Act.2
~A.D.212 濡須



 月宮殿てえのは、こういうとっかもしれねえっすね。

 いきなり突拍子もないことを言われ、甘寧は目を丸くした。
「お前、月宮殿ていやあ、楽園みてえなもんだろ?」
 ここ、濡須の…、対曹操の最前線が、なんで楽園になるんだよ。
「いや、…そらま、そうなんですけどさあ」
 言われたわかもの…丁奉という名だが…は、自分でも可笑しいと思ったのか、陽気に声を立てて笑った。
 水の上に、丸い月。きらきら、きらきら、漣が揺れる。
「俺、今まで毎日こんな楽しかったこと、ないっすもん!」
「そっかあ」
「はいっ!」
 きらきら、きらきら。瞳が輝く。敬愛する「かしら」を、じっと見つめる。
 照れくさくなって甘寧は目を逸らした。
「けどほんと、思うんスよ!こんな毎日楽しいことばっかで、なのに腹一杯喰わして貰って、いいのよかよって」
「お前調練遊びか何かと間違ってねえか?」
 からかうように言うと、ぶーと膨れる。
「んなことねえっす!ちゃんと真面目にやってっし…」
「ああ判ってる判ってる」
 甘寧が、目を細める。
 …全く、文珪(潘璋)の野郎。どんな扱いしてやがったんだか。こんないい素質持ってるヤツ、いじけさせちまうなんてよ・・・・・
 これだけ勘がよくて動きもいいヤツだ。頭の回転も速い。大事にしてしっかり鍛えてやれば、先々は船の一艘も任せられる男になるだろうに。
 …そらま、相性っつーのも、あるんだろうけどよ・・・・・
 初めて彼がここに来た時のことを思い出す。
 新入りを珍しがって集まった、水賊あがりの荒くれどもに囲まれて、少年の面影を留める首筋が、折れてしまいそうに細く見えた。
 ごくりと、唾を飲んで。少し、怯えたふうで。それでもまっすぐこちらを見つめてきた目は、まるで、睨みつけているように鋭かった。
 名前を聞くと。
「丁奉。・・・・・です、甘…前部督」
 …あれには爆笑しちまったよなあ。
 思い出しただけでも、笑えてくる。
「何すか?」
 また丁奉が膨れっ面をした。
「あー? お前がここに来た日のこと、思い出してよ。よく喋るようになったもんだってな」
「あー! だって…だってあン時アほら、潘校尉のトコ言葉遣いとか煩かったから…」
 聞けば、貧しい野菜売りの子である彼は、一旗揚げようと軍に入るまでは、「敬語」というものの存在すら知らなかったのだそうで。
 言葉遣いが悪い作法がなってないと殴られても、何がどう悪いのかもさっぱりで。
 そんなこんなが続くうちに、丁奉は、恨みと不信感と反抗心の固まりのようになってしまい、…潘璋としても扱いかねるようになった。
 流石に、機敏で勇敢で、戦場では役に立つ存在だから、長江に叩き込むまではしなかったものの・・・・・
 …言葉遣いで戦が出来っかよ。ンな細かいこたア、おいおい覚えていきゃあいいさ、なあ。
「けどよお前、『です』つける前に二呼吸も三呼吸も間があったんじゃあ…、丁寧に言ってんだかウケ狙ってんだか判りゃしねえや」
「だって潘校尉がかしらは人殺しが好きだからちゃんとした物言いしなかったら殺されるとか言ったからー」
「ま、あいつもしょうがねえヤツだけど」
 前部督にはぶったまげたなと、甘寧はまた、思い出して笑う。
 正直一瞬、誰のことかと思った。
「かしらのことっすよ! ほら一昨日、子明さんが任命したじゃないですか! 次の戦ン時ア頼むって!」
 手下に言われるまで、自分がそうだということなどすっかり忘れていた。
 「前部督」というのは、早い話が、先陣切って敵を切り崩す担当のことだ。
 そう…、自分はいつも、下には自分のことを「かしら」と呼ばせていたし。要するに真っ先駆けて突っ込みゃあいいんだなって…そういう飲み込み方しかしていなかったから。
「若いの、ここでは、このひとは、『かしら』なんだ。職名なんかで呼ぶ奴は、この軍には、いねえんだよ」
 年嵩の兵に教えられたこいつは、ぽかんと間抜けた顔してたっけ。
「『かしら』って、呼べ。じゃねえと、気分が出ねえやな」
 そう言ってやったら、何とも愛嬌のある、いい顔で笑って・・・・・

