Act.5
〜A.D.216 陸口


「…て言ったらね、興覇にめちゃくちゃ怒鳴られたんです」
 困ったように微笑むおおきな瞳は初めて出会った頃のまま。
 秋の空の色をした声も明るい口調も昔のまま。
 それなのに。
「でも、劉備が信用出来ない以上…ってひめさまごめんなさい…、荊州ぜんぶで長江の制水権抑えとかないとまずいでしょ。それには関羽討つしかないじゃないですかあ」
 その声の語る中身はどうしてこんなに殺伐としているのか。いかにそれが事実であってもだ。
 いや、殺伐としているどころではない。
 話の肝は、ただ、五文字。
 関羽を、討つ、と。
「で、関羽は強いって評判だし、…だったら、油断するだけさせといて討つのが、いちばん・・・・・」
「それつまりこっちから同盟切るってことか? …んな、汚ねえ・・・・・」
 魯粛が呆れて言う通り。
 どうしてここまでなりふりかまわぬ汚い策でなければならないのか。
「そしたらすっぱり終わりますもん。死ぬのひとりでも少ない方がいいでしょ? うちもだけどあっちも。まともにやったら絶対長引くんだから…」
 どうしてこんなに優しい心がこんなに汚い策を打ち出さねばならぬのか。
「…やっぱ、俺、…阿蒙…ですか?」
 困ったように首を傾げる、子供っぽい所作も、あの日と同じ。
 ああやるせない、やるせない…、どうしようもなくやるせない!
「すっぱりってそれ、無理よ、子明」
 やるせなさを反論の形にして、仁姫は無理矢理に押し出した。
「向こうだって天下を狙うなら荊州は欲しくて堪らない筈。大人しく獲られちゃくれないわよ。特に関羽は劉玄徳とは義兄弟の仲、…あのひとが関羽討たれて放っておく筈はない」
 復仇の軍は必ずこの荊州に雪崩れ込む。そうなったら。
「そうなったら、魏がそれを見過ごすわけないじゃないの。そこんとこどうするつもり? きっと・・・・・」
「でもひめさま、それ、あっちも同じでしょ」
 首を傾げた形のままで、おおきな瞳はさらりと言う。
「てゆっか、曹操にあっち行かせればいいじゃないですか」
 幼い頃。「そこで石けりされたらおしごとのじゃまですからあっちいってください」と言った…、それと変わらぬ口調で言う。
「はあ?」
 仁姫が唖然と目を丸くした。
 この子は…、いや、もう「子」ではない、そもそも自分より年上だし立派な将軍でもあるのだが、…意味が判って言ってるのだろうか。
「言うこと聞いてあげてもいいよって顔してたら、こっち来ないんじゃないかな」
「何よそれ」
「ほら、うちはしようと思えばそうできるけど、あっちはできないじゃないですか。国是が漢室復興だもん」
 劉備の勢力はそもそも漢室復興を旗印としている。それを否定するような真似は出来るわけがない。
 従って、劉備は絶対に曹操とは同盟出来ない。そこの事情が孫呉とは違うと…、まあ、それはその通りなのだが。
「お前、なあ。従属をちらつかせて曹魏を懐柔し、東の憂いをなくした上で荊州攻め取るって言やあいいだろが」
 そう言えばまともな策に聞こえるものを…、「あっち」だの「こっち」だの言うからおかしくなんだろと、苦笑混じりに魯粛が言った。
「お前の言うのは間違っちゃいねえが、だがなあ、時期悪くねえか? ほれ、去年の逍遙津…」
 曹操に手酷い敗北を喫したばかりの今は、従属をちらつかせたところで・・・・・
「あー」
 慌てたように手を振って、呂蒙が魯粛の言葉を遮る。
「今すぐってことじゃないんですよ。うん。逍遙津の後だから、今、言うこと聞いてあげてもいいって言っても、曹操あんまり喜ばないだろうし」
「だからそういう言い方止せって」
 力で押し潰せるかもしれないと向こうが思っている時にはこの手は効かないだろうと…、それがなぜこんな言い方になるのか。魯粛が小さく舌打ちをした。
「ちゃんと通じるんだからいいじゃないですかあ」
「まあ、言いたいこた判るけどよ…」
 魯粛と仁姫は顔を見合わせた。
