Act.5
〜A.D.215 荊州

 いちめんの赤。ぎらつく赤。それは炎。禍々しい炎。
 燃えているのは…孫家の館。空を染めて。地を染めて・・・・・
 違う!
 地を染めた赤は、血の赤だ。血だけではない。…この、派手な装束。
 …子衡どのだ!!
 もう死んでいることは一目で判った。
 剣の触れあう音がする。庭の方。…裏門だ。
 …ああ、…仲謀さま!仲謀さまが敵に囲まれて…!
 あんな数無理だあのひともとからそんな腕立たないのに…、こんなんじゃなぶり殺しもいいとこじゃないか…
 思っても。思っても。声が出ない。手足が動かない。
 いや、動かないのではない。躰自体が存在しない。
 呂蒙は剥き出しの意識ひとつで、血と炎の中を漂っている。
 凶刃がまた孫権を斬った。迸る血。赤い、赤い・・・・・
 その攻撃が、突然に止んだ。
「伯、言…っ!」
 呻くように呼ばれた名。光の失せた蒼い目が向いた先。
 陸伯言が立っていた。悲しげな顔で立っていた。
 彼だけではない。顧雍が。朱桓が。駱統が。全jが。…これまで孫家に従ってきた豪族の当主たちが。
 助けが来たのか? …いや。違う!
 ゆっくりと伯言が剣を構えた…、その剣尖が向いたのは、孫仲謀の、喉。
 …伯言! …殿!
「そう、か…。そういう、ことか・・・・・」
 孫仲謀は微笑んだ。諦めたように微笑んだ。
「…所詮、そうなる、運命、か・・・・・」
「変えたかったんですけど、ねえ…」
 陸伯言が微笑み返した。とても寂しい微笑みだった。
「…いいさ」
 絡み合う、悲しい視線。
 血が流れる。炎が踊る。
「されば来い! 陸家の総帥!」
 赤い、赤い、赤い、紅い―――



「と・・・・・っ」



 乾いた唇から溢れ出して呂蒙を夢から呼び覚ましたものは、己があげた筈の叫び声ではなく、痙攣じみた咳であった。
 気道の奥底から込み上げてきて肋骨まで揺さぶるそれは、呼吸をすることも許さない。
 いや、…これは咳ではない。何かもっと、タチの悪い、何か…、何か・・・・・
「ぐうっ!」
 嘔吐にも似た感触に慌てて唇を押さえた。
 得体の知れぬ何かが外に飛び出し、…やっと、息がつけるようになった。
 似ているだけで…幸い、嘔吐ではない。溢れ出たのは固体と化したような淀んだ空気。
「は・・・・・」
 また今の咳を呼び覚ましてしまうのが怖く、そろりそろりと息を吸う。頬を濡らした感触は、…ああ涙まで出てしまったか。
 手の甲で乱暴に顔を拭い、そこで呂蒙は硬直した。
 花が。
 掌に、花が。
 あかい、紅い・・・・・、命の花が。

 ぞっと、背筋が震えた。

 何となくは判っていた。…これはとうちゃんと同じ病。
 汝南の、あの村で。
 夕方になると躰がだるいと訴えていたとうちゃん。
 疲れただけだと思っていたのに、いつかおかしな咳をしはじめ、そうしてその咳が止まらなくなって。
 何度も何度も血を吐いて、とうとう動けなくなって、…苦しんで苦しんで、死んだ、とうちゃん。
 だろうなとは…思ってたんだ。今さら怖いとも思わなかった。
 もともとこれはない筈の命。俺はもうとうに死んでいる筈なんだから。
 汝南の村を追い出され、足を痛めた母親を抱えて路頭に迷っていたあの時に。
 義兄の軍に身を置いていて、謝って上官を殺した時に。
 これまで生きてこられたってだけでも、奇跡みたいなもんなんだ。
 たったひとつの気がかりだったかあちゃんも、もう、逝ってしまった。
 覇のことは子衡殿がちゃんとしてくれるだろう。
 だから、もう、いいと。
 もういいと…思ってたのに・・・・・
 でも。

 また、背筋を走る、冷たいもの。

 まさかあの夢の中で俺に躰がなかったのは。
 あれは、…あれが未来のどこかで、実際に起きることだからで・・・・・

 …そんな馬鹿なこと、あってたまるか!

