Act.5〜A.D.209 江陵


 憎むのはたぶん 楽なことなのだ

 自分は悪くないのだ すべてあいつが悪いのだ
 そう思ってしまえば楽になれる そうにちがいないのだ

 けれど… 誰を?

 天下の夢に取り憑かれて我が家から財を奪った叔父を?
 その同じ夢に取り憑かれて叔父を担ぎ出そうとする豪族たちを?
 曹操から漢朝を守るという志のため陰謀を巡らし続ける本家を?
 あるいは…そう 呂蒙が言ったように
 我が家から奪った財で… いや 奪った財とも知らず 国を守るため兵糧を賄い軍備を整えて来た孫家の連中を?

 …わからない。

 誰が悪いというわけでもないのに なぜこうなってしまうのか
 なぜ私はここにいてこんなことをしているのか

 私は 私はただ
 父上を…守りたくて・・・・・



 暗きに落ちてゆく思念を嘲笑うかのように。
 戦の物音は、陣屋の幕を越えて、周峻の耳にまで響いてきた。
 …こんな時に、何の役にも立たないなんて!せめて剣が使えたら…
 眠る周瑜に付き添いながら、周峻は苛々と舌打ちをした。
 浮かぶのは、呂蒙をはじめ、この陣に来てから知り合っただれかれの顔。
 外で、彼らの国を守る為に、一生懸命戦っている者たちの顔。
 それなのに、自分がしたことは。
 苛立たしげに見下ろした視線の先、別の…窶れ果てた顔。
 負傷してからというもの、それで気力が尽きたかのように、床から起きられなくなった周瑜の顔だ。
 ほとんど物を食べない。無理に食べさせてももどしてしまう。誰かが見舞いに来ても、判っているのかいないのか、返事だけはするが定まらぬ視線がぼんやりと宙を彷徨うばかり。
 若い凌統などは、見ているのが辛いといって、顔を出さなくなったほどだ。
 …夢に取り憑かれた、か。
 今、叔父を内側から喰らっているものは、病などではなく、その、夢かも知れぬ。
 先代の…孫伯符が見せた、天下の夢。
 …とんでもない男だ、孫伯符は。
 彼が叔父にそんな夢を見せたから、わが家は財を失い。
 …そして、私は。
 口惜しさに握りしめた手の、白く浮き出た関節の上に、周峻は血の色の紅を見た。
 自分たちの陰謀に巻き込まれた、謝家の姫君が流した血・・・・・
 …本家が利用している豪族たちも同じだったとは!孫伯符が見せた天下の夢に、取り憑かれていたのだとは!
 なんと、馬鹿げたことか。
 孫伯符の夢に苦しめられている者が、その、同じ夢に憑かれた者たちの手先になって、同じように誰かを苦しめたとは…!
 しかし。
 …それが私のしたことなのだ。
 こみ上げるのは、苦い悔恨。
 だが、その思いすら打ち消すほどに、外の騒ぎは大きくなっていた。
 今は自分のことなど考えている場合ではない。周峻は、苛立たしげに舌打ちをした。
 周瑜の姿が見えぬことは、兵の不安をかき立てた。病のことは伏せられているから、誰もが傷のせいだと思っている。むろん、士気は、下がっていた。
 そこに、牛金の一件だ。
 敵将に牛金という者がいるのだが、周峻が呂蒙に聞かされたところでは、こちらが彼を包囲して、討ち取れるかと思ったところへ、敵の総大将が…曹仁自らが、突っ込んできたらしい。
「一人の将の働きで、戦局がひっくり返るのって、初めて見た。敵だけど…、曹仁てヤツは、凄くて」
 信じられないというように、呂蒙が、首を振った。
「公績が突っかけようとしたんだけれど、とても追いつけなかったって、言ってた。…やっぱ、こっちの馬と北の馬って、大きさからして違うもんなあ…」
 そんな凄い奴を相手にするとなれば、さらに士気が下がるのも無理はない。そしてそれを見逃す曹仁ではない。こちらの陣に総攻撃をかけてきた。
 どうも形勢はよくないようで…

 ・・・・・!

 ひときわ大きな喚き声が上がり。周峻は、飛び上がった。
 慌てて、陣屋を出る。
 …まさか…!
 崩れている。こちらの陣が、…崩れている!
 あの、乱れた旗は、「韓」の旗。…韓義公(韓当)どのの陣だ。あそこが崩れたら、もう、本陣しか…
 躰の中身が全部出てしまうような恐怖感に、足が震える。
 …しっかりしろ、周峻!…
 周峻は、自分を怒鳴りつけた。
 …お前は、くだらん陰謀を考えるだけの人間なのか?くだらん陰謀を巡らして、罪もない女を死なせた。お前に出来るのは、それだけか?
 ああ…、私に剣が扱えるなら!味方の危機を、なすすべもなくじっと見ているだけだなどと…
 焦って見回した目が、ふと、周瑜の戦袍に止まった。
 …そうだ。
 叔父が姿を見せれば…、そうすれば士気は上がるのではないか?
 叔父の姿が見えないことには敵も気づいて、おそらく負傷のせいだと思っていよう。そうだ、叔父の姿を見れば、敵も怯む筈!
 自分と叔父は、背格好が似ている。叔父の軍装を身につけて、馬に乗れば。遠目には、自分だとは判るまい。
 そうだ。そうすれば!…
 乱暴に掴んだ甲冑が、がちゃりと、耳障りな音を立てた。

