蒹葭の葉は蒼蒼として
白露はいつか置く霜
あわれわが思える人は
大川の水の彼方に
川のぼりゆかむとすれば
道とおみ至りもやらず
川くだりゆかむとすれば
おもかげは水のさ中に

（中国の名詩１　『うたの始め　詩経』より　「蒹葭」第一連　目加田誠訳・平凡社）

Act.5〜A.D.212　濡須

　蒹葭蒼蒼たり
　白露霜と為る
　謂う所の伊の人は･････



「何だよそれ」
「ん？」
　きょとんと見上げてきたおおきな瞳に、甘寧は思わず苦笑していた。
　きっと自分が恋歌歌ってたことなんか、こいつは全然気づいていないのだろう。
「お前さあ、鼻歌歌いながら保塁（塹壕みたいな防御拠点…だろう、多分）の縄張り監督してるって、幾ら何でも敵さんに失礼じゃね？」
「えっ」
　ぱあっと真っ赤になった呂蒙の顔を、未だ無頼の色を濃く残す顔が、意地の悪い笑みで見下ろした。
「しっかりしてくれよ。お前の進言なんだろ、保塁作って退却路確保って…」
　最初から負ける時のことを考えてどうするなどと、血気に逸る連中は言ったらしいが。
　張遼の騎馬隊の疾さはただことではないと、呂蒙が頑として譲らなかったと聞いた。
「え、あ、うん」
　真っ赤になって狼狽えている姿からは、とても想像出来なかったが･････
　…いい軍師になったじゃねえか。
　周瑜の亡くなった穴を懸命に埋めようと、夜も遅くまで兵書などを読んでいるのを、甘寧はよく知っている。
　だが、困ったように見上げてきたおおきな瞳は、以前と同じように、やはり、澄んで。
「俺、…歌ってた？」
「歌ってた」
「うわ俺何やってんだ」
　耳まで夕陽の色にしてぶんぶん首を振るあたりも、初めてあった頃と変わらない。
　…これが、夷陵攻略の功で偏将軍にまで出世した男だってんだからなあ。
　見ているだけで笑いが込み上げてくる。
「しかもお前、恋歌だったぜ？」
「恋歌？」
　惚れた女でもいるのかよと、からかいかけた言葉は。
「あ、あれか」
　不意にくしゃりと顰められた顔に、唇の上でかき消された。
「…子敬さんの、伝染ったかな」
「はあ？」
　子敬…魯粛といえば、「女なんざ閨の玩具か子供産ませる以外の役には立たねえ！」と平然と言い切る、…そのくせ酒と「閨の玩具」が大好きで、荊州を任せられた今でも妓楼通いをやめない、…豪気というのか不埒というのか、まあ、いかにもな男である。
「あいつが、恋歌を？」
「そうだよ、でもこれ詩経とかいうありがたい本に載ってるありがたい歌なんだって」
「…ありがたい、恋歌ねえ」
　恋歌にありがたいもくそもあるまいと思うのだが。
「酒呑みながらずっと歌ってるから、何なんですかって聞いたらそう言われた」
　ちょっと忌々しげな顔になったのは、どうせまた、阿蒙呼ばわりでもされたのだろう。
「けっこう、いい歌だよ。俺、最初んとこしか覚えられなかったけど…」

　　蒹葭蒼蒼たり
　　白露霜と為る
　　謂う所の伊の人は
　　水の一方に在り
　　遡��して之に従えば
　　道阻りて且つ長し
　　遡游して之に従えば
　　宛として水の中央に在り