 何とか息を整えて、呂蒙は牀に身を起こした。
 …調子が、悪いからだ。だからあんな夢、見るんだ。
 このところ、毎晩のように。同じ夢ばかり、何度も、何度も。
 転がっている死骸は、時によって違う。
 今夜はたまたま呂範だったが、諸葛瑾の背の高い躰だったり、息子たちと折り重なるようにして倒れている張昭だったり。
 けれど最後はいつも同じ。
 裏門の前で対峙する孫権と陸遜。「来い!陸家の総帥!」という、…あの言葉まで同じ。
 …あり得ない。伯言が、…あの伯言が殿に謀叛だなんて…!
 孫家に謀叛を起こすとは即ち、揚州を内乱の渦に投げ込むということだ。いかに豪族たちの力が強いとはいえ、孫家は決して無力ではないのだから。
 身内で戦う戦がどれだけ悲惨か。どれだけの恨みと憎しみが、この揚州の大地を覆うか。そんなことは考えるまでもないだろう。
 いつも揚州のことをまず考えるあの男に、そんなことを引き起こせる筈がない…
 本当に?
 ぞくりと、また悪寒が走る。
 …あのこと、気にしてるからだ。
 淀んだ空気が喉に絡みつくようで、鬱陶しくてたまらなくなった。
 そろそろと立ち上がって、幕舎の入り口の垂れ幕をあげる。
「あ、子明殿! もうお目覚めですか」
 ああと護衛兵に頷いて、見上げた空は夜明けの色。
 そうして、その空の下。黒々と聳える、零陵の城壁。
 そう、ここは陣中。南荊州、零陵攻めの―――
 …あれは…、うん。きっと、あれだ。合肥の動きが怪しいからだ。豪族たちが拒んだなんて、…そんなことない。そんなはずない。けど・・・・・
 何度己に言い聞かせても、湧き上がる懸念は拭えない。
 …とにかく零陵、早く陥とさなきゃ…。汚い手使ってでも、何でもいいから…。
 城壁を睨みつける呂蒙の目に、かつてない焦りの色があった。
 …もし俺の思ってることが当たりなら、…絶対に負けられない。とにかく早く戦果あげないと。戦果あげて、皆の心を、孫家に繋ぎ止めないと…!

