Act.3〜A.D.208 長江
その夜。眠れなかったのは、程普だけではない。
深夜。
どうやってみても寝付けなかった黄蓋は、とうとう諦めて外に出た。
一晩やそこら眠らなかったからといって、体調を崩すようなやわな躰ではない。ならば、無理に眠ろうとして苛々と時を過ごすよりは、船の見回りでもしている方がよほどよい。
…有意義とかいうやつじゃな、うむ。
寝静まった陣内を、ゆっくりと歩く。
降るような星の光の中。松明の灯に、己の息だけが白い。
その、彼に。
「黄中郎将どの…」
闇の中から、囁きかけた声がある。
「何者?!」
素早く身構えた黄蓋が、油断なく周囲を見回した。しかし、どこにも人影はなく。
「あなたのお為を思う者です」
「なに…」
曹軍の、間者?
声がした方角にじっと目を凝らす。今度は見えた。朧な星明かりの中。藪の際、木とは違う、一つの影。
間者だと呼ばわろうと、大きく息を吸い込んだ…が。影の背後。何か、動くものがある。
…もうひとりいるのか?いや…
その人影らしきものは、頻りにこちらに手を振っている。どうやら自分に合図を送っているようだ。
すらりとしたその姿に、どこか、見覚えがあるような気がする。
…もしや…、呉の内偵か?
ああ…、なるほど。
間者を捕らえる為には、動かぬ証拠を押さえねばならぬ。いきなり捕らえてしもうたのでは、何を企んでおるのか、判らぬな。
うむ。まずはもう少し喋らせねば。
ごくりと唾を飲み込んで、黄蓋は声を抑えて尋ねた。
「わしに…、何の用だ?」
相手の方から、笑ったような気配。
「今朝の、周都督とのやりとり。見せていただきましたよ。それから…、幕舎での、程都督とのお話も、聞かせていただきました」
…しまった!
黄蓋の表情に、動揺が走る。
あの時は、相手が徳謀だからと気を許して、とんでもないことまで口走ったような気がする。
そんなもの、公瑾の耳に入りでもしたら…
その動揺を見透かしたように、声は、こんどははっきりと笑った。
「ええ、しっかり聞かせていただきました。あなたは、孫家の天命を、信じてはおられぬようだ」
そして。誘うような囁きが、しっかりと、聞こえた。
「いかがでしょう?われらの許に来て、漢の帝にお仕えになるというのは…?」
諾と言わねば。
周都督に告げる。あなたは孫家の天命を信じてはおられぬということを。
そう囁いて、声は、風のように消えた。
…困ったのう。
自分の幕舎に戻ったところで、黄蓋は大きな吐息をついた。
今の周瑜が、自分に異を唱えるものはすべて敵とみなしかねないことは、今朝のあれでよく判っている。アレを変なふうに告げられたら…、この首、飛ばされるやもしれぬ。
…なんでこうなるかのう。
まあ、どうやら、こちらの内偵が、あやつのあとをつけていったようだし、…自分が慌てて動かずとも、そのうち何か言ってくるだろう。
間者の割り出しは、陸伯言の仕事だと聞いた。
あの伯言という男、頭がよさそうじゃったからな。こちらが腹を割って相談すれば、何とか考えてくれるにちがいない。わしの悪い頭でいくら考えたって、ろくなことは思いつかぬに決まっている。
なれば、考えても仕方ない。
腹を括った黄蓋は、牀にごろりとひっくり返った。
…それにしても。
曹操め、少しボケたのではないか。
栄耀栄華は思いのままだというが、わしの家族は、呉都におるのだ。
わしが裏切りでもすれば、家族が即刻殺されるのは、知れたこと。普通の人間がそうあっさり家族を見捨てられるものかどうか、考えてみればわかるであろうに。
…それとも。
ふと、思い出した。昨夜の、呂蒙との会話。
・・・・・荊州の商人が、曹軍に薬を沢山納めたって…。疫病が、流行ってるみたいですよ。
普通の感覚を失う程、焦っているのか?