「…何をしている」

 声。驚いて、手が止まる。
 見れば、眠っていた筈の周瑜が、寝台に起きあがっていて。
「峻…?」
 透かすようにこちらを眺める叔父に、周峻は、自分の決意を叩きつけた。
「戦に出るんです。叔父上の代わりに」
 焦れたような口つきに、周瑜の眉が、ぐっと寄る。
「…何を、言っているんだ?何のつもりだ?お前に剣など…」
「ええ、使えません。でも、叔父上のふりをして姿を見せることくらい出来ます!」
 きっと、周峻は、叔父を見据えた。
「味方が押されているんです!総大将が姿を見せれば…、そうすれば」
「押されているだと?」
 よろめくように立ち上がった周瑜が、止める間もなく、外を覗いた。
「ちっ!」
 忌々しげに舌打ちをして。
「貸せっ!」
 別人のような強い力が、周峻の手から、甲冑を奪い取る。
「叔父上?」
 手早く身支度を始めた周瑜を、周峻は、茫然として見つめた。
「叔父上!そんな身体で…」
「こんなところで死んでたまるか!あんな奴らに天下を渡してなるものか!」
「叔父上!」
 止めようとした手は、乱暴に、払いのけられた。
「…俺に、他に、何がある」
 ものに憑かれたような光に、闇色の瞳が燃えた。
「この手に天下を掴んで伯符に届ける。それ以外に私の罪を償う、どんな方法があるというのだ!」
「叔父…上…?」
 …罪?
 …罪とは…なんだ?なぜ彼がそのようなことを言う?
「ああ…そうか。お前も本家の一味だったな」
 その唇が吊り上がり、微笑みの戯画のような醜い表情を作った。
「俺から友を奪い夢を奪った…、お前はあの本家の一味だったなあ!俺の意志なんかどうでもいい、とにかく俺に孫家を奪わせたい…、お前らはそう思ってやがるんだったよなあ!」
 …なんのことだ。
 混乱して立ち竦む周峻の前で、周瑜が素早く甲冑を纏う。
「お前らの大事の漢朝のため、俺の了承もなく伯符を殺して、私の夢を叩き潰してくれたのは、お前ら本家の連中だったよなあ!」

 …なん、だって…?

 周峻が、息を呑んだ。
 違う…のか?
 叔父は、先代を殺すことに同意していたのではないのか…?

「なんだ。知らんのか」
 にい。
 ぎらぎらと光る切れ長の目が、恐ろしい笑みの中から周峻を見据えた。
「何にも知らずに本家の手駒にされて…、ふん、哀れな奴」
「叔父上!」
 自分を哀れな奴にしたのはどこの誰だ、よりによって貴方に言われたくはない。
 言い返そうとしたその声は、熱に浮かされたような呟きに遮られた。
「あの時は俺が出るしかないと思った。あの時の仲謀さまはまだ若く…、江東を纏める力はお持ちでないと、俺も思った、本家も思った。だが…そうではなかった」
 …聞こえて、ない。
 叔父には自分の声は聞こえていない。いや…、自分の姿も見えているのかどうか。
 その耳に響くのは、己の憎しみの叫びだけ。その目に映るのは、膨れあがった己の恨みだけ。
「あの時でさえお前らの目論見は成らなかったろうが!今更また同じことをして、それでうまく行くと思えるなんて…、馬鹿もいいところだ!俺にしたってもうお前らの言いなりになる理由はないっ!」
 …狂ってる。
 ぱんと、腰を叩いて。
「殺してやる」
 地獄のそこから響いてくるような、恐ろしい声で周瑜は言った。
「俺が天下を取る!天下を取ってお前ら全部皆殺しにしてやる!お前らの首と天下とひっさげて、…そうして伯符のところに行くのだ!」

 ナニモカモ全部、滅ボシテヤル!

