Act.3〜A.D.217 洞口



 わかりきったことではないかと、孫権は言った。

「子敬殿も、ご承知で…」
「まさか」
 あのいっそ清々しい程に自分の夢を叶えることしか考えない我が儘で自己中心的でどうしようもなく子供じみた豪気な男にはどこか肝心な部分で甘いところがあって。
 だから劉備ごときに手玉に取られもするわけで。
「あれがこうなるなんてこと思いつくタマに見えるか?」
「見えません」
 即答した陸遜とて判っているのだ。彼がそんな男ではないことは。
「しかし、子明の勘はやはり、当たっているようだな」
 暗きに落ちてゆく話題を逸らせたかったのか、孫権が別のことを口にした。
「そう…でしょうね」
 このところ呂蒙はひどく気にしていた。曹操の寿命が尽きようとしているのではないかということを。
 朝廷にも手蔓を持つ陸家に頼み、密かに当たらせてみたところ。少なくとも、「曹操老いたり」と事を構えようとする輩がちらほら出ているらしいことは判った。
 と、いうことは。
 曹操が他の者に「老いた」と思われるようなことが、何かあったということだ。
 本当に寿命が尽きかけているのかどうかまでは定かではないが、少なくとも、彼の力に衰えが見えてきたのは、間違いがないと言っていい。
「夏侯惇を伴ったのは、それでだな」
「ええ」
 腹心中の腹心でありいつも留守を任せている男を、曹操はこのたび戦場に伴った。
「釣り…、或いは、誘い、ですね。私どもの手の者でさえたやすく動きが掴めたのです。今動いている連中はまあ、碌な者ではないと言うか、阿呆だと言うか」
「ひどいな」
 孫権が小さく苦笑した。
「事実ですから。そのような輩の動き、曹操が掴んでいない筈がない。なのに、あえて、腹心を連れて都を空けた」
「さあ謀叛を起こせと誘っているわけだ。で、留守番には後継ぎの長男がいて」
「早い話が、これから謀叛を起こさせるから片づけよと命じた、と」
 次代を担う者として相応しい力量を見せつけよ。逆らう者どもを一網打尽にせよ・・・・・
「随分と厳しい訓育だ」
「これで乗ったら乗る方も阿呆ですよ。そんな阿呆に殺られるようでは後継になどなれますまい」
「きついな、伯言は」
「間違ってはおりませんでしょう?」
 どうしようもない言い草に、孫権は苦笑して肩を竦めた。
「乗る…のかな。乗るんだろうな。乗せたと見越したからこそ曹操は夏侯惇を連れて来た・・・・・」
「ええ。…そう、策だとも取れるのですよ。初めからそのつもりで、自分が生きているうちに不穏分子を一掃しておこうと思ったとか。ですが…」
「『自分が生きているうちに』という思考自体が、彼の老いを表している…」
「御意」
 くっと、孫権が嗤った。
「やはり子明の勘は当たりか」
 恐らく。
 曹操を口実に呉の豪族たちを抑えておけるのは、それほど長い時間ではない。
「で、そんな見え透いた策につけ込もうとしている劉備もまた、老いたということか?」
 急遽蜀漢から入った申し入れは、彼らが謀叛を目論む連中と組んで、何かをしようとしていることを表していた。
「本人よりも…廻りが焦っているのでは」
「…成る程」
「ですから、子明殿の策、うまく嵌ると思いますよ」
「うん・・・・・」