それは、あり得る。子明とは、とにかく拠点だけでも作っていったん北へ引き上げる気だろうと話したが、これだけの軍を動かしたのだ。何らかの戦果をあげて戻らねば、納得せぬ輩もいるに違いない。
出来ることなら、孫軍と戦い、局地的なものでも良いから勝利を得たいはず。
緒戦…、出会い頭にぶつかった時は、こちらの水軍が機動力を生かして、向こうに損害を与えている。このまま帰れば、口さがない者たちは、曹操が負けて帰ったと言うにちがいない。
あいつの独断専行は、必ずしも朝廷で喜ばれていないと…、そう、子綱殿(張紘)だったか、言うておられたし…。
そう…、一戦して、勝って…。引き上げるにしてもそうしたかろう。
しかし、一戦するとなれば、戦は必ず長江での水戦になる。
水軍での戦となれば、負ける我らではない。地の利…水の利というべきか?があるし、機動力は圧倒的だ。曹操も勝てる自信がないのであろう。
ああ…船はそうじゃ、子明が言うておった。鎖で繋いでしもうておるのじゃな。なれば…、船を動かしてどうこうという話ではないか。
ならばなぜわしを引き入れようとするのじゃろう?何かそれで…得をするのか、奴は?
黄蓋は、自分が投降する場面を思い描いてみた。
孫軍にはさぞかし、動揺が走るだろう。公瑾は意外に気が短いから、かあっとなってわしの船を追いかけてくるに違いない。
公瑾本人でなくとも、誰かは出る。うむ。裏切り者を見過ごす訳にはゆかぬからな。
なんじゃ。わしは…エサか。
逃げるわしの船が、曹操の陣にたどり着く。そうして、追跡してきた船が射程に入るのを待って、弩の斉射でも何でも浴びせて、船を一艘でも沈めるか将の一人でも討ち取るかすれば…。
うむ。これじゃな。それで一応勝ったような形には出来るものな。弓を射るならしっかりと安定させた船からの方が有利じゃし。
ああ、なんじゃ。そういうことか。
まあ…、ということは、わしの腕を買ってくれてもおるのじゃろうな。操船の下手な将では、あちらの陣に行き着くまでに追いつかれて・・・・・
がばと黄蓋が身を起こした。
…あちらの陣に行き着く?わしの船が?
昼間の呂蒙の言葉が蘇る。
・・・・・船を、そこまでどうやって近づけるか。それが、問題だって。でも、それさえ何とかなれば、火攻めが一番いい…
これじゃ!
思わず零れた会心の笑みを、黄蓋は慌てて押さえ込んだ。
いや、…いかん。まだ浮かれてはいかん。
このままではただの思いつきじゃ。…どうやって実行するか、よう考えねばならん。
本当に投降するわけではないのだ。…突っ込んでそれなりというわけにはゆかぬ。戻って来なければならぬのじゃから…、そこのところを、よう考えねば。
そう…、戻って来なければならぬ。戻って来られる策を練らねばならぬ。
・・・・・キット、手柄ヲ立テテ、戻ルカラ…
わしは死なせるために兵を預かっておるのではない。兵たちとて死ぬために兵になったわけではない。
あれらには皆、帰りを待っている者がおる。
・・・・・ソウシタラ、所帯ヲ持トウ。チッチャイ家ト、土地ヲ買オウ…
うむ、…兵の乗った船を突っ込ませるわけにはゆかぬ。それ用の船は別に用意せねば。
軍船では勿体ないな。何かないか…、何か…。
・・・・・平凡ナ毎日デイイ。一緒ニ、畑ヲ作ッテ。長江デ魚ヲ捕ッテ。山羊モ飼オウ。
ああ。こういうとき、頭の悪さが恨めしいのう・・・・・
・・・・・ズット、一緒ニ暮ラソウナ。一緒ニ働イテ、子供ヲ育テテ。
