Act.3~A.D.209 江陵


「で。言うとおりにしてやったら、こうなった?」
 遠ざかる陸遜の船を見送りながら、甘寧は、からかうような口調で言った。
「うん。あいつの心配ももっともだと思ったし…、それにほら、あいつなんだか公瑾殿に嫌われてるだろ?ここにいないほうがいいんじゃないかと思ってさ…」
 いつもあかるい呂蒙の声が、どことなし、曇っている。
 陸遜を召還したほうがよいと、二張の二人に、文を書いた。返事は来なかったが、…代わりに、孫権の命令書が届いた。
 陸家の本拠地あたりで、山越族に不穏な動きあり。至急、陸遜を柴桑に戻せ…
 きっと、彼の心配は、本当に当たっていたのだろう。
 かくして、彼を乗せた船は、矢のように長江を下ってゆく…
「合肥、なあ…」
 戦略を考えれば、ここは南荊州を殿に押さえて欲しいところだし、長江を離れてあまり北に領土を拡げるのは、防衛のことを考えるとあんまり嬉しくないのだが。
 そういう事情があるんなら、仕方もないと甘寧は思った。懸命に戦っているうちに守るべき国が中から崩れたでは、話にも何にもなりはしない。
 それにしても。この、呂蒙の浮かない顔は・・・・・
「…なあ、それだけか?」
「え?」
 逸らそうとした呂蒙の目を覗き込むようにして、甘寧は、言葉を継いだ。
「何かあんだろ。言ってみなよ。言っちまえば楽になるかもだぜ?」
「うん」
 呂蒙が素直に頷いた。
「伯言の言うのは極端だと思う…けどさ…、公瑾の大将、確かになんか、ヘンだなあって思って。今だってそうだろ?俺たちみんなで江陵にかかりっきりだけどさ…、夷陵がさ…」
「あー」
 忌々しげに甘寧が、遠い、江陵の城壁を見やった。
 守将の曹仁とやら、よほどに優れた将らしい。東呉軍が全軍で包囲しているのに、どうしても落とせない、あの城。
「だよ、なあ…」
 ここに手こずっている間に、夷陵の方をみっちり固められたら、どうなる?
 いくら呉の水軍が強いからといって、川を遡って攻めるというのはそれなりに厄介だ。前に黄祖に手こずったことでも、よく分かる。
 上流のあそこを固められては、よしんば江陵を抜けたとしても、長江を完全に押さえるというこっちの目論見が外れてしまうかもしれない…
「なんでまっすぐあっち攻めなかったんだろ。船でわーって行ってさ。多分あいつら先あっち行くって思ってなかっただろから、楽に落とせたと思うのに。俺でも思いつくこと公瑾殿が思いつけないって、…なんか、ヘンじゃないか?」
 そうだ。それは、「江陵を攻める」と命令が来た時に、自分の頭にも浮かんだことだ。
 曹仁は水軍を持っていない。多分、そういう発想はしづらい筈だ。防備はあちらの方が絶対緩い。
 先にあっちを押さえてしまえば、より東呉側にある江陵は孤城になる。士気だって落ちるだろっし、…そうなりゃ楽して抜けるだろ?
 正直、思ったんだ。周公瑾はほんとに勝つ気で戦やってんだろっかって。
 まあ、新参の俺はお歴々の多い今回、軍議には呼ばれないから、意見を言う場もなかったのだが…。
「何でお前軍議でそう言わなかったんだよ」
「…あとで思いついたんだもん」
 思わず甘寧は吹き出していた。
「興覇あ!」
「やっぱ、やっぱお前って、阿蒙な」
 だが…、しかし。
「そだな…、殿が合肥を攻めるんなら、先に夷陵を落としといた方が、よさそうだな」
「けど、こっちに先かかっちゃったもん。今更あっち廻るの、無理なんじゃ…」
「お前さっき言ったじゃねえか、船でわーっと行ってって。少数の兵で急襲すりゃあ…」
「同時に両方攻めるのか?んな、無理…」
 まあるく見開かれたおおきな瞳は、同意しがたいという色をしたけれど。
「だからあ。あちらさんだってよ。今なら、俺らがもう一個城を攻めるなんてことは、絶対思わねえだろ?」
 こっちが思わねえくらいなんだからと、不敵に笑って、甘寧は言った。
「お前、東呉軍にはこの甘興覇がいるってこと、忘れちゃいねえかい」
 俺はそういうのは得手なのよと、嘯いて。
「俺に500ほど兵を貸してくれりゃよ、あっさり夷陵落としてみせるって。出来ねえと思うか?」
 まっすぐ見つめてくるおおきな瞳を、甘寧は怯まず見つめ返す。
「いや」
 …できる。こいつならやれる。…なんでか、…俺には判る。
「なあ、子明。お前からも口添えしてくれよ。俺に兵貸せって。公覆(黄蓋)殿怪我しちまったから、あン人の兵、程公(程普)の下で遊んでんだろ?絶対、夷陵落として見せっからよお…」
 駄々っ子のような口調で、甘寧が言う。その口調が可笑しかったのか、呂蒙が笑い出しそうな顔をし・・・・・
 しかし。笑みは形になる前に、引きつったような表情で固まった。

