Act.2〜A.D.215 零陵
孫権からの至急便が届いたのは、暑い暑い午後だった。
かんかん照りの熱さとはまた違う、じっとりと皮膚にからみついてくるような蒸し暑さ。
零陵を囲んでもう、何日になるだろうか。
その暑さに中りでもしたのか。呂蒙はここ数日ひどくだるそうに見えた。
「殿から至急便ですよ」
細かな気遣いなど産まれる時に母親の腹の中に忘れてきたような男である孫皎でさえ、彼の不調に気がつく程に。
「ああ…」
ありがとうございますと答えた声に、いつもの明るさがない。おおきな瞳にも力がない。
何か得体の知れない雲が彼の上に覆い被さっているかのようだ。
不自然に赤い頬。どこか滲んだような目許。
「大丈夫なんですか? 具合悪いんなら…」
俺が見ましょうかと言いかけた孫皎だが、無論、頷く呂蒙ではない。
「へいき、です」
無理に作ったような微笑みは、かえって痛々しかったけれど。
竹簡を開いてざっと目を通した呂蒙が、うっと、詰まったような声を出す。
「子明さん?どう…」
「劉備だ。劉備が…来たって」
「劉備?!」
宙に目を据えて硬直した呂蒙の手から、孫皎は竹簡を奪い取った。
劉備が益州から反転してきた。もう公安まで戻っている。零陵は諦め、大至急魯粛と合流せよ―――
彼らが密かに怖れていた報せが、文字の形を取って目の前にあった。
益州を奪って意気の上がる劉備軍…どれくらいいるのか殿は書いていないが…と、あの猛将関羽の三万と。
こちらは荊州に展開しているのが三万、孫権が率いているのが二万そこそこ。しかも、士気は低く・・・・・
「しかし、益陽からは、何も…、まさか…」
まさか、もう、落ちたのか?
孫皎の顔が引きつった。
益陽に残してきたのは、一万だ。何も言ってこないということは、連絡もよこせない程十重二十重に囲まれてしまったのか、それとも、もう、落ちてしまったのたのか。
足りぬ兵力、指揮官は病。そんな状態であの関羽を相手にいくらも持ちこたえられるものではない。
そんなことはよく判っていた。だから、自分たちも焦って・・・・・
「まさか!」
奪い返した竹簡をさっと読み流した呂蒙の目に、見たこともないような光が宿った。
「ひめさまが?!」
悲鳴にも似た鋭い叫び。
「ひめさま? 弓腰姫か? …弓腰姫がどうかしたのか?!」
孫家一門に連なる孫皎にとっては、仁姫は血縁の姫である。
司令官に対する礼儀も忘れ、孫皎は竹簡を奪い返した。
「な・・・・・」
―――仁姫が益陽に入り陣頭で指揮を執っている。今のところ劉備軍は遠慮しているようだが、この先のことは判らない。
だから少しも早く合流し、防御態勢を整えて欲しい・・・・・
「無茶…」
それは確かに彼女がいれば軍の士気はあがるだろう。正式に離縁されたわけでもない、一応は主君の妻ともなれば、劉備軍とて攻撃には二の足を踏もう。
だが。…だが。
そこまで孫家は追いつめられてしまったのか。
声を失った孫皎の手が、わなわなと震えた。
「ああそうだ無茶だ、無茶苦茶だ!こんなの無茶苦茶もいいとこだっ!」
孫皎は、呆気に取られた。
今目の前で怒りもあらわに喚き立てているこの男、…これがいつもにこやかで人のよいあの呂蒙だと言うのだろうか。
「ひめさま戦に出たことなんかないだろう!指揮なんて執れるわけないだろうが!興覇のバカ何してやがんだ!いくら腕が立つからって女にそんなことさせるなんてっ!」
錦帆賊の甘寧の名が泣くだろうと、…おおきな瞳がぎらぎらと光る。
それが呂蒙の口から出た台詞だとは到底思えず、孫皎は口を挟むことも出来なかった。
「魯子敬も魯子敬だ!男だったら這いずってでも指揮取りゃあいいだろっ!ひめさまを、…ひめさまを陣頭に立たせて、あの男、よく平気で・・・・・」
ごぼごぼと。
咳とも言えぬような嫌な咳が、それ以上の言葉を断ち切った。
「あ…あんただってあのひとの気性知ってるだろ? 傍から何か言ったところで聞くようなひとじゃないよ」
宥めなければ。とにかく宥めなければ。孫皎は慌てて言葉を探した。
…いったい何がどうしたってんだ? 何かこの人に取り憑いたんじゃねえだろな?
