Act.5〜A.D.209 江陵


「周公瑾が、病…」
 呂蒙から陸遜に宛てた文を見せられた館のあるじは、信じられぬという顔をした。
 顧家の当主、顧雍(元歎)。
 向かい合っている、まだ若い客は、陸瑁。
 戦勝祝賀の使者として江陵に赴いた兄に代わり、この報せを届けに来たのである…

「軍医は、はっきり死病であると…」
 陸瑁は、竹簡の一点を指で示した。
「士気が下がるのを怖れて軍には伏せられているようですが、間違いはございますまい。呂子明どのは嘘をつける方ではないと聞いておりますし…」
 それは顧雍も同じだったのか、複雑な表情で頷いた。
「今、兄が、殿の使者として、江陵に向かっております。戻りましたら、詳しい容態もお知らせできましょう」
「そうか」
 声に安堵の色がある。
「もう少し早くお知らせすればよかったのかもしれませんね」
 そう。…多分、そうなのだろう。だが…それは、出来なかった。なぜなら…
「そうすれば、貴方も、手を汚さずに済みましたろうに」
 腹を括って、出来る限りさらりと言ってのける。顧雍の眉が、吊り上がった。
 …ああ。やはり、そうか。
「周公瑾を射た矢は、味方のものだったと」
 竹簡を繰り、別の一文を指で示せば、ひび割れてゆく、君子の仮面。
「…なぜ、…陸家が、知って…」
「我らを見くびっておいででしたか」
 絶句した顧雍を陸瑁はどこか悲しげなまなざしで見た。
 今、豪族たちの間には、二通りの動きがある。孫権を暗殺し周瑜を戴いて天下を伺おうとする…謝家をはじめ自家の勢力拡大を望む中小豪族たちの動きと、もう一つ…
「謝家のしたことをご覧になって、あなたがたが焦ったのは判ると、兄は申しておりました」
 凍りついたような顧雍に向かい、陸瑁は淡々と言葉を継いだ。
 そう。彼らにに対抗しようとしたのが、表には現れないが、この、顧家や徐家といった大豪族たちの、人望を集める周瑜を暗殺しようとする動きだ。
 主君に忠実にと言えば聞こえは良いが、周家が孫家を飲み込んでしまえば、孫家を支持してきた自分たちの立場が怪しくなる。
 結局は、自分の打算。どちらの動きも、自家の勢力の拡大しか考えていない。
 この国難に…なんと、愚かな。
 顧雍自身は高潔な男だが、穏やかで波風を立てることを嫌うだけに、自家の内部から湧き起こる声を抑えきれなかったのであろう。いつか、その首謀者に祭り上げられていて。
「それにしても…まさか、戦の最中に大将を狙うとは。…それで孫軍が総崩れになったらどれほど損害が出るか、お考えにはならなかったのですか?軍が柴桑に戻るまで、手はお出しにならぬだろうと思っていたのですが…」
 本来陸瑁のような若輩が言うべきことではないかもしれぬ。だが、せめて軍が戻るまでは何もするなと。顧家にしっかり釘を刺しておく…、それが総帥から課せられたつとめであった。
 自ら軍事に手を染めることのない大豪族の当主たちには、戦場での駆け引きの機微など判らぬのだから…
「どう、なさる」
 顧雍の声が、僅かに震えた。
 陸家は、我らの罪を言い立て、この顧家を追い落とすおつもりか。鋭く細められた目が、尋ねてくる。
「いいえ」
 陸瑁は、首を振った。
「何も、いたしません。兄は、こう、申しました…」
 今、曹操は、揚州を分裂させようと、懸命に手を打っている。それに乗せられるようなことは絶対にしてはならない。揚州の真の敵を見誤ってはならない。
「今は、家のことではなく揚州のことをまずお考えいただきたい、…そう、お伝えせよと」
 顧雍の肩からふっと力が抜けた。
「…そう。そうであったな。敵は曹操…」
 よく判ったと頷いたその顔に、いつもの君子の仮面が戻る。
 話は、終わりだ。
 が。
 丁寧に挨拶をして、帰ろうとした陸瑁の背に、鋭い問いが投げかけられた。