「けど、ほんと、いいんスか、かしらア」
「…なにが?」
「なんしか俺…、仕事らしい仕事全然してねえって気がすっし…」
「甲板掃除とか一生懸命やってくれてるじゃねえか」
「んなの、当たり前のこってしょ?みんなの船なんだから」

 みんなの船。
 あの、最初の日に言って聞かせた言葉を、身に沁みて聞いていたのだなと。
 甘寧が満足げにほほえんだ。

 ここにいる俺たちは、一蓮托生だ。
 船がやられたら、みんな、一緒にやられる。
 水の上では、上官の命令は、絶対だと思え。
 勝手な真似をして、悪い目が出たら、死ぬのは自分ひとりじゃ済まねえんだからな。
 船も大事にしなきゃならねえ。自分だけの船じゃねえ、みんなの船なんだ。
 船がうまいこと動けるかどうかに、てめエだけじゃねえ、みんなの命がかかってるって、…そう思いな。
 いいな?

「かしら?」
「いや、俺の言うことちゃんと聞いてんじゃねえかと思ってよ」
「そりゃあ、嫌でも判りますよ。喰うもん一緒だもん」
「あ?」
「ほら、前んとこだと、上手いモンは上が独り占めって感じで、俺らみたいな下っ端にまで廻ってこなかったけど…」
「ああ、文珪はもともと陸戦の男だかんな。水軍は一蓮托生なんだ、同じもの喰わねえで、どうすんだよ
「そう、それそれ!メシ喰うたびに、ああ俺らみんな一緒なんだなって思うと、心強いってえか、頑張らなきゃならねえなって思うっつーか」
 それでかよと、甘寧は可笑しくなった。
「それにほら皆も、お前はこれからでかくなるんだからしっかり喰えって、俺の皿にはごっそりよそってくれるし」
 楽しくて、幸せで、夢みたいな暮らしだと、目を輝かせて丁奉が言う。
「そんなによくしてもらってんのに、俺、なーんか全然役立ってねえ気がして…」
「立ってるって」
「けど」
「鼈(すっぽん)取るの、上手いじゃねえか」

 鼈。

「いや、そらま、…かしらの役には立ってっかもしれねえけど…」
「は?」
「どっかに女いんでしょ?」
「はア?」
 甘寧がぽかんと口を開けた。
「鼈喰うってったら決まってっじゃねえっすかあ。ソッチの方の、ねえ?」
 そーいうとこだけは耳年増かよと、甘寧は呆れた。
「あの…別に俺、かしらの役に立つのがやだってってんじゃねえんスよ? けどほら、やっぱこう…、かしらのことばっかやってっと、皆に悪いかなっつーか…」
「あのなあ」
 その…、上官の私用に使われるのではなく、もっと皆の役に立ちたいのだという、…その心根は嬉しいが。
「何で俺に鼈が要るんだよ?!」
「へ?…違うんで?」
「あたぼうよ! 俺が鼈喰わなきゃ女も啼かせられねえ男に見えんのかよっ!」
 うん。…その誤解は、嬉しくない。
「あ…、いや…、見え…ねえ、っすけどー」
「そらま獲って来いっつったのは俺だけどよ、何で俺が喰うって決めるんだ!」
「い、いやだって、獲っても獲っても船のメシには出ねえし、うまいこと獲れた日はかしら必ず夜出かけっし…」
 しどろもどろに言って首を縮めた少年は、自分の方が鼈に見えた。
 甘寧としてももう、苦笑するしかない。
「…お前、喰いたかったのかよ」
 ろくすっぽ妓楼も行ったことねえくせにんなもん喰ってどうすんだよとからかえば、真っ赤になってぶんぶん首を振る。
 …ソッチの方もまた教えてやんねえとな。好奇心でしょうもないこと頭に詰め込んだら、ろくなことはねえ。
 雰囲気に流されてそのへんの民に手でも出したりしたらえらいことになる。孫軍はそのあたり、軍紀が厳しいのだ。
 だが、今は、それよりも。

