Act.4〜A.D.217 濡須



 義父上、と。
 ぴたり、手を突いたその背は真っ直ぐで、…それだけで揺るがぬ決意と知れた。
「どうぞ私を離縁し、実家の施家にお戻しくださいませ」
 建業。朱氏の館。
 上座に黙しているのは朱治、字を君理。平伏した男は朱然、字を義封。
 齢十三の時、実子に恵まれなかった朱治が養子に迎えた、血縁で言えば姉の子になる。
「才は立派に育っております。彼がおります以上朱家の祭祀が絶えることはございませぬ。私がおらずとも…」
 才。
 朱然を迎えた後で産まれた、朱治の実子。
 実子が産まれても、誠実な朱治は、「嫡男として迎えたのだから」と家督をそちらに譲ることをよしとせず、そのまま朱然を嫡男として遇し続けた。
 そのような義父を朱然もいたく尊敬し、心からの感謝とともに孝養を尽くして来た。
 今。その子がその縁を切れという。
「…戻って、何とする」
 聞くまでもないことだ。思いながら口にした言葉は、果たして。
「三関屯へ参ります」
 予期した通りのいらえに迎えとられた。
 三関屯。
 それは、こたびの曹魏戦で、施家の兵が護っている場所。
 施家は朱家のような大豪族ではない。力も弱い。孫家からの出兵要請を断ることなど出来ぬのだ。
「このまま魯子敬の方針に従い続けるのなら孫家は揚州を仕切ってはゆけぬ、劉備の走狗に成り下がった家になど誰も従わぬ。出兵の要請をお断りになった折、義父上はそう仰有いました」
 豪族を率いる者が私情で動いてはならぬ、孫家と共倒れになるわけにはゆかぬ。
 朱治とて孫一族に対し情がないわけではない。それでも私情を捨て、兵は出さぬと決断した。
「そのご判断は正しいと私も思いました。ですから従って参りました。ですが」
 今。
 その魯子敬が、死んだ。
「仲謀さまがこれからどうなさるおつもりなのかは判りませぬ。同じ路線で進まれるのかもしれませぬ。もう手遅れかもしれませぬ」
 だが。希望がないわけではない。 だから。
「どうぞ、…お許しくださいませ」
 まっすぐ義父を見て、朱然は言った。
「然は仲謀さまと机を並べて学問をさせて頂いた者でございます。学友とまで呼んでいただいた者でございます」
 たとえこの賭けに敗れ、この身を滅ぼすことになろうとも。
「あの日の絆…、捨てられませぬ・・・・・!」
 
 沈黙が、部屋に流れた。

「二千」
 ぽつり。
 老いた男の唇から零れたのは、数字。
「義父上?」
「すぐ集められるのはそれくらいだが、…行きなさい。朱家が孫家に与すると知れば、日和見をしている者の中には、考え直すものもいるだろう」
 それで曹操は追い返せる筈だと、朱治は言った。
「義父上…っ!」
 ありがとうございますと平伏する義理の息子に、優しい眼差しを投げかけて。
「誤解するな。お前の情を汲んでというだけではない。仲謀さまが路線を変えられると判ったからだ」
 それでも、言葉だけは、厳しく。
「え?」
「お前は同じ路線で進まれるのかもしれぬと申したが、それはあり得ぬ。…判らぬか」
 判らぬらしい怪訝そうな朱然に、今度は顔つきを厳しくして。
「仁姫様が何故ご自害あそばしたと思うておる。まさかに、巷の噂通り、惚れた男の後を追うてとかくだらぬことを思うておるのではあるまいな」
「は・・・・・」
「お前が自分で言うたではないか。上に立つ者は私情で動いてはならぬものだと」
 劉備が離縁状を寄越さぬ以上、同盟が再び成ったからには、あの方は蜀漢に戻らねばならぬ。
「仲謀さまがこれまで通り劉備と手を組んでゆかれるのであれば、当然お戻りになった筈だ。そうなさらなかったということは」
「義父上!それは」
 孫仲謀には劉備との同盟を続ける意思がないと・・・・・
「すぐではない。すぐならすっぱり拒めばよいことだ。だが、あの方はそうはなさらなかった。つまり」
 これから何かが始まるということだ。
 逸る息子を抑えるように、朱治は淡々と言葉を紡ぐ。
「その際、ご自身の存在が兄君の邪魔にならぬよう、…妹を見捨てたなどという汚名を兄君に被せぬよう、姫はご自身で身の始末をつけられた」
 蜀漢という国は、儒の教えを大層重んじていると聞く。されば女子という生き物のことなど、子供を産ませる道具くらいにしか思うておらぬであろう。
 女子が政を理解し国を思うて身を処するなど、彼らには想像も及ぶまい。
 巷の噂が、そこで、生きる。
「惚れた男云々の噂は、劉備にとっても恥となること。妻を寝取られたようなものだからな。…女子というものを見下しておる連中ならば、裏を疑うようなこともなかろう」
 恐らく仁姫の死について、細かい詮索まではしてくるまい。
「仲謀さまの本心を勘繰られずとも済むということだ」
 これが一番よい方法だったのだ。
「無論、情の通う相手であったからこそこのようになさったのだろうが…」
 心底嫌いな男であれば、噂を立てられるのも我慢出来ぬとお思いであろうしなと、苦笑混じりにそう言って。
 遠い目をした老いた男は、その時何を見ていたのか。
 だが。それは、一瞬。
「これから始まる何か。乗ってみるのも一興であろう。お前も…そうしたいのであろうし」
「義父上」
「うむ」
 朱然を見返した瞳には、もう、弱さはない。
「此度は許す。だが、二度はない。情で動くのは生涯一度。よいな」
「…はい」
 そうして。
 朱家の総帥は顔を引き締め、己が嫡男に強く命じた。
「行け、然。その思い、見事通してみせよ!」
「はっ!」



