Act.5
〜A.D.215 荊州/逍遙津


 いちめんの赤。ぎらつく赤。それは炎。禍々しい炎。
 燃えているのは…孫家の館。空を染めて。地を染めて・・・・・
 対峙した、二人の男。孫家の当主と、陸家の総帥。
「…所詮、そうなる、運命、か・・・・・」
「変えたかったんですけど、ねえ…」
「…いいさ」
 絡み合う、悲しい視線。
 血が流れる。炎が踊る。
「されば来い! 陸家の総帥!」
 炎を映して燃えた刃。地に伏した影。…孫権の影。
「夢は…私が継ぎます」
 炎に照らされた白皙の横顔。赤い、赤い、赤い、紅い―――


「・・・・・っ!」

 飛び起きてみれば、そこは益陽。自分に与えられた部屋。
 過ぎゆく夏のけだるい陽射しが、壁に踊っているばかり。
 すっかり見慣れてしまったその夢が、いつか現実になるのだとしても。
 …うん。まだ、…今じゃ、ない。
 ぎゅっと握った両の拳は、己のものながら、縮んだように見えた。
 
 漢中が曹操に降ったのだという。
 張魯は、闘わなかったという。食料庫なども、「これは民のものだから」と封印し、そのまま曹操に委ねたのだという。
 漢中の先には、益州がある。
 兵を損なうこともなく、物資も十分手に入れた曹操がすることは、…ただひとつ。
 和議を申し入れる劉備の使者が、大慌てですっ飛んで来たという。
 曹操が本拠地の益州を狙おうとしてるんだったら、劉備だって、こんなところでぐずぐずしてられないもんな。
 で、決まったのが、こうだ。
 湘水で、荊州を二分…。
「まあ、妥当な線かもしれねえが」
 子敬さん、怒った顔してた。
 俺たちが一番苦労した零陵は、川の西側だから、劉備に返さなきゃならない。
「畜生…!せっかく子明が苦労して南荊州全部抑えてくれたってえのに!」
 すまないなって。
 なんか…、俺に謝るなんて、子敬さんらしくないなって気がした。なんか…なんての?しぼんじゃったような気がするし。
 興覇は、夢を諦めちまったからだって、言うけど・・・・・。
 ああ、そういえば。
 いつか、話したっけ・・・・・

「夢ってそんなに、大事なんですか。ひめさまよりももっと、大事なんですか」
「お前にはそういうの、ねえのかよ」
「俺ですか…」

 あの時、俺は言ったんだ。…みんながしあわせになること、って。
 そしたら子敬さん、鼻で嗤ったんだよな。何夢みたいなこと言ってんだ、そんなこと現実になる筈ないって。
 自分が夢を言えって言ったくせに、ひどいよなあ。

 …夢、かあ・・・・・

 おおきな瞳が、ぼんやりと、壁にゆらめく陽射しを追った。
 朝だというのにどこか気怠げなそれは、衰えゆく季節の証だろう。
 そうはいっても、今日も暑くなりそうで。呂蒙は小さく溜息をついた。

 殿は今度、合肥を攻める。
 劉備が本拠に戻るまで曹操の目をこっちに引きつけておくための、陽動…だな、言ってみれば。
 同盟が復活したってのはそういうことだ。同盟相手の為に戦わなきゃならない、そういうこともある。
 いくらそいつらが火事場泥棒みたいなことした酷い相手でも、それが信義ってもんだから。
 でも。

 …この暑さの中、軍に荊州横断しろなんて、…無茶、だよなあ、やっぱ・・・・・。

 移動に長江を使えば、兵の負担は少なくて済むから。
 今、子敬さんの指示で、近在の船出来るだけ借り上げてる。
 興覇と、公奕(蒋欽)も応援に来てくれて、今、借り上げた船と水軍とで、せっせと兵を輸送してるところだ。
 水軍にとってはものすごい負担だが、「この暑さに皆に陸路歩かせられっかよ!」って、…だよな、興覇の言う通りだ。
 戦が実際に始まる前に、士気もなにもズダボロになっちゃうだろう。逃げるヤツだって出るだろう。
 でも、行くしかないんだ。
 もう孫家は豪族たちから兵を集められなくなってる。子飼いの兵だけで、俺たちだけで、戦するしかないんだ。
 あの君理(朱治)さんが兵を出すの、拒んだって聞いた。
 みんなもう孫家は長くは保たないって思ってるんだ。今孫家に変に肩入れしたら、…孫家が潰れる時に共倒れになる、そう思ってるんだ・・・・・