「俺が喰うんじゃねえ。喰わせなきゃならねえヤツがいるんだ」
「そうなんすか?」
 だから俺にンなもん要るかよと言ってやれば、すんませんとまた首を縮める。
「おう。…躰弱いくせに無理しやがる馬鹿がな、幹部連中の中にいてなあ」
 きらきらする目をぱちぱちさせて、じっとこちらを見つめてくる。
 切れ長といえば聞こえはいいが、下手をすると悪相にも見える、目尻の吊り上がったやや細い目。
 その目はもちろん、あのおおきな瞳とは違っていたけれど、…表情が、どこか、似ていた。

「てめえのことちっとも構わねえで、みんながどうしたこうしたのって、他人の心配ばっかしやがるヤツがな…」

 甘寧がつと、月を見上げる。

 そうだ。あの瞳は。
 あの満月のようにまあるくて、どこまでもどこまでも、綺麗に澄んで。
 どこか、こう。
 この世のものではないような・・・・・

「お前も覚えとけ。上に立つヤツってなあな、てめえのこともちゃんと構わなけりゃあ…、病にでも倒れたら下だって困るんだ」

 他人の心配してりゃいいってもんじゃ、ねえんだよ。

 陽気な「かしら」らしからぬ苦々しい口調を、丁奉はいつまでも覚えていた。





 その年の夏はえらく暑かった。
 このままでは干ばつになるのではと皆が心配し始めたところで、雨乞いがききすぎたのか、大雨が降って。
 収穫がいまひとつだったところに、曹操軍がやってきた。
 軍は結局、ひと冬居座り。
 甘寧以下の奮闘と呂蒙の献策した保塁が役立って、曹操が諦めて都に引き上げた時には、もう、年は明けていた・・・・・






 承淵。承淵。承淵。
 甲板に飛んできた水飛沫で、指を濡らして、何度も書いた。
 書いているだけで顔がにやけてくる。
 まさか自分が字を持つ身分になるとは思わなかった。
 「丁承淵」と続けて書けば、誇らしさに胸が躍る。顔が、勝手に笑う。
 丁奉は、上機嫌だった。

 このたびの濡須の攻防戦で。
 呉軍は菫襲という頼りになる男を失った。
 江夏の戦いで決死隊を募り、黄祖の蒙衝を流してのけた、…あの男である。
「戦で死んだんなら諦めもつくが、…船がひっくり返ったってえんじゃなあ。幾らてめえが進言して作らせた船だからって、さっさと見切りつけて逃げてりゃあ、命までなくすことはなかったろうに」
 船の代わりは幾らも作れる。けど、あいつの代わりがどこにいるってんだよ。
 苦々しげに吐き捨てた甘寧の顔が、全ての事情を語っていた。
「けど、船長(ふなおさ)は最後まで船に残らなきゃならねえって、かしら、言ってたのに…」
 こっそり首を傾げた丁奉に、教えてやったのは、年嵩の…皆から陳爺と呼ばれている男。
「そらアお前、手下見捨てて逃げんなって意味よ。船と心中しろってことじゃねえや。お前、戦の最中だぜ? 心中すんなら敵大将との方が気が利いてらアな」
 船なら、よほど何か凝った船でもない限り、作るのに一年も二年もかかることはない。だが、経験豊富な優れた指揮官は、一年や二年では育たない。
「そらま、そうだけど…」
「子明さんも言ってたよ。あれはただの意地っ張りだ、あン人は意地っ張りだからみんなの前で自分の言葉が間違ってたって認めるんだったら死んだ方がましだって思ったにきまってる、責任取ったとか忠義だとかってもんじゃねえってな」
 船の上に楼台を立てれば矢が射込みやすいだろうと、殿に進言して新型の船を作らせたのは、菫襲だった。
 だが、横風の影響は、彼の予想を超えていた。
 果たして、新型の船…五楼船は、あの時化の日に次々に覆り・・・・・
「葬式で殿が何て仰有ったか、お前も聞いたろう? 本当に俺のことを思うなら…、なんで帰って来てくれなかったって」
「うん」
 そう言って涙を流した孫権の姿は、痛ましいのひとことに尽きた。
「命を張るってえのとな、命を粗末にするは違うんだ。今夜の夜襲も、調子に乗ってひとりで突っ込んだり…」
「しねえよ」
 俄に膨れ面になった若者を、陳爺は愛おしげな眼差しで見やった。
「この手の奇襲ってなあ引き際が肝心なんだ。そいつは口で教えられるもんじゃねえ、躰で覚えるんだ」
「うん」
「かしらはお前に、手柄立てることだけじゃねえ、いい将になって欲しいって期待してんだよ。だからお前を連れてくんだ」
「かしらが…」
 丁奉の顔が、ぱっと輝く。
「そうよ。腕だけならまだお前が勝てねえヤツは、うちには幾らもいるだろ? それでもお前連れてくってえのは、お前を育てるためだ」
 だから、な。
「元代さんの二の舞踏むんじゃねえぞ! 育ててる途中で死なれたら、かしら、がっかりするぜ!」
「うんっ!」