「昔っからほら、そうじゃないか。こうするっていったん決めたら、もう、誰の言うことも聞かねえ。あの伯符兄が手エ焼いてたの、あんた傍で見てたじゃないか」
「・・・・・」
ぎゅうと音の出そうな勢いで、呂蒙の唇がへの字を作った。
「そう、だけど」
絞り出されたような声に、いつもの明るさはかけらもなく。
「そうだけどっ!俺、は・・・・・」
「剣の稽古がしたい? …そんなことしなくても、ひめさま女の子なんだからー」
「袁術がうち狙ってるんでしょ? だったら! 自分の身くらい自分で守れなきゃ。わたくしだって江東の虎の子ですもの!」
「ひめさまは蒙がお守りしますから…」
「何言ってるの、あなた兄上守るのが仕事でしょう」
「え…、そりゃ、そうですけど…、そうだ兄上はなんて? さきにお許しもらってください、兄上きっとダメだっておっしゃ…」
「お許しなら貰った」
「へ?」
「仕事ほっぽってふらっと遠乗りに行ってみんなに探し回らせる兄上なんて当てにならないからって言ったら…」
「そんなこと言ったんですかっ!」
「そう言ったら『この大バカ娘もう勝手にしやがれ!』って…」
「ひめさまそれ、お許しもらったとは言わない…」
「わたくしに逆らうつもり?!」
「えっ? あ、いえ・・・・・」
―――そう。
人の言うことなんて、聞く人じゃなかった。
逆らえなかった。いつも。いつも。
剣なんて教えたくなかったのに。この手で大事に守ってあげたかったのに。
「ありがと、子明」
あの声が聞きたくて、あの笑顔が見たくて、だから俺はいつも逆らえなくて。
でも。
でも…、こんなことって。
戦場で、最前線で、剣を握って陣頭指揮なんて。
もし敵が本気で攻め寄せて来たら?もし流れ矢でもが当たったら?
俺はこんなことのためにひめさまに剣教えたんじゃ・・・・・!
「出陣の触れを」
「子明殿?!」
「夜明けとともに零陵に総攻撃をかける。兵たちにそう触れを廻してください」
「え・・・・・」
ここで兵を失ったらもう補充は出来ない、力攻めは出来ないと、そう言ったのは呂蒙本人ではないか。
「そうして…、あの、ケ玄之。守将の赫普の旧知だという…」
「ああ」
開城交渉となれば、相手が信頼してくれる人間を送り込むのが早い。そう思った呂蒙は南陽からケ玄之という男を連れてきていた。
「あの男を俺んとこ、寄越してください」
おおきな瞳がまたぎらりと光った。
…知らない。こんな光は知らない。
「え、…あ、はあ…」
…いったい、この人に何が・・・・・?
