Act.5〜A.D.210 長江
それはとてもおだやかなはるのひで
「危篤?!」
凍りついたようなおおきな瞳に、軍医は冷厳な事実を告げた。
「はい。…ご容態が、急変いたしまして…。ご家族にすぐお知らせになった方が」
「そ…っか…」
ふと、軍医が訝しげな顔をした。
江陵で周都督の病を知った時あれほど取り乱したこの人が…、確かに悲しそうな目はしているけれども、このたびはひどく冷静で。
「判った。…ありがとう。あ、程公には…」
「もうお知らせいたしました。…ご家族への使者は、日頃お親しくしておられる子明殿からお出しになる方がよかろうということで」
「そっか。…そうだね」
ありがとう。
もう一度言ったその人は、寂しげに微笑んでみせさえしたのだ。
「ヘンだよな、俺。…もっと…悲しくなると、自分でも思ってたのに…」
訝しげな視線に気づいたか、呂蒙が軽く肩を竦めた。
「なんかさ…、もう公瑾どの苦しまなくていいんだ、無理して益州攻めなくっていいんだって思ったら…、ほっとしちゃって」
ああ…そうだったのか。
…あの病はかなりに苦しいものだと、誰かがこの人に教えたのだろう。
呂蒙の言った「苦しむ」はそのことだけではないのだが、軍医はそんな事情は知らない。
いかにも医者らしい解釈をして、納得したように頷いた。
…益州のことも…、程公も仰有っていた。これで無駄な血を流さずに済むと。そうかもしれない。かなりに難しい戦、いちかばちかの賭けになるだろうことは、初めから判っていたのだから。この軍は、殆ど周都督の気迫に引きずられるような形で出陣した軍だ。その、帥将を失ったら・・・・・
彼が死んでほっとしたというのが、多くの者の本音なのかもしれない。
だが…それでは…
軍医のやるせない溜息は、おだやかな春の日に溶けて、消えた。
哀れよな。
江東の美周郎と呼ばれた男が、そんな感情でしか送ってもらえないなど・・・・・・
それはとてもおだやかなはるのひで
文を書くのは、すごく、暇がかかった。
公瑾どのたぶん奥方に病気のこと言ってないと思うし…、なんて言っていいのか判らなくて。それでなくても俺、文章書くの苦手なのに。
間に合うかなあ。
奥方とかちびさんたちとか…、死に目に会えるかなあ…。
興覇、「俺が行ってやらあ」って言ってくれたけど。…公瑾どの、あんなに興覇に辛く当たったのに。
そう言ったら笑ってた。「俺の船なら間に合ったかもしれねえのにって、あとで言われるの、ゴメンだからな」って。
奥方は目エ剥くかもしんねえけどって…、陽気に手を振って飛び出してった。
あんなこと言ってたけど、奥方やちびさんにひと目でも会わせてやりたいって、あいつ、そう思ってるんだよ。俺には判る。
うん。興覇の船は東呉一速い。それで間に合わなかったら…、誰が行っても駄目だったってことだ。
もし駄目でも…それなら奥方だって諦めてくれるだろう。俺たちが精一杯のことしたんだって、きっと判ってくれるだろう。
うん。
ほんと…、いい奴だよな、興覇…
さ。
それより俺、公瑾どのんとこ、行かないと。
おだやかな春の回廊に、ぱたぱた響く、軽い足音。
誰かついてるだろうとは思うけど、一番気心知れてるの、俺だもんな。俺になら何かしてほしいことあっても、遠慮なく言えるだろうし。
ずうっと、一緒だったんだもん。
俺がこの軍に来た時から…、いいや、そうじゃない。大将に初めて会ったのは、その前だ。かあちゃんと呉のねえちゃんとこ目指して旅してたとき。
いきなりうしろから駆けてきた騎馬。すんごい勢いで、かあちゃん、よけらんなくて…。
でも、公瑾どのはちゃんと馬止めて、かあちゃんに謝ってくれた。俺たちみたいな貧乏な小作、もっとひどい扱いされるのが普通だったのに。
