Act.3
〜A.D.213 長江

 甘興覇どののところから、来ました。偏将軍に、お目にかかりたい。
 何度も練習した口上を言うと、衛兵は、笑顔になって丁奉を通した。
「案内してやろう。さ、ついて来い」
 取り次ぎらしい兵に言われるまま、丁奉は長い廊下を歩いた。
 
「これをな、偏将軍のところへ、届けてくれ。いいか、あいつが中身を全部喰うまで、帰ってくんじゃねえぞっ!」

 はあ、と小さく吐息をついて、大事そうに捧げ持った手の中のものを見下ろす。
 …鍋なんか、渡されてもなあ…。
 鍋の中身は、判っている。今日の午後、自分が捕まえた、鼈の羮(あつもの)。
 …どやってあっためんだ? 厨、借りるっきゃねえかなあ…。
 何と言えばいいのだろう。「あっためてくるから厨貸してください」でいいんだろうか。
 …出る前に思いついてりゃ、台詞、習って来れたのに。
 未だに敬語は苦手な丁奉である。
 懐に入れた素焼きの小瓶には、鼈の生き血がたっぷり。
 …油断すると嫌がって捨てようとするから、確かに飲むの見届けて来いって言われたけど・・・・・
 偏将軍などという雲の上の人が、自分の言うことなど聞いてくれるのだろうか。
 もう一度溜息が出そうになったところで。
 案内の兵が足を止め、とある一室の扉を叩いた。

「子明殿! 興覇殿からの使いが。お届けものだそうで」
「あ…、いいよ、開けて」

 そんな偉いお人と一対一で会うのは、初めてのことで。
 竦みそうになる足を叱りつけ、丁奉は部屋の中に歩を進めた。
 背中で扉の閉まる音。
 竹簡の山から身を起こした男が、くすんだような顔の中から、そこだけあかるいおおきな目で、まっすぐ丁奉を見つめて来た。


 これが。
 俺の取った鼈、喰ってた人。
 偏将軍、呂蒙、…呂子明。


「あれ、お前・・・・・」
 あかるいいろの声で言って立ち上がった彼は、自分とさして背丈が変わらぬようだった。
 自分はこれからまだまだ伸びる予定だから、やはり彼は、濡須で見かけた時の印象通り小柄なのだろう。
 それに、体調が優れぬと聞いた通りひどく痩せていて…、今なら、躰の厚みを考えると、自分の方が大きく見えるかもしれない。
 …よくこれで武官やってるよな。
 かしらが心配するのももっともだと、丁奉は思う。
 けれどまっすぐこちらを見つめてくる目は、あかるくて…澄んで…こわいくらいに澄んで。
 何故か不意に、怖くなった。
「そんな緊張しなくていいから」
 それをどう取ったのか、呂蒙がふわっと微笑んだ。
「会ったよな、…どっかで。ええと…」
「濡須」
 …あっしまった「です」つけんの忘れちまった!
 かあっと、頬が燃える。
 叱られるだろうかと思ったが、呂蒙は気にしたふうもなく。
「そうそう、濡須の夜襲の時だ!お前、興覇の傍にいたよな!」
 思い出せて嬉しいというように、呂蒙の笑みが深まった。
 覚えられていたのはこちらとしても嬉しいが…、そうなると余計に緊張してしまって。
「あ、…あのっ!」
 これはもう忘れないうちに口上を言ってしまうしかない。
「偏将軍に、これを、お届けに来ましたっ。かしらは、急に、用が出来たんでっ、俺、代わりに…」
 …あーっまた間違えたかしらって言うんじゃなかったええと…それに俺って言っちゃいけねえんじゃなかったっけ?え…、あれ?
 ぷっと呂蒙が吹き出し、丁奉の顔が柿の色になった。
「そんな緊張しなくっていいってば。舌噛むんじゃないかって、俺の方が心配になる」
 痩せた、筋張った手が、すいと鍋の方に伸びた。
「ありがとな。あとで頂くから…」
「あーっ!そうじゃなくってっ!」
 慌てて丁奉が鍋を引っ込める。呂蒙の目がきょとんと丸くなる。
「いや…、あとで、だと、困るんっす」
 …こんな時の台詞練習してなかったってばーっ!
 こうなりゃ、やけだ。
 丁奉はうんと腹を括った。
「かしらに言われてんです。偏将軍が全部喰っちまうまで帰ってくんなって…」
 あれ?「喰う」なんて言葉、上の人に使っちゃいけねえんだっけ?…でも、「喰う」でなきゃ、何ていやいいんだ?ああ、もういい!知るか!
「だから俺が見てる前で喰ってくださいっ!」
 丁奉にしてみれば必死の口上だが、呂蒙はくすくす笑っていた。…その笑いに咳が、僅かに混じる。
「興覇らしい」
 身軽に立って、扉を開き。おーいと外に声をかける。重い足音がして、従卒らしい男が顔を覗かせた。
「これ、あっためてきてくれないか。俺が喰うまでこいつ帰れないんだってさ」
 従卒までが笑い出し、丁奉はますます赤くなった。
 硬直しているその手から、ひょいと鍋を取り上げて。
「中身は…、また、鼈?」
 引きつった顔で丁奉が肯く。
「てことは、あれかなあ。また、生き血も飲まされる訳?」
 正直に嫌そうな顔をするところは、とてもそんな、身分ある者には見えない。
 …ほんと、偉ぶらない、いいひとだよな。
 少し、勇気が戻ってきた。
「ちゃんと飲んでくんなきゃ駄目ですよ!俺、がんばって捕まえたんだし…、この鍋だって、かしらが自分で料理したんスよ!かしらあんたのこと本気で心配してんだから…」
 あかるい目にまじまじと見つめられ、言い過ぎたかと、丁奉は思った。
「あ…、その、…すいませ・・・・・・」

