Act.5〜A.D.208 長江
夜が、明ける。
風が、程普の戦袍を、吹き上げる。
昨日までの北風ではない。この長江に親しんだ者たち誰もが予期していた、東南の風。
漁民に扮した兵…あの若者だ…が届けた黄蓋の書状は、もう、曹操のもとに届いているはずだ。
「糧秣が呉都から届く。その護衛を命じられた。これから出航するが、明朝を期して、糧秣ともども貴軍へ投降する…」
黄蓋と自分と呂蒙の3人で、夜を徹して練り上げた計画。
穴は、なかったろうか。こうして風に吹かれていると、立てた策への不安が、胸を噛む。曹操は、信じてくれるだろうか。黄蓋は、「わしの弱みを握ったと思うておるから、疑わんじゃろう」と呑気に構えていたが…。
もし、曹操が、疑ったら…。
灰色の髭の奥から、深い溜息が漏れる。
他にも、懸念はある。
始めに策を聞かされた時の、あの、公瑾の顔だ。
ひどく驚いた顔をして。まじまじと呂蒙を見つめて。「子明…、お前が…」と言った時の顔。
あれは…、あの時の顔だった。
ご先代の葬儀の前。全軍に武装させて公瑾を迎えた殿に、よどみなく忠誠を誓った、あの時の。
もしもあの時、ひめさまが懼れておいでになったように、周家が伯符さまを暗殺させこの孫家に取って替わろうとしていたのだとしたら、…殿は彼らの目論見をくじいたことになる。
ならば。
このたびは儂らと子明の策は、公瑾の目論見をくじくものであったのではないか?
儂らの策を容れはしたものの…それは当然だ、儂とて軍では公瑾に劣らぬ力があるし権限も与えられているのだから、軍の秩序の中では、独断で儂の策を退けるようなこと、いかな公瑾でも出来よう筈もない…、公瑾は今日、予定通りに動いてくれるだろうか?
もし。公瑾の旗艦が妙な動きをし。我らの策を妨げるようなことでもあれば。
公覆は…、公覆は・・・・・・
…疑いたくなんてないけど…、こんなこと言いたくないけど、もう、奪われるのは嫌なの!嫌なのよ!…
「文台さま…」
祈るように呟かれた名は、娘に自分を「とーたん」と呼ばせた男のもの。
若き自分が惚れ込んだ、あの、日輪のような男のもの。
その時であった。
心の思いに答えるかのように、滑ってきた、ひとつの船団。
東南の風に翻るのは、…ああ。「黄」の旗だ。
…どうか、我らにご加護を…!!
その男にか。あるいは天にか。強く。心に念じて。
「全軍!出航準備!!」
鞭のようにしなう程普の声が、垂れこめた冬空を切り裂いた。
戦うのだ。戦わねばならぬのだ。勝つために。生きて帰るために。誰からも何も奪わせぬ為に。
わしらは、まちがってはおらん。
「よし。『孫』の旗を、倒して、な」
傍らの兵が、頷く。
「旗を、倒せーっ!!」
叫んだ声が、裏返っている。黄蓋は、苦笑した。
まあ、それは、怖いわなあ。これだけ、敵の近くに来て…、これから、火船を仕立てて、突っ込もうというのじゃから。
そういう自分の膝も、さっきから、笑っている。
さて、曹操は信じてくれるだろうか。まあ、7割方は、大丈夫だと思うが…、ここで疑われては、わしらは、終わりじゃからなあ。
「投降!」「投降!」兵が、口々に、叫び始める。
もう一度、この『孫』の旗が揚がる時。その時が、勝負。火船の水夫たちは、じっとこちらを注目していることだろう。
曹軍から、一斉に、歓声が湧き起こった。
曹操は、信じたのだ!策が、嵌った!
「黄中郎将!」
傍についている兵の、声が、うわずる。
「まだだ。あと、もう少し…」
離脱できる、ぎりぎりまで、近づいて。ここが、儂の腕の見せ所。
あと、もう少し。あと、一艇身…
今だ!!
「旗を、揚げよ!!」
長年の戦友の船が、曹操の陣に近づいてゆく。
韓当の鋭い目が、己の旗艦の舳先から、じっとそれを見つめていた。
東呉軍が、黄蓋の船団の動きを不審に思い、別の船団を繰り出す。もし裏切りが本当なら、当然あることだ。不自然に見えぬ頃合いを見計らって船を出さねばならない。
「よし!出る!」
彼の任務は、黄蓋の離脱を護衛すること。
恐らく、敵は、大船の隙間から小型の蒙衝を繰り出し、黄蓋の船団を捕捉しようとするだろう。それを妨害するという役まわりだ。
「いいか!全速で進め!」
ここで息の合った動きをせねば、公覆が、危ない。
長年の戦友を、こんな所で死なせてなるか。戦って、勝って、…勝利の杯を共に干すのだ。
握りしめた拳が、僅かに汗ばむ。
曹操は、信じたのだろうか。儂が駆けつける前に、攻撃に転じたりはせぬだろうか。歴戦の韓当の胸も、早鐘のように打ち続けている。
かすかに。
曹軍のあげる歓声が聞こえた。
よし…!