　少し掠れた声で低く口ずさみながら、川面を見つめたおおきな瞳は、ついぞないことに、寂しげで。
　甘寧の眉が、僅かに寄った。
「なんだよ。惚れた女でもいるのか、お前？」
　からかってやるつもりで用意した言葉はもう、諧謔にはならないような気はしたけれど、何か、その場の雰囲気が、嫌で。
　出来るだけ軽い口調を作って、早春の空気に乗せてやる。
「えー、いるわけないじゃん、そんなの」
　呂蒙はにこりと笑ったけれど、…ああ、やはりどこか、寂しそうだ。
「でもさ、なんかこれ…、ひめさまのこと歌ってるみたいな感じするだろ？」
　甘寧の眉間の刻まれた皺が、ぐっとその深さを増した。
　ひめさま。弓腰姫。
　３年前、劉備との同盟を固めるために…正確に言えば劉備をこちらに取り込むために、江をのぼって嫁いで行った、主君・孫権の妹。
「…ああ」
　思った以上にぶっきらぼうな答えが、甘寧の口から飛び出した。
　…ああいうのは、好かねえんだ。
　婚姻で家と家との絆を深める。よくあることだ。あることだが。
　…なんか、薄汚ねえ気がする。美人局と変わらねえじゃねえか。
　この女を抱かせてやるからこれこれのことをしろと…、美人局の場合はまあカネをせびるわけだが、今回の場合、やっていることは実質的にそれと変わらない。
　俺の妹をやるから言うことを聞け、孫家の敵に廻ろうなどとは思うな…、あれではそう言ったも同然だ。
　…まあ、子敬にとっちゃ、女ってえ女はみんな玩具か道具かそんなもんみてえだから、あんな策出したのかもしれねえけどよ･････
　主家の女となれば、いってみればこちらの身内も同然。身内の女に春をひさぐような真似をさせるのは、･････。
　…商売女買ってる俺が言っても説得力ねえか。
　舌打ちをして肩を竦めたところで、呂蒙が首を傾げて言った。
「子敬さんひめさま好きだったのかな？」
「はあ？」
　何を言い出すのだこの阿蒙はと、甘寧が思い切り顔を顰めた。
「なわけねえだろ？お前、惚れた女人身御供に差し出す男がどこにいるよ？」
「人身御供って」
　むっと呂蒙も顔を顰める。
「そんな言い方、ないだろ？」
「実際そうじゃねえか」
「･････そうだけど」
　確かにそれは、否定できない。
　いつもあかるい声を寂しげに曇らせ、呂蒙が足元の石を蹴る。
「けどな。…ひめさまに辛い思いさせただけで、策、うまく行きそうにないの…、子敬さん、辛いんじゃないだろうか…」
「･････。」
　甘寧は、返事に窮した。
　そうだ。劉備を取り込もうという策は、どうもうまくいかなかったらしい。
　現に劉備は姫を荊州に置き捨て、益州の劉璋の求めを容れ、その傘下に入ったという。
　今のところ益州とこの国との関係は悪くないが、…しかし、そちらに基盤を見つけるのなら、荊州はこちらに返すべきではないか。
　烏林で曹操軍を破ったのは自分たち東呉水軍だ。南荊州の攻略を許したのは、あくまで姫の夫に対して…孫家の身内に対してだ。
　力ずくで阻止することが出来なかったわけではない。あの時柴桑には一万いた。たとえば陸家や顧家の兵を合わせれば…。
　それをしなかったのは、許したのは、この先も孫家の傘下に留まると…、文書を交わしたわけではないが、その了解あってのことではないか。
　孫家の傘下を出るというのなら、あの土地は返してもらって然るべきだ。
「ひめさま、こっち、帰ってくればいいのに」
　ぽつりと、呂蒙は言った。
「劉備の奴、また漢の血筋だとかなんとかいって、益州乗っ取る気だよ、あれ。
「そっかあ？」
　甘寧が、首を傾げる。
「曹操が漢中抑えちまったから、何でもいいから力貸してくれる客将が欲しいって…、そゆことじゃねえの？」
「子布どのとかもそう言うけど…、俺、違うと思う。劉備は自立したがってるんだよ」
　勘だけどな。
　そう言って苦笑した顔は、やはりどこか子供じみていたけれど。
「お前の勘は馬鹿にならねえからな」
　そのことはこれまで嫌というほど思い知らされてきた甘寧である。
「子敬にもそのこと言ったのか？こっち来る前、会ったんだろ？」
「うん」
　呂蒙がこっくり頷き、また顔を顰めた。
「子敬さんもそんな気がするって言ってた」
　…んだよ儂の考えるこたあ阿蒙と同じかよ。いや、もう阿蒙とは呼べねえってことか。
　不機嫌の極みのような顔で吐き捨てた、あの日の彼が目に浮かぶ。
「そうなった時に、劉備がこっちの味方してくれるかどうかなんて判らないだろ？上流抑えられたら、俺たち…」
「ああ」
「だからさ、ひめさま呼び返した方がいいんじゃないか、そう殿に言おうかって言ったんだけどな…」
「そしたら、何てった？」
「出来ないって。だったらなおさら何でもいいから繋がり残ってる方がいいって。今こっちから繋がり切るようなことしたら、この先敵対するってことが決まっちまうから駄目だって」
「あー」
　確かに。それは、そうだが。
「あのお姫さんはうちのばあちゃんに似て女だけどしっかりしてるから、いざとなりゃあ閨で劉備の首かっ切るくらいはしてくれるだろって」
「…なんでそこであいつのばあちゃんが出てくんだよ」
「知らないよ。…てかさ、それじゃひめさまだって生きて帰ってこれないだろ？だからな、俺、殴ってやろうかと思ったんだけど…」
「はあ？」
　戦場以外で人に暴力を振るう呂蒙など想像もつかず、甘寧が目を丸くした。
「喧嘩、売ったのか？」
「違う違う」
　慌てたように振られた手。去年より少し小さくなったように見える、日焼けして、骨張った手。
「殴れなかったんだよ。子敬さん、すっごく辛そうな顔で窓の外見て…、それで、あの歌歌ったから･････」