「とにかく、曹操去年のあれ見てしめしめって思ってるだろし、絶対また来るから…、そん時、こっち有利な感じで追い返せたら、ね?」
「来るって遊びに来んじゃねえだろが」
 魯粛が大げさに天井を仰いで見せ、仁姫が苦笑して肩を竦める。
「それから、ええと…従属してみせてもいいってカッコしてみせて、曹操が乗ってくれたら、そしたら向こうの気が変わらないうちに荊州獲っちゃおうって。ね、いけそうでしょ?」
 そんな笑顔でそんな口調で言うから、荊州をかけた戦でさえ、子供の遊びのように思えてしまう。
 しかし。
「…そんな簡単に出来るわけないでしょう! よく考えてご覧なさい」
 それが簡単に出来るのなら、何も苦労などないではないか。出来ないからこそ、自分たちはさんざん苦労してきたのではないか。
「病が頭に昇ったんじゃないの? あなたね・・・・・」
「で、出来ますよ!」
 ひらひらと。
 慌てたように放たれた言葉の下で、てのひらが動いた。
「ほ、本陣…、本陣突っ込んで、あっちがびっくりしてるあいだうんと暴れて、で、正気に戻る前にさーっと引き上げちゃえば…」
「本陣撹乱したくらいで勝ったって言えないでしょ!」
「いや」
 脇から魯粛が口を挟んだ。
「いや、言えるぜ。引っかき回し方にもよるが…、あちらさんが『負けた』って思ってやる気なくしてくれりゃあよ、つまりはそれで勝ったことになる。…だな、子明」
「あ、そうですそうです!」
 こんな話でぱあっと広がる、満面の笑みが切ない。切ない。
「去年の逍遙津がそうですもん。こっちの損害って、子烈(陳武)討たれたし公績んとこは全滅したけど…、それだけって、んー、そう言うのなんかイヤだけど」
 でもそれだけだったんですよと、少しだけ顔を曇らせて。
 そうだ。彼の言うのはあながち間違ってはいない。
 川のこちら側では、曹軍による犠牲者は殆どいなかった。死傷者の多くは潰走の中で味方に踏まれたり押し潰されたりしたもの。
 陳武は確かに討たれたが、あれは、将を狙って無理矢理突っ込んで来た少数の騎馬兵の仕業、殆ど刺客にやられたようなものだ。
 橋を落とした後で対岸に取り残された凌統の隊は全滅したが、…はっきり言えば、あれは凌統の判断が誤っていた。張遼に突っかけてゆく前に、兵に「水軍の方に走れ!」と一言命じればよかったのだ。蒋欽水軍は彼らを収容するために最後まで頑張っていたし、遅れて救出に向かった甘寧水軍もいたのだから。
 主力は完全に無傷。最精鋭の呂蒙隊にしても、実質、戦闘は行っていないに等しい。
 損害だけを見れば所詮、退却途中の小競り合いでしかなかったのだ。
 それが、曹魏の大勝利のような形で定着してしまったのは、何故か。
「あれねひめさま、うちが負けたってみんなが思ったから、だからうちの負けってことになったんですよ。赤壁のときの逆なんです」
 あの時は。実質、こちらがあげた戦果は曹操が烏林に作ろうとした拠点を潰したことだけで、将のひとりも討ち取れはしなかったのに。
 皆が…特に曹操に反感を抱いていた朝廷の連中が…曹操は大敗を喫したとそこらじゅうで吹聴して廻ったから(もちろんこちらも手を貸したが)、だから勝ち戦ということになった。
 つまり。
 戦の勝敗は、必ずしも戦果で決まるわけではなくて・・・・・
「負けたと…向こうに思わせれば、うちの勝ちだと認めさせれば、それでいいってこと…?」
「んだな。…だったら本陣の撹乱が一番早い、…か。随分と、強引な手だが…」
「でも、興覇なら出来ますよ? あいつそういうの得意だもん。あっちだって、逍遙津の後だからきっと、こっちのこと舐めてかかってくると思うし、十分つけいる隙あると思う」
 くっと、魯粛が笑った。
「最初思ったほど、無茶な策でもねえな。うん、案外行けるかも・・・・・」
「でも子敬! 従属をちらつかせたところで、曹操が乗ってくるとは限らないでしょう?」
「乗ってくると思うんですけど」
 仁姫の言葉に答えたのは、呂蒙の方。