 そう。
 菫襲の死で下がった士気をあげるため、孫権は甘寧隊に敵先鋒への夜襲を命じ・・・・・



 …俺、頑張ったもんなっ!
 もう一度、承淵と書いた。奮闘した自分に、「褒美だ」と、かしらがつけてくれた字。
 そんなのは学のあるお人が持つもんで、ろくすっぽ字も書けない自分には縁がないものだと思っていたのに。
 …お前の度胸は大したもんだ、腕もずいぶん上がったじゃねえか、この分ならそのうち船一艘任せられんな、って。
 一隊を率いる隊長ともなれば、字があった方が箔がつく。自分でつけるかと聞かれたが、そんなものつけられるほど文字を知らない。
 そう言ったら。

「承淵ってのは、どうだ?」

 …めちゃ、ぶっきらぼうに言われたから。最初、怒られてんのかと、思っちまった。
 承は、「奉」と、同じ意味の字で、捧げ持つとか何とか言う意味だそうだ。淵は、奥深くって静かだという意味で
 …俺には全然合ってねえじゃん、って思ったけど。
「お前はちっとぐらい静かになった方がいいぜ?それに、淵って字には、いろんなもんが集まるって意味もあんだよ」
 みんなにかわいがられて、いろんなもんがお前んとこに集まってくるように。目に見えるものも、見えないものも、そうやって集まったものを、お前が大事にするように。
 …すんげえ怖い顔で壁睨んでそんなこと言うから、何か俺どんな顔していいんだかわかんなくなっちまって。けど、前のところで、何かっちゃあ無礼者って拳骨が飛んできたのが身に沁みてたから。
「あ…ありがと、ございます」
 …そーっと言ったら、かしらの顔、まっかっかになったんだ。
 最初、何がなんだか判らなかったけど。
 …かしらってば、照れてやんの。
 思わず顔がにへらってなった。そしたらまっ赤な顔のままで、「馬鹿野郎!」って怒鳴られた。
 すっ飛んで逃げたけど、嬉しくて嬉しくて、その日は一日、足が踊ってた。
 今だって、嬉しい。
 憧れのひとに認めて貰えたんだ、嬉しくないわけ、ないだろ・・・・・



