Act.5
〜A.D.214 荊州

 「姫」なんてのがくっつくような女を見たのは、それが初めてのことだった。
 益州からこっち降ってくる船がある、商船ではないらしいって急報が来て、…「承淵! 行くぜ!」って言われてさ。
 そしたら舳先に、巫女さんみたいに髪さばいたえっらい美人の年増が立っててさあ。
 なんての…、こう、こっちの腹が減ってくるような笑顔ぱあっと浮かべてさ、「興覇!」って。
 さっとあがった手が白い蝶が飛んだみたいに見えた。
「な、何すかあの女? かしらの知り合い?」
 びっくりして振り返って…、そこで俺びっくりし直したんだ。だって、かしらが…かしらだぜ?…真っ青んなって顔引きつらせてんだもん。
 口を二、三度、ぱくぱくさせて、…掠れた声でかしらは言った。
 「弓腰姫」って。

 あれが三度目のびっくりだったんだと、丁奉はひとりで頷いた。
 「姫」がくっつくような身分の女は、どこか建物の奥の宝物庫みたいなところにしまわれて何かきれいなモン弄ってるんだろうと、思っていたのだから。
 「深窓の佳人」などという言葉は、彼は知らない。

 でまた、会話が凄かったんだよな。
「ごめん興覇、しくじっちゃった」
「…いや、…しょうがねえさ。あんたが悪いんじゃない」
「首もなしなのよ。子敬、期待してたんじゃない?」
「子明が安心するさ。ンなことしたらひめさまも殺されるって心配してたからな」
「…ありがと」
 首ってなんだろうと思ったら。
「劉備の首より…あんたが無事だっただけでもよかった。みんな喜ぶぜ」
 …目ン玉でんぐりかえるんじゃないかと思った!
 この女、…じゃない孫家の姫さま、劉備の首獲ってくるつもりだったのかー?って。
 もう聞いた瞬間俺は決めたね。…どんなに出世したって、「姫」のつく女は絶対、ぜーったい嫁には貰わないって。
 旦那の首獲るとか何とか平気で言うような女、物騒で一緒になんか寝られねえもん。
「趙将軍が助けてくれたのよ」
「さっきのあれか?」
 国境で引き返していった方の船を、かしらの鋭い目が追った。まだ、帆が見えている。
「そ。阿斗が人質になってくれてね、それで無事でここまで…」
 もう、俺の目、点になってたと思う。
 なんだよそれって…、思うだろ? 旦那の首獲るとか息子人質にして逃げるとかさ…、なんしか普通、ありえねえっていうか、何でそんなことになっちまうのか、俺にはさっぱり判んねえ。
 それは、えらい人ンとこではそういうもんなのかもしれねえけどさ…、俺、このまま出世していいのかってマジ考えちまったね。
 そりゃあ俺んちは貧乏で死んだ親父は甲斐性なしでお袋は口喧しいの何のって口から生まれたのかよこいつって感じだけどさ、…家ん中でンな、首獲るの何のってそんな…。
 ふりまわすったってもせいぜい親父が稼ぎ呑んちまった時に擂り粉木振り回してたくらいだもん。…それだって子供心におっかなかったんだぜ?
 えらくなったらそんなふうになっちまうのかよと思ったら、なんか、怖くなってきちまった。
 それだけじゃ、なくってさ。
「あ、興覇、そっち行っていい? この船返さなきゃならないのよ」
「ああ」
「ありがと!」
 でさ。
 あの姫さまさ。
 いきなりばっと足あげたんだよ! 船縁に!!
 見ちまったよ。俺。…太股まで。しっかり!!!
「こら馬鹿よせっ!!」
 かしらも慌てたのか、主家の姫さま怒鳴ってた。
「え? 何よ? このくらい飛べるわよ?」
「んなこた判ってらア! けどお前ナリ考えろっ! こいつが鼻血吹いちまうだろ!」
 そう!
 かしらってばひでえだろ、俺のことダシにして!
「あ、そっか」
 あ、そっかじゃねえだろまったくもう。
 「姫」のつく女ってのはみんなこうなのか? 俺の幼なじみ連中だって、そら股おっぴろげて洗濯したりはするけどさ、一応見えねえように気イくらい遣ってくれるってー。
「今、板渡すから…、ほれ承淵!茹でたエビみてえになってねえでさっさと板出せ板!」
 もう、…みんな爆笑するし、姫さままで笑ってるし、…俺一瞬江に飛び込んぢまおうかってマジ思ったんだぞ!
 うん。よーくよーく判った。
 「姫」のつく女なんかには、かかずりあわねえのが、上策ってもんだ!