 荊州を。長江を。もう一度、我等の手に。

「そのためには」
「なあ伯言」

 諦めたような微笑みが、孫権の唇を歪めた。

「いつだったかなあ。お前が男だったらよかったのになってったら、あいつ、何てったと思う」
「え・・・・・」
「兄上はわたくしと家督を争って殺し合いがしたかったの、だとさ。序でに、『言っておきますけど勝つのはわたくしよ?』って」
「はあ」
「言われてみればその通りだ。剣の腕だってあいつが上だし、…それに」
 死んだ程公がな、よく言ってた。俺たち兄妹の中で一番父上に…江東の虎に似てるのは、あいつだって、な。
 それほどの、女だから。
「『夏侯惇が来てる』だけで十分だ。…今俺たちが話したことくらい、あいつならちゃんと判ってる」
「殿」
「覚悟くらいとうに出来てただろうしな」
 もしも劉備と手切れになったら、見せしめに殺されるか、…よくて、盾に使われるか。
「あいつはその時の覚悟もなしに嫁いでゆくような女じゃない」
 この前の時は、劉備の嫡子を逆に人質に取るといういかにも彼女らしい強引な手で、どうにか逃げ帰っては来たものの。
 そんな手は二度は使えない。
 そうして、今度は。こちらに手を切る予定があるのだがら―――

 再び同盟が成ったのだから、それを堅固にする為にも、呉夫人をこちらに戻して頂きたい。
 劉備から来た、申し入れ。

 言われるままに彼女を差し出せば、劉備は、孫権はこちらと事を構える気はないのだと思い、更に油断をするだろう。
 呂蒙の策はより嵌りやすくなる。それは確かにその通りだ。
 だが。
 彼の策はまだ、秘中の秘。
 国内でもこれを知っているのはほんの一握りの人間だけだ。
 策を知らされぬまま、劉備の要求通りに妹を差し出す孫権を見た豪族たちは、どう思うか。
 やはり孫権は劉備の言いなりになる人形ではないかという声が挙がるに違いない。
 そうなれば。
 謀叛の動きに、加速が・・・・・

 ならば、どうするか。

「言ったろ。…わかりきったことだって」
 今となっては彼女の存在は、東呉にとって、邪魔でしかない。
「お前はあいつを知らないんだ。あいつ、あんなじゃじゃ馬だけどな」

 兄貴の俺に妹殺しの汚名を着せたくないと思う程度には、優しい女なんだぜ?

 歪んだ笑みを浮かべて、孫権は言った。

「俺に傷がつかないようなやり方を、あいつ、ちゃんと考えてるよ。…任せとけばいいんだ」
 何をさせてもあいつは俺よりうわ手なんだから。
「とりあえず時間だけ稼いでやるさ。あいつの母親が死にそうだからとか何とか…、母上はとうに亡くなってるけど、あいつの母親誰かなんて劉備知らねえんだし」
「…はい」
「わかりきったことだ。…わかりきったことさ、なあ・・・・・」

