Act.4〜A.D.209 柴桑/江陵
謝家のあるじは、蒼白な顔を引きつらせていた。
あるじの前にいる美丈夫は、まだ、若く。けれど、堂々と、威厳に満ちていて。
「貴方は…、貴方は戦場に、居られた筈では…!いつ、お戻りに…」
周公瑾のもと、曹軍との戦に、出て居られた筈ではと。意図せぬことながら、声が、震える。
「何やら揚州に不穏の動きありと、弟が報せて参りまして。…なに、我ら陸家が、あくまで孫家を支持すると判りましたら、すぐ、鎮まりましょうが…、本日は帰還のご挨拶に」
愛想のよい笑みの下から、鋭い目が、まっすぐにこちらを見据えてくる。まるで、白刃を突きつけられているような気がする。
…知られている!
あるじの背を、冷たい汗が流れた。
…なれど。なれど…もう、娘には、あの毒を送ってしもうた。もし、今宵にでも娘が、あれを、殿に盛ったら…、そうなったら、この謝家は…!
陸家を、甘くみていた。総帥を人質に取られている以上、動けまいと、思うていた。陸家が動く前に主導権を握ってしまえば、彼らは何も出来まいと。気づかれる前に、孫仲謀を殺してしまえばと…。
駄目だ。
陸家が気づいているのなら、よしんば孫仲謀が死んだところで、証拠を出してこの謝家を糾弾するのは必定。我らは逃れられぬし…、我らが担ごうとした、周家もまた。となれば、陸家は江東一の大豪族。次に揚州を獲るのは…
…あの、弟。若造と侮っていたが、…いったいどのように手を廻したのか…!
いっそ、…いっそ、今…
「しかし…戦場とは、独特のものですな。兵としてついて来てくれた者たちが、別れがたいと申しまして…、今日も、供を。目立たぬよう、外に控えさせてありますが」
にこやかに言われた言葉が、謝家のあるじの動きを封じた。
…今、ここで、彼を殺せば。陸家の兵が、雪崩れ込んでくる…!
「どうなさいました」
陸家の総帥は、いぶかしげに、眉を寄せた。その声が、俄に、殺気を帯びる。
「まさか…、まさか、もう…?」
耐えられず、伏せられた目。それが、…答え。
「何ということを!」
風が、巻いた。
誰もいなくなった室で、謝家のあるじの膝は、がっくりと床に崩れ落ちた。
徐家の姫君をお迎えになりまして以来、わたくしへの訪れが間遠なこと、お恨みに存じておりました。
殿のお心を失っては、わたくしは、とても生きてはおられませぬ。いっそ、ご一緒に毒をと思い、心知れた者に用意させましたが…、いざとなると、そのようなおそろしいこと、とても、出来るものではございませなんだ。
父や、弟たちは何も、知らぬことでございます。あさはかな女心、あわれと思し召して、身内の者には罪が及びませぬよう、ひたすらお願い申し上げます。
お慕い申し上げておりました、殿。
遺書に添えられた金の小箱には。口までいっぱいに、灰色の粉が入っていた。
「…使わなかったのか」
陸遜の話を聞いてすぐ、とって返した、後宮の一室。
小箱を手にした孫権は、呆然とした顔で呟いた。
その、足元に。夫人の遺体。
陸遜が謝家から出た足でまっすぐ孫家の館に馳せつけた時、孫権は、謝夫人のもとを訪れていた。
刺客が紛れ込んでいるという陸遜の言葉を、侍従は慌てて取り次いだ。そう、「陸伯言殿が火急の報せを持って…」と。
敵対する陸家の名を聞いて、逃れられぬとみたものか。夫人は自ら、喉を突いて果てた。傷口から流れ出た夥しい血が、床を深紅に染めている。
「…その、ようですね」
痛ましげにそれを見下ろして、陸遜は小さく呟き返した。
何かを堪えるように身を震わせ、孫権が夫人の傍に跪く。
「使えなかったのだな…」
握りしめたままの指から、そっと、小刀を外し。冷たくなった頬を、優しく撫でて・・・・・
陸遜が、目を背けた。
そうだ。出来なかったのだ。父に命じられはしたが、姫君は、その毒を使うことは出来なかったのだ。
なぜなら。
…お慕い申し上げておりました、殿。
見事な嘘を並べた遺書の、最後の最後に書かれた、真実。
涙で滲んだその文字が、彼女の心を告げていた。
「それでも父の命乞いをするか」
そうだ。この遺書は…、父の命乞い。
私の命を差し上げますから、父をお許しくださいと。姫君は、殿に、縋っておいでなのだ。
姫君にそんなことをさせようとしたのは、その、父親であろうに…!
