Act.2〜A.D.209 呉郡/江陵


 その、陸遜の…陸伯言の使者は、一足早く、呉郡の陸家本邸に到着していた。
「兄上は…ご無事か?」
 使者が頷くのを確かめて、ようやく陸瑁は愁眉を開いた。
 陸瑁、字を、子璋。陸遜の弟である。
「よかった…。案じ申し上げていたのだよ。周瑜がことごとに兄上を目の敵にすると聞いていたから…」
 無理な任務を与えて敵に突っ込ませでもせぬかと、気が気ではなかったと。安堵が、口数を多くした。
 心に、蘇る。出陣前の兄と交わした会話・・・・・

「命が、下された。周瑜の下で、出陣する」
 兄上は、動揺も見せずに仰有ったが…、私にはそれだけで、意味が判った。
「それでは、…それでは、人質ではございませんか!」
 孫家は、そこまで、この陸家が信じられぬのか。あの時感じた、総身が震える程の悔しさ。
 孫家に仕えるにあたり、兄上は、名を改めることまでなさったではないか。孫家の幼い姫と、婚約までなさったではないか。
 曹操の侵攻を迎え撃つにあたり、孫家は、出せる限りの軍を長江戦線に廻した。留守部隊は、僅かに一万。
 確かに、今ここで、陸家が…江東最大の豪族である我らが…叛旗を翻せば、孫家の命運を断つことは容易かろうが、そこまで我らを信用出来ぬのか…
 怒りに任せて口走った言葉に、兄上はしかし、首を横に振られた。
「孫家では…殿ではない。おそらく、これは周瑜の献言。周瑜に乗せられた馬鹿者どもが同調し…、殿は拒むに拒めなんだと、そういうことであろう」」
 不敵にも見える微笑みを浮かべ、兄上はそうおっしゃった。陸家に不穏な動きが僅かでもあれば、…あの者は、私を殺す気だ、と。
 何故。
 恐怖に背筋を掴まれた私の問いに、どこか乾いた声でお答えになった、兄上。
「さあ…、周瑜にこの戦、勝つ気はないということだろうか。口実を設けて私を殺し、孫家を潰し…、揚州を朝廷に帰順させようとでも・・・・・」
 殿もそう疑っておられるのだと、兄上は難しい顔をなさった。周瑜に並べて、程公を右都督に任命なさったのは、それゆえだと。
 国難には、一丸となって当たるのが筋。あえて指揮系統が乱れるような人事を行ったのは、殿もまた、周瑜を信じ切れぬからだと。
「絶対に口実を与えるな。族人たちを暴発させるな。孫家はわが養父上の仇…、族人たちの中にも、公紀(陸績)をはじめ、仇と思う者は多かろうが…、されど今は、非常の時。この国難にあたって、私情で動くことは、断じてまかりならぬ。そのように、皆によくよく申しきかせよ。」
 命じられた通りに、私は動いた。
 ひどい噂はこの呉郡にまでも伝わってきた。族人たちが、家族への文で訴えたのである。
 周瑜は、曹操が必ず兄上に接触してくると思っている。敵の間者を洗い出す汚い仕事をさせられている。常に監視の目が光っている。等、等、等。
 そのたび、族人たちの怒りは高まり…、私は必死に宥めねばならなかった。ここで暴発すれば、それこそ周瑜の思う壺。この揚州を、内乱の巷にしたいのか。周家に、揚州平定の手柄を立てさせたいのか…
「忘れるな。我らは陸家、この江東を護る者。この江東の自立、それこそが我らの願い。我らを蔑んできた北の連中の手に、おめおめと乗せられてよいものか」
 …何度、そう、繰り返したことであろう。
 しかし。
 何か、違う。ただの勘だが、…どうしてもそんな気がしてならぬ。

