもん」
「離縁状?!」
聞いた瞬間呂蒙は凍りつき、甘寧は甘寧で逆上した。
「何だよそれっ!出戻って来たとこで縁なんざ切れてんだろうが!何でそんなもんが要るんだよっ!」
いきなり胸座を掴み上げられ、周泰が目を白黒させた。
「え、…お、…おれ・・・・・」
「興覇」
慌てて宥めに廻ったのは、所帯持ちの蒋欽。
「そういうもんなんだって!別れ話ってえのはちゃんと両方が納得してねえと別れたことにはならねえんだって!」
「あア?!」
「そうだろがよ!俺らみてえなもんでも、あー、例えばうちのアレが勝手に男作って飛び出したとすんだろ?そら当然俺ア怒るわな?殴り込みのひとつもかけるわな?血イ見るだろ…」
「そらア浮気の話だろうが!」
「だからよっ!俺が『テメエは俺の女房だ!』っつって世間様もそう思ってるうちは、例えアレが本気で心変わりしてても浮気ってことになっちまうんだっつってんだろーがよ!」
「・・・・・!」
甘寧の手が、周泰から離れた。
「だろ?な?離縁状つか…何でもいいけど俺がよっしゃもう縁切りだ再婚でも何でも好きにしろって世間様も認める形にしてやらねえと別れたとは言えねえ。そーいうもんなんだよ」
「劉備…、それ、くれなかったって…?」
ぞっとするほど掠れた声が、部屋の空気を震わせた。
その声を出したのは、呂蒙。
凍りついたように血の気のない顔で、呆けたような力無い声で。
「じゃ、…それって、俺―――」
何を、言おうとしたのか。
言葉の続きはひどい咳に消えた。
「子明!」
濁ったような湿ったような、嫌な何かが咳の音に混じり。
「あっ!子明!子明っ!!」
骨ばかりのように痩せた指の隙間から零れたのは、赤い、朱い、紅い・・・・・
「畜生ーっ!!」
鬼の形相で一声喚き、甘寧が外へと飛び出して行った。
「興覇っ!…お前何処行く…えーもうっ!」
俺にどうしろって言うんだよと、蒋欽の眉が情けなく下がる。
「公奕、俺」
「ぼさっとしてんじゃねえこの役立たずがっ!早いとこ医者呼んで来やがれコン畜生っ!」
八つ当たりの悪罵を全身に浴びて、おろおろと周泰が飛び出してゆく。
「子明…!落ち着け、落ち着いて、な、…ゆっくり息して…」
「大、丈、夫」
「どこがっ!」
「ほん、と、…平気、だって。これ…」
ひめさまころした、ばつなんだ。
「馬鹿野郎喋んじゃねえっ!医者来るまで黙ってろ!こんど口開けたら殴るぞっ!」
今のは聞かなかったことにしようと、蒋欽は思った。
都合良くごろつきの一人でもいれば、思う存分殴って殴って多少は気晴らしにもなったろうに。
(こういう時に限って誰も絡んでも来やがらねえ)
忌々しげに唾を吐いた甘寧は知らない。
どんな命知らずのごろつきでも、今の彼の形相を見たら、間違っても傍には寄って来ないだろうということを。
「…畜生」
堅気の暮らしなど自分は知らない。賊か、水軍か…、それとも。
(未来の殺し屋育てる村か…)
どこにしたって…、覚える機会などなかった。婚姻にまつわる堅気の約束事など。
そんなものが入り込む余地もない、そういう場で自分は生きて来た。
呂蒙にしても、似たようなものだ。
喰うや喰わずの小作暮らしか孫軍の暮らししか知らない彼が、離縁の仕方など知る筈もないのだ!
(畜生…)
言われてみればその通りだ。亭主が離縁を認めなければ、女房が自由になれるわけはない。
弓腰姫自身、言っていたではないか。関羽と対峙したあの時に。
…それにわたくし、まだ一応、あの男の大事な兄者の嫁ですからね。離縁状まだ貰ってないもの・・・・・
(畜生、畜生っ!)