「判ってますよ、あのひと。もう、自分が生きてる間には、揚州獲れないってこと」

 その瞳もその微笑みもその声の色も、やるせない程に切ない程に昔と変わってはいないのに。
 翳りひとつない瞳が愛嬌のある笑みが明るく語るのは容赦のない戦略。

 去年の戦で孫家直属の軍しか動いてなかったこと多分曹操判ってると思うんです。だから豪族たちに声かけたに違いないんですよ。叛乱しろとか何とか。
 でもね誘いに乗った家なかった。みんな殿のことは見限るかもしれないけど…ってごめんなさいひめさまこんな言い方しちゃって…だからって曹操の言うこと聞くわけじゃないんです。
 だって曹操が実権握ってるっていっても漢朝は漢朝でしょ。400年間揚州苦しめた政の仕組みはまだ生きてるってことでしょ。
 殿を見限って誰か他のひと立てるにしても…ごめんなさいひめさまほんとごめんなさい…でも、曹操っていうか漢には絶対靡くわけない。それ曹操もよーく判ったと思うんですよ。
 これまでは孫家倒せば揚州言うこと聞くって思ってたかもしれないけど上だけ置き換えても豪族たちが反抗するばっかりでとてもすぐには治めきれない。
 曹操にゆっくり時間あれば別ですよ? でもあのひとだってもうたいがいいいトシじゃないですかあ。
 人生七十古来稀也って何かの書に書いてましたよね? こっちがごたごたしてる最中に自分死んじゃったらあとが厄介だってあいつきっと考えますよ。
 すぐは駄目です。逍遙津のあとだもの、条件が何も出せない。でも向こうに負けたと思わせた後だったら…ね?
 ある程度の自治認めろとかそんな感じで交渉始めれば曹操だってやだって言わないだろし、でほら、交渉してる間は攻撃しづらいでしょ、向こうだって。
 んー、そりゃ子布殿とか、徐州から来た人たち曹操に頭下げるの嫌がるかもですけど、荊州獲るための…ええと、方便?うん、なんかそんなのだって言ったら大丈夫じゃないかなあ。
 それでもしこっちのお願い全部通って揚州の自治認められたらそれはそれでいいし、やっぱやめたってことになっても劉備と同時に相手するんでなきゃまあ何とかなるわけで。
 とにかく曹操止めてる間に、荊州から関羽どかせちゃえばいい。ってったってあのひと目の黒いうちはどいてくれないだろうからそこは戦しないとしょうがないんですけどさ。
 油断してるとこ衝けばそんな損害出さなくて済むと思うし…。