 あのこと。
 
 そう。
 荊州攻略にあたり魯粛が求めた増援は、要求の半分しか、来なかったのである。
 
 この5月、劉備が遂に、蜀の全土を制圧した。
 孫権は、間髪を入れず、諸葛瑾を使者に立て、貸し与えてあった荊州南部の返還を申し入れた。
 …ここはもともと、地盤を持たない劉備が自立出来るようになるまで貸すって建前で、劉備の領有認めてたとこだもん。地盤がちゃんと出来たんなら、返して貰って、いいんだ。
 あの時のことを思い出すと、およそ人を恨むことのない呂蒙でさえ、腸の煮えくりかえるような思いがするのだ。
 同盟軍といいながら、こちらが夷陵で江陵で、命がけの戦を繰り広げていたときに、まるで火事場泥棒のように荊州に侵入し、ちゃっかり占領してしまった劉備の軍。
 こちらに何の相談もなく自軍の利だけを図るのなら、…それでは何のための同盟なのか。
 彼らにそんな真似が出来たのは、自分たちが北荊州で必死に曹仁を食い止めていたからではないか。
 自分たちは劉備の為に戦ったのではない。揚州を守る為に戦ったのだ…。
 けれど、魯粛があの時言った通り、なればと南荊州を差し出されても…、平定には時間がかかっただろう。
 劉備があれほどあっさりこの地を手に入れることが出来たのは、本来劉表の嫡男であった劉gを擁していたからだ。
 そんな美味い旗印もない、しかも長年劉表軍と戦を繰り広げてきた孫軍が入ったとして、…うまく統治が出来たかどうか。
 孫権に出来たのは、「地盤が出来るまで」と言質を取って劉備に荊州を貸し与える形を取ることで己の面子だけは保つこと…、あの時はそれで精一杯だったのだ。
 …俺たちがもっと、強かったら。豪族同士でごたごたしたりせずに、しっかり手を繋いで戦えてたら…!
 悔やんでも悔やみきれないその思いが、ぎりぎりと呂蒙の胸を噛む。
 恩義で縛って妹まで嫁に出せば、仁義を掲げるあの男だ、こちらの言うままに動くだろう…、魯粛はそう多寡をくくっていたようだが。
 …俺、あっさり返すわけないって思ってたけど、…やっぱ、そうだったもんな。
 外れて欲しい勘であったが、ものの見事に当たってしまった。
 さすがに劉備も、これまでの盟友に、掌を返したような返事をするのは躊躇われたのか。「涼州を獲ったら必ずお返しする」と言葉だけは繕っていたが。
 …畜生! 俺の軍が全員呂布だったらよかったのに! そしたらあいつだって震え上がって返して来ただろうに!
 それでなくても息苦しい胸が、悔しさで締めつけられるような気がする。
 弓腰姫が…孫仁がこちらに帰ってきている以上、同盟はもう切れたも同然。
 約定が守られなかった今、長江上流の益州を抑えた劉備はもう、友好勢力と見なすことは出来ない。
 …まだ、…よかった。殿、すぐに動いてくれたもんな。
 このところ内政・外政ともに冴えたところを見せていなかった孫権だが、こたびの動きは速かった。
 劉備の返事を聞くやいなや、直ちに、荊州南部・・・長沙・零陵・桂陽三郡の長官を任命、それぞれの郡に差し向けた。
 大人しく荊州を明け渡せばよし、さもなくば・・・という、事実上の宣戦布告である。
 …うん。そうでなきゃ、嘘だよな。長江の上流が敵対勢力って、いちばん嬉しくない形だもんな。
 こちらで任命した長官が追い出されたら即座に攻撃に移れ…そのように命を受けた呂蒙と孫皎が、南荊州に派遣された。
 孫権自身も軍を率いて陸口まで進出、劉備の反転と曹操の南下に備えている。
 ただ。
 確かに鮮于丹らが増援に派遣されたが、その数では、呂蒙たち攻撃軍の体裁を整えるのがせいぜいで。
 …益陽にいるのは子敬どのの一万だけなのに…、それで関羽防げなんて、無茶だよ、絶対!
 関羽は歴戦の勇士、連れている兵は三万。対する魯子敬は戦の経験がほとんどなく、しかも病を抱えている。このところ、突然昏倒するようなことが何度もあった。
 いくら猛将甘寧がついているといっても、江賊あがりの彼とて、陸戦の経験は浅いのだし、多くの兵を指揮した経験もない。
 だから一刻も早く引き返したいのに。武威を示すだけで三郡は寝返ってくるだろうと、…さして時もかかるまいと踏んでいたのに。
 見通しが、甘かった。

 …零陵がここまで抵抗するとは…!

 焦れたのか、孫皎は言った。
 こうなったらもう力攻めにしよう、いつまでぐずぐずしてても仕方ない、と。
「…駄目ですよ」
「また子明さんは」
 忌々しげに、鼻を鳴らして。
「敵も味方も死ぬヤツは一人でも少ない方がって思ってんだろうけどねえ、増援来ないってことは…豪族たちが兵出してくれなかったってことでしょうが!」
 とにかく早く荊州を制圧して、殿に建業に戻っていただかねば、…でなければ自分が戻らねば。
「もしヤツらが曹操引き入れたら…」
「いくらなんでもそれはないでしょ」
 揚州にいれば嫌でも判る。土着の豪族たちが、いかに、北のくびきを嫌がっていたか。
「豪族のせいじゃなくてきっとその曹操のせいですよ。合肥でまた何か変な動きしてるとか…」
 呂蒙の言葉は半ば以上己に言い聞かせるものであった。
 そうではないだろうということは、…孫皎の言うのが当たっているだろうということは、自分とて思わぬわけではない。
「曹操は今漢中攻めにかかってるんでしょう? だったら」
「うちとは国力が違いますって。あいつ、長江北岸を抑えるくらいの兵力なら、主力があっちにいても出せる筈です」
 ここで下手に大軍を荊州に廻せば、曹操軍は確実に南下してくる。
「だから早くどうにかしねえと、益陽だって危ない…」
「それは、そうなんですけど」
 そうなのだけれど。その通りなのだけれど。
「増援来なかったってことは余分な兵いないってことじゃないですか!…ここで俺らが損害出したとして、あと、どっから補充するんです!」
 孫皎が、黙り込んだ。
「ね。力攻めは、駄目なんです」
「だったらどうすんですか!」
「それ、なんですけど・・・・・」