「叔父…上…」

 …これは、叔父上ではない。人間でもない。
 これは、なにか…、なにか、別の…

 悪鬼。

 ようやっとその言葉が浮かんだ時。
 月光のような声が、冷ややかに命じた。
「俺の旗を持て。出る」

 頷くしか、なかった。

 夢にか。それとも、その夢を奪われた恨みにか。
 己の叔父であった人はとうに喰われてしまったのだと、周峻はその時、漸く、悟った。





「呂中郎将どのっ!中央が、押し込まれていますっ!!」
 左翼で防戦に追われていた呂蒙は、伝令の言葉に眼を瞠った。
 …そんな!義公(韓当)どのの陣が、崩れるなんて!!
 本陣は?ぞっとする思いで振り返れば…、いまだ整然と並ぶ、「程」の旗。
 …よかった。混乱は、本陣までは波及していない。さすが、程公だ…。
 忌々しい「曹」の旗の向こうには、「凌」の旗が、乱れながらもまだまっすぐに翻っているのが見える。凌統も頑張っているのだ。
 冷静になれと言い聞かせ、呂蒙は、戦況を見てとろうとした。
 正面左手の一角が崩されている。だが…まだ、全体には波及していない。
 …あれ、公覆(黄蓋)どのの隊配置したとこだよな。義公どのの下に置いて。公覆どのの隊あのひとに任せたの、まずかったかも…。
 赤壁で、韓当の軍が、負傷した黄蓋を厠に放置したという経緯がある。そのせいか、韓当隊に組み入れられてから、黄蓋隊の士気はひときわあがらぬふうだったが…。
 …くっそ、曹仁の野郎!しっかりこっちの弱点見抜きやがって!
 呂蒙がきっと唇を噛み、決心したように頷いた。
「よし!側面から、俺が突っ込む!」
「子明どの…、でもこちらの防備は?」
「200!200だけ俺に回せ!とにかくあの突出してる奴…、あれにしまったと思わせればいいんだ。正面にかかる圧力がちょっとでも弱まれば、その間に程公なら陣立て直してくださる!俺が戻るまで他のみんなで持ちこたえて…」
 命令を出しかけた呂蒙の背後で、突然、歓声が起こった。

「え…っ」

 「周」の旗が。
 周瑜の帥将旗が、初秋の風に、翻って・・・・・

 …なんで。
 あんなに、弱ってたのに。俺の顔も、判ってるんだかどうかって、感じだったのに。
 なんで、大将が?なんで…
 帥将旗が出たことで、士気が、一気にあがった。
 一斉に振られる、味方の旗。湧き起こる鬨の声、兵馬のどよめき。
 それが突然、すうっと、遠くなった。
 自分の脈の音だけが聞こえる。何もかもがひどくゆっくりに見える。
 そして、呂蒙の目は、捉えた。
 曹仁を…!

 討てる。
 今なら、討てる。

「突っ込めーっ!」

 大声で喚くと、呂蒙は、駆けた。
 後続が来るかも確認せずに、曹仁の首だけを、その眼に映して。
 目の前に飛び出す邪魔者は、片っ端から払いのける。
 ただ、真っ直ぐに、曹仁だけを目指し・・・・・

「曹仁!覚悟っ!」

 力一杯突きだされた呂蒙の槍を、曹仁は咄嗟に左手で受けた。
 鉄の手甲が、光る穂先をはねのける。
 それでも、大きく振られた左手を追って赤い筋が円を描くのを、呂蒙の瞳は、確かに見た。

 やった!

「ちっ!」
 舌打ちをして。
「この借りは、必ず返す!」
 捨て台詞を投げつけた曹仁が、左手を庇いながら馬を翻す。追うように、敵が、退いてゆく。
 突出していた一隊に、左右から東呉兵が襲いかかる。
 戦場の喧噪が、耳に戻ってきた。
 武器の触れ合う音。馬の嘶き。そして。
 全てを圧するように響いた、あの、月光のような澄んだ声。

「曹仁は退いたぞ!この機を逃すな!一気に、江陵を落とせ!!」

「公瑾どの…!!」

 白い軍装の腕が、力強く一閃した。
 その腕に、引きずられるように。
 東呉の全軍が、怒濤のように、江陵の城壁目指して殺到した・・・・・

 そして。
 陽が、山の端にかかる頃。
 東呉軍は、ついに、江陵を抜いた。





 夕陽に染まった城壁の上。
 その夕焼けよりもっと赤い、「孫」の旗が翻るのを、確かめて。
「公瑾どのー!」
 戦場に佇む白い軍装に向けて、呂蒙は馬を走らせた。
「公瑾どの!大丈夫ですか?!」
「子明…」
 脱いだ兜の下、捌いた髪が、折からの風にふわりと流れる。色白の頬が夕陽に染められ、かつての血色を取り戻したように見える。
「見事だった。よく、曹仁の隙をついたな」
 久しぶりに聞く暖かい声が、呂蒙の頬を緩ませた。
「いえ…、勘が働いただけです。それより、大丈夫なんですか、起きたりして…?」
「私の所まで物音が聞こえるほど押し込まれては、おちおち寝てもいられまい?」
 からかうように言ってふわりと笑う…、かつていつもそうしていたように。
 …死病だなんてのは間違いだ!大将、元気になったんだ!
 一瞬、呂蒙はそう思った。
「すみません」
 しかし。
 謝る彼に向けられた笑顔は、それでもどこか、辛そうで。
「でも…、無理しちゃ、駄目ですよ?さ、少し、休んでください」
「うん…」
 頷いて。
 城壁を見上げた周瑜の躰が、何の前触れもなく、ぐらりと傾いだ。
「公瑾どの?!」

 形容しがたい、不快な音。
 口元を押さえた周瑜の手甲が、夕陽の色に鮮やかに染まった。

 いや、夕陽ではない。
 それは・・・・・

「公瑾どの!公瑾どの…っ」

 呼ぶしか出来ない呂蒙の腕の中に、正体をなくした躰が、崩れ落ちた。

 口元を、手を、血に染めて。