きれいだったな…、あんときの公瑾どの。白い馬に乗って、なんか天人みたいで…、そして、すんごく生き生きしてた。
あとで聞いた。あれ、旗揚げした殿んとこ行く途中だったんだって。嬉しくて嬉しくて踊り出したいのをいっしょうけんめい我慢してる…、あの時の公瑾どの、そんなふうに見えた。
ほんとにあのふたり、仲、よかったもんな。
その殿を自分のせいで死なせて、公瑾どのどれだけ辛かったろうと思うと…、どうしても天下取って殿に捧げなきゃって思い込んじゃったの、判る。
だから俺…、益州出兵、危ないと思ったけど…止めらんなくて…。もう、俺が全部出し切って頑張って、公瑾どの助けるしかないって思って…。
そ、だよな。伯言が言ってたけど…、あんときは、仲謀さまにうちが纏めきれるかどうか、誰にもわかんなかったんだもんな。
ことがそうなった以上、自分が乗っ取ってでも殿が作ったもの守らなきゃって、公瑾どのそう思ったんだ。今更だけど、…俺には判る。
俺が公瑾どのには一番近いんだから。
だから公瑾どの、周家の陰謀に乗ったんだ。乗りたかったからじゃなくって、そうしないと内乱になって仲謀さまが殺されるかもしれないって思ったから。公瑾どのだって仲謀さま死なせたくなかったに違いない。
だいいち実際、伯言、言ったもん。あの時、陸家は…
伯言が・・・・・
「あーっ!!」
突拍子もない叫び声が、春の光を震わせた。
…なんて、ことだ!
俺…ああ俺、阿蒙だ!馬鹿もいいとこだ!なんで…なんで気づかなかったんだこんな大事なことに!
公瑾どのは…、公瑾どのは・・・・・
「公瑾どのーっ!!」
病室には似合わぬ大きな叫び声とともに、小柄な身体が飛び込んできた。
「出てけっ!二人だけにしてくれっ!」
その、口調。その、気迫。
そこにいた者たち…、周峻が軍医が巧曹のホウ統が、咄嗟に何の返答も出来ず、思わず従ってしまったほどの。
扉が閉まるのを待ちかねるように。
もはや意識も定かならぬ病人に向かい、呂蒙は一息にまくしたてた。
「公瑾どの仲謀さま助けたんですよっ!」
「子…明…?」
その気迫に押し上げられるように、閉ざされていた瞼が僅かに開く。
その瞳に向かって呂蒙は言った…、いや、全身で叫んだ。
「公瑾どのが全軍連れて戻らなかったらあの日陸家決起してたんです!俺伯言に聞いたんですっ!仲謀さまあの日に殺されてたんですよっ!!」
だから。だから。だから。
「だから公瑾どの自分責めなくていいんです!公瑾どのちゃんと孫家助けてたんです!公瑾どのがほんとに願ったことは、ちゃんと、叶ってたんですよ!!」
ほんとうのほんとうに、願ったこと。
第一の親友が築いたものを、彼の家族を、守ること。
そうなんだ。
その願いはちゃんと、叶ってたんだ。
だって…、もしあの時陸家が決起してたら、親の仇の孫家の人なんて、絶対生かしておくはず、ないもの!
公瑾どのは周家のたくらみに乗ったことで、仲謀さまのこと、助けてあげてたんだ! 殿のだいじなひとたち守りたいって公瑾どのの願いは、ちゃんと天に聞き届けられてたんだ!
ああ。
どうしてもっと早くこれに気づけなかったんだろう!
そうしたら公瑾どのはもっと早く楽になれたのに。こんな命を削るような軍旅、起こさなくて済んだのに。こんな軍陣じゃなくて柴桑の家で、家族に看取られて静かに死ねたのに。
俺は…、俺は、…おれは・・・・・
ぼんやり霞んだ視界の中。
呂蒙の姿だけが、はっきりと見えた。
なぜだろう。
それは見慣れた武将の姿ではなく、初めて会ったあの時の、襤褸を纏ったがりがりの少年の姿に見えた。
そして。なぜか。
彼の内側から光が放たれているようで。
彼から放たれる穏やかな光が、部屋の中を満たしてゆくようで。
まるで彼が天の使いか何かででもあるようで。
「ごめんなさい、ごめんなさい!俺がもっと早く気づいてたら…!」
なぜ、謝る?