 震えた声。滲んだ瞼。
 陸遜は何も言えなかった。





 荊州を取り返すと決めた以上、呉夫人の存在は、東呉にとっては邪魔でしかない。





 わかりきったことじゃないのと、弓腰姫と呼ばれた女は肩を竦めた。
 まあ。
 いつまで経っても阿蒙な子明が、自分の策のもたらすものに気が付かないのは仕方がないし。
 子敬は子敬でもう、自分が長くないと悟ってしまっている。
 自分が死んだあとこの世で何が起きるかなんて、このとことん自分のことしか考えない馬鹿が気にする筈もない。
(ほんとにもう、男って!)
 そう言ったらあの甘興覇あたりが、「あんなもんと一緒にすんじゃねえ!」と怒鳴るのだろうし。
 こういうどうしようもない連中だからこそ、愛しくてならないのも本当だ。
 出来た男のひとりやふたり、この世にいないものでもないだろうが。
 たとえそういう生き物を目の前にぶら下げられた所で、…やっぱり自分は選ぶのだろう。
 自分の夢を実現するために国をひとつ巻き込んで、惚れた女も犠牲にして、けろりんしゃんと笑っていた、このどうしようもなく身勝手な男を。
 愛おしげに目を細め、拭ってやった額の汗。
 今夜が峠だと、医者は言ったが・・・・・
「あなたの後釜は、子明かしらねえ」
 あの阿蒙に外交なんて出来るのか、…どうにも想像がつかないのだが。
 関羽を油断させるにしても、もう少し気のきいた人間の方がいいのではなかろうか。
 いくら興覇がついていると言っても、彼だって小細工の類は嫌う男だし。
(突拍子もないへまをやらかして策を台無しにしなきゃいいけど)
 …ひめさま。ひめさま・・・・・
 それだけが、心にかかる。
「・・・俺の、後なんか、知るか。」
 かつての豪気さはどこへやら。力無く掠れた声が言う。
「俺は、公瑾とは、違う。この世は、生きてる奴らの、もんだ。生きてる奴らが、自分らに、いいように考えて、やってけば、いいのさ。ただ・・・」
 焦点も怪しい丸い目が、懐かしそうに、過去を追った。
 孫家の館で。
 海に出よう、交易をやろうと、夢を語る自分。蒼い目を輝かせて聞き入る、十九の孫権。
 あの若者が・・・、蒼い目のあいつが、儂は、好きだった。
「おまえの、兄貴。…うまく、やってくれりゃ、いいがな・・・・・」
 予想される内乱の中で滅んでゆくのでは、…彼も、この国も、あまりに哀れだ。
「そうね」
 仁姫が、優しく笑う。
「儂は、なあ。おまえの兄貴を、海の王に、したかったんだぜ…」
 馬鹿な夢を見たもんだと。
 自嘲するように笑う魯粛の頬に、仁姫の白い手が寄り添った。
「兄上が海の王らしいのは、目の色だけよ。あなたの方がよっぽど似合ってるわ」
 ふっと、魯粛が笑う。
「もう、遅いよ。儂はもう…」

「何言ってんのよ。あの世にだって、海くらいあるでしょ」

 きょとん。
 音を立てそうな勢いで、魯粛が丸い目を瞠る。
 それが可笑しくて、仁姫は笑った。
「あの世の・・・海…?」
「そうよ」
 病み窶れた頬を撫でる、彼女の指。
「向こうで海の王になればいいじゃないの。それとも、誰かを担ぎ上げる方が、お好き?」

 だったら、海の女王ってのは、どうよ。

「…弓腰姫?!」
 魯粛の顔が、ぱっと、輝いた。

 来る気か、と、瞳が尋ねた。
 もちろん、と、瞳が答えた。

「それでこそ、俺の女だ」

 丸い目が、愛しい女を見つめる。
 一度は自分の策の為に人身御供に出た女。
 それでもこうして戻って来て、さいごまで自分についてきた女。
 今は判る。
 あれが自分の策でなければ、彼女はおとなしく劉備に嫁いだりはしなかっただろう。

(こいつは・・・・・)

 だからといって。
 甘い言葉を囁けるようには、魯子敬という男は、出来ていなかったから。

「おまえを…、海の女王に、してやるぜ…」 

 仁姫は黙って微笑んだ。
 微笑んで魯粛を見つめていた。
 見つめ返してくる丸い目が、涙に潤んで。
 たるんだ瞼が全てを覆い隠すまで。
 浮かべた微笑みを消すことなく、ただ、じっと、見つめていた―――



 ああ。ほんとうに。
 最後の最期まで、なんてどうしようもない男だろう。



「待ってなさい、子敬」



 そう。
 わかりきったことじゃないの。

 わたくしには他に道はない。

 わたくしは…わたくしたちは、思い通りに生きてきた。
 その結末がこれだという、それだけの話。
 それならそれを受け入れるまで。後悔することは何もない。



 …そもそもお前ら後悔なんて出来んのかよっ!



 ええ、その通り。



 弓腰姫と呼ばれた女は、いっそ晴れやかに微笑んだ。



 そんなしおらしい性根。
 この弓腰姫のどこを探したって、出てきやしないわ、…甘興覇。



 これがわたくしの決めた道。