会心の笑みが、武骨な顔を輝かせる。
あとは、公覆。お前次第…!!
誰もが見つめた。敵の船団。祈るように。希うように。
そうして。
そうして・・・・・
「おお!」
最初の煙に呼吸を合わせるように、東呉軍のそこここから、声が上がった。
「よし!急げーっ!!」
風が、強まる。帆が、はためく。
曹軍のあちこちで、煙が上がり始めた。一つ。また、一つ・・・・・
やがて、煙は、炎と化し。
阿鼻叫喚の渦の中に、曹軍の大船団を飲み込んでいった。
敵の蒙衝が、近づいてくる。
こちらはあまり兵士を乗せていない。接舷されて斬り込まれればたまったものではないが…
ここまでは、順調だ。火船の水夫はほとんど収容出来たし…、思った通り、火船に突っ込まれた目の前の船は、火を消すのに気をとられて、ろくに矢を射かけても来なかった。北から出てくる船は、韓当がうまく相手をしている。
こちらの大船は、大方、戦闘水域を離脱したらしい。あとは逃げ遅れた者がないか確認して、旗艦が離脱すれば、黄蓋の役目は終わる。
だが。
「…あっ!いかん!」
逃げ遅れた小舟が一艘、必死にこちらに漕ぎ寄せてくる。それを遮ろうとするかのように、敵の蒙衝が飛び出して来た。
「させるかっ!船を寄せろ!」
幸い、風は追い風。
黄蓋の旗艦はするすると小舟に近寄り、盾になる形で、敵の蒙衝との間に割り込んだ。
「矢を射かけろ!水夫の収容を急げ!収容し次第全速で離脱ーっ!」
黄蓋自身も弓を執り、敵側の舷側に駆けつけた。
蒙衝に韓当の船が追いついてくれた。接近戦が始まる。
…ふう。
もう、大丈夫か・・・・・
「黄中郎将!収容、完了しました!」
「よし、全速離脱…」
衝撃が、肩を、貫いた。
何…っ?
ふわりと、宙に浮く感覚。
次の瞬間、凍りつくような水が、黄蓋の全身を包み込んだ。
空気を求めてもがいてはみたが、重い装備が邪魔をする。
胸が。破裂しそうになった。。
思わず開いた口に流れ込んで来たのは、空気ではなく、冷たい水…
息が…詰まる…
最後の瞬間、何かが手に触れたように思ったが。
黄蓋の意識は、そこで、途切れた。
「…っ、何だこれ」
「人間だよ、人間。どっかの爺さんだ」
「どした?」
「いや、俺の櫂に、何か引っかかったから…、おい、手ェ貸してくれ!」
「爺さん!爺さん、しっかりしろ!おいちょっと、水吐かせろ、水!」
「…爺さん!爺さん…って、こら、ダメだぜ。どーする?」
「死んだ奴は厠へって、言われたろ」
「でも…、なんか、偉そうだぜ、こいつ…?いいのかよ」
「死んぢまったら、偉いもへったくれも、あるかよ。とにかくそれ、何とかして、早く漕げ!」
「ぐっ!!」
堅いものの上に投げ出されて、左肩に、激痛が走った。
…まだ、生きているのか…?
ぼんやりと開いた目が最初に捉えたのは、床に開かれた、…四角い穴?
たぷたぷと、その下に長江の水が見える。
「?!!」
何だ?何で、わしは、厠なんぞで倒れておるのだ?
必死に廻りを見回すと、どうやら他にも誰か放り込まれているようだ。
いったい、何が、どうなったのか。
とにかくはっきりしていることは。なんぼなんでも、厠なんぞで死にたくはないということだ。
戦で命を落とすのは、覚悟していたが…、厠は。厠だけは、イヤだ!
