人払いをした部屋に居たのは、孫権ただひとり。
いったい何を言われるのか。陸遜の背筋を緊張が走る。
彼の耳に入っていても、おかしくはないのだ。
己の耳に繰り返し囁かれた謀叛の誘い。「陸家がお立ちになるのなら、我らも…」という、あの言葉が。
このまま抑え続けるのは正直、難しいと思うところまで来ていた。
きっぱりと断ることが出来ぬではないが、…不満を抱き続ける者たちの辛抱が尽きて、自分でない別の誰かを担ぎ出さぬとも限らない。
だからこのところ自分は、断りの文句を変えていた。
「今は曹操が健在です。乱世の奸雄をなめてはいけない。つけこまれるようなことをするわけには参りません」
「今は」駄目だという言葉。先に含みを持たせる言葉。
あの、逍遙津の敗戦の後だ。彼の名を出せば不承不承でも納得せぬ者はない。
この地に生まれ育った者で故郷が北の蹄にかかることを望む者など、一人もいるはずはないのだから。
そうして時間を稼いでおいて、何とか、あの奸雄が死ぬ前に、孫家そのものを立て直す。
姑息な手だが、この状況では、他に策は思いつけなかった。
「陸伯言、只今参り…」
臣下の礼を取ろうとした彼を、緩く手を振って、孫権は止めた。
「止してくれ」
「しかし」
深く静かな蒼い瞳が、じっと陸遜の目を覗き込む。
「今夜は、臣下の陸伯言とではなく、孫家の総帥として、陸家の総帥と話したい」
…知られている?
陸遜の喉が、こくりと鳴った。
「いいか?」
否むことなど、出来ようか。
「…御意のままに」
孫権がうむと頷いてみせる。
「…聞きたいのは、ひとつだけだ。今日までの友誼に免じて、どうか、正直に答えて欲しい」
「あの…」
「どんな答えでも、咎めはしない。…出来ない」
今の孫家は陸家の支持なくしては成り立たぬと、自嘲のいろが声に滲む。
「だから、答えてくれ、伯言」
もし今、曹操が死んだら、陸家は謀叛を起こすのか?
暫し、沈黙。
「…否」
ゆっくりとした口調で陸家の総帥は答えた。
「そう尋ねられたら、否とお答えいたします。ですが、仲謀さま」
正しい答えをお求めなら、正しい質問をなさいませ。
「…正しい、質問」
「はい。…そうですね、今曹操が死んだら、揚州で謀叛は起きるのか、とでも…」
「…起きるだろうな」
「ええ」
孫権の唇が歪んだ。
「では、陸家の総帥。…そうなったとして」
その時陸家は孫家についてくれるのか?
視線が、絡み合う。
「…否、か」
陸遜が哀しげに微笑んだ。
「我等は陸家、…この揚州を守る者。内乱は我等の最も忌むところですが、…どうでも止められぬとなれば、最も早く確実に終結させる道を選ぶしかありません」
「ああ、そうだな。それはよく判ってる。でなきゃ、お前が俺に膝折ったりする訳ないもんな」
…そんな言い方はしてほしくない。
陸遜の眉間に皺が寄る。
「皮肉で言ってるんじゃない。…事実を言っているんだ。そうだろ」
しかし孫権の口調におかしな濁りはない。
「今日、子明が来てな」
「…子明殿」
「お前と同じことを言ったんだ。今曹操が死んだら内乱になる、その時は…」
その時は、陸家は、こちら側にはつかない。
「お前がそれを望んでるって言ってんじゃないんだ。…ただ、状況がこちら側につくことを許さないだろうって話だ」
「そう、ですね…」
そうだ。…その通りだ。
自分はそれを望んでいるわけではない。寧ろ、このまま東呉が安定することをこそ望んでいる。
だが、このままでは豪族たちの不満は抑えられない。結局他の勢力に呑み込まれるのを待つだけではないのかと、皆が不安に思っているのだ。
ならば。
ならば、どうする。
「だから」
蒼い瞳に、力が籠もる。
「劉備から荊州を取り戻そうと思う」