「…ダメだ」
「おい、子明!」
「公覆殿の兵じゃダメだ。…公瑾殿の兵、借りてけ」
「子明…?」

 え…。
 何で…俺、こんなこと。
 どしたんだろ…、俺。でも…、うん、そうだ。公瑾殿の兵じゃなきゃならないって、なんでか俺、思うんだ…

「勘…か?」
「うん…」
 戸惑ったように沈黙した呂蒙を見つめる、甘寧の目も、鋭くなる。
「お前の大将が、俺に突っ込ませるだけ突っ込ませといて、それなり見捨てちまうかもしれねえって?」
「う…うん…」

 そうだ。この勘が告げてるのは、そういうことなんだ。…けど。
 あの大将がそんなことするはず、・・・・・。
 ないって思えないのは…なんでだ?
 何か…、何かあるんだ。俺が気づいてはいるけれど、ちゃんとつかまえられずにいることが。
 何かおかしい。何かヘンだ。その「ヘン」が何だか、判らないけれど・・・・・

 ちっと、甘寧が舌打ちをした。
「だよな…。あン人、なーんか俺に含むとこあっからな…」
「そ…なのか?」
 呂蒙が僅かに眉を潜める。
「ああ。…軍の中に自分の思い通りにならねえヤツがいるのが気に入らねえんだろ」
 それを言ったのはあの弓腰姫だったのだが、そうと言うのは仁義に反する。甘寧は苦々しげに吐き捨てた。
 味方に見捨てられる虞があるのなら、突っ込むわけにもゆかぬだろう。
 自分はともかく、手下たちや、…味方の兵まで巻き込むわけには…
「なんだよ!これで夷陵落とせるってえのに!!」
 鷹のような顔が険しく顰められた時。

「いや、…させないよ」

 声は、寂しげに…けれど、明るく。
 瞳もまた、眩しいほどに、どこまでも澄んで。

「俺がさせない。約束する。どんなことしてでも止めてみせる。…だから、行ってくれ、興覇」
 これはお前にしか出来ないことだ。そうするのがみんなのためなんだ。長江は絶対俺たちの手に押さえておかなきゃならないんだから。
 公瑾どのが、どうであれ。
「お前だって…やりたいんだろ?勝つためにってだけじゃなくて…、手下たちの為にも。手柄立てて地位あげて、賊やるしかなかった連中に、まともな暮らしさせてやりたいんだろ?」
 そうだ。公覆どの、言ってたじゃないか。一緒に火計の策練った時。
「兵は誰だって、手柄立てて褒美貰って帰りたいんだって。畑買うとか山羊飼うとか、そゆことのために頑張るんだって。で、それはべつにまちがったことじゃないって」
「ああ…、そりゃそうだ」
 俺らだってそうだと、甘寧は思った。賊から足を洗って、みんなでまっとうな暮らしをする…その基盤を作る為には、どうしたって、金が要る。だから手柄を立てたい…、それは、その通りだ。
 まっとうに仕事をして、まっとうな報酬を得る。その仕事が兵として戦うことでも、それで非難されるいわれはない。
「うん。何もまちがったことじゃないよ。ちゃんと生きたいって思うこと、それ、何にもまちがってない」
 …うん。そうだ。まちがってないんだ。だから。
「だから、まちがってないなら、…うちのみんながそうできるように、みんなのしあわせほんとに考えて決めたことなら、ご先祖さまとか天とか守ってくれるから、絶対成功するって。公覆どのそう言ったんだよ」
 で。成功したろ。あの火計。
「ああ…」