 …ここで俺が戦果を上げられないまま死んでしまったら、あの夢の通りになるのだろうか。
 豪族たちは頼りない孫家を見放し、…陸家を担ぎ出すのだろうか。伯言は孫家を裏切るのだろうか。
 裏切らないとは言い切れぬものを感じ、呂蒙はきゅっと唇を噛んだ。
 …伯言はいいヤツだ。いいヤツだけど、あいつがまず考えるのはいつも揚州のことだ。孫家が揚州のためにならないとなったら、あいつは・・・・・
 もし自分たちがここで勝てなくて、劉備に荊州を奪われてしまったら。
 …確か曹操の娘、皇后になったとか言ってたよな。あいつの力も大きくなってるんだし・・・・・
 他の二国がどんどん大きくなる中で、うちだけがじりじりと江の南に追いつめられて、どちらかに飲み込まれるのを待つばかり…みたいなことになってしまったら。
 ―――無理を言わないでください!私は陸家の総帥。孫家の人間になど、なれるわけがない!
 それでも彼が孫家を支持し続けるとは、呂蒙にはとても思えなかった。
 夢は正夢になってしまうのだろうか。
 亡くなった殿が、自分たちが、一生懸命築いてきた全ては、炎となって消えてしまうのだろうか。

「…所詮、そうなる、運命、か・・・・・」
「変えたかったんですけど、ねえ…」


 嫌だ。
 それは、…嫌だ。
 あんなことあのふたりに言わせたくなんてない。仲間同士で殺し合いなんてさせたくない。
 そんなこと誰も望む筈はない! 俺たち、…俺たち、ここまで、一緒に・・・・・!
 でも・・・・・

 また、込み上げてきた、嫌な咳。

 …時がない。もう、時がない。
 何とか、…何とかしなければ。手段を選んでいる場合ではない…!

