Act.4~A.D.214 長江
夕映えが空を染める頃、山の姿が、ふと、変わった。
天の際へと、長江は、ただ滔々と流れてゆく。
「ははうえの、おくになのね」
「…そうね」
風が、水面を渡る。
その風に乗って、掌が舞った。ひらりと、…白い蝶のように。
「帆を下ろして!」
ばさばさと。
音を立てて帆が下ろされる。
…別れの時だ。
泣きそうな目でしがみついてくる阿斗を、仁姫は、優しく抱き締めた。
物心ついた時から、自分を母と慕ってくれた、劉備の息子。
弟たちで、子守は慣れていたし、もともと、子供は嫌いではない。それに、この子は、素直な良い子だった。優しくて、賢くて・・・。このままいけば、きっと、良い君主になるだろう。
「男の子は、泣かないものよ。きっと、また会えるわ。その時までに、強い男になっていてね」
髪を撫でながら、言ってきかせる。
「それから…、ごめんね。阿斗のこと、人質みたいにしちゃって」
「いいの。でないと、みんな、ははうえのこと、いかせてくれなかったんでしょう」
懸命に涙を堪えながら、それでも阿斗はきっぱりと言った。
「ちちうえ、おこったりしないよ。ちちうえだって…、ははうえのこと、すきだもん。ちちうえがいたら、あんなこと、しないよ」
あんなこと。
仁姫を後宮の一室に閉じこめ、外部との連絡を絶ち、囚人のように扱ったこと。
その行為そのものが告げていた。
来るべき…そう、もはや「来るべき」という段階なのだ…東呉との戦で、彼女を盾にするつもりだと。
馬鹿な人たちだと、仁姫は思う。
孫家の男ならそんなことくらいで怯みはしない。どうでもそうせねばならぬとなったら、泣きながらでも自分を殺す。
たかが女ひとりのために国の行く末を誤るような、…あの兄は決してそんな愚か者ではない。
そんな汚らしいやり方をしたところで、江東の者の憎悪を煽るだけ。お互いのために何もいいことはない。
自分を逃がしてくれたあの男も、そのことをよく心得ていた。
これがお互いの国にとって一番いいのだからと、この子に言い含めて私のところへ送り込んで。
蜀に出陣している劉備の軍師・ホウ統が死んで、皆が右往左往している、今日ならば逃げることも出来るからと、こうして船まで用意してくれて。
…劉備軍にも、いい漢はいるのだ。
微笑んで待ち受ける視界の中に、滑り込んできた、一艘の船。
舳先には銀の鎧の武人。…趙雲。常山の趙子龍。
舷と舷が触れる距離で、船が止まった。見交わす視線。…言葉など、最早、無意味。
「阿斗さまを」
ただそれだけを趙雲は言い、籠手を外した手を伸ばした。仁姫は黙って頷いて、小さな躰を抱き上げた。
「ははうえ…!」
頬を寄せたところでとうとう堪えきれなくなったのだろう、子供の涙が仁姫の頬を濡らす。
ほんの一瞬、躊躇って、白い手は己の髪に伸びた。引き抜かれた、銀の簪。
…形見など、…思いを残すだけだろうけれど・・・・・
まとめてあった髪がはらりと崩れ、折からの風にふわりと靡く。
「阿斗、これを」
小さな手にその簪を押しつけ、これを最後と、髪を撫でて。
「わたくしを、忘れないでね。阿斗のこと、とっても好きだったわ」
差し伸べられた逞しい腕に、子供を渡す。
「…どうぞ、お幸せに」
趙雲が爽やかな笑顔で言った。
「ありがとう」
こみあげるものを抑え、仁姫は、笑顔を見せる。
「玄徳様に、よしなに伝えて。みじかいご縁だったけれど、本当によくしていただいたわ。父上が出来たようで、…嬉しかった」
「姫さま、呉の船が!」
遠目にも鮮やかな赤い帆の船が、驚くべき速さで近づいて来る。
仁姫がぱっと破顔した。
「子龍、急いで戻って! 甘興覇が出てきたわ」
長い髪を風に投げて。楽しげに言う。
「さあ、早く! 阿斗を頼むわよ!」
劉家の孫夫人はもうどこにもいない。そこにいるのは、東呉の、弓腰姫。
「船を出して!」
一閃した白い手を、趙雲が眩しげに見つめる。
しかしそれはほんの一瞬。
笑顔を返し、一礼して。
「引き返せ!」
夕陽に輝く長江の水が、見る見る二艘を引き離す。
看板で白い手が舞っていた。ひらひらと。ひらひらと。いつまでも。いつまでも。
その姿を阿斗の泣きそうな目が、どこまでもどこまでも追っていた・・・・・
「ね、しりゅう」
「はい?」
「ぼく・・・おおきくなっても、ぜったい、いくさはしないよ。ほかのこが、こんなきもちになるんだったら…かわいそうだもの」
まだ六歳の子供は、簪を握りしめ、唇を震わせた。
この乱世。それは叶わぬ願いだとは、趙雲には、言えなかった。
「辛い思いをおさせして、申し訳ありませんでした…」
声が、曇る。
「どうして、あやまるの?ぼくね、ははうえをおたすけできて、うれしかったんだよ」
泣きそうな笑顔で、阿斗が言う。
「ははうえをたてにするなんて…、ぼくはいやだ。もし、それで、いくさにかっても…、うれしくなんて、ないよ」
どうして。
どうして、いくさなんて。
ぼくはちちうえもははうえもすきなのに・・・・・!