「兄上のお気持ちは…変わらぬか」

 振り向く。…だが、顧雍の目は伏せられたまま。
 表情が、読めぬ。
「変わりません。いずれにしても、…今は、その時期ではございません」
「それは判った。今のことではない。だが…」
 ゆっくりと顧雍の目が上がる。
「…あの計画が潰えたこと。つくづく、惜しいと思うぞ」
 視線が、絡み合う。

「もう、済んだことです」

 陸瑁が冷たい笑みを浮かべた。
 …無駄だ、元歎どの。私を抱き込もうとなさっても。
 ここで動くくらいなら我らはそもそも、孫家に膝を折ったりは、決して、しなかった。
 …先代を殺した孫家に従うと決めた時。我らがどんな思いでいたのか…、あなたには、判らないのか?
「兄は…動きませぬ。揚州のためにならぬことは、兄は、いたしませぬ」
 あなたとは、違います。
 非礼な言葉は、目に、言わせた。顧雍の頬が、さっと染まる。
 そのまま。
 陸瑁は黙って、踵を返した。



 その頃。
 陸家の総帥は、江陵城で、呂蒙のおおきな瞳と向き合っていた。



「大将を江陵太守に? でも…、公瑾どのは…」
 …俺の文、届かなかったんだろっか。程公も、殿に報せた筈なんだけど…
 怪訝そうに首を傾げた呂蒙に、陸遜は穏やかに微笑んでみせた。
「いえ、病のことを今公表すると、士気に関わるということで、このように…。太守の実質的な任務は、程公にお願いしたいと」
「あ、なんだ、そういうことか」
 呂蒙がぱあっと笑顔になった。
「駄目だな、俺って。…こういうとき、やっぱ俺って阿蒙だよなって、いっつも思うんだ」
「そんなこと、ありませんよ」
 ふっと。
 今度は溜息のような笑みをもらして。
「子明どのの文のおかげで、助かりました。これでもう、大丈夫だと思います」
 そう言った陸遜は、どこか悲しそうに見えた。
 …何か、ある。
「いったい、どう…」
「子明どのは、何もご存じないほうが…」
 …そういう言い方されたら、聞けなくなっちゃうじゃないか。
 呂蒙の鼻に皺が寄った。
「なあ、伯言」
 それはそれとして。
「用、全部済んだのか?」
 ええ、と穏やかな声が答える。しかしその響きはやはり、いつになく、暗い影でも引きずっているようで。
 …やっぱり…うん。何か気になる。
 俺じゃ頼んないかもしれないけど、でも…、何かちょっとでも話してくれたら…、伯言だって楽になれるかも…
 だから。
「じゃさ、俺んとこに、寄ってけよ」
 久しぶりなんだし一杯やろうと、呂蒙が明るい声で誘った。
 瞬間、躊躇って。
 それでも陸遜は、はい、と答えた。



 俺んとこで、杯を重ねながら。話は、どうしても公瑾どののことになって。
 伯言は、表面はいつも通り、礼儀正しく穏やかだったけれど。でも、何か、いつもの彼とは違っていて。
「伯言は、公瑾どののこと、嫌いなのか?」
 俺は、酒は強くないから…、多分、酔っていたのだろう。思いついたことが、ふいと、口をついて出てしまった。
「どうして?上官に好きも嫌いもないでしょう?」
 予想通り、彼らしい答えが返ってくる。
「でも、やっぱ、合うとか合わないとか、あるだろ。何かさ…、公瑾どの、おまえにはいつも辛く当たってたみたいだし、おまえもほら、よく、すっごく怖い目で、公瑾どののこと見てたから・・・」
 そうなんだ。面と向かった時は、さすがに表情を消してたけど、…時折、隠しきれないものが、表に浮かんで。
「そんなに?」
「うん。公績が、興覇を見る目に、ちょっと似てる。」
 曖昧な微笑みが、端麗な顔に浮かんだ。。
「親の仇を見る目、ですか…?」
「うん。亡くなった伯符さまが、お前の養父上を殺したってのは、俺も聞いてるけど…。公瑾どのが憎いのは、それでか?伯符さまの右腕だったから・・・」
「まさか。ご先代がわが養父を攻めたのは、袁術の命によるもの。恨むとすれば袁術の方です。陸家は、先々代の孫文台さまには、助けていただいたこともありますし。乱世の習いをとやかく言うほど、私は子供ではありません。憎いなんて・・・」
 そんな、公式用の返答を聞かされて、あっさり引き下がる気にはなれなかった。。
「でも、憎いのは憎いんだろう。だって、伯符さまが亡くなるまで、お前は、孫家に仕えようとしなかったじゃないか」
 また、曖昧な微笑み。
「確かに・・・ご先代を憎む者は、わが陸家の中に、数多くおります。いっそ、曹操に降ろうという者も。私はまだ若くて、ご先代ご在世の間は、そういう声を抑えきることが出来なかった」
「曹操に降る?」
 怖ろしい可能性が、俺の頭を過ぎった。
 殿を信用できなくなった豪族たちが、誰かを担ぎ出すとしたら。大将が、もう駄目だとなれば、それは、当然…
 思わず、俺は、伯言の腕を、掴んでいた。
「冗談にしても、そんなこと言うなよな。俺は、伯言に、いてほしいんだから。戦の時も頼りになるし、俺の見落としがちな所まできっちり見ててくれるし・・・。これからもおまえとやっていきたいんだよ。」
「子明どの…」
 何か言いかけるのに、押し被せて。
「だから、おまえには、身も心も、孫家の人間になってほしいんだ!」