そうだ。自分は確かに聞いた。劉備は彼女を離縁してはいないと。
だったら、同盟が復活した今、彼女は夫の元に戻るのが筋。
戻らなければ劉備はこちらを疑い、荊州の防備を強くするだろう。
荊州を奪還する為には、力攻めしか方法がなくなる。損害が、大きくなる。
否。曹操がつけ込んでくる可能性を考えれば、…奪還自体不可能になると言っていい。
(あの女がそれをよしとする筈はない)
かといって、戻れば・・・・・
(こっちが同盟切った時点であの女は劉備に殺された)
あの鮮やかな、鮮やかすぎる女の存在そのものが、この度の策には邪魔でしかなかった。
彼女に選べたのは、せいぜい、益州で死ぬかこの東呉で死ぬか、…それくらいで。
(気づくべきだった)
自分が気づくべきだった。…気づいて呂蒙に言ってやるべきだった。
お前の策、進めたらお前のひめさまは死ぬぞ、と。
「畜…生…っ!」
権力なんぞに惹かれるヤツの気がしれねえ。
そんなもの手に入れてどうするのだ。人の上に立って何か嬉しいか。人を意のままにするのはそんなに楽しいか
あらアとんでもねえ化けモンだ。人を虐げて喰らって喜ぶ、どうしようもねえシロモンだ。
そうだろが。
そんなもんに近いトコにいたばっかりに、あの女は死ななきゃならなくなったんだろうが。
そんなもん欲しがるヤツがいるから阿蒙は惚れた女殺すような策立てなきゃならなくなったんだろうが。
俺にしたって、…権力が大事などなたかさんのお陰で、見事に人殺しに育てられちまった。
惚れた相手と一緒になってまっとうな暮らしをして子供作って育てて一緒にトシ取って。
山の獣でも手に入れられるような幸せになんで俺らは届かねえのか。権力みてえなもんがこの世にあるからだろが!
せめて子敬の馬鹿が元気だったら。
この甘興覇が、殴り倒してでも縛り上げてでも、二人纏めて俺の船に乗せて。
盤越でも安息でも何処でもいい、追っ手のかからないところまで連れてってやったのに。
誰も知らない遠いところで海賊でも何でも好き放題させてやったのに。
死ぬんだって駆け落ちするんだってどっちみちあんまり変わら―――
「あ」
…ああ、そうか。
怒りのままに盛り上がっていた肩が、そこで突然、すとんと落ちた。
…駆け落ちしやがったんだ、…あいつら。
惚れた相手と手に手をとって、誰も知らないこの世の外まで。
孫家だの東呉だのというしがらみから解き放たれて、何にも縛られず、自由に・・・・・
「そういうことかよ…」
きっと幸せだったんだろう、あの馬鹿どもは。幸せだけ抱いて死んでいったのだろう。
「ちっ」
もう、怒る気もしない。
「んだってんだよ、ったく・・・・・」
やりきれないと竦めた肩に、冬の夜風が冷たく沁みた。
長江の岸辺。
「子明殿?」
呂蒙を見つけたのは、陸遜だった。
「何をしてらっしゃるのです。お加減がよくないと伺いましたのに…」
おおきな瞳が彼を見上げ、困ったように苦笑してみせた。
「ん・・・、大丈夫だよ」
「子明殿」
「あの、さ…」
ひめさまに、逢えないかなと、思って。
そう言って、呂蒙が、寂しげに笑った。
長江に身を投げた弓腰姫の遺骸は、江を浚っても上がっていない。
「謝りたいんだ」
水面を見つめるおおきな瞳。
堪りかねた陸遜が、目を逸らした。
「なあ、伯言」
「はい」
「俺さ、…知らなかったんだ」
離縁状なり、何なり。
それと証するものがなければ夫婦の縁は切れたことにはならない…、そんなことも知らなかったのだと、呂蒙は言った。
「知ってたら、俺…」
いくらそれが東呉の為であっても、あんな策を立てはしなかった。
「やっぱ、さ、阿蒙だよねえ…」
「いいえ」
しかし陸遜は首を振る。
「あの策は決して間違ってはいません。東呉を護るにはそれしかないと言ってもいい」
「けど」
「この結末はあの方自身がお望みになったことです」
「伯言」
「愛しておられたのでしょう、あの方は。子敬殿を」
「…うん」
「でしたら。お幸せだったと…そう思いますよ」
劉備との同盟は、あの二人が手を組んでこその策だった。
うまくいかなかったのは結果でしかない。
「愛し合った二人が組んで、夢を追って、…最後まで一緒だった。幸せでなかったとしたら、嘘です」
声に僅かに滲んだ苦さ。
「でも・・・・・、ああ」
思い出したのか。
言いかけた言葉を呂蒙が呑み込む。
そう、…孫家が陸遜を受け入れた時の条件のひとつが、彼にとっては親の仇である孫策、その娘を娶ることであったのだ。
彼らのような立場の者が思う相手と添うことなど、早い話が夢物語で。
「そう、だね・・・・・」
幸せでなかったら嘘だよねと繰り返し、呂蒙がふっと微笑んだ。
「そうだね。ちょっと子敬さん、羨ましいかも」
「…羨ましい?」
「俺、零陵攻めで倒れたろ? あの時さ、ひめさまにメシ作ってもらって、いっぱい世話焼いてもらってさ。ほんと、嬉しかったんだ」
「そう…ですか」
「こんなひとがずっと俺の側にいてくれたらなあって、思っちゃった。」
「・・・・・はい」
「このひとは子敬どのが好きなんだよなあって思ったら、ときどき、腹が立ってさ。おかしいだろ、ひめさまが俺のことなんか、思ってくれるわけないのに」
「…子明殿? まさか」
まさか。あなたは・・・・・
「なに?」
見上げてきたおおきな目は、やっぱり、まっすぐで。秋の空のように、澄んで、明るくて。
…気づいてないのか? ご自分で?