「私の命を救ってくれた代償に…、そうせよと、お前は言うのか…!」
賢い、女。けなげな、女。
その細い背に、謝家を背負って。…最後まで、謝家の姫として…。
「…今夜は、帰っていいぞ、伯言。後は俺の方でやる」
今はふたりだけにしてくれと、孫権の声が泣いていた。
「は…」
無論、否やはない。
礼を執り。
閉ざした扉の向こうから、微かに聞こえた、啜り泣き。
己の手から血が滴っているような気がした。
彼女の血と、…そうして。
彼女が愛した男が…彼女を愛した男が…孫権が流した、血の涙が。
「全て、片づいた」
迎えてくれたのは。すっかり窶れた弟の顔。
私が周瑜の側に置かれていた間、さぞ、苦労したのだろう。
私も同じような顔をしていると、気遣わしげな彼の目が告げてきた。そうだろうな。戦場にはこれまでも出たことはあるが、今回のようなのは、初めてだった。背中から矢が飛んでくるような状態は…
弟もさぞ、辛かったことだろう。「総帥を人質に取られているから」と声があがるような状態で、よくぞ、族人たちを抑えきってくれた。
私が早く解放されるよう、動いてもくれたのだという。弟は何も言わなかったが、…今日、殿から伺った。
「よく、やってくれた」
「…いえ。私は、何も」
ちらりと浮かんだ、はにかんだような笑顔だけは、いつもの弟と変わらなかったが。
「あの…、もう…?」
「うむ」
彼が聞きたかったのは、どちらだろう。「もう、謝家の動きは、抑えられたのか」か。それとも…「もう、謝夫人は、処刑されたのか」か。
いずれにしても…答えは同じだが…
幻の血が、指先から滴る。
「危ないところだった。…もう、毒薬は、夫人の手に渡っていたのだよ。しかも今宵、殿は、謝夫人を訪れておられた」
唇を噛んだ弟の視線が己の手に落ちた。何を考えているのか、私には判る。
「夫人、は…」
「ご自害を」
幻の血が、床に滴る。私の手から。弟の手から。
「よく、謝家の動きをつかんでくれたな」
ねぎらわれたところで彼の心は、軽くはならぬであろうが。…あの姫君の喉から流れた血は、我らが背負わねばならぬものなのだから。
血が流れる。後宮の床に。私たちの足下に。
「私が早く呼び返されるよう、諸葛子瑜(諸葛瑾)どのを動かしてくれたそうだな。殿から伺った。…本当に、よくやってくれた」
「勝手に、徐州のかたがたを引き入れて、お叱りを受けるかと思いましたが…」
目を上げずに、弟が言う。
「いや。子瑜殿と二張(張昭と張紘)のお二方…、皆様の意見が一致したからこそ、殿もすぐ私を呼び返してくださったのだ。お前の判断が正しい」
そうしなければ、もっとたくさんの血が流れていただろう。
周家は、孫権さえ死ねば、周瑜が揚州を纏めるのは容易いと踏んだのであろうが…、そんな簡単なものではない。
確かに、中小の豪族たちは、民を巻き込んで、周瑜をという声を盛んに上げているようだが、揚州にいるのは彼らが全てではない。
例えば、諸葛家をはじめとする、徐州から亡命して来て、孫家に受け入れられた方々。あの、子布どの(張昭)や子綱どの(張紘)もそうだ。揚州に地盤を持たぬあの方々は、孫家だけが頼り。孫家を守るためとなれば、どんなことでもなさるだろう。
そして。そして…
本当に力のある者は、声高に喚いたりはしないものだ。
彼らは、沈黙のうちに行動する。静かに己の力を振るう。今宵、我らがそうしたように。
我らだけではない。揚州の繁栄を第一に考え、中央に打って出ることなど望まぬ者は、黙したまま、けれど、巌のように、確かにそこに存在する。必ず内乱が起きた筈だ。
曹操はそれを見越している。それを見越して周家を操っている。…そうだ。周家もまた…曹操に操られているのだ、きっと。
揚州のためには、これで、よかったのだ。
けれど。
…お慕い申し上げておりました、殿…
今宵我らが何をしたのかを思うと…!