何の関係もないお前が、なぜ、そんなに謝る?
そんなに必死の顔をして。そんなに一生懸命になって。
「あれでよかったんですよ!全部!だからもう…、いいんです…!公瑾どのの気持ちちゃんと天に届いてたんですよ!」
…あれで、よかった?
おい…子明!
お前は…全て知っていたのか?
全て知っていて…、それでもまだ、この私を許してくれると言うのか?
どうして…そんなことができる。
私はお前の大事な殿を殺したのだぞ・・・・・
「ご本家は漢朝の臣でしょう!帝攫ってくとか言われて慌てたの当たり前ですよ!誰が悪いってんじゃないんです!殿だって…殿だってもう判ってます!それにあの殿の性格、公瑾どのだってよく知ってるじゃないですか!恨みだか何だか知らないけど、そんな、10年もじっと持ってられる人じゃないですよ!」
…ああ。
そうだ。…そうだったな。
伯符は…そういう奴だったな。
そう…なのか?
私は…許されていると、信じて、…いいのか?
「信じてください!殿、絶対怒ったりしてませんって!」
ああ…、きっと、そうだな。
天の使いが言うことだ。きっと…その通りなのだろう・・・・・・
「あっちはあっちで楽しいこといっぱいあるだろうから、殿、もうきっと全部忘れてます。公瑾どの来たら一緒に遊ぼうって、あの頃みたいにきっと、待ってますよ。だから…、安心して…」
安心して、逝ってください。
おおきな瞳が涙をこぼす。
…泣いてくれるのか。私の為に。
私などの為に泣いてくれるのか。
この子はほんとうに天の使いなのかもしれない
天が東呉に遣わしてくださった 天の使いなのかもしれない
ああ きっとそうだ そうなのだ
だから
この子の母親を蹄にかけ 顧みることをしなかったわたしから 天の加護は離れてしまったのだ
そうだろう
わたしはあの時お前にとんでもなくひどいことをしただろう
なのに 子明
どうして…お前は・・・・・
「だって俺公瑾どの好きですから!どんなことがあっても、何したんだとしても…」
それでも俺みんな好きですからと、天の使いは泣きながら言った。
「殿も仲謀さまも公瑾どのも、みんな、みんな、好きですから…っ!」
だから
もう いいのだと
すべてはゆるされているのだと
それはとてもおだやかなはるのひで
・・・・・死に顔はただ穏やかであったという。
泣いたのは。呂蒙だけではない。
周公瑾の葬儀の日もまた、穏やかに晴れた日であった。
こんな日に死にまつわる儀式を行うことが、天への冒涜のように思えてしまうほどに。
その日の、黄昏。
幻が揺らめくかのように、江の岸に現れた人影があった。
人目を忍ぶように足音を殺し…、だが、目指す岸には、先客があった。
黙して動かぬその影は、今日、葬儀の場で見かけた・・・・・
「…陸…子璋どの…?」
振り向いて。陸瑁は、息を呑んだ。
「…あなたは!」
周瑜を挟んで戦ってきた二人は、長江の畔に、ついに、相まみえた。
「…恨んで、おいででしょうね」
躊躇いがちに、陸瑁が、口を切る。しかし、周峻の首は、緩く振られた。
「じいを助けてくださったお礼を、申し上げねば。ほんとうに、その節は…、ありがとうございました」
答えた声は、静かであったが。
「伯言どのは…、あの…」
「兄は何も知りません!私の独断です」
陸瑁は、慌てて打ち消した。
「判ってください!あれ以外に、…出兵を止める方法がなかった。天下を望むものたちは、仲謀さまの周りにもいて…」
「ええ…。夢に喰われた、豪族たちでしょう」
周峻はそっと手を開いた。
金の小箱が、月光に光る。謝家のあるじが見た夢の、冷たい、形見。
陸瑁の顔が、苦しげに歪んだ。
「あなたを苦しめるのは判っていましたが…、でも、私は…」
「いいのですよ。頼んだのはあなただったかもしれませんが、決めたのは、私です」
