Act.1〜A.D.209 江陵


「そうでしたか」
 周峻は、難しい顔でそう言い、そのまま黙り込んだだけ。泣きも、喚きも、しなかった。
 …他人の俺が、あれだけ、取り乱したのに。
 呂蒙が周峻を訝しげに見る。
 江陵の陣に連れ戻された時、周瑜は、意識もはっきりしないありさまであった。
 病のことは、軍には伏せられている。総指揮官が負傷しただけでも士気が下がっているし…、まして、彼を傷つけた矢を放ったのは、呉の兵であったのだ。
 その兵が死んでしまったのでは、背後の詳しい事情は判らぬ。一応、流れ矢として処理されたが…、裏切り者は他にもいるやも知れぬ。密かに調査が行われている状態だ。
 その上に、周瑜が不治の病であるなどと…公表できるものではなかった。それでは軍ががたがたになる。
 しかし甥である周峻となれば別だ。報せぬわけにもゆかぬ。その辛い仕事を、呂蒙は自ら買って出たのだが…
 …どうしてだ?叔父さんが不治の病だっていうのに…、悲しくないのか?
 思ったことが顔に出るのが、呂蒙という男である。周峻はひとつ苦笑してみせた。
「冷たい甥だと、お思いですか」
「え…いや…」
 困ったように呂蒙が口ごもる。
 …今なら、騙せるかも知れない。
 周峻は、心の中で呟いた。
 …今、この人は、動揺している。今なら私の言うことを信じるだろう。気づかれては、ならぬのだ。謝夫人の死の裏に、この周家がいたことは…
 意を、決して。
 声を抑えて、言ってみる。
「因果応報とは、このことです」
「何だよそれ!」
 きっと、呂蒙が顔をあげた。予想通りの反応。
「大将…叔父上は、先代の頃から、孫家の為に一生懸命…」

「ええ、一生懸命尽くしましたとも!病に倒れた父を見捨てて!」

 ぴしり。
 言葉が鞭となって空気を打ったような気がした。
 眉を顰めた呂蒙に、さらに言葉を投げつける。
「帝をお救いしようとして、父は重傷を負い…、今は、自分が誰かも判らぬ有様。その父から、叔父は、財産という財産を掠め取ったのです!私が幼いのをいいことにして」
「嘘だろ…?!」
「嘘をついてどうします」
 周峻は低く言葉を継いだ。父の病状。家の財政状態。
 …呂蒙の顔が青ざめ、唇が震える。
「だったら!…だったらなんでここにいるんだよ?そんなに嫌いな叔父上に、どうして仕えてるんだよっ!」
 ここだ。
「本家の援助なしではどうにもならぬ状態で、本家の意向に逆らえるとでもお思いですか?」
「本家の意向って…なんだよっ!」
 そう。これを向こうから訊かせたかった。
 ぐっと、腹に力を込めて。
「叔父を守ることです」
 信じてくれ。騙されてくれ。祈るような思いで周峻が続ける。
「孫家の中に、叔父を警戒しているかたがたがいらっしゃるようなのです。叔父が孫家に取って代わろうとしているのではないかと。陸家のかたは…そうお思いのようですが…」
 何か、思い当たったのか。呂蒙が、はっとした顔になった。
 …そうだろう。全くの嘘ではないからな…
 馬鹿な男だと思っていたが、流石に何か、彼なりに感じるところがあったのかもしれない。周峻は内心安堵の息をついた。だが、
「必ずしもそれは杞憂ではない。叔父を担ぎ出そうとする者もいると聞きました。もちろん叔父にはそんな意志はありませんし、その動きに気づいてもいないようですが…」
 痛い。呂蒙のまっすぐな瞳が痛い。…誤魔化しきれるのか…、この目を。
「ですから、私が送り込まれました。彼らの動きを探り、もし、叔父に危害を加えようとするものがあれば、手を打つために。周家は、今、これ以上曹操の力が増すことは、望んでおりません」
 賭けるような思いで、一息に言った。
 意図した通りに受け取って貰えるだろうか。周本家は、今の時点では、孫家の存続を望んでいると。周瑜を通して、力を貸そうとしていると。
 曹操の力が増すことを望んでいないというのは、そう、全くの嘘ではない。ただ、取る手段が、話とは違うだけだ。
 周本家は、周瑜を担いで揚州を手中にし、曹家と対抗したいのだ。…そしてそれは、絶対に、知られてはならない…
「そうか…」
 何か納得したように、ぽつんと、呂蒙が言った。
 騙されてくれたのだろうか。周峻の背に、緊張が走る。
「大将を傷つけた矢な。…呉の兵が、射たんだ。大将んとこの」
 唖然としたのは、今度は、周峻だった。
「まさか…、まさか陸家がそこまで…?それとももしや孫家の…」
「違う違う!誰か知らないけど陸家じゃない!殿でもないよ!」
 慌てたように、呂蒙が言った。
「あの賢い伯言が、戦の真っ最中に総大将殺すようなバカやるもんか!殿だってそうだよ、戦に出たことないわけじゃなし…。誰がやらせたのか今調べてるけどさ、戦のこと全然判ってない奴だよ、絶対」
「あ…」
 それもそうかと、周峻は思った。いくら程公がすぐに代われる立場にいるとはいえ、戦闘の真っ最中では混乱も起きよう。ひとつ間違って軍が壊滅でもしたら、話にも何にもなりはしない。
「心配しなくていい。叔父上は、俺が守るから。けど…」