袖を動かしたはずみに、何かが卓に触れ、音を立てた。
ああ…、持ってきてしまったか。あの、小箱…
「これは…?」
「あ…、扱いに気をつけろ。それが、その…」
「ああ…」
言わずとも、彼には判る。蓋を開け、中を確かめ…
「使われて…おりませんな…」
「ああ。そういうことだ」
…お慕い申し上げておりました、殿…
「そう…ですか・・・・・」
また、弟が唇を噛んだ。
「あの…、お預かりしても…?」
「うん」
多分、殿はなさるまい。謝家の三族を誅殺するようなことは。
あの姫君を…愛しておられたのだ。最期の願いを聞いておやりになるだろう。殿は、そういう方だ。
なれば、我らが持っていた方が、豪族達を抑える上でも、使い途が…
使い途・・・・・
…お慕い申し上げておりました、殿…
ぐっと握った拳は、幻の血に、骨の髄まで染まっているように見えた。
正しかったのだ。こうするしか、なかったのだ。こうしなければ、もっとたくさんの血が流れたのだ。
切り裂かれるような胸の痛みを、陸遜は、懸命に押し殺す。
泣けるものなら、泣きたかった。だが…
我らは陸家。この江東を護る者。そのためには血を流すことをも厭わぬ者。
そして、自分は、陸家の総帥…
震える唇を、陸遜は、きつくきつく噛みしめた。
総帥は。泣いてはならぬ。
竹簡を繰る周峻の手が、ぴたりと止まった。
…謝夫人が、死んだ。
いつものように、父の容態を報せる中に、さりげなく織り込まれた町の噂。だが、その意味するところは、十分に伝わった。
自分たちの企てが、失敗したのだ。孫権を暗殺しようという、企てが…
あの男だ。あの…陸伯言という男。やはり、彼を呼び返したのには、裏があったのだ。孫家は、我らの企てについて、何か掴んでいたのに違いない。
殺される。
体中の血が、引いてゆくような気がした。
真っ先に、死を思った。…捕らえられれば、周家の名が出てしまう。そんなことになったら…あの、周本家のこと。父をすぐにでも放り出すだろう。庇ってくれはしないだろう。
…いや、もう、同じことか。私は失敗したのだ、既に父は、放り出されているかもしれぬ。そうだ…そうに決まっている。
逃げねば。逃げて、…父上の元に行かねば…
いや待て。
文にはまだ、続きがある。何かの指示があるかも知れぬ。
落ち着けと、自分に言い聞かせ。周峻はさらに、竹簡を繰る。
…殿の寵愛が薄れたのを悲しんで…
…謝家には特にお咎めもなく…
周峻の眉が、訝しげに寄せられた。
どういうことだろう。
孫家は、今回のこと…、表沙汰にはしないつもりなのだろうか。いや…確かに、暗殺計画があったなどと公にすることは、威信に関わることである。合肥の戦役で、孫軍は、無惨に敗北した…というか、ろくに手を出すことも出来なんだという。孫家の威信は低下しているに違いない。そんな時に、迂闊に謝家に手を出せば、豪族たちが離反するかもしれないと、そういうことなのだろうか。主力であるこの軍は、まだ、しばらくは帰れそうにないし…