 なんだけど。
 だけど・・・・・

「ご指名なんだ。建業まで送ってほしいって」
 皖の城が落ちて、情勢っての?アレもちょっと落ち着いた頃。
 呂偏将軍が俺らの船にやってきた。
 そんなえらい人は自分でそゆことするもんじゃねえって思うけどさ、あのひと、腰が軽いし、かしらとはまあダチみたいなもんだしな。
 話も、したかったのかもしれない。何かその日に限ってそんな感じがした。
 ご指名って誰のご指名なんだか、俺にはさっぱり判らなかったけど、…かしらには一発で判ったみたいで。
「なんで。こっちいてくれりゃ助かるのに。あの女がいるだけで、なんとなく士気あがるからよ」
 …それで、判った。あの姫さまだ。
「ややこしいこと言う人いるみたいなんだ。有夫の女が他の男に囲まれて、ってさ…」
「けっ。有夫って、その旦那んとこから命からがら逃げてきたんじゃねえか。だいたいアレが女の数に入るかよ」
 だよなだよな、かしらの言う通りだ。いきなり船縁に足あげて太股まで男に見せて平気だなんて、んなの、女じゃねえよ!
「ひどいなあ興覇」
 偏将軍苦笑してたけど、俺ア絶対そう思う。

「…ひめさま、可哀想だよ」

 あれ。
 このひと、こんな目、するんだ・・・・・

 ふうん。
 ああいうのがいいってお人も、いるんだな。
 やっぱこの人どっか変わってんな…。



  蒹葭蒼蒼たり
  白露霜と為る
  謂う所の伊の人は
  水の一方に在り
  遡して之に従えば
  道阻りて且つ長し
  遡游して之に従えば
  宛として水の中央に在り




 船は都合のいい時いつでも出してやると、甘寧が返事をして。
 歩いて帰るという呂蒙を、「手下に送らせる」と言って。
「いいよそんなことしてくれなくて…」
「日が落ちたらいっぺんに冷えて来たじゃねえか!ちんたら歩いてたらまたカゼ引くぞ!」
「平気・・・・・」
「春から咳止まらねえようなヤツに言う資格ねえよ!承淵!」
「はいっ!」
「いや、俺…」
 ごちゃごちゃ言わないあんた倒れたら俺らみんな困るんスからね冬本番前にカゼ引いちまったらどうすんですほら早く乗った乗った。
 有無を言わさぬ勢いでまくし立てられ、また少し嵩が減った小柄な躰は、あっと言う間に承淵の小型の蒙衝に収まった。
「ほら、これ着ててください」
「いいって…」
「将軍にカゼ引かれたら俺がかしらに殺されます!俺殺す気ですかそれとも俺の獲った鼈の生き血がそんなに飲みたいってんなら…」
「ああもう、判った判った」
 苦笑しながら呂蒙が渡された戎衣に袖を通す。
「お前の?」
「はい」
「…おっきくなったんだなあ」
 嬉しげに目を細められた丁奉が、照れくさそうな顔をした。
「まだ、これからです。…けど将軍、また痩せたんじゃ…」
「そんなこと、ないよ」
「大事にしてくださいよ。かしらを使いこなせる名将なんて、将軍っきゃいないんですから」

「…名将? 俺が?」

 きょとんと丸くなったおおきな瞳は、次の瞬間、つうと逸れた。

「なわけ、ないだろ。呉下の阿蒙が名将なんて」
「ちょっと、そんな言い方…」
「そうだよ。俺にもっとマシな頭があったら…、戦略考えられる頭があったら…そうしたら」

 ひめさまにこんな苦労、させずに済んだんだ。

 吐き出すようなその口調は、あまりに辛く、痛々しく。
「…そんなに、好きなんですか?」
 反射的にそう言ってしまったのは、何か言わなければ自分の胸の方が潰れてしまいそうだったからだろう。
「そりゃそうさ。俺が前の殿の側仕えしてた頃から、ひめさま、俺によく懐いてくれて…」
 その好きではない。それではない。
 言おうと…口を開きかけたが、既に先のが失言である。
 …だいいち、言えやしない。
 こんなに澄んだきれいな瞳に、惚れてんでしょうとか何とか、軽く言うことなど出来やしない。
 丁奉は黙って頷いた。
「よく剣のお稽古につきあったんだよ」
「剣?!」
 あの女そんなもんまで使えるのかと、丁奉は目を剥いた。
「あ、そっかお前知らないか。いい腕なんだよ、ひめさまは。この俺がお教えしたんだからね」
 嬉しそうに…でも寂しそうに、それでもあかるい声は言う。
「あの頃は袁術がまだいて、ウチ狙ってたからな。ひめさまも…自分の身くらい自分で守れないとって…」
 人質にでもされたら兄上やみんなに迷惑がかかるからって。
「まだ子供なのにだよ? それでな、剣教えてくれって…」