 また、零れた。
 重い溜息。

 興覇、言ってた。
 この国駄目にしたの前の殿だって、そう言ってた。子敬さんとそういう話したんだって。
 …前の殿、じゃ、ないか。
 前の殿がみんなに見せた夢。あの、項王が見せたのと同じ夢。

 江の南から攻め上がった勢力が、…天下を―――

 その夢がこの国を駄目にした。

 いつか、伯言に言われた。
 前の殿…伯符さまが亡くなった時の話、してたときだ。
 あの時、伯言は思ったんだって。
「豪族たちは、孫家の魅力ではなく、孫策の魅力に惹かれて従っていたのですから…、その中心を失えば必ず内乱が起こる」って。
 それを防ぐには、陸家の名をもってこの地を抑えることだと思って、…だから挙兵を決意した、って。
 殿が見せた夢の魅力。…興覇の話からすると、そう言った方がいいのかもしれない。
 江南て、項王の出たとこだから、北のひとたち警戒してたのかけっこう意地悪なことしたって言うし…、みんなあんまりいいように思ってないもんな。
 そいつらやっつけて天下獲ろうって、あの殿の勢いでガーって言われたら、うんうんって、なっちゃうよな、そりゃ。
 それが忘れられないひとたちがずっとずっと、仲謀さまの邪魔、し続けてた。
 仲謀さま天下獲りたがってないし、だいたい、戦、得意じゃないし。
 だから仲謀さまじゃ天下獲れないからって、天下獲ってくれそうな人探して、そのひと担ぎ出そうって、…ええと。うん、それでいいんだ…と、思う。
 公瑾どのが亡くなるまでずっと「そのひと」は公瑾どのだったけど、でも、公瑾どののいない、今は・・・・・。

 彼らが誰を担ぎ出そうとしているのか、…知っていると、呂蒙は思った。
 今その男が動いていないのは、何故かも。
 曹操だ。
 ここでこの地が乱れれば、曹操は絶対につけ込んでくる。江南が自立してゆくこと自体が出来なくなる。彼がそう思っているからだ。
 それを言われれば誰もが頷くだろう。赤壁以降、曹操があの手この手でこの東呉をかき回してきたことは、誰もが知っていることなのだから。
 けれど、…劉備がいい年齢だというのなら、曹操だって同じことではないか。
 曹操が死んだら。その時は。

 …公瑾どのの時は、天下なんか要らないそれより揚州を自立させたいってひとたちは、孫家の側についてくれた。
 それは、公瑾どののうしろにいた周家が、漢朝の…この江南を苦しめてきた北のひとたちの側だったから。
 でも、今度は・・・・・。

 曹操が死んだら、「彼を」という声は、更に一層高まることだろう。
 誰かが不穏な動きを始めるかもしれない。そうしたら孫家だって黙ってはいない。兵を向けるだろう。子飼いの兵を。昨日まで仲間だった誰かのところへ。
 内乱になる。きっとなる。このあいだまでの仲間同士で殺し合って…、恨みと憎しみだけ積み上げて。せっかく作った国をめちゃくちゃにして―――
 そんなことを「彼」が許す筈がない!

「それを防ぐには、陸家の名をもってこの地を抑えることだと…」

 彼。
 この地に代々根を下ろしてきた、陸家の総帥、…陸伯言。
 孫策が死んだ時にしようとしたのと同じことを、彼はもう一度試みるだろう。
 そうして・・・・・

「…所詮、そうなる、運命、か・・・・・」
「変えたかったんですけど、ねえ…」
「…いいさ」 

 夢の中で聞いた台詞が耳の奥に谺する。
 振り払おうと、首を振って。
「ああ、もうっ!」
 苛々と呂蒙は起きあがった。
 ひと月ばかり、仕事も何も全部取り上げられて半ば無理矢理養生させられたからか、体の調子は悪くない。
 自分で見ても少し太ったような気がする。これならなんとかいけるだろう。
 今度の戦。
 「出る」と言ったら甘寧には「馬鹿野郎!」と怒鳴られたが…、こんな状況でじっとしていられるわけがないではないか!