 手下の人たちのためだから。みんなのためだから。絶対成功するから。させるから。だから。

「行ってくれるか、興覇」

 …ああ、これは…天の声だ。
 甘寧は粛然と頷いた。

「じゃ、程公に話してくる!」
 ぱたぱた。
 遠ざかろうとする軽い足音を、甘寧はしかし、引き留めた。
「子明…」
「なに?まだ何かある?」
 澄んだ瞳。明るい声。
 だがこの瞳にこの声に、聞かねばならぬことがある。周瑜がそう出るかもしれぬのならやはり、言っておかねばならぬことがある。
 これまでは聞けなかったけれど、伯言がそういうことを言っていたのなら・・・・・
「ひとつだけ、聞かせてくれ」
 その瞳を見据えて、甘寧は言った。
「江夏んときだ。俺が敵方だった時の。お前、公績のオヤジと組んでたのか?」
「え?…ああ、一緒に先峰だったけど…なに・・・・・」
 瞳はゆっくりと瞬いた。一度。二度。
 そうして、呆気にとられたように、おおきくおおきく見開かれ・・・・・

「興覇…っ…!!」

 その瞳が、その声が、衝撃に暗く翳るのを。
 悲しげに見つめることしか、甘寧には出来なかった。



 ああ どうして どうしてひとは
 無垢なままではいられないのだろう



「公績!お前誰に聞いたっ!」
 いきなり幕舎に飛び込んでこられて、いきなり胸座を掴まれて。
 いったい何がどうなっているのか、凌統にはさっぱり判らない。
「な、何がですか!何なんですか子明殿!」
 攻撃は最大の防御なりと、凌統は思い切り喚き返した。
「興覇のことだよ!」
「興覇あ?」
 聞きたくもない名前を聞かされて、凌統の苛立ちはさらに募る。
「甘寧が何だってんですか!あいつのことなんざ俺が知るわけない…」
「あいつがお前の仇だって、誰に聞いたのかって聞いてんだよっ!」
 …何で、いまさら、そんなことを。

「周都督ですけど…」


 月が、墜ちた。


 …これだ。
 俺が気づいてたけどちゃんとつかまえらんなかったことって、…これだ!


 茫然と立ち竦んでしまった呂蒙を、凌統の方も呆然と見つめた。
「…子明殿?どうしたんですか?…ヘン、ですよ?」
「違う…」
 呂蒙の声はどこか遠い…遠いところから響いてくるようで。
「それ…、違う、公績」
「違うって…」
「違うんだ」
 弱々しく掠れたその声を、今にも消えそうなその言葉を、打ち消せなかったのは、なぜだったのか。
「あの時、俺とお前の父上…、別行動してた」
「え?一緒に先峰だったって…」
「うん。出たのは一緒だったけど…、俺、咄嗟に狙い、変えたから…」
 左翼に何かやばいものがいる気がしたから、行ってみるって言って。こっちの狙いを悟らせないよう、凌軍はそのまま直進してくれって頼んで。
「やばいものって…、黄祖だったんだ。その黄祖守ってたのが興覇だ。そこに突っ込んだのは俺だけだ。父上は一緒じゃなかったんだ!」

 あ・・・・・

 蘇る。あの日聞いた言葉。

 …父上があの湾口のあたりで矢を受けられた時に、ちょうど子明殿が左翼の敵主力に突っ込んでくださったのです。それで彼らが混乱しておりましたから…、我々も無事撤退することが出来…

 自分も、見た。江夏で戦った時。
 呂蒙隊が突っ込んだ場所は、父が討たれた湾口からかなり離れていた。
 いくら甘寧が強弓を引くといっても、あの距離で矢が届く筈はない…!!