 周瑜・・・・・

 兄上に異を唱えるつもりはない。周瑜が兄上を憎んでいるのは、事実だ。
 親から戴いた議という兄上の名を、孫家にへりくだるという形の遜に改めよという惨い要求は、あの周瑜の差し金でなされたという。私には理由は判らぬが、兄上に含むところがあるのは間違いない。
 けれど…兄上の方にも、偏見がある。私にはどうも、そう思えてならない。
 …おくびにも出されぬが…兄上は、「あの時」のことを今も忘れてはおられぬ。その無念の思いが、兄上に、周瑜を買いかぶらせている…、そういうことがないと言い切れるだろうか?
 周家の狙いは、周瑜を使い、揚州を朝廷に帰順させること。…これは確かだ。
 周家を責めるつもりはない。周家は漢の朝廷に仕える家なのだ。そのように動くのが…逆らう我らに挑んでくるのが、当然でもあり、忠義でもある。
 そうして挑まれる我らにもまた、我らの志、我らの郷土への忠誠がある。その志の命ずるままに、堂々と受けて立てばよい。…それはそれだけのことでしかない。
 だから周瑜は堂々と挑んでくるだろう。そのように私は思っていたのだ。何も間違ったことではないのだから。ただ、志すところが異なるというだけなのだから。
 例えば孫家の中で己の地位を上げるべくあれこれ動き、政に口を入れるとか。未だ漢朝に心を寄せる者も家中にはいるのだから、彼らを統合し、一つの勢力を作るとか。
 彼はなぜ、そうしなかったのだろう?
 今の殿の代になってから彼がしたことは、ただ…己の水軍を厳しく鍛え、武官としての分を守ったというだけだ。北のくびきを脱しこの地に自立した政権を作るという私たちの志を妨げるようなことは、このたび曹操が南下してくるまで、彼はなにひとつしなかった。今、周家が陰謀に頼る以外に私たちと戦う手段を持たぬのは、そのせいだ。
 それで彼を敵の首魁と思えと言われても、…私にはどうしても違和感が残る。
 確かに、今、孫仲謀と兄上が非業に倒れでもしたら、揚州は周家が纏めてしまうかもしれない。周瑜にはまだそれだけの存在感がある。
 しかし、陰謀を操ろうという時には、その、存在感そのものが邪魔になる。早い話が、目立ちすぎるのだ。
 それに、これまで何も為してこなかった彼を、周家が信頼するだろうか?私にはそうとも思えない。
 もっと目立たぬ誰かがいるのではないか。そう、例えば…
「周…何と言ったか、あの、甥御。彼はどうしている」
 陸瑁の問いに、使者は答えた。
「はい。戦況報告のため、柴桑に行かれるとのこと。明日あたり船が着くのでは…」
「ふう…む…」
 陸瑁の眉が、ぐっと寄る。
 母親譲りの優しげな面差しに、急に険しい色が浮かび。使者は、いぶかしげに首を傾げた。
「あの…?」
「兄上は、それについて、何か…?」
「いえ、特には…なにも…。子璋さまには、朝廷工作の方、計画通り宜しく頼むと…」
「そうか…」
 朝廷工作。
 局地戦でもよい、一勝さえできれば。曹操を、長江から撤退させることさえできれば。その時は、曹操が敗れたと尾鰭をつけて宣伝し、あわよくば足下を掬おうという…、当初からの計画。
 独断専行の曹操は、必ずしも朝廷でよくは思われていない。足下がぐらつけば、彼は都から動けなくなる。兵を引かぬまでも、彼本人は、この江南まで出て来られなくなる。
 それだけでもだいぶ違ってくる筈だ。彼本人が率いるほどの大軍を動かせる将は、彼の下にはいないのだから。
「そちらの手筈は整っている。心配ないとお伝えしてくれ。東部さま(張紘)もすぐにも動いてくださろう」
 だが…気になる。何か…気になる。
「その方は、どういう方だ?その、…周瑜の甥御。知っているか?」
「大人しい方ですよ」
 使者もまた、陸遜のもと、間者の洗い出しに関わった一人である。孫軍の将官たちについては、それなりに知識を持っている。
「何でも、お父上が重い病でいらっしゃるとか。親孝行な方で…、文を見ては一喜一憂しておいででした」
「文…?」
 …それだ!
「文は、よく来たのか?」
「ええ。再々…。え?あの…、子璋さま…?」
 それだ。
 もし、私が疑っているように、陰謀の糸を握る者が周瑜の他にいるのなら、…それはその甥に違いない。
 父親の病を…それは事実かもしれぬが…煙幕に使って、本家とやりとりをしているのだ。そうだ。そうに違いない。
 なれば。
「至急柴桑の族人に伝えよ。周瑜の甥から目を離すな。…彼の行動は、どんな些細なことでも、必ず私に伝わるように…」
「は…」
「あの兄上が、見落としをなさる筈はないが…、念の為だ。頼む」
「は!」