泣きじゃくる小さな子供を、武人の逞しい腕が、しっかりと強く抱きしめた。
川下に投げた視線の先。
赤い帆を意気揚々とあげた船が、仁姫の船を迎え取った。
蒹葭蒼蒼たり
白露霜と為る
謂う所の伊の人は
水の一方に在り
遡洄して之に従えば
道阻りて且つ長し
遡游して之に従えば
宛として水の中央に在り
鼻をつく、薬の匂い。
「…さん。子敬さん」
気怠い眠りから魯粛を呼び覚ましたのは、どこか秋風を思わせる声。
…阿蒙が、今度は何だよ。今日は寝かせといてくれっつったのに・・・・・
「あー?」
鬱陶しそうに目を開けて、魯粛はそこで、固まった。
そこにいたのは、呂蒙だけではなく。
大川の水の彼方にいるはずのひと。
「・・・弓、腰姫?」
どことなくむくんだ躰と血管の浮き出た顔を、懐かしいあのきつい目が、哀しげな色で見下ろしていた。
「・・・子敬」
女にしては低い、柔らかな声が、自分の字を呼んだ。
「夢か、これは?」
「残念ながら、違うわ」
思わず差し伸べた手に、白い手がそっと触れた。熱を持った手に、その冷たさが、心地よかった。
「ごめんなさい、子敬。わたくし、戻ってきたの」
それだけで、魯粛には判った。
…駄目に、なったのか?
黄色く疲れた色をした目が、問いかける。
…そのようよ。
哀しげな女の目が、それに答えた。
「ちっ」
魯粛は、舌打ちをして、天井を仰いだ。二人の手が、離れる。
「俺たちは…はめられたのか」
劉備はただ勢力拡大の為に足場となる地が欲しかっただけ。
今、益州を攻めている彼は、よしんばその地を奪えたとしても、こちらの傘下に戻る気も益州を返すつもりもない。
この女が戻ってきたということは…、そういうことだ。
「儂に、人を見る目が、なかったってことか。劉備が、そんな奴だったとは…」
「劉備だけなら何とかなったかもしれないけれど…、相手を見誤っていたようよ、あなたも、私も。人質に取られるところをやっと逃げて来たの」
仁姫が、辛そうに言った。
「ごめんなさい。わたくしの力が、足りなくて・・・」
「いや」
魯粛は、苦笑した。
「儂が、馬鹿だったってことだ。悪かったな、お姫さんに辛い目を見せて」
「止してよ。謝るなんて、子敬らしくもない。今更何言ってんのよ。辛い目に会うのを承知で、わたくしを送り込んだ癖に」
仁姫が、鼻に皺を寄せた。魯粛が、また、力なく笑う。
「相変わらず、きついお姫さんだ」
その声に嘗ての豪放磊落な響きはない。仁姫がぐっと眉を寄せた。
「子明」
「…はい」
その声はどこか不機嫌そうに響き、魯粛が意外そうに目をあげた。
「悪いが、…荊州の防備・・・・・」
「心配要りません。皖の攻略を急ぐ、で、いいですよね」
やはり露骨に不機嫌が声に出ている。呂蒙にしては珍しいことだ。
「あそこ落としとかないと、劉備とやるってなった時、魏がこっちの補給線に悪さするかもしれませんから。…殿のお許しを頂き次第、興覇と俺で出ます」
言葉は抑えられているが、どこかその口調は、文句があるなら言ってみろと脅しでもしているように響いた。
「ああ。頼む」
実際問題、そうするしかないのだが。
…いったい、どうしたというのだろう。
視線を捕らえようとすれば、ついとおおきな瞳が逸れる。彼にしては珍しいことだ。
「それで、あなたの具合はどうなの、子敬? 血を吐いたって聞いたけれど…」
心配そうな仁姫に尋ねられ、魯粛の顔が険しくなった。
「ちょいと、飲み過ぎただけだ。すぐ、元気になるさ。」
煩そうに、そう言って。
「俺のことはいいから、向こうの様子聞かせてくれよ。軍の様子とか…」
「ええ・・・・・」
てきぱきと仁姫が説明を始めた。
その間中。
おおきな瞳はただの一度も、二人の方を見なかった。
ひめさまも今日はお疲れだろうからと、仁姫を退出させたあとも。
何か言いたいことでもあるのか、呂蒙は部屋に居残った。
「なんだ? 皖の攻略のことか?」
戦術ならお前の方がよほどと言いかけた声は、思いも寄らぬ言葉に遮られた。
「攫って逃げたらいいのに」