 誰もいなくなったその室で、老いた男はほのかに笑った。
「何が父上によう似ておられるだ、程徳謀」
 お前は何も判っておらぬ。
 あの姫は。お顔立ちも、ご気性も、あのひとにこそよう似ておられたものを。

 私もな、然。
 一度だけ…たった一度だけ、情に任せてこの家の命運を賭け物にしたことがあったのだよ。
 誰より愛したあのひとのために・・・・・
 
 …お願い、君理。策を助けて!あのひとの息子を袁術なんかの犬にしたくないのよ!

「流石、あなたのご息女だ、…呉氏」

 老いた男のほろ苦い呟きは、聞く者もなく、風に消えた。





 果たして。
 濡須の大塢に翻った朱氏の旗を見て。
 情勢の変化を悟った曹操は、それ以上の無理押しを手控え、馬首を北に転じた。
「よくぞ来てくれた、義封!」
 顔を輝かせた孫権は、嘗ての学友の手を確と握った。
「朱家のことはもう諦めてた。まさか来てくれるとは思わなかった」
 ありがとう。ありがとうと。
 蒼い目に涙さえ滲ませて。
「殿…」
 上に立つ者がそのようなと窘める、朱然の目にも涙がある。
「仁姫さまのお覚悟が父の心を動かしたのです。出兵を願い出た私に、快く、許可を・・・・・」
「…そうか」
 君理は察しているのかと、孫権が不意に声を低めた。
「お陰で策が動かしやすくなった。…あいつにも礼を言わねばな」
「策・・・・・」
「うん」
 きらり。光った、蒼い瞳。

「荊州を劉備から取り返す」





「全く皆は何を考えておるのか!この国には愚か者しかおらぬのかっ!」
「・・・・・子布は見舞いに来てくれたのであったと思うたが」
 床に身を起こした怪我人…厳曼才(厳峻)は、頭に巻かれた包帯を抑えた。
「あ…、ああ、済まぬ。しかし」
 あまりにも情けのうて。
 膝に拳を叩きつけて、張子布(張昭)が白髯を震わせる。
「仕方もあるまい。文官には戦は判らぬ。曹操に勝ったとああも派手派手しゅう宣伝をしたのだ、…追撃をという声も出て来よう」
「そういう問題ではないっ!」
 鋭い声が頭に響き、曼才が低く呻き声をあげた。
「殿のお気持ちも察することが出来いで、何が文官かと言うておるのだ! ひめさまが…ひめさまがどのようなお気持ちで…」
「子布」
「殿が曹操と事を構える気なら、ひめさまは…身投げなどなさらずともよかったのだ! 寧ろ、劉備の元に大人しくお戻りになるべきであったのだ!」
 それしきのことが何故判らぬと、詰る言葉は慟哭にも似て。
 …ああ。
 額を抑えた手の下で、曼才が僅かに目見を緩めた。
 …この男は孫家のきょうだいを、我が子のように思うていたのであった・・・・・
「しかし…、徐州のことは子明殿が皆を納得させたのであろう?」
「…ああ」
 どこか渋々と言った顔で、子布は首を縦に振って見せた。
 