「ああ。お前が、承淵なんだ」

 水軍の者以外から自分の字を呼ばれたのは、それが初めてのことだった。
 
「興覇が、言ってた。側で使ってる承淵は、鼈獲るのがうまいんだって。一生懸命獲ってくれてるって」

 なぜか。
 そのあかるい声が自分の字を口にするたび、暖かいものが自分の中に溢れてくるような気がした。
 この字をつけてくれた甘寧が、「いろんなもんがお前んとこに集まってくるように」と願ってくれたが…、本当に何かが集まってきているような気がした。
 この人の前では安心してていいんだ。言葉遣いが少々おかしくてもどうってことはない。この人は俺をまるごと受け容れてくれる。
 そんな気がしたのだ…、なぜか。
 けれど。
「いつも、ありがとうな。そうだな…、承淵のためにも、元気ださなきゃなあ」
 にっこり笑ったおおきな目が、まっすぐに丁奉を見つめる。腹の底まで見抜くような、不思議な目。
 その笑顔はとても優しかったのに。その声はとてもあったかかったのに。

 …どうして、俺は。

 怖い、なんて・・・・・







 かしらが戻ってきたのは、もう、明け方。
「で、どうだった。ちゃんと喰わせて来たか?」
 俺は黙って頷いた。
 そうなんだ。ほんとならあの鼈、かしらが届けに行く筈だったんだ。
 けど…、朱なんとかいう新しい廬江太守が北から来て、皖に本拠置いてブイブイ言わせてるっていうから。
 だったら偵察しとかなきゃならねえ、それも急いでやらねえと敵さんが備え固めちまってからじゃ遅いって話になって。
 そういうときかしらは人任せになんか出来ないタチだから…、いや、俺らが信用されてねえってんじゃなくて、「こういう時は血が騒いでじっとしてられねえから」だって。
 だから俺が代わりに行ったんだ、今日は。
 きっときわどいこともやってきたんだろう。流石に疲れが顔に出てた。
「いい仕事が出来たぜ! んだよメシまだかよ! 早いとこ喰わせろ、腹が減って死にそうだ!」
 怒鳴る声はいつも通り陽気だったけど、俺には判る。
 皆の前では絶対弱みを見せない人だけど、かしらだって岩石で出来てるわけじゃないんだ。
 それでも、あのひとが鼈を喰ったかどうか確かめるのは忘れないんだから、かしらにとってあのひとは、すっごく大事なひとなんだよな…。
「こっそり床にこぼしたりとかしなかったろうな?」
「大丈夫っすよ、俺がちゃーんと見てたんだから」
 そうか、そうだなって、かしらが微笑う。疲れの浮き出た顔をして…