 ふっと。
 おおきな瞳が、悲しげに曇った。

「ごめんな…」
「え・・・・・」
「俺たちのことも…憎いよな。だって、多分俺たちみんな、大将が届けてくれた米食べて…、大将が届けてくれた金使ったもんな」
「そんな」
 周峻がついと目を逸らす。
「知らなかったじゃ…済まないよな。弁償ったって俺に出来るような額じゃないだろけど…」
「そんなこと、思ってません!」
 どうせもう手遅れだ。どうせもう私は本家の手駒だ。今更そんなこと言われたって…!あの、罪もない姫君を殺した後で!
 私の手が血に染まったあとで、そんなことを言われても…!
「でも、ごめん。…ほんとに、ごめん!」
「あなたが謝ることではないでしょう!」
 ああなぜ、こんなに苛々するのか。どうしてこの瞳が、この澄んだ瞳が、胸に突き刺さるような気がするのか。
 私の手がこんなに汚れているのに、私の魂がこんなに傷ついているのに、どうしてこのひとだけはこんなにきれいでいられるのか。
 彼が心底憎らしいと…その時確かに周峻は思った。

「夢に取りつかれるって、…判るか?」

 その場に落ちた沈黙は、呂蒙の呟きに破られた。

「夢?」
「うん」

 …伯符…っ!

 青ざめた周峻の顔があの日の周瑜を思わせ、呂蒙はついと目を逸らした。
 この子は知っているのだろうか。今、この子を動かしている周家が、我ら孫家の先代を殺したということを。
 いや…きっと知らないだろう。周家は知らせていないに違いない。この子には関係のないことだし、ああいうことは、知っている人間が少なければ少ないほどいいのだから。
 …だったら、言わない方が、いっか。それ抜きで説明するの、難しいけどなあ…
 考え考え、呂蒙は言った。
「前の殿は、素敵な夢を見せてくれたんだ。この、孫呉が、中華を平定して、天下を獲るっていう夢」
 そう。江の南に起こった勢力が、歴史の中で初めて、中原を支配する。あの項羽ですら、果たせなかった夢だ。
 そして夢には続きがあった。
「前の殿は、天下を獲ったら、大将と二人で西へ行くって言ってたんだ。一生、二人で冒険しようって、…あの二人は、そう言ってたんだ。それが…、あの人たちの夢だったんだよ」
 どこまでも、いつまでも…、永遠に続く大冒険。天下を獲るのは、ただ、そのひとつでしかない。
 その夢を。その素晴らしい夢を。その夢に賭けた人生の全てを。周本家は、周瑜から奪い去った。。