…公瑾殿をよくお守りして…
最後のくだりで。周峻の唇が、吊り上がった。
巻き直すこともせず、竹簡を投げ出す。ばらばらと、耳障りな音。
そういう、ことか。
どうやら。孫家は、問題の根本にあるものを除去することに決めたらしい。
そうだ。周瑜を殺してしまえばいいのだ。誰も死骸を担ぎ出そうなどと思う筈がないのだから。周瑜さえ死ねば、豪族たちの離反は防げる。
戦場にある軍の総指揮官を暗殺するなど、普通なら、狂気の沙汰だが…なに。この軍には、はじめから、二人の指揮官がいる。叔父と、程公(程普)。周瑜が死ねばそのまま程公が指揮権を引き継ぐだろう。
それだけだ。何の問題も起こらない。いずれにしても叔父は、ほとんどお飾りで、大したこともしていないのだから。
周峻は、唇を歪めて笑った。
皮肉なことだ。…私だって、叔父を殺してやりたいと思うことでは、人後に落ちぬというのに。
我が家から、財産を奪い、…私をこんな羽目に追い込んだ、あの叔父を。本家に頼るしかないような状態でなければ、私はあのまま父上のお側にいられたのに…その叔父を、守ってやらねばならぬのか。
確かにその必要はありそうだった。暗殺者を待つまでもなく、叔父は、己の身の安全については、どうしてこうと思う程に無頓着である。常に先陣に立ちたがり、あの、呂子明どのにいつも諫められている。「大将は都督なんですから、馬鹿な真似は止めてください!俺が行きますから!」と…。
いいひとだ。叔父が、あんな冷たい男だとも知らずに、いつも危険を買って出て。叔父も、あのひとの言うことだけは聞くようだ。
ずっと一緒だったのだという。ご先代の頃から、叔父の下にいたのだと。…ということは、あのひともまた、うちから財を奪った者の仲間なのだ。まあ…ご当人は知らぬのだろうが。
阿蒙、か。…そうだろうな。何も知らぬからあんなふうでいられるのだ。ただの馬鹿だ、あのひとは。憎むにも値しない・・・・・
堂々巡りの暗い思念は、乱れた足音に、断ち切られた。
「大将は!」
訪いも入れず飛び込んで来たのは、今の今、思い浮かべたばかりのおおきな瞳。いつもあかるいその瞳が、切迫した色を浮かべていて…
「陣の視察に。何か…」
まさか!もう、孫家が手を廻したのか?
周峻の声も、鋭くなる。
「城の兵が、減ってる!すごく減ってるんだ」
意味が判らなかった。敵が減ったのなら…喜ぶべきことではないのだろうか、それは?
「奴ら、夷陵に行ったんだ!闇に紛れて!興覇、気づかれたんだよっ!」
「あっ!」
先に夷陵を落としてくると出て行った甘寧は、僅か、500しか連れていない。
城を落とす前に、追いつかれたら。そうしたら…
駆け去った呂蒙の後を追おうとして…周峻の足は、そこで、止まった。
…竹簡!
