Act.1〜A.D.208 長江


 旅から、帰って。父に、挨拶をして。
 ようやく下がって来た若者は、なにか、疲れ果てたような顔をしていた。
「若…」
「寝かしつけてきた。…あれか、やはり…、私が留守で、寂しがっておられたのか?しがみついて離してくださらぬで困った」
「…ええ」
「そうか…」
 溜息は。夜のように、重い。
「お側を離れるのは、気が進まぬのだが…」
「若?」
 家宰の顔に、緊張が走る。
「では…ご本家のご意向は、やはり、出仕を…」
「うん」
 老いた家宰は若者に杯を持たせ、感慨深げに呟いた。
「いよいよ若も、都にのぼられますか」
「都ではない」
 その言葉に。酒を注ぎかけていた家令の手が、ぴたりと止まった。
「…若!まさか…」
「ああ」
 若者は、ほろ苦く笑った。
「叔父上の元に、出仕せよと」
 ぽたり。酒が、零れる。
「じいは…、じいは…」
「反対か?」
「…公瑾さまは、兄上があのようになられてから、ただの一度も顔をお見せになったことはない。お見舞いひとつ寄越されたことがないではありませんか!そのような冷たいお方に、若がお仕えになるなど…」
「じい」
 静かに一声、たしなめて。ぐいと、杯を呷る。
 喉を通って腹に落ちたものは、やるせなさにも似て。ただ、熱く、苦かった。

 若者の名を、周峻と言う。

 13年前のその日、どのようなことが起こったのか。それはもはや、誰にも判らぬ。
 菫卓が死に。混沌が支配する長安から、漢の帝は、脱出を図った。
 …そこで、何が起きたのか。
 本家の当主で、太尉の地位にまで昇った周忠は、その混乱の中で殺され。その周忠に付き従っていた、峻の父・周展もまた、凶刃にかかった。
 周展の友人が、半死半生で横たわる彼を助け出してくれなけかったら、そこで命を落としていただろう。
 そう。命ばかりは、取り留めた。…命ばかりは。
 凶刃は、周展から、その人格を奪ったのである。
 全ての記憶と手足の自由を失い、幼子の心に還ってしまった父が、本家の者に送られてこの邸に戻って来た時。あの時のことは…
 周峻は、首を振った。あの時の衝撃…思い出すことすら、耐えられぬ。
「あの時…、私どもは、急ぎ、公瑾さまに使者を立てました。兄上がどんな状態でいらっしゃるか…、そして、若はまだ幼くていらっしゃる。このままではとても家を保ってはゆけぬと。けれど、公瑾さまは、お返事すら…」
「仕方がない」
 言いつのる家令を宥めるように、周峻は緩く、手を振った。
「私は覚えていないが、叔父上が孫伯符どののもとに走った時、父上と叔父上は大喧嘩をしたというではないか」
「ご本家のご意向に背かれたからです!漢朝が正規に任命なさった揚州刺吏は、劉正礼さまでございました。支持するのが、漢朝に仕える周家として当然。敵対する陣営に走るなど、不忠以外の何でございましょう。周大尉のお立場もございます…」
 そうだった、…確かに。その時の状況は。
「まあ、…それにしてもだ。もう兄でもない弟でもない、二度と顔を見せるなと言うたは、父上の方だと聞いた。叔父上とすれば…、何を今更というお気持ちでいらしたのであろうよ」
 己に言い聞かせるような周峻の言葉。しかし、家宰は引かない。
「なれば!兄でも弟でもないと言われたならば、もはやこの家とは関わりのないお方の筈。それを、何故…、この家の財を勝手に持ち出して、孫家に貢ぐようなことをなされたのでしょう?まるで、兄上の病につけこんだように…。お陰でこの家は…」
 そうだ。
 自分がそれなりの年齢になり、我が家の財産を調べたところ…、それは、見事に食い荒らされていた。流石に、本邸の蔵と、近隣の僅かな荘園だけは残っていたが、目の届かぬ所にあった蔵も荘園も、全て、他人の手に奪われていて…
 叔父が、やったのだ。
 父上の病と、自分の幼さにつけ込んで。この家から、財を奪ったのだ。
 問えば…孫家の為、乱世を平定するという大義の為と言うのであろう。なれど、断りもなく奪ったからには、盗みも同然ではないか。許せぬと思う気持ち、憎いと思う気持ちは、確かにある。だが…
「そう。そのおかげで…、我が家はもはや、本家に頼らねば立ちゆかぬ」
 くっと。苦い嗤いを洩らして。周峻は、盃を空けた。
「その本家が、私に、周公瑾のもとに出仕せよという。なれば、父上は、本家で引き取り、良い医師にもかけてくださると。…これが、断れようか」
「若…!」
「判るか」
 周忠を失ったことにより、朝廷での周家の力は、情けないまでに凋落した。もう一度周家が力を取り戻すには、大きな功を立てること。これしかない。
 本家が狙う大きな功とは…、目下、実質的に揚州で割拠している孫家、この孫家を倒し、揚州を漢朝に帰服させること。
「叔父上を焚き付け、孫家を乗っ取らせようというのだよ。…何でも、孫仲謀どのは、叔父上を信頼してはおられぬそうではないか。叔父上もさぞご不満であろうと…、本家ではそう言うのだよ。」
 まだ若い声が、震える。
「そんな!そのような大事、容易くは…」
「本家も焦っているのだ。…近く、曹孟徳は、南に兵を出す」
「…それは…!」
 家令の表情が、引きつった。
「揚州の帰服が、曹孟徳一人の手柄になれば、もはや、朝廷で、彼を抑えることの出来る者はいなくなる。本家が焦っているのは、そういう理由だ。漢朝が曹家に乗っ取られるかもしれぬと…、それだけの状況が、都には、あるのだろうよ。」
「朝廷は、そこまで…。成る程、流石にご本家は、漢朝に忠実な…」
「忠実なものか」
 周峻の口調が、苦みを増す。
「所詮、本家は、己の家の…廬江周家のことしか、考えておらぬのだ。曹孟徳のもとでは、栄達の見込みがないのであろう。そうはいっても…本家の意向には逆らえぬが…」
 出来ることなら。父上のお側にいてさしあげたいのだけれど。
「私と離れたら…、お泣きになるであろうな。あれだけ懐いておられるものを…」
 抑え切れなかった涙が、頬を伝う。盃の酒に、小さな波紋。
「…若!」
「父上を…頼むな…」
 涙もろとも、呷った酒は。ただ、やるせない味がするばかり…