 言えねえよな。
 かしらがそんなに大事に思ってるひとなのに。
 なんか俺、…あのひとが怖いなんて―――

「んだよ、しけた顔して」
 …え。
「偉いサンとこ行ったってだけでびびっちまったのか?」
 あー。顔に出ちまったかなあ…
「借りて来た猫みてえに大人しくなりやがって。そんなんじゃお前、皖の奇襲には連れて行けねえな」
 …たいへんだ!
「大人しくねえっすよ!」
 冗談じゃねえ。そんな晴れ舞台に置いてかれたりしたら大変だ。ここ一番て時には、かしらの側には俺がいなきゃならねえって、うん、俺はそう決めてんだから。
 慌てて大声出した俺がよっぽどおかしかったのか、かしらは声を立てて笑った。
「だったら何だよ? 子明は別におっかねえヤツじゃねえだろが」
「おっかなく、は、…ないっす、けど・・・・・」
 うん。「おっかねえ」とは、違うけど、・・・・・。

 かしらが俺をまじまじと見て、何度かぱちぱち、瞬きをした。

「ああ、そっか」

 何が、そうなんだ? 
「お前はけっこうワルだったからな」
 へえ。
 かしらでも苦笑いなんてするんだな。
「公奕の女房がよ、同じこと言ってたよ。子明さんはなんもかも見透かしてるみたいだから苦手だってな」
「はあ」
 …なんでそんなとこで蒋公奕殿の奥方が出てくんだ?
「知られたくねえこと持ってるヤツには、あんま嬉しくねえんだよな、ああいうの。ほれ、子明ってなんかこう…俺らに見えねえモン見てるようなとこあるから…」

「ああ、そう! それ!」
 そうだそうだ。それだ。だから俺怖くなったんだ。
「そうなんすよ、…すっごくいい人だし俺なんかにも愛想よくしてくれたし、敬語使うの忘れても怒られなかったけど…」
 …笑うこと、ねえじゃん! 俺、これでも一生懸命覚えようって苦労してんだから!
 悪い、ってかしらがまた笑う。
「けど、…なんかほかのヤツと違うって、そうだろ? 俺もよくそう思うよ」
 お前も一緒かよって言われて、下り坂だった俺の機嫌は一気に戻った。だって嬉しいじゃん? 憧れのかしらに一緒だって言ってもらえるなんてさ。
「そうなんですよ。…同じ部屋にいて俺の取った鼈喰ってくれてんのに、なんかねえ、あのひと半分くらい別ンとこいるような気がしたんす」
 そうだ。だから…怖いっつーか、何つうか…、俺の見えねえモン見てるっていうより、うーん・・・・・
「なんかね、…その、見ちゃいけねえもん見てるような…」
 かしらがまじまじと俺を見た。
「へえ」
 …んだよ。俺なんか変なこと言ったか?
「お前、よっぽど勘がいいんだな」
 勘・・・・・?
「俺もよ、時々同じこと思うんだわ。…あいつほんとに俺らと同じ生きモンなんだろうかって、な」
 