「興覇が父上を討てた筈がない…!」

 どうして。
 どうして今まで誰も気づかなかったのか。
 いや…、それ以前に。

「どうして都督はそんな勘違いを…」
 そんな…、今更、そんな。
 俺の気持ちはいったいどうなる。俺がこれまでしてきたことは…
「勘違い…だろうか…」
「子明殿…っ…」


 勘違いなのか?本当に?全軍の動きを大将は把握していた筈だろう?
 勘違いでないなら…、それなら…。
 ・・・・・あ。
 思い出しちゃった。俺が伯言になんて言ったか。
 俺、…公瑾殿は、殿に取ってかわろうなんて思ってないって言った。それは確かだって言った。
 なんで俺…、言わなかったんだ?
「公瑾殿が殿を殺す筈はない」って。

 なんでだ?なんで俺はそう言えなかったんだ?今だって、その言葉を思い浮かべたとたん、…そうとは限らないって気がするのは、なんでだ?
 殿に取ってかわろうなんて思ってないって言うのは、絶対確かだって思えるのに…!
 ちょ…、俺…。なんで…。
 俺…どうしちゃったんだろう?これ、何だろう?俺の中にあるこの変なものは何だろう?
 何か、まだある。…俺が気づいてて、でもつかまえられずにいるものが、江夏のことの他にも何かある。でも・・・・・
 ああ…ダメだ!
 確かに何かあるんだけど、つかまえようとすればするほど、なんかもうどんどんぐちゃぐちゃになるばっかで…


「ごめん…。俺、今…考えたくない…」
「…あ、…はい・・・・・」
 自分も考えたくないと、凌統は思った。
 


 ああ どうして どうしてひとは
 無邪気なままではいられないのだろう



 気づいていて。なにかおかしいと思って。それでもはっきり言葉に出来なかったこと、…ひとつめ。

 甘寧に凌操を殺せた筈がない。






 周峻は、難しい顔で、夜の長江を見下ろしていた。
 今宵、月はない。
 …陸遜が、柴桑に召還された…
 風が微かな星明かりを震わせる。
 その、弱々しい光の中。てらてら光る濁った水が、ちゃぷちゃぷ、侘びしげな音を立てながら、船の舷側を洗ってゆく。
 なまじ僅かに光があるばかりに、甲板の下に潜む闇は、さらに底知れぬものであるかのように見えた。まるで己を飲み込もうとしているような…
 激しく、首を振る。それでも…、まつわりつく不吉な予感は、消えぬ…

 自分が、この前柴桑で、何をしたか、させらたか。考えるだけで胸が潰れそうになる。
 報告に行った時初めて会った、孫仲謀という男。
 思っていたよりずっと、穏やかな男であった。薄い色の髪と、不思議な色の目をしていた。曹操の南下以来、さぞ、心労も募っていたであろうに、そんなことは微塵も感じさせなかった。
 暖かい声で、「初陣、疲れただろう。ゆっくり休んでゆくがいい」と、優しい言葉をかけてくれた。
 同じ仕えるのなら、いっそこの男にと…、そう思いたくなるような、あの、声。
 本家が、自分に何を命じたか。すべてをぶちまけてしまいたくなった。
 けれど。
 彼の暖かい声を打ち消すように、胸の中に響いた、悲痛な叫び。
 …ちちうえ。いっちゃ、やだ…!!
 自分がここで裏切ったら、本家はあの父を、どうするか…