 どうして。どうしてこうなってしまうのか。
 こんなにきれいな瞳がこんなに明るい声が、なぜ、戦の策など語るのか。それも同盟相手を裏切るという、弁護の余地なく汚い策を。
 そんな薄い肩で。そんな青ざめた顔で。…これだけの策を練り上げるまでに、幾夜を寝ずに過ごしたのか。
 やるせなくて。切なくて。
「それがうまくいっても…、同盟を破ったというのはうちの汚点として残るじゃないの! そんなことした曹操がうちを信用してくれると思う?」
 仁姫の声が鋭く尖った。
「劉玄徳だって荊州獲られて黙ってるわけない。機を見て必ず攻めくだってくる。その時曹操が…信用のおけない相手もこの際始末してしまえって思ったら・・・・・」
「え、そりゃ、そうなんですけど…、ええと、機はこっちで決められるんじゃないかなって思うんですけど」
「はあ? 何言ってるの! こっちが決めてやるって言うの?!」
「ええとだから、劉備だって曹操が攻め込んで来るの嫌だろうから、…来るってなったらこっちにとっても都合のいい時になるだろうし、ちょこっと背中押してやれば…、いついつって、選べるっていうか、一番都合のいい時に呼び込めるっていうか、ええと…」
「判るように言いなさい!」
 仁姫の声が跳ね上がる。
「背中押すとか選べるとか、わけの判らないこと言うんじゃないの! あなた普通に喋れないの?!」
「え、ええと」
 こうして彼女に怒鳴りつけられるとおろおろしてしまうのも、口調がしどろもどろになるのも、あの頃と何も変わってはいないのに。
「だから…、曹魏が動けない時でないと、お互い…都合わるいって言うか、そういう時になるに決まってて、で、関羽だけならまだ、その…我慢できても、…張飛、とか・・・・・」
 その唇が紡ぐ言葉は背筋が寒くなるようなもの。
「それって…あれか? 曹魏が今は動けねえって時見計らって、万全の体勢整えた上で、だめ押しに張飛暗殺すれば、劉備は怒り狂って押し寄せてくるだろうって言ってるのか?」
 主家の姫さえ策の手駒にして躊躇わなかった魯粛が、思わず声を荒げるようなもの。
 しかし呂蒙は怯まない。
「あ、はい。こっちがちゃんと用意できたところで、そうやって呼び込んで・・・・・」
「いくらなんでもそれ汚なすぎるだろ! 暗殺なんて…」
「え、でも、敵にいい将軍いない方がやりやすいから・・・・・」
「子明っ!!」
 だからそれは汚いと言っているだろうと、ふたり揃って喚き立てれば。
「え、…でも」
 さも不思議なことを聞くというように、おおきな瞳が瞬きをした。
「死ぬの、ひとりでも少ないほうが・・・・・」
「正々堂々とやってこその戦だろうがよ!」
「あー、ごめんなさい、子敬さん。子敬さんいいひとだからそゆの嫌ですよね」
 でも、と。
 顔だけは申し訳なさそうに、けれど言葉は淀みなく。
「ちょっとでも少ない犠牲でしっかり勝つのが俺のお仕事だから…、ていうか、俺、そのためにここにいるんだし、劉備がぜんぶ連れてきたら、…けっこうキツイと思うし」
 すごい敵将なんていないにこしたことないんですと、…澄んだ瞳でそんなことを言う。
 間違ってはいないのかもしれない。かもしれないが、そのことが、なぜかどうにもやりきれない。
「だからってねえ! 勝てれば何でもいいってもんじゃないでしょ! 曹操が徐州でどれだけ評判落としたか考えてもごらんなさい! うちは・・・・・」
「え?」

 きょとんと見開かれた、おおきな瞳。

「うちって、なんで? 全部俺のせいにすればいいじゃないですか。俺が勝手にやったんだって」
「はあ?」
「俺どうせそんな長生きしないんだし、あっちのひとたちがどうしても許せないって言うなら、俺の首斬って渡してくれても・・・・・」