そうはいってもこのたびの荊州攻略、指揮権を握っているのは呂蒙の方だったから。
いくら孫家の血縁だといっても、命令が下されれば、孫皎はそれに従うしかない。
そうして。
連れて来られたケ玄之に向かい、呂蒙は、ついぞなく厳しい顔で言ったのだ。
孫権が自ら出陣し、関羽を打ち破ったとの報せが入った。
我らもいつまでも時をかけてはおれぬ。民を死なせることが心苦しく、今日まで攻撃を控えていたが、…明日の早暁をもって総攻撃をかける。
赫太守は救援を当てにしているのだろうが、そのようなものはどこからも来ない。
劉備は漢中で夏侯淵に包囲され、動きが取れない状態である。
城門が破られた後で降伏したとて、三族の誅戮は免れぬ。
確か、…彼には老いた母親がいた筈・・・・・
「無惨だと、思いませんか」
出陣の支度をするざわめきの中で、呂蒙は静かに言い渡した。
「出来ることなら我々もそんなことはしたくない。ですから最後の機会を貴方に託す」
赫太守に状況を説明し、降伏するよう、説得してください―――
「子明さん!あんたのような人がなんであんな汚い嘘を!」
卑怯だ。…これは卑怯だ。
孫皎の声は怒りに震えていた。
「あんなの赫普がこっち降ったらすぐバレちまうじゃないですか! あんたあとで何言われるか! 俺だって、こんなことの片棒担ぎたくなんか…」
「全部俺のせいにすればいいじゃないですか。…その通りなんだし」
「子明さんっ!」
「いいんです、俺のことは」
薄い唇が作った笑みが切ない。遠くを見つめるおおきな瞳が悲しい。
その笑みが。その瞳が。声も震えるほどに高まっていた孫皎の怒りを拭い去る。
「ひめさまはどうしても守りたいんです。それでなくても辛い思いいっぱいしてきたひとなんだから・・・・・」
ほんの少し、震えた声。
もう、何も、言えなくなった。
どこか不安な一夜を過ごし。
孫皎は、朝一番に、呂蒙のもとを訪れた。
「ああ。おはようございます…」
隈の浮き出た蒼ざめた顔が、それでも笑顔を浮かべてみせる。
「どう、したんですか。ひどい顔ですよ・・・」
得体の知れぬ不安がまた大きくなる。
「いや、昨夜はよく眠れなくて。蒸し暑かったし・・・、それに、ケ玄芝がうまくやってくれたか、気になってさ…」
おまけに、一晩中、咳に苦しめられたのだ。横になると胸から咳が溢れてきて・・・・・
だがそのことは隠したまま、呂蒙はもう一度微笑んで見せた。
「失礼します!」
伝令が来た。上気した顔。二人が素早く視線を交わす。
「降ったか?」
「はいっ。零陽の赫普、只今、こちらに参っております!お会いになりますか?」
…助かった!
緊迫した空気が、ふわりと溶けた。
…これで心おきなく益陽に戻れる。もうひめさま、陣頭に立たなくたって・・・・・
だが。
呂蒙の視界は、ぐらりと揺らいだ。
…まずい!
何が起きようとしているのか。直感が、告げる。
「どこかに、場をしつらえましょう。そちらで引見を…」
「いや、ここでいいです」
出て行きかけた孫皎を、呂蒙は慌てて引き留めた。
「ここに、連れて来て…ください」
「子明さん・・・?」
…息が、苦しい。今、動いたら、きっと・・・。
目を逸らすようにして、胡床に腰を下ろす。孫皎の不安げな視線が絡みついてくるが、今は構ってはいられない。胸の奥でざわめく不気味な塊を抑えつけるので、精一杯だ。
ややあって漸く、答えが返った。
「はいはい、わかりました。…私室でっての失礼だと思いますけどねえ」
その返事はいかにも不服そうだったが、呂蒙はほっと息をついた。
「こちらにお通しするように」
ぶすっとした孫皎に命じられ、伝令は足早に立ち去ってゆく。
待ち望んだ報せがやっと聞けたというのに。相手の面子も立ててやらねば話がこじれるかもしれぬのに。
「子明さん…」
けれど。
視線の先。血の気の失せた横顔。
元々痩せた人ではあったが、…その頬はここまで痩けていただろうか?
「…ねえ。気分でも悪いんですか?」
それでも。
「…平気だよ」
青ざめた呂蒙の唇は、辛いとも苦しいとも訴えなかった・・・・・
「零陵は、東呉に降伏します」
鋭い目で、俺を見据える守将。
苦しいのを堪えて頷いてみせた。声を出したら、きっときっと、胸の奥の塊が溢れてしまう。
相手の視線が疑わしげになる。そりゃそうだよな。苦しい決心をして敵将に会ったというのに、ろくに言葉もかけてもらえないんじゃ…。
隣で叔朗(孫皎)殿がはらはらしているのが、気配で、判る。
「よく、ご決心、なさいました」
必死で言葉を押し出した。うわ、これ誰の声なんだ。こんなに掠れて弱々しい…、これほんとに俺の声なんだろか。
「城兵と民の命は保証する…、それに間違いはないのでしょうな」
疑うように、念を押してくる。
「もちろん」
そう言うのが精一杯だった。せめてもと目線に力を籠め、必ず約束は守ると訴えてみる。
相手の鋭い目が、ふっと、和らいだ。
「ありがとうございます」
丁寧に、拱手されて。慌てて、礼を返そうと俯いた瞬間。
「ぐ…っ」
抑えつけていたものが、ついに、溢れた。
激しい咳。息が出来ない。苦しい…!