 …本当のことが言えたらいいのに。
 言葉を紡ぎながら、呂蒙は思った。
 ずっと周瑜は苦しんでいたのだ。己の存在そのものがかけがえのない親友を死に追いやったこと、そうしてその陰謀に手を貸さざるを得なくなったことで、ずっとずっとずっと苦しんでいたのだ。
 だから…夷陵で、見えたのだ。楽しそうに暴れ回っている甘寧が、かつての孫策そのもののように。
 だから、庇った。庇ってしまった。本当は邪魔者扱いをし死ねばいいくらいに思っていた筈の男を、突然背後から飛んできた矢から。
 その矢はきっと、死病に冒された周瑜の目には、周家の者が放たせたあの矢に…孫策を殺した矢に見えたのだろう。
 今は判る。どれだけ周瑜が本家を憎んできたか、どれだけ己を憎んできたか。
 その陰謀が奪ったのは、かけがえのない親友だけではない。その親友と共に見た、己の全てを注ぎ込んだ夢。
 いや、注ぎ込んだのは、己のものだけではない。周瑜は本来自分のものではない…この子の父親から奪ったものまで、その夢の為に注ぎ込んでしまったのだ。
 そこまでの罪を犯した後で、全てを根底から覆され、それでも本家の陰謀に力を貸すしかなくなって、いったい周瑜はどんな思いをしたのだろう。
 どれほど、苦しかったか。どれほど、辛かったか。
 …これ言えば、大将のこと、この子も許してくれるかもしれないのに。

 けれど、言えるのは、ただ。

「大将、その夢に取り憑かれて、他の何も見えなくなっちゃったんだよ…」
 …ああ、どうしよう。
 こんな言葉じゃ全然足りない…!
 案の定。
「馬鹿馬鹿しい!」
 返ってきたのは、強烈な拒絶。
「そんな…、そんな、子供じみた夢の為に、…私たちは…」
 きつく拳を握りしめ、全身を怒りに震わせて。
 …ああ、そうだよな。判れったって無理だよな。
 悲しげに見返すことしか、呂蒙には出来ない。
 …この子、必死になってるんだから。哀れな父親を守ろうと、必死なんだから…
 だが。
「豪族たちも、同じなんですか。…天下の夢が、捨てられないと」
 震える声が吐き捨てた台詞は、予想したものとは違っていた。
「…それだけ、前の殿は、凄い人だったんだ。なんての…、太陽みたいでさ。誰も逆らえなかったんだよ。だから…」
 戸惑いながらも答えた言葉を、鼻で嗤って、周峻が受ける。
「そのようですね」
 叔父の様子を見て来ます。
 向けた背はやはり怒りに震えていたけれど。いつも礼儀正しい彼にしては、足取りはどことなく荒かったけれど。

 …なんでそこで、豪族たちって言葉が出るんだ?

 心に何かが引っかかり、呂蒙はそっと眉を顰めた。
 父親のことを言うならまあ判るが、なぜ豪族という言葉が出るのだろう。
 判らない。
 …ま、俺…、豪族の出じゃないからな…
 そういう家に生まれた者たちは、特に跡取り息子は、常に他の家の動向を気にかけていなくてはならないものなのかもしれない。
 けれど。
 …なんか、ヘンだ。
 勘が告げる。おかしいと告げる。なのに。
 …ああ、もう、また!
 何がどうおかしいのか、何がどうひっかかるのか。考えようにも手がかりさえ掴めない。
 …豪族のことなんて、判んないもんな、俺。伯言みたくそういう家に生まれてりゃ別だけど。
 あ。そっか。