 案の定。
 柴桑の若い族人のひとりが、ほどなく、とんでもない知らせを持って来た。
 孫仲謀は合肥に兵を出そうと考えているようです、と。



 …ついに、そこまで。
 つとめて、表情を変えまいとはしたが…、陸瑁の眉に、僅かに、苛立ちが見えた。
 あの周峻が柴桑に来て間もなく。妙な噂が東呉を駆け巡り始めた。
 曰く、曹操が「周郎に敗れたのなら、悔しいとは思わぬ」と言ったとか。曰く、先代の孫討逆どのなら、自ら兵を率いて曹操を責めたであろう、今の孫仲謀は先代に及ばぬとか。曰く、孫仲謀自身曹操に勝てる自信がなかったから、周瑜を行かせたのだとか…
 噂だけではない。中小の豪族たちの間から、声が上がり始めている。我らの盟主を、孫仲謀にしておいてよいのか。我らは、周瑜をこそ、盟主に頂くべきではないのか。・・・・・
 孫家は、揚州のあるじというより、豪族たちの盟主という性格が強い。下からの声を、無視できなくなったのだろう。
 周家の策だ。
 この揚州に、不和の種を蒔き、孫家の足下を揺さぶろうとしているのだ。
 何故、皆、それが、判らぬ?
 打ち消そうと族人たちを動かしてはみたが、…どうにも、ならぬ。
 …いや、何故と問うには及ばない。打ち消せぬ理由など、判りきっているのだ。
 そう…、豪族たちの声は、言うのだ…

 周家の旗のもと、この揚州を一つに纏めて、もういちど天下の夢を…

 天下の夢。
 江の南に生まれた勢力が江の北を制するという…、あの、項王以来、江東の健児が抱き続けていた夢。
 孫伯符が鮮やかに描いて見せた夢・・・・・

 北の連中が、南の我らを、どのように扱って来たか。
 言葉や風俗が違うというだけで、蔑まれ…、官職一つ得るにしても、彼らの三倍の努力をし、三倍の賄を積まねばならぬ、我ら。
 その北の連中に目にものみせてくれんという気持ち…、それは私の中にもある。判らぬとは、言わぬ。
 ことに。中小の豪族たちにとっては、孫家の下で揚州が安定することは、勢力を拡張する機会を失うのと同意だ。己の家を大きくするためにも揚州の外へ出たいと…、そう思うのも、判らぬではない。
 だが。
「柴桑の一万が、合肥に向かえば、この揚州は空同然。…そこで、我らが兵を挙げれば…」
 若い族人を、陸瑁は、悲しげとも言える目で見た。
「挙げても、どうにもなりはしない」
「え…」
「孫仲謀は馬鹿ではない。江陵に廻している軍のどれかを呼び戻す筈。入れ違いに柴桑に着くでしょう。陸家の兵だけでは…」
「陸家の兵だけではありません!豪族たちから、呼びかけが来ているのです。陸家も共に決起しようではないかと…」
 …周峻め!そこまで、手を…!
 何故だ。…確かに魅力的な夢ではあるが…、何故、皆、いつまでも、その夢が、捨てられぬのか。
 もはや状況は…北がごたごたしていた孫伯符の時とは違う。何故、現実を見ようとせぬ!
 それほどに。どうしても捨てられぬほどに。孫伯符の夢が素晴らしいと見えたのか。
 あの男。どこまで陸家に祟る気か…
「それで、揚州を内乱の巷にせよと?それはならぬと、あれほど兄上が…」
 しかし。族人はなおも、言いつのった。
「私も、そう言いました。伯言さまから、妄動はならぬと言われていると。…そうしたら、彼らは、言うのです…」

 臆病な。総帥を人質に取られているからか?

「な・・・・・」

「子璋さま!こんなことを言わせておくのですか!」
 激昂した口調で、若い族人は言い。
 …駄目だ!
 陸瑁の顔から、血の気が引いた。
 己の家かわいさに決起に加わらぬなどと思われては…、若い者たちはおさまるまい。そうして、豪族たちに対しても、我らの睨みがきかなくなる。彼らの暴発を抑えられなくなる。
 それにしても…我らの総帥が人質扱いされているなどと、誰が教えた。軍の中にいなければ、そんなことは判らぬ筈…。
 …周峻め。
 思っていた以上に…やるではないか。
 駄目だ。私では、駄目だ…
 無力感が、手を、振るわせる。
 しかし。
 …気づかれては、ならぬ。兄上がおられぬ今は、この陸瑁こそが陸家を率いる者。動揺を族人に気取られてはならぬ。
「無論、言わせてはおけません」
 目に力を籠めて、陸瑁は言った。
「誰がそのようなことを言いました?見過ごす訳には、行きません」
「誰と…言われましても…」
 口外せぬと、約しでもしたか。若い族人は、口ごもった。
 …ああ…、父上!お力を…!!
「言いなさい。誰です!この陸家への侮辱、見過ごすわけにはゆきませぬ!」
 精一杯の威厳を込めて睨みつければ、渋々といったように、族人の口が開く…