 黒々と聳える零陵の城壁が、迫り来る運命の姿とも見えた。







 苦労していたのは、零陵に廻った呂蒙だけではない。

 川を隔てて陣を敷いた関羽軍を、甘寧は複雑な目で、見ていた。
 五千は、いるだろうか。
 対するこちらは、やっと、千。自分の手勢はともかく、魯粛から借りてきた兵は、士気もろくに上がっていなければ動きも悪い。
 病気の指揮官を替えるでもなければ十分な増援を送ってくるでもない…、そんな孫家にほとほと愛想がつきたのだろう。
 …こんなんでどうしろってんだよったく!
 だが、どうにかするしかない。どうにかせねばならぬのだ。
 今、魯粛は、九千で益陽を守っている。川を隔てて、関羽軍が、二万ほど。
 別働隊が上流で渡河を目論んでいるという情報に駆けつけたのだが・・・まさか、関羽本人が、こちらに廻っていようとは。
 いつもなら、名高い猛将関羽とやれるというだけで、甘寧の血は沸き立っただろう。だが。
 小さく舌打ちをし、甘寧はまた、敵陣を睨んだ。
 ここでもし自分が負けでもしたら、関羽は全軍で益陽を囲むだろう。だが、今の魯粛に戦の指揮は取れない。益陽を守りきるのは無理だ。
 そうして、益陽が落ちてしまえば、零陵を囲んでいる呂蒙たちが挟撃に嵌る。
 いっそもう零陵など放っておいて戻ってきてほしいくらいだが。
 …あそこ、残してたんじゃなあ。劉備の野郎、今公安まで出てきてやがるし…。
 南下してきた劉備と全面開戦となった場合、背後を衝かれることになる。どうでも零陵は陥とさねばならぬ。
 しかし…。
 …兵が、足りねえんだよな。俺らが言っただけ兵寄越してくれてりゃ…、いざとなりゃ力攻めでも出来ただろうに。
 十分な増援は、来なかった。
 孫権がこの戦の重要性を見誤っているとは思えない。ということは、恐らく。必要なだけの兵を集められなかったということだ。
 兵を集められないということは即ち、孫家の威信が揺らいでいるということ・・・・・
 考え出すと自分の士気まで下がりそうで、甘寧は慌てて首を振った。
 そう。それよりまず、目の前のことだ。
 今朝から敵の動きがあわただしい。渡河を試みる気でいるのだ。
 後先を考えず思う存分暴れ回る・・・、そういう戦はいっそ、楽しいとさえ思う。
 だが、自分の部隊だけではなく友軍のことまで考えて動かねばならぬいわば「司令官の戦」は、甘寧にとっても初めての経験だった。
 …あー、子明戻ってくれてりゃなあ。そしたら関羽に一騎打ち挑んで、すっぱりケリつけちまうのによ!
 思うままにならぬ苛立ちと、勝たねばならぬという重圧に、胃が痛くなってくる。
「川の真ん中まで引きつけて、射竦めろ」
 低く部下に命じ、甘寧は、唇を噛んだ。
 川向こうで騎馬隊が整列するのが見えた。やたら髯の長いでかい男が馬を牽いて現れた。
 関羽だ…!
 来る、と思ったその瞬間。背後の兵が、どよめいた。

「弓腰姫!」「弓腰姫が来たぞっ!」

 ・・・はあ?

 びっくりして振り向いた視線の先。白い軍装のすらりとした武人が、晴れ晴れと陽気に手を振った。
 いや、武人ではない。あの、後ろで束ねた長い髪・・・・・
 
 ・・・弓腰姫イ!
 