 徐州攻略についてどう思うかとの下問を受け、呂蒙は眉を顰めて言った。
「…それは…、獲れなくはないかもしれませんけど。守りきれませんよ、あんなとこ」
 徐州の地形は、騎馬隊を動かすのに都合がいい。四方に道が通じている。
 東呉が徐州に攻め入ったとなれば、曹操が、即座に兵を動かすのは必定。その間、長く見積もっても、10日…
「守備を固める余裕も何もないじゃないですか。それでなくてもうちは騎馬隊少ないのに…」
 下手をしたら攻め込んだまま、撤退することも出来ずにやられてしまう。戦場に立つ武官ならではの言葉。
「徐州出身の皆さんが故郷を取り返したいと思う気持ちは判りますけど、だったら、なおのことです。一里取ったの取り返されたのって泥試合みたいな戦して、徐州をまた滅茶苦茶にするの、嫌でしょう?」
 水軍に力を入れてきた東呉は、陸戦一本で来た曹魏には劣る。騎馬も兵力も経験も足りない。
 軍の編成からやり直すのでなければ、すっぱりと徐州を獲ることは出来ない。どうしたって泥試合のような戦になる。
 そうなれば民にもどれだけ負担がかかるか。
「よく考えてください。それであなた方の恨みは晴れるかもしれませんが、…よしんば勝って徐州を獲ったとしても、今住んでる人の恨みと負担に苦しむここのみんなの恨み、背負うのは徐州出のあなた方だ。ひいてはあなた方を召し抱えた殿…、孫家だ」
 そうして、呂蒙は言ったのだ。彼らしくもない、きつい口調で。
「自分の恨みさえ晴らせたら他の皆がどうなってもいいんですか? あなた方だってこの国で一緒に苦労してきたんじゃないですか!」
 どうしてまずここのみんなのことを考えてくれないんです。この国のこと、嫌いなんですか?
 長江の守りを確かなものにし、この地を落ち着かせ、国を富ませる。外で何かが起こっても中がごたごたしないようにする。
 今すべきことは、それでしょう…?

「…誰も、言い返せなんだよ。あれも成長したものだ。呉下の阿蒙が、のう」
 声が、震えていた。
「あれにああまで言わせた同郷の者たちが、儂は恥ずかしゅうてならぬ。…なぜ、判らぬのだ。徐州に、…かの地に戻ったところで」
 かつて手にしていたものが再び手に入るのか。かつて肩を並べた懐かしい者たちに会えるのか。
「違うだろう」
 奪われたものは既に失われた。殺されたものはもう帰っては来ぬ。
「全てを失った我等を受け入れてくれたこの国こそが、我等の生きるべき場所であるのに・・・・・」
 何故。
 それでなくとも土着の豪族たちの争いでいつ屋台骨が揺らぐか知れぬこの国を、更に揺さぶるようなことを・・・・・

「私にも協力せよといいたいのか」
 怪我人の声に溜息が混じった。
「そうだ。なあ曼才、考え直してくれ。そなたなら、…判るであろう。仲謀様のお心のうちにあるものが」
「ああ、判る。判らいでか」
 苦笑を浮かべた怪我人が、折れた利き腕を見下ろした。
「判るからこうして落馬までしてみせた。それで十分だと思うがな」
「曼才!」

 …子敬殿の後を継げ? とんでもございません! 私は馬にも乗れませぬのに!
 …乗れぬ? そんなわけあるかっ! それくらい君子のたしなみってヤツだろうが!
 …いえ本当に! 乗ったことも乗ろうと思ったこともないのです! ですからどうか…
 …嘘をつくな! おい! 幼平っ! こいつを馬に放りあげろ! 乗れないなんてそんな筈はない!
 …本当です! 本当です信じてください! あああお助け! お助けください、誰か・・・・・