 秋の空が、とても、高かった。

「なあ。ウチで名将って言やあ、誰だと思うよ」
 へ?
 んだよいきなり。何言い出すんだ?
「んなもんかしらに決まってるじゃないっすか」
 そうだろ? 東呉水軍の甘興覇って言やあ、この長江の流れる土地で知らねえ者はねえ。
 そのかしらの軍にいるってのが、何ってっても俺の自慢なんだから…
 でも、かしらは笑っただけだった。
「あはは、ありがとよ。けどな、俺みたいのは斬り込み隊長ってえのよ。水の上ならまあ、負けはしねえけどな。陸の戦を仕切るとなりゃあ、俺じゃあ役不足だ」
 …じゃあ、誰だ?
「周公瑾?」
 江東の美周郎が烏林で曹操を…ってのは、俺らのいたところの祭りで演し物にもなってたけど。
「あらあ顔だけだ。…大したことはしちゃいねえ」
 …いいのかよ、そんなこと言って。
 けどかしらはえらい怖い顔になったから、俺は突っ込まないことにした。
「お前でも、気づいてねえのか? …ま、あいつがああだからしょうがねえけど」
 そうしてかしらは言ったんだ。

「子明の仕切った戦で、うちが痛い目見たことはいちどもねえのに」


 去年の濡須がそうだった。
 奇襲をかけたのは俺らだが、策を練ったのはあいつだった。
「今夜なら絶対いける! 俺、勘だけはいいんだよ」
 明るく俺らを送り出し、戻ってくるまでずっと陣門で待っていたあいつ。誰も欠けていないことを確認して、やっと笑顔を見せたあいつ。
 俺らの手柄を殿に吹聴してくれたのもあいつ。褒美が出た時も俺ら自身より喜んでくれたのはあいつ。
 だからみんな…忘れちまってんだ。そもそも策立てたのはあいつだってこと。
 あいつ自身がそれちっとも言わねえんだもんよ。
 そのちょっと前、この前の皖攻めにしたってよ。
 子明のヤツ、ずっと、戦はしたくない何とか仲良くやってきたいなんて、ガキのケンカじゃあるまいしみたいなことを敵将の謝奇に言い続けて…、相手がどうでも折れないと見切った途端、疾風のように皖を襲撃し、見事に敵を追い散らした。
 昨日まで和平を唱えてた口でよくまあ出陣の命を下せたものだ、やり方があまりにあざといって、…あン時は中でもいろいろ言われたが。
 俺は知ってる。あいつは本気で戦を嫌がってた。誰も死なせたくねえって思ってた。
 どうしても相手がうんと言わないから、…仕方なしに追い払ったんだ。こっちの被害を少なく済ませようと思やあ、速攻、奇襲。それが一番だった。向こうは子明に攻める気がねえと思って完璧油断こいてたから、兵力差考えたらそれしかなかったって言ってもいい。…見事なもんさ。
 あいつは何も間違っちゃいねえ。あれはあいつの手柄なんだ。もっともっと自慢すりゃいいのによ。
 なのに、あいつ、バカだから、「仁義を欠くやり方だ」だの「汚い勝利だ」だのぬかす腐れ文官どもに、「すいませんでした」って素直に頭下げやがって。
 仁義もなにも、戦になっちまった時点でそんなもん終わってるじゃねえか。
 戦なんざ結局は人殺しよ。お互いその気の勝負だからまだ追い剥ぎ強盗よりかはマシってだけの話でしかねえ。そんなもんに最初から仁義なんてねえ。
 そう言ってやったらあいつは笑った。「興覇らしい」って、あの、澄んだ瞳で。
「そうだよな、…戦は結局殺し合いだもんな。ほんとはいけないことなんだ。しないですんだら一番いいんだ。…だからみんな言いたがるんだよ、自分たちには仁義があるとかこれは大義の戦だとか」
「…なんだよ、それ」
 何が言いたいのか俺には判らなかった。
「だからさ、…ほんとはいけないことだって心の底では判ってるから、けど、自分が悪いことしてるって考えたくないから…、だから大義とか何とか…」
 ムカついた。
 あんな連中にくそみそに言われて、それでもまだ庇うようなこと言いやがるなんて、こいつはどこまで阿蒙なんだと思った。
「悪いこともしなきゃ生きていけねえのが乱世だろうが! 現実見据える度胸もねえヤツに男を名乗る資格なんざねえよ!」
 怒鳴ってやったけど、あいつは笑ってた。秋の空みたいに笑ってた。
「興覇はほんと、強いよな。…けど、みんなが興覇みたいになれるわけじゃない。俺の背が伸びないのと同じでさ」
 何か言われるだろうとは思ってた、でも、あの時は本当に好機だったからって。
「俺が悪く言われるのはしかたないよ。みんなの望むきれいな勝ち方出来なかったんだから、俺が悪―――」
「お前は何も悪くねえって言ってるだろ!」
「そんなことないさ。もっと頭良かったらきっと、みんなが喜ぶような勝ち方も出来たんだと思う」
 けど、俺は、阿蒙だから。
 そう言って、また、笑って・・・・・