陸遜が、目を瞠った。
Act.5〜A.D.217 濡須
従属をちらつかせて曹魏を懐柔し、東の憂いをなくした上で荊州を攻め取り、長江の制水権を確保する。
従属が餌になるようにするには、何としてもこの戦で、曹操を北に追い返さねばならない。
どこまで。
「合肥の線」
地図の上を骨太の指が走った。
「ここより南には新しい拠点は築かせねえ。今の兵力考えっと、約束出来るのはそこまでだ」
こくりと呂蒙が頷くのを見定め、指は、別の一点を示した。
「お前が作った濡須の土塁、あそこを軸にしてしつこく嫌がらせを続ける。あちらさんが嫌気がさすまでな。それでどうだ」
「…あんま無茶しないでくれよ。俺今興覇の隊減らしたくない」
甘寧の顔が険しくなった。
「夏侯惇か?」
また、呂蒙が頷いた。
「今まで連れてきたことなかったのに。あの人だろ、いつも曹操の留守きっちり守ってたって…」
「らしいな」
「との…伯符さまと大将みたいなもんなんだろ」
かつてこの江東を駆けた義兄弟の名が、なつかしげな色で唇に乗る。
「まあ、従兄弟同士とか言うからなあ」
何となく話の先が見えて、甘寧は強く眉を寄せた。
「だったらさ」
「あのなあ、曹操が自分の寿命悟って、一番の腹心とちょっとでも長く一緒にいようと思ったとか、そういうこと考えてんじゃねえだろな」
「え」
どうやら考えていたらしい。呂蒙が微妙な顔になり、甘寧は呆れ顔になった。
「なわけ、ねえだろが。おまえ、漢の丞相が私情で動けるとかって本気で思ってんのか?」
「・・・・・だって」
「だって、何だよ」
「殿が俺助けてくれたの、殿の私情だったもん」
「あ?」
「ああ、…殿って、伯符さまだよ。
甘寧がむっと眉を寄せる。
「上官殺した奴なんてさ、軍法で言えば打ち首で当然なのに、俺を助けて、側仕えにして・・・・・」
「そうやって絶対忠実で有能な部下を手に入れた。…結局計算ずくじゃねえか!」
「興覇!」
呂蒙が、きっとなったが。
「国を動かそうなんて連中がそんな情だの奇麗事だので動くもんかよ!嘘だと思ったら殿にでも子布殿にでも聞いてみな!曹操はなんで夏侯惇連れてきたんでしょう、ってな!」
「こ・・・・・」
「とにかく!」
話は終わりだと言わんばかりに、荒い動作で立ち上がって。
「文句がねえなら今の要領で行くぞ!テメエの大事な孫家の呉は、この甘興覇が守ってやる。それで文句ねえなっ!」
床を蹴りつけるようにして出て行った背中を、呂蒙は呆然と見送った。
「興覇・・・・・」
…国を動かそうなんて連中がそんな情だの奇麗事だので動くもんかよ!
俺は、知らない。
興覇がこれまでどんな人生を送ってきたのか、…少なくとも黄祖に仕える以前のことは、殆どと言っていいほど知らない。
確かにあいつを東呉に推挙したのは俺だ。呉軍で一番親しいのも俺だ。
あいつを推挙したのはこの国の為という目で見れば間違ってなかったと思う。うん、東呉水軍といえば甘興覇。あいつの実力は誰もが認めてる。
でも、…でも、なあ・・・・・
おおきな瞳が、ゆらりと揺れた。
あいつにとっては、どうだったんだろう。
あいつがこれまで歩いて来た道が、凄まじいものだったことは確かだ。
そりゃ、俺だって苦労しなかったわけじゃないけど、…それは家が貧しかったっていうだけで、俺みたいなのは幾らでもいるわけで。
興覇の潜ってきたものは、俺の苦労とは…どっちが大変とかそういうんじゃなくて、うん、質。質が違ってる。そう思う。
俺にはとうちゃんかあちゃんねえちゃんがいたけど、興覇の口から家族のこと、聞いたことないし。
それに…
…国を動かそうなんて連中がそんな情だの奇麗事だので動くもんかよ!