 憎イ 憎イ ナニモカモガ憎イ
 己ノ持タサレタ周ノ名ガ憎イ 己ヲ追イ詰メタ伯符ガ憎イ
 憎イ  憎イ  憎イ…!!!

 燃え上がる、曹操の軍が。
 さながら己の憎しみの炎のように、周瑜には見えた。

「よし!一気に突っ込め!曹操の首を…!!」
 
 中原に討って出て、天下を。それが彼の夢であり、そうして私の夢でもあった。
 約束したではないか。誓ったではないか。
「天下を取ったら仲謀にやる。俺は公瑾と西へ行くんだ」
「ええ、…どこまでも、ご一緒に」
 そうだろう、伯符。
 なのになぜ私は今ひとりなのだ。なのになぜお前はここにいないのだ。
 これは私たちが一緒に戦う筈だった相手、お前と二人でする筈だった戦。
 お前が…お前があんな馬鹿なことさえしなければ、お前は今ここにいた筈なのに…!
 許を急襲し帝を江の南に迎えるなど…、それでどうするつもりだったのだ。何の為に帝が必要だったのだ。
 そんなものがなくても私たちは天下を獲れただろう?役立たずの帝の首など斬り飛ばして、仲謀さまを新しい帝にする筈だっただろう?
 なぜ、待てなかった。私が荊州と益州を押さえて天下二分の形を作るまで、なぜ待てなかった。
 陸家と、顧家。あの二つの家をまずどうにかして、揚州をきっちり押さえてしまえと…、あの時私はそう言っただろう。なぜそれが聞けなかった、伯符!
 私が信用できなかったのか。…私が悪いというのか、私の所為だというのか。私とて好きで周家に生まれたわけではないのだぞ!
 その名がお前の役に立ったことも…あっただろう、伯符よ!
 お前の天下はもうあり得ない。私にはもう…夢も見えない。
 お前が…、お前が…、お前さえ・・・・・

 見下ろせば。陸遜が指揮する蒙衝。
 見事な指揮ぶり。ほれぼれするような動き。
 その動きすら…周瑜の憎しみを募らせるだけ。
 そのとき。燃え上がる敵の船の上に、周瑜は見た。陸遜の背を狙い、弓を構える、一人の敵兵。
 陸遜は、気づいていない。
 かけようとした声が、喉に、絡んだ。

 確かにそれが己に望まれたことではあったけれど
 それは そのような理由ではなく

 憎イ 憎イ ナゼオ前ハ生キテイル
 オ前ヲ殺スハズダッタ男ハ トウノ昔ニ土ニ還ッタ ソレナノニナゼオ前ハ生キテイル
 消エテシマエ 私ノ目ノ前カラ 消エテシマエ ソウスレバ ソウスレバ コノ憎シミモ…

「伯言!うしろーっ!!」

 響いたのは。
 秋の空のような、…澄んだ声。
 陸遜が、横っ飛びに、身をかわし。
 掠めて飛んだ敵の矢が、彼の血色の良い頬に、一筋赤い線を残した…

 …私は。今、なにを…?