万が一にも、怪しまれてはいけない。室に駆け戻り、竹簡を巻き直す。
…どうして。
ぞっとするような思念が、周峻を捕らえた。
…現場の兵たちは、こうして、命を賭して戦っているのに。上に立つ者たちは、己の力を拡張しようと、くだらぬ陰謀に首を突っ込んで…
そんな連中の為に、何故、彼らが死なねばならぬのか。陽気に手を振って出て行った、あの、500。叔父の下にいて、自分とも顔見知りの、あの・・・・・
汚い!…
手が。わなわなと震えた。
…いや、人のことは言えない。私も…、私も、その、汚い連中の一人なのだから。
こんな時なのに。子明どのの後を追いたいのに。こうして、陰謀の痕跡を拭っている、私も…
全身の肌が粟立つようで、…吐き気が、した。
竹簡も。自分の手も。血にまみれているような気がした。
報せを受けて、緊急に開かれた軍議。
「昨夜、約半数の兵が、城を出て、北へ向かった」
いつもは冷淡な叔父の声にも、流石に緊張の色がある。
「歩兵と。それから、騎馬隊。騎馬隊は、軽装だ」
呂子明どのの報告だ。叔父に、そう言っていた。北へ向かう馬の足跡が、いっぱいついていたと。足跡の深さからして、軽装で出たらしいと。
あの叔父が顔色を変えたのを、初めて見た。
軍のことには疎い私には、意味するところが判らなかった。首を捻っていると、子明どのが説明してくれた。
「軽装の騎兵ってことは、速さ重視ってことなんだよ。つまり、まだ、興覇が城を落とせずにいるうちに、気づかれたってことなんだ。城が落ちる前に、騎兵を先行させて、挟み撃ちにする気でいるんだ」
血が、逆流する思いがした。…そんなことになったら、あの、兵たちは…
「夷陵は、どうなっているんですか?落ちたんですか?」
せきこむように尋ねたのは、凌公績どの。甘興覇どののことは、親の仇と嫌っている筈なのに、…顔にはただ、心配の色がある。
そうでなくては。…皆、力を合わせて戦っているのだ。それに、行ったのは、興覇どのだけではないのだし。仲間を気遣うのは、当然のこと。
…それにひきかえ、私は。
公績どのの純粋な表情さえ、自分を責めるもののように思える。思わず顔を伏せた私の頭上を、月光のような叔父の声が、通り過ぎてゆく。
「さきほど、興覇の使者が江を下って来た。城は落とした。しかし、魏軍が迫っている。至急救援を求む、と。…今集まって貰ったのは、こちらの対応を決めるためだ」
沈黙。
「俺を、救援に行かせてください!」
真っ先に上がった、子明どのの声。
おおきな瞳が、縋るように、叔父を見つめた。しかし…、返されたのは、冷ややかな一瞥。
「功名心から無茶をやって危地に落ち込んだ奴を助けるなど…、悪い前例にしかならぬと思うが」
「公瑾どのっ!」
悲鳴のようなその声にも、叔父の表情は変わらない。
「なに、興覇のことだ、本当に危なくなれば、長江を通って引き上げてくるさ。あいつにはそれだけの腕がある」
宥めるように言ったのは、程公(程普)。
「半数の兵がここを離れた今こそ、この城を落とす好機ではないか!都督。一気に江陵を落としましょうぞ。」
何か、…言ってやりたい。
私などが口を出すのは、僭越きわまりないし、戦術の上ではそうかもしれない。だが…、興覇どのの連れて行った、500人。何もせずに彼らを見捨てるなど、あんまりではないか!
叔父は、どうするだろう。同意するのだろうか。…そうだろうな。叔父は、冷たい男で…
「行かせてください!」
しかし、叔父が何か言う前に、公績どのの声が上がった。
「無茶ってっても、都督、許可出したじゃないですか!あいつが勝手に行ったんじゃないでしょ?だったら。言い出したのはあいつかもしれないけど、命令で行ったことになるじゃないですか!命令受けて行動して危地に嵌った者を見捨てたら、…そんなことしたら、士気が…」
「親の敵を庇うのか、公績?」
驚いたように言った叔父が、公績どのをじっと見つめた。いや…睨み据えたと言った方がいい。気圧されたのか、公績どのが黙る。しかし。
「ふむ…。それは、正論だな」
程公の鷲のような目が、考え深げに瞬いた。
「確かに。それでなくともこの長丁場で、士気は下がっているのじゃから…」
韓義公殿からも、同意の声があがる。
「そうですよ!」
力を得たように、また、子明どのが言った。
「夷陵は、早くこちらで確保すべきです!上流を押さえられては、こちらの補給線が、危なくなります」
必死の色を湛えた、おおきな瞳。
「上流に拠点を築かれたら、長江を使って何かを輸送しようにも、水軍の護衛なしでは何も出来なくなります。あそこを押さえてしまえば、この城は孤立するわけですし、兵の士気も下がるでしょう」
「その通りです。実は…、劉備の軍が南荊州に入っております。このままでは、奴があそこを押さえてしまいそうな形勢です。少しも早く江を抑えねば、せっかく烏林で勝ったというのに、勢力範囲を拡大することができな…」
…今のは、私の声か?