「偏将軍…、やっぱ、具合悪いんで?」
「と、思うぜ。痩せたしな…」



 不意に、岸から、声が聞こえた。
 …陳爺と、かしらだ。
 思わず丁奉は耳をそばだてた。
 …偏将軍って、呂子明殿だよな?
 あの夜襲から引き上げて来た時、陣門までわざわざ出迎えに出てくれて、「誰も怪我してないか?」て本気で心配してくれた、小柄でおおきな目をしたひと。
 …身分のある将軍だってえのに、こっち見下したりってとこ全然なくて。ほんといいひとだよなって、俺でも思った・・・・・
「また仕事がよ。子敬の具合が悪くなってから、あいつ、何でも自分が引き受けちまうから。座り仕事なんざろくすっぽ出来もしねえくせに」
 かがみ込んでいる自分には気づいていないのか、低めた声はそのまま続く。
「成や宋や徐の家族の心配してる場合じゃねえってのに、あいつ、聞かねえから」
「戦友の遺族の面倒みてやるなんて、いいひとじゃないですか」
「てめえの心配もちいとはしろってんだよ」
 どこかで聞いた台詞だと、丁奉は思った。
「そら…まあ、そうですが。ああ、今度皖城も落とさなきゃとか言ってましたよねえ。そんな連戦で大丈夫なんですかい」
「元代がいなくなっちまったんだ。イキのいいヤツなら幾らもいるが、城落とすってなりゃあ頭も使う。あいつくらいしか出来るヤツいねえだろ」
「義封(朱然)殿とか…」
「あいつは豪族の…朱家のヒモつきじゃねえか。今の殿は…、豪族連中信用してねえからな」
「周家の一件が祟ってますねえ」
 一体全体、何の話か。丁奉には全く判らない。
 …これってやっぱ、俺が学問してねえから?
 字をつけて貰った時、「報告書のひとつも書ける程度には、学問もしとかなきゃ、馬鹿にされんぞ」と言われた。
 座ってやることだと思うだけで背筋がむずむずするから、返事だけして放っておいたけど。
 …やっぱ、学問て、要るのか?
 憧れの「かしら」の喋ってることが、全然まったく判らないでは情けない。しかし…考えただけでも気が滅入る。
 …ま、あとで考えよ。
 丁奉は耳に神経を集中させた。
「ここんとこ殿が何考えてんだか、いまいち俺にもわかんねえんだ」
 甘寧が溜息をついている。。
「わからねえが…、仕官の口きいてくれた奴が、あの碧眼児に殺されかけてんだ。放っとくわけにも、いかねえだろ」
 …うわー。殿のこと、あんなふうに言っちゃって…、いいのかよ。
「かしらは義理堅いねえ…」
 陳爺が、喉で笑った。
「また丁のヤツ…じゃねえや、承淵ですね。あいつに鼈取らせますかね」
「そうだな。…今度から直接持って行かせようか。あいつ、なかなかやるからな。上に行けそうなら、顔、繋いどいて悪いこたねえだろ」
 上に行けそうなら。
 その言葉にまた、胸が躍る。だが・・・・・
 …直接? ってことは・・・・・
「あいつ行かせんなら、頭、よっぽどよーく口止めしとかねえと。あいつはおしゃべりだから…。偏将軍の具合がよくないのは、内緒なんでしょう?」
「ああ。参謀どのもその補佐も病人だなんてことがバレたら、士気がガタガタになっちまうからな。でなきゃ、そのへんの漁師からでも、買えるんだが…」
「病人てこたねえでしょうけど…、あん人が元気ないんじゃ確かに・・・・・」
「だと、いいんだが」
 甘寧の声に、陰があった。
「かしら?」

「俺が怖いのは…、あいつが労咳じゃねえかってことなんだ。咳が…もうずっと、止まってねえ・・・・・・」

 丁奉は、思い出した。
 労咳の特効薬は、鼈だと言われていることを。

 じゃ、…あの、鼈は・・・・・


 お前も覚えとけ。上に立つヤツってなあな、てめえのこともちゃんと構わなけりゃあ…、病にでも倒れたら下だって困るんだ。
 他人の心配してりゃいいってもんじゃ、ねえんだよ。


 …あれは、かしららしくねえ、なんだかひどく苦い口調だった。
 あン時かしら、偏将軍のこと考えてたのか。

 丁奉はそっと、眉を寄せた。

 …かしらにとって偏将軍は、そんなに大事な人なんだ。
 仕官の口がどうとか言ってたけど・・・・・。
 にしても、労咳って。
 …それ、死病じゃん。

 あのひと…、確かに顔色悪い気はしたけど・・・・・


 ・・・・・命を張るってえのとな、命を粗末にするは違うんだ。


 心に蘇った、陳爺の言葉。
 そうだ。…ほんと、そうだ。
 菫将軍がいなくなっちまったから、呂将軍が無理しなきゃならなくなってる。
 で、呂将軍が無理して倒れちまったら…、かしらが、いやかしらだけじゃねえ、下にいるみんなが困る。
 命ってのは、自分だけのもんじゃねえんだな。
 怖いもの知らずで突っ込みゃあ何とかなるとか、…そゆのは下っ端の話なんだ。人の上に立とうと思ったら、それじゃあ、ダメなんだ。
 …学問するとそゆことも判るようになるのかな。
 じっと座って文字を書くというだけで、ぞっとしないものを感じるが。
 …俺、もう、ただの丁奉じゃねえもんな。何たって承淵なんだもんな!
 かしらの期待に、応えたい。みんなの助けになる人間になりたい。
 だが。今できることは・・・・・

 …頑張ってでっかい鼈探すぜ!
 呂将軍に元気になってもらって、かしらが心配しねえでもいいようにしなきゃ・・・・・


 どこまでもまっすぐ前を見つめる瞳で、丁奉はこくりと頷いた。