「子明さんっ!・・・」
叔朗どのが何か言っているが、返事どころじゃない。胸が、背中が、引き攣るように、いたい。
いやなものが喉に溢れてくる。苦しい。くるしい!
思わず卓についた手が、積み上げてあった竹簡をひっくり返した。
ごぼごぼいう音…、俺の口から? ダメだ、涙で目が見えない…!
口の中に、あの、金属の味。
やっと開いた目の前は、禍々しく赤く滲んでいた。
遠くで聞こえた、孫皎の悲鳴。
…ああ。こんな…、こんな…ときに…!
「呂将軍!この・・・この、竹簡は・・・」
誰かの、声。何を言ってるんだ、俺が、こんなに、苦しんでいるのに・・・。
「殿は・・・、もう、公安まで来ておられるのかっ!それなのに、私は・・・」
殿・・・。ああ、殿・・・、陸口で、劉備とにらみ合って。俺に、早く益陽に戻れと。
益陽・・・・・?
もう、行けない。こんな躰で・・・、戦なんて、出来ない。
やっと、零陵が、開城したのに!俺は…、俺は、もう…。
どうして。どうして、こんなところで。もう少し、だったのに。
益陽では、ひめさまが、必死で、敵を・・・・・。
どうして。どうして。そばにいてあげたかったのに。俺の手で守ってあげたかったのに。
どうして。…どうして!
もう、…守れないなんて・・・・・
ヒメサマヒトリノコトデハナイ
ふっと視界が暗くなった。
いちめんの赤。ぎらつく赤。それは炎。禍々しい炎。
燃えているのは…孫家の館。空を染めて。地を染めて。
館の裏門。対峙する影。主君・孫権と、…陸家の、総帥。
「されば、来い! 陸家の総帥!」
炎を映して燃えた刃。地に伏した影。…孫権の影!
「夢は…私が継ぎます」
炎に照らされた白皙の横顔。その手を染めた血よりも紅く。
「曹操亡きあと、曹丕が軍を掌握しかねている、今が好機。先ずは合肥を・・・・・」
曹操亡キアト曹丕ガ軍ヲ掌握シカネテイル今ガ好機
ああ。
そうか。そうなんだ。
これはこれから起きることなんだ。こうやって孫家は滅ぶんだ。
俺は何も出来ないんだ。俺は誰も守れないんだ。
俺はその前に死んでしまうから…!
なんて、ことだ。
俺、みんな、好きだったのに。…守りたいとこれほど願ってきたのに…!
俺のだいじなひとたちも。いっしょに作ってきたものも。なんにも…、なんにも、守れないなんて…っ!
俺、は・・・・・
「く…っ…」
嗤いが、こみあげてくる。止められない。
「私を嘲笑なさるのか?!」
誰かが、何か言っている。でももう、どうでもいい。
「いや、決して我らは・・・、子明さん!子明さん、しっかりしてください!」
「我らをたばかったのだな!よくも…よくもっ!ああ私はこんな連中に騙され、殿を…」
「違う、違…・、赫太守!子明さん!!子明さんっ!」
いいんだ。もう、いいんだ。
もう。なにもかも、おしまいなんだから…!!
「あっ!赫太守っ!…何を!」
「止めるな!私はもう死んでお詫びをするしか・・・・・」
「ちょ、…早まるな―――っ!ああ、もうっ!」
・・・明日は、髪上げをするけど…、大人の格好になっても、また、剣、教えてくれるわよね?
はい。
・・・奥での儀式が終わったら、真っ先に、子明に見せに行くから!庭の、桂の木のとこで、待ってて!
はい!
…ありがと、子明。
ひめさま・・・・・
最後に、聞いたのは。
医師を呼んで来いという、孫皎の引きつった叫び声。