「運命なんてありゃしないわ。あるのは状況だけよ。どう受け止めるか、どう生きるか、…選ぶのは自分。そうでしょ?」
 
 ひめさまの声が、背中を押す。
 俺には判らない。選べっていわれても判らない。けど、…これは確かだと思うこと。
 俺は嫌だっていうことだ。殿と伯言が殺し合うのは嫌だ。俺が育ててきた兵たちが、仲間の誰かに向けられるのも嫌だ。
 俺は、みんな、好きだから。みんなにしあわせでいてほしいから。
 夢みたいなこと言ってるんじゃねえ? んなもん現実になるわけがない?
 …やってみなけりゃ、判らないじゃないか!

「最初から諦めてどうするの! やるだけやってみなきゃわからないでしょ? 人事を尽くさずして天命を待つなって言うでしょ!」

 そうだよひめさまの言う通りだよ。最後は結局、駄目なんだとしても。やるだけやってみなかったら…残るのは後悔だけだもん。
 って…、何していいんだか、ほんとは俺にも、よくわかんないんだけど・・・・・

 やっぱり阿蒙だよなと、舌打ちをして。それでも呂蒙のおおきな瞳は、しっかりと前を向いていた。

 まず、動いてみなくちゃ。何かやってみなくちゃ。…そうしたら思いつけるかもしれない。
 うん。きっと大丈夫だ。だって、そうだったもの。…江夏攻めた時も、赤壁の時も、…いつだってそうだった。そうじゃないか。
 じっとしていても何も変わらない。何も変えられない。何も守れない。
 だから、…だから、俺・・・・・

「俺はもう死ぬんだとかしょうもないこと思ってるんだったらなおのこと! どうせ死ぬんだったらその前に一度くらい好きなことしてごらんなさい!」

 ひめさま。
 俺…決めました。
 好きなこととか俺にはよくわかんないけど。
 でも俺、俺の夢の為に、やれるとこまでやってみます。みんながしあわせでいられるように、俺に出来そうなこと全部、やってみます。
 だって。
 俺、みんな、好きですから―――



 大馬鹿野郎と、甘寧は怒鳴った。



 かしらは、このごろ、機嫌がわるい。
「何で、関羽瀬なんだ?俺が、関羽撃退したんだぜ?何で、甘寧瀬とか興覇瀬とか、つけねえんだよ?」
 この前、渡河して益陽を衝こうとした関羽の兵、それを俺たち撃退したんだけど。
 あのへんの連中ってば、その記念だってんで、そこの浅瀬に「関羽瀬」って名前つけたんだってさ。
「でも、あん時関羽、お姫さま見て勝手に退いちまったから、俺らほとんど何もしてねえでしょ?」
 目立ち方足りなかったんすよって言ったら、苦笑してたけど。
「わーってるけどよ…」
 ほんとはそれで機嫌悪いんじゃないくせに。呂将軍が調子悪いのに出るってきかなかったから、…だからだ。俺、知ってる。
 うん。俺も…、ほんとは俺だって、あんたにそんな無理させるために漁師の親父に頭下げまくって鼈譲って貰ったんじゃねえやいって言いたいけどさ。
 でも…、なんていうか。
 あのひとなんか、ほんと、楽しそうだから…、なんにも言えなくなっちゃってさ。
 かしらもきっと、そうなんだろな。だからこんな機嫌悪いんだろな。
「今回も目立つとこなかったですもんねえ。土地にかしらの名前つくの、まだ先になりそうですね」
 うん。
 あのあと俺ら、合肥に廻って、曹操の軍と戦ったんだけど。
 なんだろ。なんかこう、しばらく包囲してわいわいやっただけで…、あんま戦したって気分じゃねえんだ。
 かしらは、それでいいんだ、今回は劉備が本拠に帰るの助けるために攻めるフリだけすりゃあいいんだからって言ってたけど、…なーんか、なあ。それ、アホらしくねえ?
 やっぱ戦に出るんだったらさ、手柄立てて褒美貰って…とか、何かそういうこと、ないとさあ。
 んー、まあ。
 こないだまで荊州でしんどい目してたんだし、このクソ暑い中延々荊州横断したんでみんなたいがいへばってるし…って、俺らなんか何往復したっけ? 3往復? 4往復? 忘れちまったけどとにかくキツかった。
 その上、暑さで兵糧傷んぢまってたのか、腹壊すヤツもけっこう出てて…、まともに戦やれって言われたらそれはそれで困ったかもしれねえけど。
 うん。合肥守ってる敵将、張遼とかいって…、あの有名な呂布の下にいた豪傑らしいじゃん?
 どうせそういうヤツとやるんだったら、もうちとこう、気分盛り上がってる時っていうかこっちもノってる時にやりたいよな。
 まあ、やっと撤退決まったから、大方の連中、ほっとしてんだろけど・・・・・