 そこで伯言の形相が変わった。

「無理を言わないでください!」
 ぴしりと音が出そうな、鋭い口調。まるで、頬をはたかれたような気がして、酔いが一度に醒める。
「私は陸家の総帥。孫家の人間になど、なれるわけがない」
 俺は…何を呼び出したのだろう。間違って何かの呪文でも唱えてしまったのだろうか。
 今、俺の目の前にいるのは…、俺の知っている校尉の陸遜ではない。俺が初めて見る男。
 江東一の大豪族…陸家の総帥、陸、伯言。
「陸家が孫家に屈したのは、ただ、東呉の安定のため。我らの故郷のためです。孫家の人間になるためではない。誤解してもらっては困る」
「伯言、・・・・・」
 何を言っていいのか、判らなくなった俺に、陸家の総帥は、怖ろしい秘密を告げた。
「それほど知りたければ、教えてさしあげましょう。周公瑾が憎いのは、我ら陸家が孫家を乗っ取る唯一無二の機会を、潰してくれた人だからですよ!」

 …そんな。
 そんな馬鹿な…!

 孫伯符の葬儀の日に、陸家は、兵を集め、葬儀の場を襲うつもりだったと。葬儀の場を襲って、孫仲謀を殺すはずだったと。
 そして、陸家の名のもとに、江東を纏めようとしたのだと。
「事実、少なからぬ幹部から、内応の申し出があった。」
 きつい口調が、俺の世界を、めちゃめちゃにしてゆく。
 信じられなかった。信じたくなかった。
 あの時、誰もが自分と同じように、殿の死を悼んでいると思っていた。みんな心を一つにして、仲謀さまを盛り立てようと誓っていると思っていた。
 まさか、あれを機会に孫家を裏切ろうと考えていた者がいたなんて!
「成功の見込みは、十分にあった。もし…」
 巴丘から、周瑜が、西部の軍をまとめて呉都に向かっているという知らせが来なければ。
「あ…」
「それで、私は計画を捨てた。周瑜相手では、勝ち目がないと思ったから…。結局、周家と我が家とで、互いの目論見を潰しあったようなものなのです」
 孫家には幸いなことでしたがね。もちろん殿はご存じありませんが・・・・・
 伯言が、きっと唇を結ぶ。
 沈黙。
 次の瞬間、自分のものとも思えぬ掠れた声が、とんでもないことを口走った。

「・・・おまえ、まさか、今も・・・」

 伯言の目が、大きく見開かれる。
 違う。違う!
 俺はそんなことは思っていない。おまえが、自分の野心のために揚州を乱したりするはずはないことは、よく、判ってる!
 今のは…今のはただ、口が勝手に…。
 そう、言いたいのに。言葉が、出なくて。
 悲しい目が俺を見る。傷ついたような声が否と言う。
「もう、すんだことです。あんな機会は、二度とない。」
 その口調が。あなたも判ってはくれないのかと、訴えていた。
 懸命に俺は首を振った。違うのだと言いたくて。でも、言ってしまった言葉はもう、取り返しがつかなくて。
「私が揚州の主になる必要は、もう、ありません。」
 必要?
 孫家にとって代わろうとしたのは、自分の野心のためじゃないのか?その野心を捨てて、孫家に仕えたと、そういうことじゃないのか?