「どんどん射ろ!指揮官を狙え!」
外で聞き覚えのある声がする。
「ぎ…ぎ、こうっ!!」
懸命に声を張り上げた。激痛。意識がまた、すうっと薄れる。
「えっ?!」
扉が、開く気配。
「公覆!公覆、何で…?!おい、早く、軍医を…!!」
懐かしい塩辛声があたふたと命じるのを、黄蓋の耳は、かすかに聞いた。
ちゃんと、はらいっぱい、食うこと。
女房子供に、はらいっぱい、食わせること。
あのころわしが考えておったのは、それだけじゃった。いま皆が考えておるのも、そんなもんじゃろう。
じゃがな。
それが悪いなどとは、誰にも言わせん。
わしは、まちがってはおらん・・・・・
「厠に死者を放り込むとは…お前いったい何を考えておるのだ!」
怒り狂った程普が、韓当をつかまえてとっちめている。
「戦闘中に死体がコロコロ転がって来たら、お前…、邪魔だろうが…」
「それなら船室一つ空けるとか、何とでもやりようはあろうが!」
「厠だと、掃除が楽であろう?血で汚れても、水を流せば済むし…」
「馬鹿者っ!!」
程普の眉が吊り上がり、韓当がびくりと首を縮めた。
「それじゃから、お前は、兵に好かれんのだ…」
懸命に戦って、国の為に命まで捨てた者を、ゴミと同じように扱って。そんなことで兵がついてくるわけはない。
「なあ、義公…。あいつらはみな、人なのだ」
人である以上。それぞれに夢があり、それぞれに家族がある。
犠牲になったのは命だけではない。一人一人の抱いていたささやかな夢であり、彼が養っている家族であり、彼の帰りを待ち続ける恋人であるのだ。
…とーたん…
死んだ誰かをそう呼んでいたいとけない声もあったであろうに。
「効率しか見ず、それらを全部踏みにじっていくような者に、軍を預かる資格などないわ!」
いつになく厳しい程普の声に、韓当は俯いて唇を噛んだ。
遠く。長江が見える。対岸の黒い煙がこの陣からも見える。曹操の陣がくすぶり続けているのだ。
本隊は陣を捨て北帰したと聞いた。ここに拠点を築くことだけはどうやら諦めてくれたようだ。だが、まだ、江陵に、夷陵に、彼らの拠点は残っている。
長江沿いの城は、どうあってもこちらが押さえねばならぬ。長江の制水権を奪われれば、東呉の命運は尽きるのだ。
まだ、戦は始まったばかり。
「湘君!!今日逝ったのは、みんないい男ばっかだぜ!しっぽり可愛がってやってくれよーっ!」
いい声が水を渡って響いてきた。甘寧だ。
傍らに立っているのは、あれは…呂蒙か。
二人して今日の犠牲者を弔い、江の女神に供物を捧げているようだ。
見守る二将の目の前で、酒が江に注がれ。この季節に、どこで見つけてきたのだろう、沢山の花が投げ込まれた。
その花が波に抱き取られ、暫しの逡巡のあと、ゆらゆらと江を流れ始める。
「兵に慕われる者は、ああしてちゃんと弔いをしてやっているだろうが。まあ、あれはちょっと、下品だが…」
流れる花を目で追いながら、程普が低く囁いた。
「子明…、いつの間に、あそこまで成長したのだか。阿蒙だ阿蒙だと思っていたが…」
「そう、だな…。今日の策も…子明だって?」
いつになく素直に、韓当が呟く。
「ああ、一緒に考えた。死ぬ奴がすこしでも少なくなるように、…徹夜でな」
「そうか。あの阿蒙がなあ…」
目が追ったのは、遠い日の幻。
眩しいほどに輝いていた二人の若者と、懸命に彼らを追いかけていたおおきな瞳の少年。
その若者たちの一人は死に、一人も変わってしまったが、…あの少年だけは変わらなかった。
瞳にあの日の輝きを留めたまま、懸命に成長して、立派な大人になって。
「みんな好き」だから。「みんな大事」だから。「みんな」のために、一生懸命・・・・・
「儂は…阿蒙以下か…」
程普は黙って目を逸らせた。
花が。江を流れる・・・・・
輿に乗るなんて、女みたいで、格好わるいからイヤだというたのに。
みんなして、わしを年寄りあつかいしおって。
なに、こんな傷。しばらく大人しくしておれば、じきに、治る。それより、あの冷たい水が…。
こほこほと、咳が出る。治りかけた傷が痛んで、黄蓋は顔を顰めた。
ああ、やっと家が見えてきた…おや?門のところにいるのは…
「あんた!あんたーっ!!」
「降ろせ!降ろしてくれ!」
泣きながら中年の女が駆け寄ってくる。よろめくように黄蓋も走り寄る。
顔をくしゃくしゃにした女は、愛しい夫に駆け寄ると、傷ついた躰を労るようにかき抱いた。
門の中から、若い男と女、そして小さな子供たちが、わらわらと飛び出してくる。息子と嫁、そして、孫…
輿を担いできた兵たちが、つられたように目を拭った。
きっと、手柄を立てて、戻るから。
そうしたら、ちっちゃい家と、土地を買おう。
平凡な毎日でいい。一緒に、畑を作って。長江で、魚を捕って。山羊も飼おう。
ずっと、一緒に暮らそうな。一緒に働いて、子供を育てて。年を取ったら一緒に白髪頭になって…
叶わなかった、夢の数だけ。
果たされなかった、約束の数だけ。
湘君に抱きとられた、魂の数だけ。
花が。
江を流れる。