 困惑していたおおきな瞳は、不意に明るさを取り戻した。
 ひとつ自分に頷いて。
 ぱたぱた。
 軽い足音を立てながら、呂蒙が自分の陣に急ぐ。
 …あいつに報せりゃいいじゃないか!あいつなら、何がおかしいのか判るに違いない。うん。豪族のことは豪族に任せる。それがいい。その方がいい…

 あいつなら。あの男なら。きっと何とかしてくれる・・・・・





 柴桑の、陸家の邸で。
 呂蒙の文を受け取った「あいつ」は、考え込むように、額を撫でた。
「…周公瑾が…病・・・・・」
「病?」
 驚いた弟に文を示し、「あいつ」…陸遜はふっと遠い目をした。
「兄上…、これは…」
「うん」
 この文を示せば。周瑜を殺そうとした者たちは、第二の襲撃を思いとどまるに違いない。
 己の手を汚さずとも、彼が勝手に死んでくれるのだ。これほどありがたいことはないではないか。
 …ありがたい、…か。
 仮にも人の死であろうのに、「ありがたい」と思わずにはいられないなどと。
 …人はここまで堕ちられるのか。いや…時代が人を堕とすのか。
 己の中にもあるその思いを見つめ、陸遜はきっと唇を噛んだ。
 …いや、やむを得ぬ。それは覚悟していたこと。
 己が九泉にもゆけず永遠に彷徨うようなことになるとしても、この、江東は。この呉会の地だけは。
 愛する故郷を恨み渦巻く内乱の巷にするような真似は、己の力の及ぶ限り、阻み続けねばならぬのだ。
「では…すぐ?」
「いや…」
 陸遜は首を横に振った。
 周瑜暗殺を企んだ者の名は、もう、判っている。第二の襲撃が企てられる可能性を思えば、すぐにも知らせてやるべきなのだろうが。
「…知れば、彼らはどう出ると思う、瑁」
「さ…あ」
「周瑜の病は重いと言いふらすか…、それを言い立てて殿に解任を求めるか…」
「まさか」
 陸瑁の眉が、つと寄った。
「周瑜の負傷で軍の士気はおそらく落ちておりましょう?軍は周瑜を…特に赤壁の勝利以来、何かの教祖ででもあるように崇めていると聞きます。そんなところで彼を替えるようなことをしたら…」
「ああ、お前はそう思うのだね」
 ふっと、陸遜は微笑んだ。
「そう…その通りだ。お前の言うのは正しい。だが…、それが、あのかたがたに判るかどうか…」
 自ら軍事に手を染めることのない大豪族の当主たちに、戦場での駆け引きの機微が判るか。
 周瑜という名の魅力で結束している軍から彼を外せば、どんな惨事が起きるか…彼らに判るか。
「今は…様子を見るしかない。せめて江陵を陥としてからでなければな…」
「陥ちる…でしょうか?」
 不安げに呟いた弟を、陸遜は強い目できっと見据えた。
「陥ちる、ではない。陥とす、のだ。間違えてはならぬ、瑁」
 周瑜で駄目なら。程公(程普)で駄目なら。この陸家が総力を挙げて兵を出してでも。この、命に代えてでも。
「長江はこの揚州の生命線。その制水権が北の連中の手に渡ったら、…全ては、終わりだ」
 だから…止めねばならぬ。
 罪もない姫君を殺してでも、暗殺の刃を振るってでも、この手をどんなに汚してでも、この魂をどんなに穢してでも―――――

 強い視線が、不意に逸れた。
 止めていた息をそっと吐き出し、陸瑁がおそるおそる兄を伺う。

「それが、陸家だ」

 悲しみを載せたその声が、しんと陸瑁の胸に響いた。

「…そうで、ございました」
 呟くような低い答えに、彼の兄はほんのりと微笑んだ。
「申し訳ございません…兄上」
「…判ればよい」
「はい」

 呂蒙が送ったあの書簡を、陸瑁が静かに巻き直す。
 
 そう。我らは陸家。この江東を護る者。
 たとえ己が地獄に堕ちても・・・・・

 その手はもはや、揺らぐことはなかった。