「謝家の、使いの者が…」

 目の前が。暗くなるような気がした。

 孫仲謀の妻の一人は、謝家の姫君であったから。





「子明どののお力をお借りせねばならぬことが出来ました」
 弟からの急報を受けた陸遜は、急ぎ、呂蒙の陣屋を訪れた。
 いつも冷静な彼の品の良い顔に、珍しく、慌てたような色がある。ただごとではないと判ったのか、呂蒙の表情も、厳しくなる。
「とにかく、これをご覧になってください」
 渡された文に目を通したところで、呂蒙の眉が、吊り上がった。
「殿が、合肥に、兵を…?それも、張公(張昭)が指揮して?…馬鹿な。他に武官がいないわけでもないだろうに…。参謀としてならともかく…」
 まだ、決定の報せは来ていなかったのか。意外そうに、呂蒙が言う。
 意外なのも、無理はない。曹操が北へ戻った今のうちに、さっさと南荊州を固めて、領土を拡大する事の方が先決。それは誰しも思うこと…
「だいたい、大将は…、周都督は、このことを…」
 疑問を口にしかけた呂蒙を、陸遜が制した。
「まだ、続きがあります。最後までお読みになってください」
 言われるままに、呂蒙が、竹簡を繰る。

「え…っ」

 …土着の豪族たちの間から、「周瑜をこそ盟主に」「陸家もともに決起を」という声が、上がりはじめていると。
 抑えようにも、「それは総帥を人質に取られているからか」と言われる有様では…、いつまでも抑えきれるものではないと。
 呂蒙のおおきな瞳は。その行間に、陸瑁の悲鳴を読みとった。
「伯言?これは…」
「殿が、合肥に兵を出されたのは、このせいです。豪族たちに、自分も曹操軍を破ることが出来ると証明せねばならない…、どうやら、殿はそこまで追い込まれてしまったようですね」

 …兄上がこちらにお戻りになるのは、やはり、無理でしょうか…

「俺に頼みたいことって、これ?」
 いつもあかるい呂蒙の声が、僅かに震える。
「ええ、殿が私を柴桑に召還してくださるように…、側近の誰方かに働きかけていただけたらと…」
 豊かな声が、苦々しげに答える。
「豪族たちは、…その、朝廷側の者に乗せられているのですよ。現状はこれほど苦戦しているのに…、江陵城一つ、抜けないでいるのに、烏林の一戦(赤壁)で、曹操に勝ったように思い込んで。愚かな…」
 それでも、言えなかった。周家とは…周瑜とは言えなかった。周瑜を誰より大事に思っている、この、おおきな瞳には。
「このまま放置しておけば、孫権に叛旗を翻す者が出ないとも限りません。そうなれば敵を利するだけです。私が、殿のお側にいられれば…、陸家は孫家と手を結んでいるということをはっきり示すことが出来れば、多少は違うかと…」