 仁姫の眉が吊り上がった。



「いい加減にしなさい何考えてんのよこの馬鹿子明っ!これ以上そんなこと言ったら殴るわよっ!!」



 ひめさまってば興覇と同じところで怒るし。台詞までそっくりだし。
「やっぱこれ、馬鹿な策なんでしょうか。…子敬さん、どう思います?」
 仁姫が思いきり叩きつけていった扉を困ったように眺めて、呂蒙が自信なさげに言った。
 彼女や甘寧が何故怒ったのか、何について怒ったのか、どうやら全く判っていないらしい。
「…いや」
 腹を立てるのも馬鹿らしくなって、魯粛は軽く肩を竦めた。
「悪くはないさ。…劉備がもう信用出来ない以上、長江の制水権だけはきっちり確保しとかねえとうちが危ない。そらまあそうだ。けど子明」
 ここまで強引なことをしなければならない理由は何なのか。
「交渉で…こう、お互いの損得すりあわせて、何とか同盟保っていく。そういう選択肢もあるんじゃねえのか?」
「んー」
 ちらり。
 呂蒙の視線が、また、扉に走る。
「…ひめさまには、あんま言いたくないんですけど・・・・・」
 あのひと立ち聞きしてないでしょうねと、声を低めて。
「もし、ね、…去年、豪族のひとたちが兵出してくれてたら、俺、こんな無理しようって思わなかったと思うんです」
 どこかたどたどしく紡がれる言葉は、ちゃんと通じているかどうか不安がっているように響いた。
 励ますように頷いてやって、先を促す。
「でも、…そうじゃなかった。兵、出さなかったってことは…、そうでしょ。みんなもう、孫家は揚州束ねて行けないって思ってる…」
「そう…だな」
 それもまた、その通りだ。
「揚州に敵が攻めこんで来たってえんならともかく…あれはこっちから出てった戦だったしな。それも、どっちも、実利っつうよりは殿の顔が立つ立たねえって話だったし」
 約定を破った劉備を放置しては顔が立たない。同盟を結んだ劉備に協力しないのもまた顔が立たない。
 そろそろ見限ろうかと思っている家の面子を立てるためだけの戦に手を貸して自家の力を削ぐのは馬鹿らしい。…それはそうも思うだろう。
 戦である以上死傷者が出るのは、それこそこの呂蒙が「死ぬやつ一人でも少なくなるように」頑張ったところで、避けようもないことなのだから。
 仁義に悖るといえばそうだが、そんなきれいな言葉に縋るだけでは、家も国も保ってはゆけないのだ。
 あ、と。
 何を思いついたのか。魯粛のどんぐり眼がぎらりと光った。
「お前まさか…それでか? 外敵が攻めこんで来れば孫呉が纏まるとか・・・・・」
「ちがいますちがいます!」
 ぶんぶんと。
「そりゃ、まとまるでしょうけど…ってかまとまってくれないと困るんですけど、自分ちのことは自分ちでちゃんとしなきゃ。ひと頼るんじゃなくて。そうじゃなくて」
 音の出そうな勢いで、首を振って。
「…こう言ったら、子敬さん責めてるみたいに聞こえるかもだけど」
「構わねえよ。言えよ」
 頷いた呂蒙が、言葉を継いだ。
「皆がね、…殿、見限ろうって思ったの、殿が劉備の都合に振り回されてるみたいに見えるからだと思うんです」
「・・・・・。」
 その劉備との同盟を提唱した男が、思い切り苦い顔をする。
「あ、…あの、すみません。…でもほんと・・・・・」
「いいって言ってんだろ。…で?」
「あの…、みんな、ね。その、天下どうとかより、…自分たちの運命自分で決めたいんだと思う。外の連中に振り回されてるんじゃ、…これまでと何も変わらない」
 漢朝のもとで搾取されていた頃と、本質的には何も変わらない。
「で、ほら。その…、曹魏が動けない時って、荊州獲るにはいい時だけど、叛乱するにもいい時で、だから、えーと・・・・・」
「けどお前、こっちから従属ちらつかせなきゃあ、あちらさん動けなくならねえだろが」
「なりますよ」
 真面目な顔で、呂蒙は言った。

「曹操が、死んだら」

 曹操が、死んだら。北の脅威が一時にせよ治まったら。必ずこの国に叛乱が起きる。
「だから、あいつ生きてるうちに、孫家だってよその言いなりになるわけじゃないんだぞってのはっきり見せてみんなの心繋いどかないと、・…あとあと劉備ワーって来るだろからけっこうたいへんだとは思いますけど、でも、ほっといたらそこで絶対叛乱起きるから、…だったら力合わせて劉備で苦労してる方がまだマシ…ってあれ? やっぱ俺劉備頼りにしちゃってる? あれ…、なんかわけわかんなくなってきた」
 やっぱり馬鹿な策でしょうかと、不安そうに見つめてくる。
 その瞳に、重なる光景。

 …あれは孫家の邸だった。
「…曹操はね、天下を獲りたいって思ってるの」
「天下を」
「だからね、邪魔するものがいなくなったら、当然…」
「こっちに…攻めてくるんですか?」
「項王と劉邦の話、知ってるでしょ?天下の統一となったら、この江東も入るわ、当然」
「・・・・・そ、か…」
 一生懸命考えていたのは、同じ瞳。
「袁家が…邪魔してたんですね」
「そう」
「でも…曹操がもう勝ちそうだってことなんですね」
「ええ」
「劉表は邪魔しそうにないんですね」
「ついでにいえば益州の劉璋もね」
 あの頃の彼には、曹操も袁紹も劉表も劉璋も、どこか遠くにいる無縁のひとにすぎなかった。
「…戦うんですよね?」
 同じ唇が今、二国を相手取る戦略を語り。
「じゃ、それまでに水軍、ちゃんとしなきゃだめですね。曹操が江を渡れないように」
 同じ瞳が今、曹操亡き後までもを見透かそうと輝く。

 これだけ汚い策を操りながら、こいつには邪気のかけらもない。
 どろどろの現実と未来を見据えながら、この瞳には相変わらず翳りがない。
 いったいどうしてそんなことが出来るのか。そんな人間がいていいのか。
 目の前の男が空恐ろしく思えて、魯粛は僅かに眉を顰めた。
 それを、どう取ったのか。