「あ…れ?」

 丁奉が怪訝そうな声をあげ。
 何やら物思いに耽っていた甘寧は、はっとしたように顔を上げた。
「どうした?」
「近衛が、動いてねえんすよ」
 甘寧と蒋欽の水軍は、逍遥津の仮橋を守って、撤退の援護をしているのだが。
 中軍が渡りきったというのにまだ、孫権の親衛隊の…、近衛の旗が、動いていない。
「殿は…、中軍と一緒に渡るんじゃ、なかったっすか?」
 既に後軍の兵が橋を渡り始めている。潘璋の軍だ。それでもまだ、近衛の旗は動かない。
 …あの馬鹿君主、今度は何を…??
「おう!その馬、下ろせ!」
 軍馬を運ぶ船に、一頭を下ろすように命じ、自分の強弓をひっ掴む。
 赤い戦袍の武人を乗せた馬が引き返してくるのが見える。呂蒙だ。前軍を預かっていた彼も、孫権の旗が見えないと知り、慌てて戻ってきたらしい。
「様子、見てくらあ。何があるか判らねえ。お前も、自分の船に戻ってな」
 一声かけて、甘寧は、旗艦の楼台から滑り降りた。


 駆けつけた仮橋のたもとでは、孫権と凌統が、押し問答をしていて。
「お前が先に渡れ。俺が、最後に残る…」
「総大将が殿軍をつとめるなんて、聞いたことがありません!お願いですから、先に、渡ってください!」
 近衛兵たちと、軍楽隊が、困り果てたような顔で居並んでいる。苛立たしげに列を作っているのは、凌統の私兵か。
「あっ、子明殿…」
 呂蒙の顔を見て、軍楽隊の隊長が、ほっとしたような顔をした。
「いいから、おまえたちは先に渡れ!」
 どうせ戦力にならない彼らから、とりあえず、先に渡す。
「殿っ!」
 呂蒙のあかるい声が、流石に、厳しい響きを帯びた。
「何なさってるんですか!殿が渡ってくださらなくては、橋が落とせません!」

 こちらを振り返った蒼い目の中に、底の知れない闇があった。

「と…の?」

「何やってんだ、てめえら!さっさと橋を渡っちまえよっ!いつまでこんなとこで足止め喰わせんだっ!」
 腹に響くドスの効いた声が、勢いよく場に割り込んできた。
「興覇!」
 ほっとしたように見上げてきたおおきな瞳に、思い切り顔を顰めて見せて。
「こんなとこでぐずぐずしてて張遼でも来たらどうする気だっ!あいつが軽騎兵率いてんの忘れちゃいねえだろうなっ!」
 甘寧は一息に捲し立てた。
 居並ぶ者たちの顔がさっと青ざめる。
 そうだ。その可能性は、あった。
 敵陣近くに、僅かこれだけの兵で、君主が居残っているなどと、張遼に知れたら・・・・・
「もう、遅い!」
 するすると近づいてきた、一隻の船。楼台の上から怒鳴ったのは、蒋欽。
「来やがった!土煙が見える。騎馬隊だ!!」
 にい、と。
 まっ暗な笑みが孫権の顔に浮かぶ。
 不気味な笑みを刻んだ唇が、表情のない声で言った。
「張遼は、俺がやる」