文官たちの間で興覇の評判が悪いのは、決して、水賊あがりだからとか乱暴者だからというだけじゃあない。
あいつが「育ちのいい」ひとたちにはやたら喧嘩売るような真似するからだ。
いつか、叔朗殿と揉めたのだって。…そりゃあ、あの時に限っては叔朗殿に非があったって言えなくもないけど、それまでの興覇の態度にも問題があったに違いない。
何かあったんだ。
「育ちのいい」人たち、「国を動かそう」って人たち、そういう人たちに興覇きっとひどい目に遭わされたことがあったんだ。
例えば。
したくない人殺し、させられる…とか・・・・・
この前、…俺が、寝込んでた時。興覇が雉を獲ってきてくれた。
それ自体はまあ、よくあることだ。あいつ弓得意だから、…あいつなら亡くなった子義さんにも勝てるんじゃないかな?…うん、俺に栄養つけさせようっていろいろ獲ってきてくれるんだもの。
そういう時は狩り場から真っ直ぐ来るから…、でほら、獲物って腸抜いとかないとすぐ悪くなっちゃうから、あいつ、訪い入れずに裏から廻って厨に直行すんだよな。で、料理人に獲物渡して、それから表に廻ってくる。
だからその時も俺は、あいつが来たのに気づかなかった。
いきなり怒号と悲鳴が家中に響き渡って、びっくりして飛び起きるまでは。
泥棒でも入ったんだろうかこんな貧乏たらしい家になんでって、とにかく刀掴んで声のした方に飛んでったら、…厨で、新しく雇ったばかりの料理人が、血塗れになって倒れてて。
その横に、興覇がいたんだ。抜き身ひっさげて返り血浴びて、…戦場でも見たことないような凄い顔して。
どうしたのか。何があったのか。聞かなきゃならないのに、声が、出なくて。
「こ…は…?」
辛うじてあいつの名を呼んだ俺に、地を這うような声が答えた。
「しかく」
一瞬、意味が取れなかった。
「刺客だっつってんだよ!」
「し…刺客って…なに…」
「刺客も知らねえのかよこの阿蒙!」
…いや。それくらいは、知ってたけど。
「暗殺しにくる奴のことだよ!そこの青物浚ってみろ!多分毒草混じってる筈だ」
「あ・・・・・」
判らなかったのは。何で俺なんか…それこそ阿蒙な俺なんかに刺客が来るのかってことで。
子敬さんとか子布どのとか伯言とか、そっち狙った方がウチには打撃だろってことだったんだけど。
あの時の興覇の形相があんまり凄くて、…気を呑まれるっていうか何ていうかで、どうにも言葉が出てこなくて。
でも、あいつ、勘がいいから。俺の言いたいことは判ったみたいで。
「てめ、自分が狙われる立場だって自覚ねえのかよ!東呉軍随一の名将がっ!!」
冗談じゃない俺そんなんじゃない、興覇の方がよっぽど名将だろう。そう言いたかったんだけど。
「零陵落とした時のアレで恨み買ってるんだ、それくらい判れっ!」
こっちの方は思いっきり身に覚えあったから、…ああそのせいかと思うと、言い返せなくなった。
「え…、でも」
それはそれで判ったんだけど、そこで浮かんだ、別の疑問。
敵の間者はこれまでも陣に入り込んだりなんだかんだしてたから、俺も相手したことあるけど、…あいつらってそんな素直に「私は間者です」なんて言わない。
刺客なんてさらに汚い仕事する奴は尚更だろうに。
どうして。
どうして興覇は、そうと見分けた?
「んだよ!俺が信用出来ねえのか?!」
「え、違…」
殺気だった瞳がひどく傷ついたような色をしたから、俺は慌てて思いついたことを口走った。
「コツ、とか」
「コツ?」
「興覇信用してないとかじゃなくて、ほら、刺客のひとと違うひとと見分けるコツとか、ええと…」
焦ると未だに舌が廻らなくなる。しどろもどろのことしか言えなくなる。そんな自分が情けなかった。
「…刺客のひとって何だよ。ンなもんがひとのうちには入るかよ!」
吐き捨てるように言われた言葉が痛い。
抜き身の先が料理人の腕を指した。青菜を洗ってでもいたのか、捲り上げられた袖。
どこか生白いその腕に、一点の青。
「刺青…?」
そう。異民族がよく、入れているような。
だが、その意匠は、漢族のもの。
青い、五芒星・・・・・
「覚えとけ。蜀にはそういう集団がいるんだよ。命じられるままに人殺して廻る…、こういう目印つけた連中がな」
「こ・・・・・」
「前に益州の州牧やってた劉焉て奴アな、そういうモン作って喜ぶ奴だったんだ」
ま。国を守るとか言うご立派なお志には、役だったようだけどなア?
「こ」
興覇、どうして。どうしてお前がそんなことを知ってる?
尋ねてやりたかったのに。
「お前には判らん」
何も言うな。
目が、言った。
「判りっこねえ。判りようもねえ。…こればっかりはお前には判らねえことだ」
…子明。
字を呼ばれただけなのに、高くて厚い壁を築かれたような気がして。
俺はそれ以上、何も言えなくて―――
でも、なあ。
それってさ。…その、そういう組織がほんとにあるとして、だけどさ。
いや、…実際あるんだろう。興覇の言った通り、あの料理番が手にしてた青菜の中には毒草混じってたし、調べたら益州訛りの男と喋ってましたなんて証人も出てきたし。
うん。そういうのはある。あるに違いない。
だからさ、興覇があのときああいうこと言えたってことはさ。
…俺はそいつらの仲間でしたって言ったのも、一緒じゃん?