「孫仲謀は魯子敬の後釜に馬にも乗れぬ文官を据えようとした。噂はすぐに広まる。どうせあちらも間者のひとりも送り込んでいようが」
 この度。急に「徐州を!」という声が挙がったことも。
 魯粛という、武力での荊州奪還には踏み切らなかった男を喪った今、東呉がどう出るかを危ぶんだ劉備が仕掛けてきたことでないとは言い切れぬ。
「後釜は馬に乗れぬような男でもよいと孫仲謀は思っている。即ち、侵攻の意思なし。今頃、成都にはそういう報告があがっているだろうよ」
 劉備もさぞ安堵したことであろうと、曼才は唇を吊り上げた。
「安堵させ、油断させたところで、同盟を切って一気に荊州を攻めるか。 …汚いのう」
「曼才」
「汚いが、有効な手だ。そなたが言うたように、豪族どもが屋台骨を揺るがしているような状況では、…他に手はないと言ってもよかろう」
「ならば!」
「子布」
 折れた腕を見つめたままで。
 厳曼才は、呟くように言った。
「私が行けば確かに劉備は油断するだろう。だが、…策が嵌ったとして、その後はどうなる」
「その後・・・・・」
「もう一度言うが、そなたが自分で言うたのだぞ」

 それでなくとも土着の豪族たちの争いでいつ屋台骨が揺らぐか知れぬこの国を、更に揺さぶるようなことをすべきではない、と。

 張子布が、唇を噛んだ。

「…徐州出の者たちの力が強くなりすぎる。そう言いたいのか」
「ああ」
 だからあえて無様なところを見せたのだ。揚州出の者たちの誇りが満足するように。
 他人事のように言い放った白い手が、額の包帯をそっと抑える。
「誰が行くにしても、徐州出の私でない方がよい。…のう。そうであろう、子布」
 今は徐州出の者が功績を立てぬ方がよい、愚か者どもをつけあがらせぬがよいと。
「判らぬそなたでもあるまいに、何故にこのような・・・・・」
「そなたは知らぬのだ!」
 張子布の白髯が、また、震えた。
「そなたに急に話が行ったのは何故と思う! 子明が、…あの子が、俺が行くと言うたから」
「…好都合ではないか。そもそもこれは子明殿の策であろう?」
「あれは胸の病を抱えておるのだ!」
 荒げた声はやはり、慟哭と聞こえた。
「あのように痩せて!目ばかり大きゅうなって!もともと細い子ではあったが…、もう、光に溶けてしまいそうではないか」
 見ておられぬと首を振る旧友に、しかし、曼才は容赦なく言った。
「されば尚更好都合ぞ。病を抱えた者が後任となれば、劉備も油断を・・・・・・」
「曼才っ!」
 きっと見据えてきた瞳を、曼才は鋭く見返した。
「国の大事を私情で語るな、子布! 己にそれを許すなら、そなたも曹操と同じぞ!」

 父を殺されたという私怨の促すまま徐州を残虐に蹂躙した、あの乱世の奸雄と同じことぞ…!

 沈黙。
 影が急に、濃くなったように思えた。
 
「…上に立つ者は私情で動いてはならぬ」
 急に年老いたような声で、張子布は呟いた。
「…儂自身が仲謀さまにお教えしてきたことだ。判っている積もりであった。だが、…いざとなればなんと難しい」
「孫家の皆様はその難しいことがお出来になる方々ぞ。…我等は主に恵まれた」
 宥めるように、曼才が言う。
「ああ。そなたの言う通りだ」
 言う通りだが。
 辛いものだなと張子布はいい、そうだなと曼才も頷いた。
「殿は、…ひめさまは、このようなお気持ちで・・・・・」
「下の喜びを己が喜びとせよとも、そなた、教えたのであろうが」
「違いない」
 なればこそ。
 なればこそこんなにも、この老いた胸は痛むのだが・・・・・

「…それにしても子布は見舞いに来てくれた筈ではなかったか」
 愚痴りに来たのかと詰ってやれば。
「それを言うなら曼才はまことに馬には乗れぬのか」
 主を謀って何とすると、見せかけばかりの叱責が返る。
 くすくす。厳曼才が笑い。くつくつ。また張子布も笑う。

 ああ、そうだ。
 笑うしかないではないか。
 笑い飛ばすしかないではないか。
 こんな馬鹿げた運命は・・・・・!

「何としても荊州を」
 荊州を、そして、この国を。
「判っておる」

 姫のそうして殿の思いが無に帰することのないように


 




 策は、動き出した。