 澄んだ瞳が、遠くを見つめ。

「教えたくなんて、なかった」

 いつもはあかるい声が、震えた。

「ひとの殺し方なんて、教えたくなかった。女の子だよ?それより…花輪の作り方とか、草笛の吹き方とか、笹の葉の舟の作り方とか…」
 そっちなら喜んで教えてあげたのにと、…声は次第に、呟きに代わり。
 黙り込んでしまったおおきな瞳が、焦がれるように空を見上げる。
 あんな女とんでもねえとか思って悪かったかもしれないと、いまさらのように丁奉は思った。
 生活の苦労なら嫌というほど知っていても、貧しい野菜売りの息子である。誰かに命を狙われるなどというのは、丁奉の知らぬ苦労であった。
 …見てたこのひとも、辛かったんだよな。好きな女のことなんだから・・・・・
 寂しげな背中に何か言ってやりたいと思うのに、こういう時に限って言葉が見つからない。
 その背中が。
 空をぼんやり見上げたままで、遠い昔の歌を歌った。

  蒹葭蒼蒼たり
  白露霜と為る
  謂う所の伊の人は
  水の一方に在り
  遡して之に従えば
  道阻りて且つ長し
  遡游して之に従えば
  宛として水の中央に在り 
蒹葭の葉は蒼蒼として
白露はいつか置く霜
あわれわが思える人は
大川の水の彼方に
川のぼりゆかむとすれば
道とおみ至りもやらず
川くだりゆかむとすれば
おもかげは水のさ中に

 なぜかそれが、たまらなくて。

「いっそ連れて逃げりゃ・・・・・」

 言うべきではないことを口走りかけ、丁奉は慌てて口を閉ざした。
 だが。呂蒙はそれを、別の意味に取ったようで。
「あ、承淵もそう思う?」
 …へ?
 その気でいるのかこのひとはと、丁奉はまた目を剥いた。
 だが。
「俺もな、そう思って子敬さんに言ったんだよ」

 …何を。
 何を言っているのだ、このひとは。

「ひめさまに惚れてるんだったら、攫って逃げればいいのにって。ひめさまだって…、子敬さんのこと好きみたいだし」

 …違う。…違う。
 俺が、言いたかったのは。

「そりゃさ、子敬さんは新参だし、おっきな豪族の出でもないし、殿は許してくださらないかもだけど、でも…」

 辛抱が、出来なくなった。

「あんたそれでいいんですか!」
「え?」

 怪訝そうに振り返った、おおきな瞳。
 澄んで、澄んで、どこまでも澄んで。

「だって…、好きだって・・・・・」
「ああ。俺みんな好きだよ。前の殿も好きだったし、…今の殿も、ひめさまも」

 丁奉が、唖然とした。

 …このひと、気づいてないのか? 自分の気持ち・・・・・

「だからさ。…みんな幸せでいてほしいって、俺・・・・・」

 こほこほと。
 枯葉を鳴らすような咳。
 その咳に、誘われるように。

「え…、雪?」
「嘘だろまだ真冬じゃないってのに…、将軍寒くないっすか?」
「ああ、大丈夫。ありがとな」

 空から。
 はらはらと。
 はらはらと、零れた・・・・・

「…はかないな」

 零れた白が水面に落ちて、跡も残さず、すうっと消えた。
 じっと見つめるおおきな瞳は、それでも澄んで。どこまでも澄んで。

 なぜか。
 どうしようもなく喚きたくなってきて―――

「あ、着きましたよ将軍! ええと、そこの船着き場でいいですか?」
「ああ、もうここで十分だよ。ほんと、ありがとな」

 よかったと、丁奉は思った。
 この口が勝手に喚き出す前に、船が着いてくれてよかったと思った。



 なに言ってんですあんたあの姫さまに惚れてんでしょうがそういうのを恋ってんですよなんでわかんないんですだから阿蒙って言われんですよあんたは!
 


 蒹葭蒼蒼たり
 白露霜と為る



 荊州に、冬が来る。