 すれ違ってゆく、子明の蒙衝。
 あの、おおきな瞳が、一瞬だけ、悲しげに、私を見つめた。
 あの子は、気づいたのだろうか。
 私の胸に巣喰った、この、悪鬼に。
 叶わぬ夢を、それでも、追わねばならぬ…、それしか出来ぬ空っぽの胸に巣喰った、この、悪鬼…

 憎イ 憎イ 憎イ 
 陸遜モ 孫策モ 憎クテ憎クテ タマラナイ

 イッソ 何モカモ 燃エテシマエバイイモノヲ
 孫家モ 東呉モ コノ中華モ
 コノ憎シミトトモニ コノ叶ワヌ夢トトモニ 燃エテシマエバイイモノヲ
 ソウスレバ ソレデキット 私ハ 私ヲ 取リ戻シテ…

 闇色の瞳が、炎を映し。
 その、一瞬だけ。ぎらぎらと、燃え上がった。

 憎イ 憎イ  憎イ・・・・・!!!





 ふう。
 柴桑へと急ぐ、船の上で。周峻はひとつ、溜息をついた。
 …父上は、どうしておいでだろう。この寒さ…お風邪など召してはおられぬだろうか…。
 冷たい北の風が、長江の水を激しく揺らしている。
 つい先日、曹操の陣を焼き払った、あの東南風が、嘘のようだ。
 今。周峻は。
 戦況報告の使者として、柴桑を目指しているのである…


 初めて叔父に会った時。
 空に浮かぶ月のような冷たい美貌のあの顔に、動揺が走ったのを、私は見た。
「…父上?」
 ああ…そうだろう。
「…おじいさまに…私は、似ておりますか。父も私を『父上』と呼びます」
 胸を衝かれたように、目を伏せた。
 父の病をよいことに、自分の家から財産を剥ぎ取った叔父。見舞いの使者ひとつ、寄越さなかった叔父。
 強い者しか生き残れぬ…それが乱世。その財も、私欲のためではなく、江東平定の志の為に使われた。…あれだけの水軍、ただで出来るものではあるまい。
 己の感情はともかく、責めてはならぬと自分に言い聞かせてきた。けれど、せめて一言でも、詫びの言葉が聞きたい。…それが人情というものであろう?
 だが。
「…私に、仕えたいと?」
 一瞬でも動揺を見せたのを、恥じるかのように。再び揚げられた顔は、ただ、冷たく。
 なんと冷たい男であろうと…、私の心も一気に冷えた。
「本家の、ご意向です」
 許したとは思うなよと滲ませることしか出来ぬ、己の立場が情けなかった。
 …ちちうえ!いっちゃ、やだ…
 己の父である人にちちうえと呼ばれる私の気持ちなど、あなたのような冷たい男には判るまい。取り縋る不自由な腕を無理矢理振り解いて来た時感じた、胸が張り裂けるようなこの痛みも、あなたのような男には判るまい。
「父が、…本家の世話になっておりますゆえ」
「本家…」
 くっと、白い喉が鳴ったのは、…苦笑だったのか、それとも。
「そうか」
 ただ、それだけ。
 詫びの言葉ひとつ言わず、じっとこちらを見据えてきたのは。
「判った。とりあえずは、我が側に居よ。お前の処遇は、いずれ、考える」
 あれが…人の瞳と言えるのだろうか。まるで、まるで、闇の切れ端のような…。
 そんな男が私の叔父であることが、そんな男に仕えねばならぬことが。
 ただ、泣きたくなるほど、情けなく・・・・・