「駄目…でしょうか? 俺、…みんな好きだし、みんな大事だから…、中で殺し合いとかしてほしくなくて、一生懸命、考えたんだけど・・・・・」

 ああ、…そうか。
 これだけ汚い策でありながら嫌らしい臭いがしねえのは…、てめえの為に練った策じゃねえからだ。
 こいつの大事な「みんな」の為に、夜も寝ないで一生懸命練り上げた策だからだ。
 今は落ち着いてるみたいだが、こいつだって胸に病抱えてんのに。てめえのことは放っておいて、「みんな」の為だけ考えて。
 汚い策なのは承知の上で、泥だけは全部自分が被る覚悟で。そんなことしてもてめえ自身には何の利益もないってえのに。
 …儂とは、逆もいいとこだよな。
 儂は自分の夢の為だけに生きてきた。惚れた女を駒にしてまで、己の夢だけ追っかけてきた。
 後悔はしてねえ。魯子敬は魯子敬にしかなれねえ。どうやったって呂子明にはなれねえんだ。
 下手に呂子明の皮被って「みんなのために」なんてやってたら、とうの昔に発狂するか何かしちまってただろう。
 魯子敬は魯子敬を思う存分生きた。悪くねえ人生だったし、もう、それでいい。そう思ってる。
 けど、よ。
 儂のやり方じゃあこの国をどうにも出来なかったってえのも、ま、残念ながら本当だ。
 だったら。
 儂とは正反対のこいつのやり方なら。もしかしたらどうにかなるかもしれねえじゃねえ。
 儂だって、な。この国のことは、好きだったんだ。
 てえかお前、惚れた女の国じゃねえか。中からボロボロになってくなんてのは、…実際なりかけちゃあいるんだが、正直想像したくもねえ・・・・・
「子敬さん…?」
 怪訝そうに覗き込んでくる瞳を見返す。
 やはりどこにも翳りはない。どこまでも澄んで、…空のように澄んで。
「…たいしたもんだ」
 彼が苦労して考え出した策がか。それとも、この瞳が汚れていないことがか。
 どちらとも判らぬまま、言葉だけが零れた。
「もう、阿蒙とは呼べねえな」
 はにかんだ笑みが痩せた顔をぱあっと彩る。
 つられて儂の唇も笑みの形を作る。
「じゃ…」
「おう。いいと思うようにやってみろ。殿を説きつけるのがちと骨かもしれねえが、ま、それで上手くいくんじゃねえの」
「はいっ!」
 ああ、そんな嬉しそうな顔しやがって。
 そうだな。上手く填るといいな。芯から思うよ。
 それにしても。

「よくお前、思いついたな。暗殺のため刺客送るてなこと」
 それはおよそ呂蒙の考えつきそうなことではない。それだけはどうにも釈然としない。
「ああ」
 呂蒙はにこにこ笑って言った。
「そうなんです、俺もね全然そんなこと思いつかなくて、だから劉備ひっぱりだすいい方法ないかなあってうんうん考えてたら、運よく来てくれてね」
「何が」
「刺客が」
「・・・・・は?」
「劉備のとこの刺客ですよ。料理人のふりして俺んとこ来たんです。興覇が見破ってくれたから助かったんだけど、ああこういう手もあるんだって、それで、思いついて…」
 …今度こそ魯粛は絶句した。
「ああそうだ!だから子敬さんも気をつけた方がいいって言おうと思って忘れ・・・・・」

「こんの、阿蒙っ!」

 一気にしゅーんと、下がった眉。

「もう阿蒙って呼べないって言ったばっかじゃないですかー!」
「うっせえ!そういうことは先に言えっ!」
 なるほど呂蒙軍はこちらの最精鋭、しかも零陵一件であちらの恨みを買っている。狙われるのも道理だとは思うが。
 汚いもくそも、向こうが先に仕掛けてきたのだ。何も遠慮することなどない。心おきなくやり返せばいい。
 だからそれを先に言えばいいのに、…この馬鹿は・・・・・

「やっぱ、お前、阿蒙な!」
「ひっど・・・・・」

 ああ最高だと、魯粛は笑った。