それは孫家大事のこの男の口からは決して出る筈のない言葉で。
流石の魯粛が、絶句した。
「お前…何言ってんだ? あの弓腰姫をか?」
気でも触れたのかと言ってやれば、逃げるように逸れた、おおきな瞳。
らしく、ない。
こいつどうなっちまったんだと、魯粛はひとり首を傾げた。
「あのな、…考えてもみろよ。あれが大人しく攫われるようなタマかよ!」
「でも、…好きなんでしょう」
知ってたのかよと。
魯粛は小さく舌打ちをした。
「さっきの見てりゃ判ります。…興覇だって言ってました。惚れてるんならなんで攫って逃げねえんだろうなって」
「だからってお前な…」
そこで、あることに気づき。
がばと魯粛が身を起こした。
「おいっ! まさか興覇の奴・・・・・」
「しませんよ。興覇他に誰かいるもん」
「…ほんとかよ」
阿蒙が言うんじゃあてにならんと言われ、呂蒙の鼻に皺が寄る。
「本当ですって。昔何かあったんですよ。…あいつ言わないけど。なんとなく、俺、判るんです」
「…ふうん」
それでもまだ魯粛は疑わしげだったが。
「ほんと…攫って逃げたらいいのに」
秋風のような声に、重ねて言われ。
「孫家の姫をかよ」
ふっとそのまま、遠い目になった。
始めて会ったのは、館の庭。
周瑜を相手に剣の稽古をしていた、十七のむすめ。
溌剌とした、あの動き。初対面の俺に向けた、値踏みするような、鋭い目の光。
それまでに会ったどんな女とも、あのむすめは、違っていた。
「こちらは、伯符さまの、妹君だ」
堅苦しく紹介する周瑜を制するように、
「弓腰姫よ。わたくしがお転婆だから、兄君たちは、そう呼ぶの」
お天道さまのような、明るい笑顔で、あのひとは、そう言った。
一目惚れだった。
・・・主家の姫でなかったら。とっくに、攫って、モノにしていただろう。ま、おめおめ攫われるような女じゃああるまいが・・・
「手遅れさ」
苦笑を浮かべた唇が零した声は力なく。
答えた呂蒙の声が尖った。
「弱気になっちゃ駄目ですよ! そんな病、すぐ治ります! だいたいお酒ちっとも止めないから…」
「そっちじゃねえ。そっちじゃねえよ」
そりゃまあ、あのひとは、こんな飲んだくれの病人には勿体なさ過ぎるってのも、事実だが。
「そっちじゃなきゃ、何なんです? ひめさまだって子敬さんのこと、きっと・・・・・」
「よせやい」
「だってほんとに心配してたもの。それに、子敬さんの策台無しにしたって悲しそうだったし…」
「だからじゃねえかこの阿蒙!」
魯粛の声が跳ね上がり、呂蒙が、黙り込んだ。
気まずい沈黙が、部屋に下りる。
「なあ、子明」
ぽつりと、魯粛が言った。
「儂は・・・あのひとを、自分の策の手駒に使ったんだ。いったんはあのジジイに押しつけて、辛い目を見せたんだよ。今更、実はあんたに惚れてましたなんて・・・お前なら、言えるか?」
答えは、ない。
「・・・言えねえだろ?」
こくりと。縦に振れた首。
「子敬さん、馬鹿です」
呉下の阿粛だと、そう言って、呂蒙が寂しい笑みを浮かべた。
「どうして…、どうしてそんなことしたんです。国の為だったのかもしれないけど、…ずっと好きだったんでしょう?」
「国の為じゃねえよ」
怠そうな声で、魯粛が答える。
「儂の夢の為さ。いつか話したろ、異国との交易」
「夢って…」
「うちにとっても悪いことじゃねえ筈だ。中華に拘る必要はねえんだ。交易で国を富ませれば、領土の取り合いしなくたってうちはうちで自立してやってゆける…」
「夢ってそんなに、大事なんですか」
透き通るような声が、静かに尋ねる。
「ひめさまよりももっと、大事なんですか」
「お前にはそういうの、ねえのかよ」
「俺ですか…」
どこまでも澄んだおおきな瞳は、その時だけどこか遠くを見つめた。
「みんながしあわせになること…かな」
「何夢みたいなこと言ってんだよ。そんなこと現実になる筈・・・・・」
「夢を言えって言ったじゃないですか!」
不服そうに、睨みつけられ。
「あ?」
そらまあそうかと、魯粛が笑う―――
なあ、子明。