「あの時は、孫家を乗っ取ることが、必要だと判断したのです」

 だから、…必要って、なんだよ?

「豪族たちは、孫家の魅力ではなく、孫策の魅力に惹かれて従っていたのですから…、その中心を失えば必ず内乱が起こると。それを防ぐには、陸家の名をもってこの地を抑えることだと…」
「あ・・・・・!」

 自分が情けなかった。
 俺は何にも判ってなかった。
 国ひとつ取る理由が野心以外にあることさえ、阿蒙な俺には思いつけなかった。
 伯言は、自分のために動こうとしたわけじゃない。今だって、自分のために動いているわけじゃない。孫家のためですらない。ただ、揚州のために。
 彼が孫家に臣従したのは、揚州のためだ。揚州のために必要だったから…それだけなんだ。
 こいつは…、どこまでも、揚州のことだけを…
「でも…」
 でも。それじゃ。
「おまえの気持ちは…」
 養父を殺されて、悔しいんじゃないのか?違うのか?
「私の気持ち…?」
 伯言の目が、厳しくなった。
「総帥の座を何だと思っているのです?」
 そんなことを言われても。貧乏人の子の俺には、判らない。

「総帥であるということは、私情を捨てなくてはならないということなのですよ」

 辛く、重い、言葉だった。

「あなたも軍を率いる身、おわかりの筈だ。上に立つ者が、私情で判断を曇らせれば、どういうことになるか。だから、私は…」
 伯言が急に遠い目をした。見ている俺が、泣きたくなった。
「ごめん…、伯言…」
 ごめん。ほんとにごめん。
「信じてるから…、だから・・・・・」

 せめてそれだけは、伝えようとしたのだけれど。
 伝わったのかどうか。
 曖昧な笑顔からは、…何も、わからなかった。





 周公瑾、病む。
 公にはされなかったが、…こういう報せは、どこからともなく洩れるものだ。
 噂が広まってから、しばらく、揚州は、静かであった。
 彼を担ごうとしたものどもは、諦めたようになりを潜め。それを阻止するために、彼を殺そうとしたものどもは、己の手を汚さずに済んだことに安堵し…
 そして。上に立つ者たちは、既に、周瑜亡き後のことを、考え始めていた。
 一番問題になるのは、懸案の、益州出兵。
「まずないと見てよいと思う。程公は、もともと益州攻略には反対でいらしたし…」
 江陵から戻った陸遜は、軍の重鎮の名を挙げながら、弟に言った。
「孫仲謀さまは、魯子敬(魯粛)どのの策をお容れに…?」
 魯粛の策。それは、劉備に孫権の妹を嫁がせ、縁戚関係によって、荊州に拠点を築いた劉備を取り込んでしまおうというものである。
 陸遜が、頷いた。
「周都督は反対だったがな…」
 兄らしからぬ感情の色が、声に滲み。陸瑁は僅かに眉を寄せた。
 領土の拡大ではなく、今ある領土を富ませることを優先する。それが、魯粛の戦略の要旨。孫権がその方向で動こうというのなら、周瑜が何を言っても、おそらく、益州出兵の許可は、出まい。
 実際問題、豪族の力が強い州をもう一つ抱え込んで、どうしようというのか。いや、そもそも、勝算はどれだけあるのか。短期に決着がつくならまだしも、戦が長引けば、今は涼州に手を取られている曹操もまた南下してこよう。そして…益州は攻めにくい土地。万が一にも敗れるようなことがあれば、東呉は、唯一の主力艦隊を失うのだ。正気の人間が考える策ではないと、魯粛は喚いた。
 …その通りだと、私も思う。兄上にしても、そうには違いない。ただ…
「孫策の夢を継ぐのが、自分の仕事だとでも思っているのだろう。天下を獲って、名を挙げたいのだろうよ、あの男は」
 …そう、だろうか。
 自分には、魯粛同様、狂っているからだとしか思えないのだが…。
 だが、陸瑁は、黙っていた。兄は自分より遙かに優れた人物。その彼に面と向かって異論を立てる気はない。
 ただ、周瑜のことに関する限り、兄は冷静な判断力を欠いているように見えるのも、また、事実で…。
 …念のため、周家を、探らせておくか。
 ひっそりと陸瑁は、動き始めた。