思わず口を開いてしまったことに驚いて、慌てて私は、口を噤んだ。私がここにいるのは、叔父の秘書としてというだけだ。発言する資格など私にはないのに。しかも叔父に…周本家の意向に、逆らうようなことを!
叔父の目が、咎めるように私を睨む。思わず私は後ずさっていた。そうだ。まずいことを言った。だが…、あの軍を見捨てるのは、どうしても…
「ほらね?…とにかく、早く江を全部抑えないと、せっかくの烏林(赤壁)の勝利が、無駄になりますよ!」
子明どののあかるい声がたたみかけるように言い、軍議の流れが、一気に変わった。
「子敬(魯粛)があんなものを引き込むから…」
程公が不機嫌そうに言った。
「確かに、ありそうなことだ。仕方ないだろうな。殿が合肥なんか放っておいてくれれば良かったんだが…」
「それに!」
子明どのが、生き生きした口調で言う。
「この城がなかなか落ちないのは、あの騎馬隊の所為でしょう。出てきてはこっちかき回すから…。奴らが撤退する道に障害物を並べて馬を奪ってしまえば、減らせるじゃないですか!」
皆が、頷く。
「お願いです、公瑾どの!俺を、救援に行かせてください!!」
見つめ合う、二つの瞳。おおきな瞳と…闇色の瞳と。
「わかった」
その答えに、私はほっと、息をついた。…よかった。これで彼らは、見捨てられない…
「では、公績」
「はいっ!」
公績どのが顔を紅潮させ、救援に行けという命に備えた。だが。
「お前はここで曹仁を抑えていろ。夷陵を確保してしまえば、後が楽になる。ここは戦力を一気に投入すべきだ。全軍で行く!」
「公瑾!おい…」
程公が、制するのを、押さえるように。
「できるな、公績」
叔父の瞳は、どこか、嘲笑うような色を帯びているように見えたが、公績どのは今度は怯まなかった。
「出来ます!…やります、必ず!殿の為に」
殿の為に。
叔父の頬が僅かに引きつった。
「行ってください!俺が必ず、ここは守り抜いて見せますから!」
「わかった」
その場にわだかまるものを振り払うように、月光のような声はきりりと言った。
「軍議は終わりだ!…出撃準備!」
慌ただしく、将たちが出てゆく。
程公が公績どのの肘を掴んで、「10日で戻る!もし戻れなんだら…殿に救援を頼め」と囁くのが聞こえた。頷いた公績どのの顔は、厳しい。
残って地図を巻こうとした時。その袖を、ぐいと、引かれた。
「…子明どの?」
澄んだ、おおきな、おおきな瞳。正面から私をのぞきこんだ瞳。
私が隠していることを、何もかも、見抜いているような・・・・・
果たして。
「…どうして、知ってた?荊州のこと」
「・・・・・!」
血の気が引くのが、自分でも判った。…目の前が、暗くなる。
どうして知ったかって?…前に貰った文だ。本家からの。劉備の動き。謝家を急かさなければ、荊州を奪われると。だから、手の者を動かして、私は、毒を…。
そうだ。まだ、正式の連絡は来ていなかった筈!
…しまった。知られた!
どこか遠くで、何かの音がした。地図が、床に落ちたのだ。
もう、…駄目だと思った。けれど。
「いい。聞かない」
震える視線を、辛うじて戻せば。いつにかわらぬ、明るい笑顔。助け船出してくれてありがとうと、あかるいいろの声で言って。
「…信じてるから」
ぽんと、肩を叩いて。子明どのは、出て行った。
へたへたと、力が抜ける。
思わず座り込んだ床は、とてもとても、冷たかった。