その先を陸遜は言えなくなった。
あなたは、あの方を・・・・・
冬の風が、枯れた葦を鳴らす。
「なあ」
「はい」
「俺、怖い」
「子明殿?」
「俺の策。うまくいくのかな、って」
「それは」
「ひめさま死なせてまで動かした策なのに、うまくいかなかったらどうしようって…」
「どうしようって、…なればこそ成功させねばならぬのでしょう! 何を弱気な」
「なんだけど。…そうなんだけど、伯言」
俺の躰。最後まで保たない。
掠れた声が告げた言葉に、陸遜がぞっと身を震わせた。
「子明殿!それは・・・・・」
「この躰、きっと、…荊州取り返すとこまでしか、保たないと思うんだ」
でもそこは策の始まりでしかないと。
おおきな瞳で水面を見つめて、他人事のように淡々と。
「それやったら劉備怒って攻めてくるから、それ撃退して、こっちが強いって状況でもっかい同盟結び直す」
そこまで出来てこその策なのに。それでこそこの国は北に対抗してゆけるのに。
「俺、…そこまで、やれそうにない」
そこではじめて、瞳は歪んだ。
「俺、ひめさまのこと、だいじだったんだ。ちっちゃいころから…ずっと、見てて…、ひめさまも、よく、懐いてくれて…」
そのひとを。…そのひとの命を。
奪ってまで動かした策なのに。もう策は動き始めているのに。
「俺、最後までやるつもりだったのに。…劉備討つとこまで、俺が。なのに」
俺、は・・・・・
「子明殿っ!」
我慢が、出来なくなった。
「申し上げましたよね?!」
「え? …は、伯言?」
「申し上げましたよね?!我らは陸家、江東を護る者!…そのように、いつか、あなたに」
「え、…あ、うん。聞いた、けど、…あの・・・・・」
「でしたら!何故怖いなどと仰有るのです!怖がる必要などないでしょうっ!」
「あ、あのさ、…意味わからな…」
「私がいると申しているのです!」
「伯言」
「この陸伯言が…、陸家の総帥が、呂虎威将軍に申し上げているのです!私がおりますと!」
あなたの策。
たとえあなたが途中で倒れたとしても。
私が、否、我ら陸家がその総力を挙げて、どんなにしてでも成功させると!
「伯…言…?」
おおきな瞳が丸くなった。
「当たり前でしょう!外敵からこの地を護れなくて、何のための陸家ですかっ!」
「い、いや、あの…」
「我らがおります!劉備に東呉の地は踏ませません!何としてでも止めてみせます!」
「うん、…でも」
「出来ぬとでもお思いかっ!我らを馬鹿になさるのなら」
「してないしてないしてない!…てか、…嬉しいけど、あの」
お前。
なんで、お前が、泣いて・・・・・
「今それは関係ないでしょうっ!」
「は、はい!」
「止めますから」
「はい」
「止めてみせますから」
「判った。判ったから…」
「どうかあなたは、…ご存分に・・・・・」
「うん。…うん」
ありがとう。
ああ。
やっぱりそこで、笑うのか、あなたは!
あなたはあの方を愛しておられたのでしょうみんな好きだと仰有るけれどあの方は特別大事だったのでしょう。
どうして気づかないんですどうして判らないんですご自分のお気持ちではありませんか!
ああ。もう。
てめえが泣かねえから代わりに泣いてやってんだろうがこの阿蒙と胸座掴んで罵ってやったらどれほどすっきりするだろう!
けれど。
陸家の総帥ともあろう者が、そのような不作法、出来る筈もなく・・・・・
謂う所の伊の人は
水の一方に在り
遡して之に従えば
道阻りて且つ長し
遡游して之に従えば
宛として水の中央に在り
あなたの、あの方へのお気持ち。
それを愛と呼ぶのです、子明殿・・・・・
・・・・・おもかげは、水のさなかに。