「ちょっとやーね、どうしたのよ!何みんなしけた顔してんのよ!」
 晴れやかな声が、陣中の、どんよりとした空気を一掃する。
「さあ、連中が来るわよ!東呉の健児がどれだけ強いか、わたくしに見せて!」
 おう、と。
 どこからともなく、鬨の声が上がった。
 彼女の存在が、明らかに、兵士の士気を上げている。
 …ちょ、何てえ女だ・・・・・!
 戦場に咲く花というものがもしあるのなら、これこそがまさしく花であろう。
 その花が隣にやってきた。愛馬の葦毛を生き生きと駆って。
 髪が、風に流れる。
 口を開こうとする甘寧に。
「いまはなにも言わないで。見てなさい、これで、関羽は退くから」
 仁姫は馬上でしゃんと背を伸ばし、きらめく瞳で敵陣を見据えた。
「おい、せめて、降りろ!弓の的になるぜ!」
「平気平気」
 慌てる甘寧を掌で制して。
「何も言わないでって言ったでしょ? わたくしがここにいると関羽に判らなければ意味がないのよ」
 果たして。
 敵陣の動きが、変わった。
 騎馬隊が散ってゆく。どうやら渡河を諦めたらしい。
 しばらく見ているうちに、なんと、幕舎までが、倒され始めた。
 あっけにとられる甘寧の前で、東呉の弓腰姫がくすくす笑う
「やっぱり。関羽は、相変わらずね」
 しなやかに鞍から滑り降りて。
「ごめんなさいね、興覇。関羽とやる機会、台無しにしちゃって」
「いや・・・」
 不得要領に、甘寧は、呟いた。
「今回は、そういう場合じゃなかったからな。正直、助かったぜ。けど」
 一体、どういうことなのか。何が何やら判らない。
「関羽は尋常ならず誇り高い漢よ? 女と戦うなんてあの男の誇りが許すもんですか」
 劉備のもとにいた頃を思い出しているのか、どこか懐かしげに、仁姫は答えた。
「それにわたくし、まだ一応、あの男の大事な兄者の嫁ですからね。離縁状まだ貰ってないもの」
「そらま…そうかもしれねえけどよ…」
 義姉を討つのに躊躇いもあったのだと思えば、まあ、解せないこともないが。
「戦術から言えば無理にも河を渡らなきゃならねえとこだろが」
「そのへんがうちとは違うのよ。わたくしがいればね、劉備が直接それでも攻めろって命令しない限り、攻撃はしてこないわ」
「そんなもんか?」
 甘寧は、いささか呆れた。
「そんなもんよ。あの連中はなんていうのか…、建前とかそういうの、とっても大事にするから」
「ずるがしこいってだけじゃねえのかよ」
「いいじゃない。それで少しは時間稼げるでしょう?」
「違いねえ」
 それを言われれば甘寧とても、もう、苦笑するしかない。
 これなら何とかなるかもしれない。ふっと肩が楽になる。
 にこりと笑みを返した仁姫が、ひらりと馬に跨った。
「益陽に戻る、で、いいのよね?」
「え?ああ」
「わかった」
 にこりと頷いた仁姫が、兵たちの方に向き直った。
「見たわよね!あの情けない連中!やっぱ、男は東呉よ、ねえ?!」
 晴れやかに呼ばわる声。答えてわあっとあがる歓声、陽気に響く数多の拍手。
「さあ!益陽に戻るわよ!あーんな腰抜けどもに城奪られてたまるもんですか!」
 おう、と。
 別人の集団のように軍が生き生きと動き始めた。
 …ったく、何てえ女だ!
 甘寧も慌ててそれに倣う。
「…ほんとあんた、女にしとくの、惜しいぜ」
「あらあ、女でよかったのよ」
 きらきらと瞬きをして、仁姫は笑った。

「男だったら仲謀兄上殺さなきゃならなかったもの」

 ・・・・・あっ。

 ぞっと、した。
 そうだ。その通りだ。
 兄弟の中に家督を継いだ者より力量のある者がいれば、あり得ることだが、家中は割れて・・・・・。
「徳謀がね、言うのよ。わたくし、きょうだいの中で一番父上に似てるんですって。…そうね、わたくしも思うわ。みんなをうまく乗せて引っ張ってく力は、仲謀兄上よりわたくしの方が上だって」
 もし、家中が割れた場合。本来ならば兄を立て身を引くのが美徳であろうが、孫家が置かれてきたような厳しい状況の中では、道徳になど拘ってはいられない。
 より実力のある者が家を引っ張ってゆかなければ、家そのものが倒れてしまう。
 どんなに罪を犯したくなくてもどんなに兄を愛していても、上に立つ者には従う者たちに対する責任というものがあるのだ。…甘い感情だけで身が処せるものかどうか。
「まだわたくしが女だからこんなことしても済む。だから女でよかったのよ。…にしたってほんとはあんまり目立たない方がいいんだけど」
 それでも仁姫は笑っていた。小声で怖いことを言いながら、兵たちに陽気に手を振っていた。
 凄まじい女だと、甘寧は思う。
 しかし、…仲謀兄上といえば。
「あー! あんた殿に黙って出てきたろ!」
 そうとしか、思えない。女を最前線に出すなど、暴挙に等しい。いくら彼女がいい腕をしているからといって、孫仲謀が許す筈はない。
「てことに、しといて」
 囁かれた声。低い声。
「…違うのか?」
 つり込まれて甘寧も小声になった。
「ええ」
 兵たちにまた、手を振って見せて。
「言い出したのはわたくしだけどね、兄上も承知」
 …まさか、そんな。
「だって出せる手駒がないんだもの。わたくしが行けば少なくとも、孫家は皆を見捨てたわけじゃないってことだけは伝わるだろうし、…見ての通り、あっちの連中はああいう物の考え方するから」
 時間だけでも稼げたら。士気だけでもあげられたら。
 それでは、求められながら送れなかった増援一万、その代わりなどとてもならないけれど・・・・・
「送れなかった?」
「…君理(朱治)を当てにしてたんだけど、兵、出してくれなくてね」
「ちょ・・・・・」
 甘寧の顔から、血の気がひいた。
 朱君理といえば朱家の…、先々代からこの孫家と手を携えてきた豪族の当主ではないか。
 それが。兵を出すのを拒んだということは。
「今は陸家がこっち側だからそれくらいで済んでるけど、…伯言だってどこまで信じられるか」
 それでも仁姫は笑っていた。晴れやかに、陽気に、笑っていた。
「ま、孫家にとっては、正念場ってこと。男だ女だなんて言ってらんない」
 …そこまでの、状況なのか。
 もう。言葉も出ない。
「興覇は何も言わないのね? 女だてらにとか、何とか…」
「…いや、正直今日は…助かったしよ。てか・・・・・」
 それでも鮮やかに笑うこの女に、何が言えるというのだろう。
「でも、子敬は、怒るでしょうねえ」
「ああ・・・・・」