 きつく、きつく、唇を噛んで。周峻は、闇の底を見据える。

 調べるのは、簡単だった。
 後宮で、孫権の寵愛が薄れてきた妃は誰か。
 孫権は、血を流すことなくこの江東を抑えてゆくため、婚姻というものを重視してきた。さまざまな豪族たちが、孫家に妃を入れている。
 これまで孫権の寵愛は、謝夫人…謝家の姫君に傾いていたという。けれど最近、孫権の母の縁でかなりの力を持つ徐家が孫家に妃を入れたため、この謝夫人が軽んじられるようになっている。そこまでは、大した苦労もなく掴むことが出来た。
 愛情の問題ではなかろう。孫仲謀とすれば、より力のある豪族からの妃であるから、より丁重に遇さねばならぬと…、それだけのことなのであろう。
 だが、謝家にとっては面白くないことに違いない。あの家は本来、さして力のある豪族ではないのだ。
 あわよくば世継ぎの外戚となって、政権内で力を振るい、己の家をもっと大きく。そんな夢を見てしまったからといって、誰が彼らを責められよう。
 烏林(赤壁)での勝利で、叔父の名声は上がっている。孫権よりいっそ周瑜をという声は、私が噂をばらまくまでもなく、豪族たちの間に上がり始めていた。その火に油を注ぐのが、どれほど容易いことであったか。
 火が消せぬほど大きくなったのを見定め、私は、謝家に近づいた。本家の使者が命じてきた通り、密かに。
 人目を忍んで訪ねた謝家の主は、ごく当たり前の顔をしていた。…話に乗ってくれるだろうかと、私はいささか不安になった。
 けれど。
「我が周家と謝家の利害が一致するのではないかと…、そのお話に参りました」
 その途端あの目に浮かんだ光。豚のような…、貪欲な…。
 人とはいかに弱いものであるかが、嫌というほど、身に浸みた。
 瞬間。胸に響いたのは、孫仲謀の暖かな声。
 …初陣、疲れたであろう。ゆっくり休んでゆくがいい…
 引き返せたのなら。引き返すことが許されたなら。どれほどよかったことだろう。
 けれど。その声を打ち消すように、大きく響いた、もう一つの声。
 …ちちうえ。いっちゃ、やだ…!!
 私に出来たのは。…私が、したのは。穏やかな笑みを浮かべて、こう、切り出すことだけで…
「そちらさまの姫君は、孫家の後宮に上がっておられたと思いましたが・・・・・」

 本家の指示は。
 後宮に妃を入れている豪族に手を廻し、孫仲謀を毒殺させること。

 孫権が死ねば、豪族たちは、後継に叔父の名を挙げるだろう。
 叔父自身の気持ちがどうであれ、皆に担ぎ出されれば、揚州の頭とならざるを得まい。
 こちらの企みを打ち明けるのはそれからでいい。逃げられぬ所に追いつめてからでいい。
 そうでなければ叔父は動かぬかもしれぬと、…なぜか本家は言ってきた。
 そう…なぜか。
 まあ、理由など、どうでもいい。いずれ私は従うしかないのだから。
 しかし…

 陸遜が、召還された。
 孫家が最も頼りにしている、江東第一の豪族の当主が。
 この企みがなるまで、どうでも、手元に止めて置きたかったのに。彼を人質に取ることで、陸家の動きを抑えられると思っていたのに…
 周峻の眉が、ぐっと寄る。
 …まさか。我々の企みが、露見したのではなかろうな。
 孫権からの命令には、陸家の本拠地近くでまた山越どもが騒いでいるからと、もっともらしい理由が書かれていた。陸家は後宮には関わりはない。きっと、我々の企みとは関わりがないのだ。そう、信じたい。
 それに、戻ったからといって、もう、恐らく、手遅れ…
 闇を見つめる瞳に、暗い炎が燃えた。
 …謝家の当主の手に、既に、あの毒薬は渡っている筈。そして、周瑜を次の頭領にという声は、陸家がいかに大勢力でも、抑え切れぬ程高まっている筈。陸家に抑えられるものなら、孫家にも出来よう。ならば、合肥に無理な出兵をする必要など、全くない筈だ。
 しかし…、時期が、時期だ。やはり、疑いは消せぬ。
 露見すれば…どうなるか。
 私はいい。叔父にしたって…、あのような男、どうなろうと、私の知ったことではない。
 けれど…
 …ちちうえ。いっちゃ、やだ…!!
 私が殺されても、あの本家は、父上の世話をちゃんとしてくれるのだろうか。
 これまでは疑ったことはなかったが、このような怖ろしい指示を平気で出してくる連中だ。私が死ねば、残された財産も全て奪い取って、父を路頭に迷わせるのでは…

 考えただけでも、ぞっとして。周峻は身を震わせた。



 ああ どうして どうしてひとは
 こんなふうでしかいられないのだろう



 握った拳が、夜風に震えた。