興覇の肩から胸にかけて、とぐろを巻いてる蒼い龍。
異民族じゃあるまいし、なんで刺青なんかしたんだろって思ってたけど。
もし、興覇がそこの一員で、…何かの事情で抜けて、で、あの印消そうと思ったんだったらさ。
上から絵描いて誤魔化すのって、下手に焼き消すとか何かするよりいいじゃん?
焼き消すとか何かしたら「その痕は何ですか」って話になるけど、あれだけ立派な龍がいたらさ、誰の目にも「龍だ」って残るだけで、どっかに星が埋もれてたって気が付かないもん。
やっぱ興覇って頭い・・・・・じゃ、なくて。
興覇が最初に出会った権力者が、興覇の意に反して殺したくもないひと暗殺させるような奴だったんだったらさ・・・・・
…甘寧という者が、益州で謀叛を起こした挙げ句、どこかに逃げたという話を聞いたことがあって・・・・・
…劉君郎(劉焉)が死んだ時だ。漢朝が送り込もうとした益州刺吏と呼応した者が・・・・・
記憶の底から蘇って来たのは、かつて「大将」と慕った人の声。
呂蒙はぞっとして首を振った。
もし。
甘寧が、そんな年齢の頃から、劉焉の刺客をやらされていたのだとしたら。
まさかに謀叛をしたとは思わないが、彼が死んだ時の混乱に乗じてそういう連中の仲間から抜けたのだとしたら。
その話が変なふうに伝わって謀叛云々になったっての、…十分あり得る話じゃないか!
どうやら仲間は抜けたけれど、それでも変な刺青やら昔のひっかかりやらがあったからまっとうな暮らしが出来なかった、…だったら賊に身を落としたのも判る。
賊に身を落としながらも、手下たちにまっとうな暮らしをさせたい、お天道さまの下を大手を振って歩けるようにしてやりたいって、あんなに一生懸命願ってたのも判る。
だったら。
そんな過去があるんなら…、あいつにとって、権力の近くにいるのは、苦痛…?
だよ、な…。
うちの前に仕えてた黄祖だって、あいつには辛く当たったらしいし。
あいつの権力者嫌いはきっと、輪をかけてひどくなったことだろう。
殿がいくら懐の広いいい人だからって言っても、…んー、権力欲しさに汚いことする連中なんて、どこにでもいるんだし。
そんな連中とのべつ顔合わせるなんて…、あいつには耐え難いことだろう。
なのに誰があいつにそんなことさせてるんだって言ったら。
…黄祖を見限ってきたんだが、行くとこがねえ。手間かけた詫びに雇ってもらおうか。
…いいよ?
「…俺、か・・・・・」
呂蒙はきつく唇を噛んだ。
先程彼と交わした会話が蘇る。
「…あんま無茶しないでくれよ。俺今興覇の隊減らしたくない」
「夏侯惇か?」
途端に険しくなった、彼の顔。
今曹操が死ねば間違いない、この揚州は内乱になる。その時、孫家を守る為には、どうしても甘寧の力が要る。
曹操が夏侯惇を連れてきたのが、自分の寿命を悟ってという理由だったら、今甘寧隊を減らしてしまうのは、絶対に避けたい。
「今興覇の隊減らしたくない」と呂蒙が言ったのはそういう理由だし、それが判ったから甘寧の顔は険しくなった。
嫌なのだ。
例えそれが親しくしている呂蒙の為でも。「孫家」を存続させるためなどに戦うのは嫌なのだ。
孫家が悪いからではなく、自分…いや自分以上に手下たちの命、それを権力争いの駒にされることは、彼には耐えられないことなのだ。
この地の民を彼らの暮らしをあるいは仲間の誰それを守る為なら、彼は惜しげもなく命を張るだろう。
だが、権力争いだけが理由なら。
そうして、そんな男を、こんなところに引っ張り出したのは。
…国を動かそうなんて連中がそんな情だの奇麗事だので動くもんかよ!
もう遅い。もう手遅れだ。
俺があいつを縛ってる。あいつがもっとも厭う場所に、俺があいつを縛り付けてる。友達顔したこの俺が!
ああ。
なんて、ことだ!
「ごめん…」
ごめんな、興覇。
痩せた手が窶れた顔を覆った。