 いきなり。
 甘寧の弓が、一閃した。

 弓で首の付け根を打ち据えられ、孫権が馬上に突っ伏した。
 それには目もくれず、甘寧が喚く。
「子明!近衛兵と、こいつ、連れてけ!」
 四の五の言っている場合ではない。呂蒙は頷き、孫権の馬の手綱を引いた。無理矢理に、橋の方を向かせる。
「さあ、殿!」
 それでもまだ逆らうような動きを見せた主君に焦れたのか、傍らの近習が、馬の尻を、力任せにひっぱたいた。
 躍り上がった馬が、一気に橋を渡る。呂蒙の声で、近衛の兵が、それに続く。
「お前も、早く行け!」
 唖然としている凌統に、怒鳴っておいて。
「援護、頼むぜ、公奕(蒋欽)!皆が渡りきったら、橋、落とせよ!」
 甘寧は陽気に呼びかけた。
「お前は、どうすんだっ!」
 蒋欽が、怒鳴り返す。
「張遼とは、サシでやりたかったんだ!まあ、見てなって!」
 弓に矢をつがえながら、甘寧が言う。びいん。弦音が青空に響く。
 先頭を切って突っ込んできた騎馬隊の一騎が、音を立てて地に転がった。
「矢だ!矢を射かけろ!」
 あンの馬鹿、と、口のなかで呟いて、蒋欽は素早く号令を下した。
 「おかしら」の危急に気づいたのか。甘寧の船団も急接近してくる。が。
「ちいっ」
 騎馬隊の動きが、想像以上に早い。
 土煙。血しぶき。喚き声。武器の触れあう音。
 今の今まで静かだった岸辺が、忽ち地獄の入り口と化した。
 凌統の歩兵が必死に防戦しているが、それをかいくぐった騎馬の一隊が、撤退用の仮橋を渡り始めた。
「あーっ!ちきしょう…っ!」
 蒋欽の眉が吊り上がる。
 …駄目だ!橋、渡らせちまったら・・・・・!
 対岸の兵は混乱している。整然と撤退するどころの騒ぎではない。武器を捨てて逃げ始めた者もいる。
 これ以上騎馬隊を渡らせたら…、絶対とんでもない修羅場になる。
 …ええ、もうっ!
「橋! 橋、落とせっ!」
 舳先に衝角をつけた蒙衝の一隊が、橋に向かって突っ込んだ。
 悲鳴。板の割れる音。仮橋が砕けて流れに散る。
 これでもう、逃げ道はない。
 …興覇!公績!死ぬなっ!!
「ガンガン、射ろっ!馬ア狙え!」
 自分も弓をひっつかんで、蒋欽は絶叫した・・・・・


 土煙を見た瞬間。甘寧の船団は、動いていた。
「張遼だっ!」「かしらが、危ねえっ!!」
 甘寧自慢の水軍が、「かしら」のもとへと馳せつける。
 命じられるまでもなく矢をつがえた弓兵たちが、馬を狙って矢を射かける。
 …かしらは、何処だ? あ。いたいた!あの赤い被布!
 丁奉の目がきらきらと輝いた。
「やっぱかしらは強えなあ」
 剣の届く範囲に入った敵兵を、片っ端からなぎ倒し、思う存分暴れている甘寧は、いっそ、楽しそうにさえ見えた。
 それでも流石に戦慣れしているだけあって、味方の矢の届かぬ範囲には決して出ていかない。自分に有利な地で戦うことをよく心得ているのだ。
 あの馬鹿とは違って…
 白い軍装の武将が、敵の、指揮官らしい男に突っかけてゆくのを見て、丁奉はふっと眉を顰めた。
 あれは…、凌公績どの?
「あーっ!」
 その将が馬から叩き落とされた。わっとばかりに敵兵が群がる。丁奉の顔から、血の気が引いた。
 甘寧の陽気な声が何か叫ぶのが聞こえた。赤い被布が、横たわった凌統の方へ突進してゆく。
「か、かしら・・・・・」
 突然湧き起こった軍楽が、丁奉の血を騒がせた。
 …かしら…、かしら、助けなきゃ!
「岸に寄せろ!かしらア助ける!!」
「あっこら承淵!無茶すんな・・・・・」
 旗艦の上から誰かが叫んだが。
「うっせーなかしら助けねえでどうすんだよっ!」
 小さな蒙衝はするすると、川の北岸に寄って行った・・・・・