お前はそうじゃねえのかも知らんが。
儂は儂の夢のために生きてきたんだ。
儂から夢を取ったら、なあんにも残りゃしねえんだよ・・・・・
「俺からこれを取ったら何もない」みたいなものを持つって、どんな気持ちなんだろう。
俺はいつも、その日その日を生きるのに必死で、そんなこと考えてる余裕もなかった。
興覇にそう言ったら、たいていのヤツはそんなもんだって言ってた。
何かの為に生きるなんて、言えるだけでも贅沢なんだよって。
「それでも子明はまだまっとうに生きてきたからな。賊の暮らしなんてよ、一瞬でも気イ抜いたらそれでおしめえだ」
そういうこと言う時の興覇は、いつもほんとに凄い目をする。
こいつがくぐり抜けて来たものには多分、…俺が知ってる苦労とは質の違う凄まじさがあるんだろう。
「何の為なんてえご託は、生きてりゃこそ言えることよ。その、生きてるってこと自体がおっそろしく難しいんじゃ、なあ」
強いていえば生き延びることが夢てえことになんのかな。
そういって興覇は笑ってた。
「そ、だな・・・・・」
うん。そうだ。
俺は…ただ。
みんなに明日があって。
その明日の中でみんなが笑っていてくれたら、幸せに生きててくれたら、それでいいって思ってきただけで・・・・・
そう言ったら興覇に呆れられた。
「お前は」
「へ?」
「いつもお前みんなみんなって言うけどよ…、その中に自分入ってんのかよ」
「え・・・・・?」
え。だって。
「みんなが幸せに笑っててくれたら…、そしたら俺だって幸せだから、だから、…ええと」
「こんの、阿蒙っ!!」
…え? …えー?
「わーったよ皖城落としてくりゃいいんだろ!お前の大事なみんなのためによっ!!」
「ちょ・・・・・」
「ちっとカタつけてくらあ、そこで待ってやがれこの馬鹿野郎! あ、兵、借りてくからな!」
言い捨てて。
「興覇!」
振り向きもせずに去って行った、大きな背中。
興覇?
興覇、なんで怒ったんだろう・・・・・
そうして。
皖の城は落ち。
借り出されていった部隊長はあとでぼやいた。
「出陣前ですよ。俺ア下戸だっていったら、命を捨ててかかろうってえのに酒が飲めねえとか情けないことぬかすなとかって、ボロカス怒鳴られて」
無理矢理飲まされてもう頭がぶっ飛んでしまって何やってたのか自分でも判らないと。
「手柄立てておめでとうって言われても、俺、なーんも覚えてねえんですって!」
なんであの人あんな機嫌悪かったんですかと言われても、呂蒙としては答えようがない。
「なんか…俺が気を悪くさせちゃったみたいなんだけどさ…」
俺にもよくわからないんだよと、おおきな瞳はふらりと揺れた。
「でも、良かったよ。みんな怪我しないで帰ってこれて」
練絹を城壁に投げかけて皆が次々躍り込んだところは、見ているだけでも血が騒ぐほど壮観だったと。
痩せた手が部隊長の分厚い肩で、ぽんと軽やかな音を立てた。
「殿にもうんと推してやるからな! 命張ってくれたんだもん、しっかり恩賞出るようにしなきゃね」
楽しみにしてろよと笑った声に、枯葉のような咳が混じった。
「これで劉備とやることになっても、補給線は大丈夫だな」
おおきな瞳に映っているのはもう、次の戦―――
どうして。
どうして、いくさなんて。
俺、みんな、好きなのに。
「いつもお前みんなみんなって言うけどよ…、その中に自分入ってんのかよ」
「みんなが幸せに笑っててくれたら…、そしたら俺だって幸せだから、だから、…ええと」
お前は! お前、自分はどうでもいいのかよ、子明!
その咳ちいとも止まってねえじゃねえかよ!
お前のひめさまだって…、泣くぜ、それじゃ。
そうだろう。
子敬にああだこうだ言ってる場合じゃねえだろ、ほんとは。
お前。…お前は、あの女が・・・・・
そんなことにも気づかねえで、…この、阿蒙が!
鷹の目をした男の乱れ髪が、水面を渡る風に、揺れる。
俺が…、俺が動いてやるから。
だから、無茶すんな、子明。頼むから、な。
言ったろ。
この国は俺が守ってやるって。
呂、子明っていう、馬鹿の為に。