 
 従軍は、無論、初めてだ。死の恐怖がなかったわけではない。
 …何度も、思った。自分がここで死んだら、父はどうなるのか。本家とて…まさか見捨てはせぬであろうが、どこまで父を大事にしてくれるのか。
 …ちちうえ!いっちゃ、やだ…
 別れを告げた日。わあわあ泣いて、追いかけてきた哀れな姿。
 おそらく、私が死んだなどと言っても、理解できまい。帰ってくると約束したのにと、恨むに違いない。それを思うと胸が潰れそうな気がした。
 …それにしても。
 戦場にも、病父の近況報告の名目で、本家の使者は再々訪れた。
 本家は、本当に判っているのだろうか。
 担ぎ出したところで、あの叔父…、何ほどの役に立つのであろう。本当にあの叔父に、孫家を乗っ取らせることなど出来るのであろうか。
 世間の噂では、孫家の先代は、亡くなる前に今の殿に「内政のことは張公(張昭に)、外交のことは周瑜に聞け」と言い遺していったと言うが、孫家はどうも、…叔父を全く信用しておらぬように見える。
 何があったのか、そこのところは判らぬが…、現に、このたびの戦。
 左の都督は叔父だが、右都督として、歴戦の…今のご主君のお父上の代から仕えておられるという、程徳謀どのがおられ、寧ろ軍は、この方を中心に動いているのではないかという気がしたのだ。
  国の命運をかけた戦に二人の指揮官もあるまいと思うたが…、孫家が叔父を信用していないのであれば、その措置も、判らぬではない。
 叔父のもとで巧曹をつとめておられるホウ士元(ホウ統)どのにも、伺ってみたが、左都督という地位にありながら、殿が叔父に政や軍事について意見を求められたのは、あの…開戦のとき、一度だけだったという。
 あの火攻めにしても、…そうだ。
 策を上申してこられた黄公覆どのも、程徳謀どのと同じ先々代からの臣でいらっしゃるが…、あれは上申などというものではなかった。
 公覆どの、徳謀どの、そして呂子明どの。お三方で完璧に練り上げたものを持ってきて、「これで行かせてくれ」と仰有った…、あれはそういう形だった。叔父の意見など初めから入る余地すらなかったのだ。
 断ろうにも、徳謀どのが目を光らせて…、そう、あの目がはっきり言うておられた。よもや否とは言うまいなと。
 だから叔父上はあの策を容れた。本家の意向に添う為には、嬉しくはない策であったのだが。
 あの策が嵌ってしまえば、曹操は長江沿いに新たな拠点を築けなくなる。そこまでは曹操にさせると…、本家の策はそうであった。
 曹操の圧力がなければ、叔父が孫仲謀を殺し孫家を乗っ取ったとしても、人々が漢朝に帰服することを肯んじるかどうかが判らぬではないか。
 しかし…、叔父はそのようには動けなかった。徳謀どのの圧力に、叔父は抗しきれなかった。
 もしまだ叔父が孫家の中心にいるのなら、そのようなことはなかっただろうに。
 叔父はもう…かつてそうであった位置から、外れてしまっているのだ。私にも、仕えてみるまで判らなかったことだが。
 本家はそのあたり、判っているのだろうか?それとも、所詮はただの旗印、妙にあれこれ動かぬ方が好都合だとでも思っているのだろうか。
 まあ、父上を人質に取られたも同然の身の上では、本家の言うままに動くことしか出来ぬが…

 そこまで、考えて。
 周峻は僅かに目を細めた。

 なぜだ?
 まさか…、あのことが、孫家に知れているのではなかろうな?
 いや、そんな筈はない。
 それなら孫家はとうに叔父を殺していた筈だ。殺さぬまでも、咎めるくらいのことはしていた筈だ。
 だが、とにかく…、今の叔父は、ただの武官の一人にすぎぬ。
 そう。
 叔父がまだそれなり重きを置かれているのは、ただ、あの水軍あるがゆえ。我が家の財を奪って叔父が作り上げた、あの水軍…。

 皮肉な笑みに、唇が歪む。

 孫家はもう、名門・周家の名がなくとも、揚州を保ってゆけるようになったのだ。でなければ、仮にも周家の縁に連なる者を、ただの武官として扱いはすまい。
 孫家の方でももう周家の名になど用はないのだ。用がないどころか、この地に割拠するためには、叔父にぶら下がっている漢朝という名の紐が邪魔なのだ。
 そう、…それだけのことなのだろう、多分。
 そうなったのは…
 一つの顔が、脳裏に浮かぶ。
 まだ若い、端正な顔。どんな時でも落ち着いて、内心を表にあらわさぬ、穏やかな…
 …あの男。
 あの男が孫家と手を組んだから…、孫家は揚州を保っていられるのだ。
 まさかあの男がそうするとは本家も思わなかったのだろう。彼の家の先代当主を殺したのは、他ならぬ孫家の先代であったのだから。
 しかし、現に彼は孫家と手を組んだ。そうして、揚州を周家の旗の下に糾合するには、彼の存在が邪魔になる。
 だから。
 戦の間ずっと私と叔父は、あの男の名を貶めようと全力を尽くした。
 あえて汚い仕事をさせ、人望をなくすようになくすように仕向け…。
 それで少しでも不満を見せるようなら、曹操と通じたとして処刑する。あの男はまだ若い。そこまで追いつめれば、不満のひとつも口にするだろう、…そう、思って。
 けれど、何という男であろう。よくもあそこまで忍耐出来たものだ。私なら…、私ならとうに、本当に裏切りに走っていただろうに…。
 あの男・・・・・

 …私に、勝てるのだろうか。

 宵闇に浮かんだ溜息が、見えぬ未来に、白い影を落とした。

 あの男。
 陸家の総帥、陸伯言。