「そん時もそうだったが、…俺アよく思うのよ。こいつの頭ン中はどうなってんだ、ほんとに俺らと同じ生きモンなのかって」
 不当な非難を受けても、ひとことも弁解しない。自分の手柄をひけらかそうともしない。
「だから、天下の名将が目の前にいるってえのに、誰も気づかねえ」
 うーん。でも・・・・
「でもやっぱ、行けっていうのあのひとかもしれねえっすけど、ワーッと行ってガーッてやって勝ってくんのはかしらなんスから…」
 うん。
「俺はやっぱかしらが上だと思うんスけど」
「ありがとよ」
 おかしそうに、かしらは笑った。
「けどよ、それってこの甘興覇を見事使いこなしてるってことじゃねえか。そんなこたあ子明にしか出来ねえ。だろ?」
「うーん」
 そらまあ…そうだよな。お偉い文官さんには水賊あがりがどうのこうのってのもいるけど…あーいう連中がかしらに言うこと聞かせるなんて、無理だわな。
「そうですねえ」
「だろ?」
 だから名将なのよと笑ったところで、陳爺が呼んだ。

「かしらア! メシっすよー!」
「おう! 今行く!」

 甲板から下に降りてくかしらを、青い空がじっと見下ろしていた。

 …天下の、名将、なあ。
 俺より小柄で貧相な人が天下の名将って言われても、ピンと来ねえんだよな。
 あのひとが仕切った戦で俺ら負けたことはねえってかしらは言うけど、…それってかしらが奮戦したからじゃん? あのひとも強いらしいけど、何つったって、東呉水軍と言やあ甘興覇だぜ!
 そりゃさ、あのひとは文官連中に何か言われても怒らねえし、それはまあ相手のことよく判ってるからなんだろけど、…でもって手柄ひけらかしたりもしない、何つの…謙虚?な人柄なんだろけど、かしらは勇敢で男気があって・・・・・

 あれ?

 なんで、判るんだ?
 
 文官連中が仁義の大義のってうるさく言うの、「ほんとはいけないことだって心の底では判ってるから、けど、自分が悪いことしてるって考えたくないから」だなんて…、なんで判るんだよ?
 んな、心の底にあるモンなんて、下手したら自分でも気づかねえぜ? …俺だってよ、なんで自分がそう思うのかとか、皆目わかんねえこと、あるもん。
 なんで判るんだよ。見たのかよ…?

 空が急にもっと高くなったような気がした。

 怖い。
 やっぱ俺、…あのひとは怖い。
 一緒にいたらなんもかも見透かされちまいそうで…、それでどうこうってひとじゃねえってそれは判るけど、それでも、怖い。
 ほら、こういうの、なんてんだっけ…、よく夏場怪談聞かせてくれた裏のじいちゃんが言ってた…、ああ、そうそう!

 この世のものではないような。





 これからも呂蒙のところに鼈を届けに行かなければならないのかと思うと、丁奉はいささか憂鬱になった。
 彼が嫌だというわけではないしよい人だと思ってはいるが…、心の底を見透かされるかもしれないと思うと、やはり何やら恐ろしい。
 だが、…その心配は杞憂に終わった。
 時勢が大きく動き、のんびり鼈など獲っていられる状態ではなくなったのである。
 


 建安19(214)年、春。

 一艘の船が長江を下ってきた。

 黒髪を風に靡かせた、きらめく瞳の女を乗せて。