 そう、だな。
 あの男は・・・・・


 果たして。魯粛は、怒り狂った。
「女だてらに戦場に出てくるな、この馬鹿!」
 およそ主君の妹に言う言葉ではなかったが、仁姫は、ただ、笑っただけで。
「女は大人しく料理でもしてりゃあいいんだ!男の仕事に口を挟むんじゃねえ!!」
 殴りつけかねぬ勢いで魯粛が喚く。本気で具合が悪いのでなければ、もしかしたら手が出ていたかもしれない。
 けれど仁姫も負けてはいない。それどころか…、嬉しそうにさえ見えた。
「あら、わたくしの料理がそんなに食べたかったの。だったら素直にそう言えばいいのに」
「・・・このアマ…っ」
「わたくしに戦場に出るなというのなら、自分で甲冑つけて前線に出なさいよ。病人が何偉そうなこと言ってるのよ!」
「…んだとお?!」
 状況が状況ではあったけれども、甘寧は笑わずにはいられなかった。
「ま。痴話喧嘩はそのくれえにしなよ」
「痴話、喧嘩ぁ?!」
 異口同音に言うその抑揚だけでなく、真っ赤な顔できっと向き直る動作までもが、そっくりで。
 …これではもう、笑うしかない。
「と、とにかく…、わたくしは、帰りませんからねっ!!」
 赤面したのを恥じるように逃げ出した仁姫を、男二人の視線が追う。
「いいじゃねえか。お姫さんが来てくれたお陰で、士気もあがってんだし。これなら、しばらくは保つぜ」
 甘寧に低く囁かれ、悔しげに魯粛が唇を噛む。
「なあ、子敬。子明のやつが零陵でもたついてる。あいつがあっちを片づけるまで、どうでもここは守り抜かなきゃならねえんだ。お姫さん抜きじゃあ、士気が上がらねえ。腰の引けた兵で押し返せるほど、関羽の野郎は甘くねえ」
「判ってる」
「面子や何かに拘ってる場合じゃねえんだ。…俺らが負けたら、子明が、死ぬ。そうなりゃ…荊州は…」
「判ってるっつってんだろうがよ!けど、…けどなあ興覇」
 苛立たしげに遮って、魯粛がぎろりと甘寧を睨んだ。
「あの馬鹿女に怪我でもさせてみやがれ…、ぶっ殺すからなっ!!」

 ああ、そうか。
 だから仁姫は嬉しそうだったのか。
 
「…お似合いだよ、お前ら」
「うっせえっ!」

 どうにか、ならないだろうかか。
 どうにかして今の状況を変えることは出来ないものだろうか。
 劉備と、曹操と、内に抱える豪族と。今の孫家の状況は、それこそまさしく四面楚歌。
 俺では。
 俺の力では、とても・・・・・

「ま、たっぷり手料理喰わせて貰うんだな。喰えるもんが出来るかどうか知らんが」
「興覇っ!」

 こみあげるやるせなさを振り切るように、甘興覇はにやりと笑ってみせた。