「伯言」

 はっと陸遜が息を飲んだ。
 こちらを見据える、おおきな瞳。真っ直ぐに、悲しげに、けれど、どこまでも澄んで…
「言葉、選ばなくていいから」
 あかるい声を悲しみに曇らせ、呂蒙は呟くように言った。
「思ってるんだろ。豪族たち煽ってるの、…大将だって」
「子明どの…」
 彼からそう言ってくるというのは、完全に予想の他で。
「…お前も俺のこと阿蒙だって思ってるだろ」
 思われても仕方ないけれどと、呂蒙が小さく苦笑する。咄嗟に返す言葉がなかった。
「けど、俺の目、飾りじゃないんだ。…見たんだ。あの時。烏林で」
 お前を狙ってた敵の弓兵は、確かに大将の目に映ってた。でも、大将は何もしなかった。ただ、凍りついたように、見ていただけで…
「ならば」
 小さくごくりと喉を鳴らして、陸遜は懸命に言葉を探した。
「ならば…おわかりでしょう。周都督は、…あのひとは、この揚州を狙っているのです。豪族たちを語らって殿を殺し、周家の名のもとに揚州を纏め、漢朝に帰順させようと…」
 しかし呂蒙はきっぱりと言った。
「それ、違うと思う」
「子明どの…」
 見下ろした瞳にはしかし、責める色はなく。ただどこまでも澄んでいるだけで。
「あなたには判らないのです!あなたは周瑜に近すぎるから…」
 吸い込まれそうにな気がして慌てて口走った言葉に、呂蒙の首は横に振られた。
「そんなんじゃない。そんなんじゃなくて…、ええと…、勘、てゆっか」
「…勘」
 陸遜は思わず眉を寄せた。
「勘ったってただの当てずっぽうじゃないよ?…その、何でそう思うのかって、そこんとこ俺説明できないんだけど…」
 だからやっぱり阿蒙かなと、また、苦笑して。
「けど…、何てゆっか、俺には、判るんだ。大将は…公瑾殿は、殿に取ってかわろうなんて思ってない。それは確かだよ」
 そう言われても。信じる気になどなれなくて。
「では…、私の頼みは、聞けぬと?」
 陸遜の心を絶望が過ぎったが。
「ううん。…お前の言うの、もっともだと思う。お前どっちみち柴桑帰った方がいいと思うんだ。殿…、合肥では勝てないと思うし、誰が焚きつけたにしても豪族たち騒いでんなら…」
 勝てない?
「…それも勘ですか」
「勘っていうか、子布殿軍事全然駄目だもん。同じ二張でも、子綱殿(張紘)の方なんだよ、戦場の策とか得意なの」
 まったくなんで子布殿なんだろと、呂蒙が鼻に皺を寄せた。
「子布殿は融通きかないとこあるし、気が短くてすぐ怒るだろ?斬り込み隊長ならそれでもいいけどさ、すぐ怒って『突っ込めー!』っていう軍師なんてさあ…」
「あ…それは…」
 こんな時だというのに、陸遜は思わず笑っていた。確かに、あの張昭はそういう男だ。
 この人は、人を見る目がある。
 だったら…、周瑜は、やはり?いやしかし…これまでの経緯は・・・・・
「お前が疑う気持ちも判るよ。だから、公瑾殿にはこのこと黙っとくな。…殿に直接頼むじゃまずい?」
「あ…、それは…」
 今ここでは柴桑の状況が判らない。向こうの状況によっては、情報を手にした途端、孫権が不用意な行動に出てしまうかもしれない。
 踊らされているだけの豪族たちに下手に手を出したら、暴発が早まってしまう可能性もある。
「直接ではなく、何をどのようにお伝えするか、…あちらの状況をみて判断していただける方にお願いしたいと…」
「うん、判った」
 呂蒙はこっくり頷いた。
「じゃ、二張(張昭と張紘)の二人に至急便出すよ。それでいい?」
「はい」
 ありがとうございましたと頭を下げて、ほっと陸遜が微笑んだ。
「申し訳ありません。私が自分で動くべきなのでしょうが…」
「こういうのは当事者でない方がいいって。気にするなよ。頼ってくれて嬉しい」
 本当に嬉しそうに、呂蒙が笑う。
「…嬉しいのは、私の方です。よく…私を信じてくださって。私は周公瑾の敵方なのに…」
「何、言ってんだよ」
 それでも瞳は笑っていた。おおきな瞳は笑っていた。
「伯言が揚州の為にならないことはしないって、俺、知ってるもの」
 公瑾殿が殿に取ってかわる気はないってのと、同じだよ・・・・・



 だったら。だったらなぜ。周瑜は孫権を殺させようとするのです。
 弟の使者は口頭で告げたのですよ?謝家が既に動き始めていると。
 ご存じでしょう、謝家の姫君は…


 己の幕舎に引き返しながら。
 言いたくて言えなかった反論の言葉を、陸遜は心に呟いた。
 今ここでそれを公にすることは、謝という家を揚州から抹殺することに繋がる。
 …出来ればそれは、したくない。謝家とて踊らされただけなのだ。ここで恩を売り、恩義で縛ってしまえば、きっと…、こちらの手駒になってくれる筈。
 死ぬ者は一人でも少ない方がよい。謝家の族人もまた、我らと同じ揚州の民なのだから…

 …死ぬ者は一人でも少ない方が?

 そこで陸遜ははたと気づいた。
 呂蒙は確かにこう言った。「公瑾殿は、殿に取ってかわろうなんて思ってない」と。
 そうだ。こうは…言わなかったのだ。
 「公瑾殿は、殿を殺そうとはしていない」とは…!

 それでもあの瞳は澄んでいたけれど。それでもあの瞳は笑っていたけれど。

 …どういう、ことだ?

 あの瞳に何か底知れぬものが隠れているような気がして。
 陸遜はぞっと身を震わせた。