「…で、俺は生きてるってそういうことだ」
 声もなく伏せられたおおきな瞳に、鷹の目をした男は言った。
 全身から立ちのぼる、戦のにおい…、血の臭い。
 本当にきわどいところだった。寄せてきた丁奉の船がうまく拾い上げなかったら、甘寧は…もちろん凌統も、今頃は逍遙津の水の底だろう。
「償って、くれるんだろうなあ」
 ぎらりと、鷹の目が光る。
「あの馬鹿君主、死んでった連中の命、償ってやってくれんだろうなあ!ええっ!」
 凌統隊は全滅した。本人も重い傷を負った。左手は二度と動かないだろう。そうして…、陳武が、…死んだ。
「死にたいってえなら張遼の手エ借りるまでもねえ、この場で俺が殺してやらア!おい!孫権出せよ!出せっつってんだよ!」
「興覇」
「甘いんだよ!死にたがってる君主に誰が命預ける?!軍まで巻き添えにしやがって!死んでったヤツの身内に向けるツラあるのかよ!あるってんなら出してみろ…」
「興覇、もう…っ!」
「畜生っ!」
 拳を叩きつけられた板壁が派手な音を立てた。びりびりと、走った亀裂。
 分厚い肩が激しく上下するのを、呂蒙は哀しげな瞳で見つめた。
「違うだろ興覇。お前だって判ってんだろ…」
「何が違う!」
「殿は…、自分が張遼を討てば皆の心を取り戻せるって、そう思っただけで、死にたがってたわけじゃ…」
「アレが孫権の手に合う相手かよっ!俺でもタメでやったらどうだか…、それくらい判るだろうがっ!死にたがってんのと一緒だろうがよっ!」
「そ、そりゃそうだけど、でも…!やってみなきゃわかんないじゃないか!き、奇跡だって…起こるかも…」
「奇跡頼んで戦してんじゃねえよっ!」
「それでもっ!他に方法ないんなら、…やってみるしか・・・・・」
 ちっと。甘寧が舌打ちをした。
 内から崩れてゆこうとしている自分の国をどうにかしたくて。あの兄に並ぶような武名が自分にあればせめて少しは違うかと思って。
 いちかばちかの賭けに出ようとした…その気持ちは判る。気持ちは判るが・・・・・
「君主がてめえの首賭けモンにしていいと思ってるのかよっ!」
 判るだけにやるせないんだ、判るだけに腹が立つんだ、…それがどうして判らねえ!
 しんと。落ちた、沈黙。

「…もう、させない」

 声は呂蒙の口から出たのか。…それともどこか遠くから響いてきたのか。
 はっと顔を上げた鷹の目が、おおきな瞳とぶつかった。
「俺がさせない。だから、もう、言うな、…興覇」
 ぞっとするほど澄んだ瞳。…この世のものではないような瞳。
「奇跡が要るなら起こせばいい。…俺が起こす。起こしてみせる」
「子明」
「張遼は討っても無駄だ。曹操は人材集めに熱心だった。代わりの将なんて、いくらもいるさ。すぐに次のが…ヘタをしたらもっとタチ悪いのが来る、それだけだ。でも」
 劉備は、違う。
「子・・・・・」
 怖いと、甘寧は思った。
 これは誰だ? にこにこしながらとんでもねえこと喋ってやがる、目の前のこの男はいったい誰だ?
 これが…子明か? 俺の知ってるあの、呂子明だってのか?
「外圧が減ればいいんだ。そうだろ? こんな劉備の使い走りみたいな戦で兵や将を失うから…だからみんな殿の力量疑うんだ。だったら」
 同盟の力関係を、逆転させればいいじゃないか。
「どうせ劉備だって一国じゃ曹操に対抗出来ない。こっちに膝折ってくるしかないんだ。つけあがらせることないんだ」
「子明、お前、何・・・・・」

 秋の空のような笑みを浮かべて、おおきな瞳は、宣言した―――



「俺。関羽、討つ。」



 だって。
 俺、みんな、好きだから。