謂う所の伊の人は
水の一方に在り　

　まさかと、甘寧は思った。
　自分の策がうまくゆかず主家の姫君をややこしい立場に落とした…、魯粛がそれを悔やむのは当然だ。
　だが。
　そう口ずさんだ呂蒙の声は、水の面に逸らされた瞳は、こちらの胸が痛くなるような何かを孕んでいたから。

　…ひょっとして「ひめさま」に惚れてんのって、こいつの方なんじゃ･････

「ま、とにかくそっちややこしくなるかもしれないんだったら、曹操はきっちり押し返さないとな」
　頭に浮かんだそのことが、あまりに哀れだったから。
　甘寧は目の前の現実に無理矢理思考を引き戻した。
「うん、そ、だな」
　こほこほこほ。
　返事と一緒に。
　枯葉をこすり合わせたような妙な咳が、呂蒙の口から零れ出る。
「んだよ、あのカゼまだ直ってねえの？」
「うーん。咳だけ残ったみたい」
　顔を顰めた呂蒙が口元を拭う。
「こじらしたのが悪かったな。気イつけろよ。今日はなんか寒い…って」
　げっと、甘寧が舌打ちをした。
「おいおい！降ってくんなよもう暦じゃ春だってえのに！」

　うすぐもりの空から零れてきたものは、季節外れの、白い、白い･････

「雪？」
　おおきな瞳が空を見上げ、白い軌跡をぼんやり追う。

　形ばかりは大きく、けれど、どこかたよりなくはかなげなそれは、ふらふら川面に引き寄せられ、落ちた途端に、溶けて、消えた。

「はかないな」



　ぞっと背筋を駆け上がったのは、寒さが呼び起こしたものではなく。



「おーい！お前らもう今日はやめだやめ！」
　気がついたら兵に怒鳴っていた。
「お、おい！　興覇！」
「んだよ？雪まで降ってきやがったんだ、このクソ寒いのに兵が可哀想だろ？」
　荒い調子で紡いだ息は、確かに白く。
「あ、…う、うん、そうだけど…、じゃあ俺と」
　甘寧の眉が険しくなった。
「俺とお前でとかたわけたこと言うなよ？偏将軍さまに居残られたんじゃあ、兵だって帰れやしねえや」
　…早くぬくいとこ行かせてえのは兵じゃなくてお前なんだよ、気付けよこの鈍感が。
「…そういうもんか？」
「そういうもんだ」
　頭からびしっと決めつけた。
　本当のことを言ったところで呂蒙が聞き入れないだろうということは、長いつきあいでよく判っている。
　兵の為だと言い張れば、折れてくるだろうと言うことも。
　案の定。
「じゃ、今日は切り上げよう。明日また頑張ればいいよな」
　にこにこ嬉しそうな笑顔を浮かべ、呂蒙は素直に頷いた。
　その唇から、また、枯葉の音。
「なんだかんだって興覇優しい…」
「うっせーんだよ」
　引きつった口元を見られたくなくて、勢いよく顔を背けてやった。
「そんな照れることないだろ？」
　可笑しそうに、呂蒙が言う。少し掠れた、でも、あかるいいろの声で。

　…照れてんじゃねえだろが！　…まあ、そう、思ってろ馬鹿。

　言える、訳がない。
　


　…お前が…、お前が死んぢまうんじゃないかって思ったなんて･････



「かしらあ！」
　いいところで、声がかかった。
「あん？」
「潘将軍とっから若いの一匹来てんスけど！　なんかこっち来ることなったとか」
「おう！今行く！」
　勢いよく手を振っておいて、甘寧が呂蒙に向き直った。
「てことで、俺ア行かせてもらうぜ」
「若いのって…、あの、文珪（潘璋）が反抗的で手に負えないってってたヤツ？」
「ああ」
「大丈夫なのか？もし…」
「俺に逆らえるヤツがいると思うのか？」
　にっと笑って見せると、また、にこりと返す。
　いったいどうしてその笑みが、そんなに儚げに見えるのか。

「だよ、な。興覇だもんな」

　…ああ、そうよ。
　俺に平気で逆らえるなんてのはな、お前くらいのもんだよ、子明。

「お前もさっさと引き上げろよ？あったかいもんでも喰って、早いとこそのカゼ治さねえと」
　咳込みながら戦なんざ出来やしねえぞと言えば、呂蒙は笑って頷いたけれど。
　どうせまた、一番最後まで残って、作業の進み具合を確認してから帰るに決まっているのだ。

　…あの、咳･････

　あの咳だ。あれが悪いんだ。
　あれはまるで、…いや、まさか。

　己の船へと急ぐ背を這う、何とも言えぬ、不吉なもの。



　…あいつ、まさか…労咳じゃ･････



　季節はずれの雪がまた、川の面に落ちて、消えた。