周峻は、ふっと、微笑んだ。
「それに、あれはもう…叔父ではなかった。私の叔父は…、とうに、喰われてしまっていたのです。豪族たちと同じように」
たぶん。己のものでもない財を横領した、その時には、もう…。
どこか周瑜に似た切れ長の目が、まっすぐに、陸瑁を見据えた。
「…孫伯符の見せた夢」
陸瑁の優しげな瞳が、厳しく尖る。
周峻が、静かに頷いた。
「死人の夢のために、これ以上誰も、死なせたくはなかった」
今一度、掌を開けば。きらりと光る、金の小箱。
「謝家の…姫君のためにも」
…家族の人に、いつも俺、何も言えないんだ。ちっちゃい子がいたりしたらさ、俺の方が、泣けてきたりして…
苦い口調を夜風が攫ってゆく。
「ええ…、私も…」
…この地を。この地に住む者たちを。何が何でも守りたかった。愛する者たちをもうこれ以上、苦しめたくはなかった。
水の上に、儚げな、白い月。
その月が、今日葬られたあの男のようにも、二人には見えた。
もう、誰も、死なせたくはなかった。
もう、誰も、苦しめたくはなかった。
…たとえ、周瑜を殺しても。
月光のようなあの幽鬼を、闇の底に、葬っても…
されど。
夢という名の闇は、未だ重く東呉を覆い、夜明けの光はかけらも見えぬ。
「同じだったのですね…、私たちの敵は」
力一杯、腕を振れば、空を切る、金色の軌跡。
愛するものたちのため。愛するこの地のため。
それぞれの思いが、夜の闇の中で一つに重なり、そして、小さく、飛沫をあげた。
水面に映る月影が、粉々になる。
重ねられた陰謀。流された血と涙。
全てを飲み込んで、長江は、ただ、黙して流れ…
「兄が…泣いておりました」
呟くように言われた言葉に、周峻は驚いて目を上げた。
「彼に勝ちたかったのだと…、負けたと思わせたかったのだと。それがとうとう叶わなかったことに、悔しくて腹が立ってたまらないと。そして…」
彼を憎んでいた自分が、彼の死を願った自分がこれほど悲しんでいるのに、どうして誰も本気で悲しんでやらないのかと。
自分のことばかり考えて、落胆したり、安堵したり。
「ひとりの男の死をひとりの男の死として、どうして素直に悲しんでやれないのかと。そのことがどうしようもなく悲しいと」
言葉を紡ぐ唇が、淡く寂しい笑みを乗せる。
「初めてです。私情に駆られた兄を見たのは。いつも…陸家の総帥として、決して私情を見せぬ兄ですのに…」
周峻の顔が、突然歪んだ。
「ありがとう…ございます。…過分な、お言葉を…」
唐突に込み上げて来たものを、周峻は懸命に押し殺した。
己の手で毒を盛った叔父の死を、嘆く資格は、己にはない。
それはそうするしかなかったのだけれど
そうしなければもっとおおくの血がながれたのだけれど
殺した者と殺させた者は、そのまま並んで立っていた。
それぞれの思いを噛みしめながら、闇を背負って、立っていた。
月は、落ち。日は未だ、昇らず。
夜明け前の闇は、一番深い。
けれど。心から、願うなら。
もう、誰も、死なせたくはないと。もう、誰も、苦しめたくはないと。
心を合わせて、願うなら。
「明けない夜など、ありません」
ぽつりと、陸瑁の方が言った。
遠い目で周峻が頷いた。
…もう、誰も、泣かせたくはない。
だから。
今がどんなに苦しくても。自分がどんなに辛くても…
どこか優しい春の夜風が、滲んだ涙を吹き攫う。
それはとてもおだやかなはるのよで
まるでなにかをふたりにつげようとしているかのようで
それがおまえたちのせいいっぱいだったのなら
だれもおまえたちをとがめたりはしないから
ほんとうにほんとうのこころからのねがいは
かならずてんにとどくから
だって
「俺、みんな、好きですから…!」
大丈夫だから。信じていいから。
明けない夜など、決してない。