そうじゃ。
ちゃんと、はらいっぱい、食うこと。
女房子供に、はらいっぱい、食わせること。
かつてわしが考えておったのは、それだけじゃった。
わしの兵たちとて、そうじゃろう。誰しも思うことは同じじゃろう。
わしらの国を守るため、勝ちたいとは誰もが思うておる。じゃが…、それと同じくらいの強さで、こうも思うておるはずじゃ。
死にとうはないと。
できることなら生きて帰りたいと。無事に故郷に凱旋したいと。
そうとも。
それが当たり前なのだ。それが自然な気持ちなのだ。
それが悪いなどとは、誰にも言わせん。
それでいいのだ。
わしは、まちがってはおらん。
さぞかし黄蓋が悩んでいるだろうと、ためらいがちに幕舎を訪れた陸遜は。
「おお、伯言!」
満面の笑顔で迎えられ、きょとんと目を瞠り、絶句した。
周囲に怪しいものはおらぬかと糺されて、念のため、幕舎の廻りに、自分の兵を配置する。
「さきほどは…」
「うむ。大きな魚が、向こうからとびこんできたのじゃ!」
「さかなが…ふねに、ですか?」
ぽかんと見つめる瞳に向かって。
黄蓋は。曹軍を破る秘策を、打ち明けた・・・・・
「俺が考えるんですか?!」
夜中にたたき起こされたおおきな瞳は、まだ、半分寝ぼけているようで。
「俺…、俺なんか、そんな…」
「何を言うておる!」
声を厳しくしたのは程普。
「敵陣の偵察をしてきたのはお前だろうが!お前の助言がなければどうにもならぬ」
睨まれて首を竦めたところは、やはり、これまで通りの阿蒙に見えた。
だが。
「火攻めを思いついたのは、お前じゃろう?ほれ、燃えるものいっぱい積んどかなきゃとか、兵はあんまり乗せられないとか、まともなことを言うておったではないか。あれじゃろう…」
お前もあれからいろいろ考えたのではないのか。
「あ…、はいっ」
黄蓋に優しく促され、嬉しそうに笑った顔は、どこかそれまでと違っていて。
「糧秣船に見せかけたらいいんじゃないかなって思ってたんです」
思いも寄らぬ言葉であった。
これまで彼の成長を見守ってきた二人の将が、ほおと感心した顔になる。
それに励まされたのか。はにかみながら、呂蒙は続けた。
「軽いものしか積んでないと喫水線下がらないから、遠目に見てもあれって思うでしょ?だから…わからないようにするんだったら、喫水下げなきゃならないでしょ?」
それには、重いものを積めばいい。
「てっとりばやいのは石ですけどさ、それだとやっぱ見てすぐわかっちゃうし。で、どうしたらいいかなって考えて…、藁とかで隠すかなって思って。だったらほら、米運んでくるとき、俵詰めにして来るじゃないですかあ。あんな感じにしたら…」
「それじゃ!」
黄蓋も頷いた。
「枝や何かも俵にして並べておけばよい!ついでに魚油、あれをかけておけば」
普通の船ならば臭いで気付かれもしようが、糧秣船となれば、魚の臭いがしてもさほど不自然ではない。
「うむ…、燃えやすくなるから、なおよいな。こちらから日を指定する上でも、都合がよい」
糧秣がその日に届くと、その護衛を命じられたと。これは本隊を離れる好機、その日に糧秣を持って投降すると言えば。
「遠征では補給に苦労するものだ。糧秣を持ってと言えば曹操も喜ぶだろう」
「おお。本当に船を来させればよい。枯れ枝や何かはこのあたりで集めれば間者の目にも留まろうが、離れたところでなら…」
「うむ、そうだな公覆」
よう考えたな、子明。
軍の長老二人に誉められ、呂蒙が照れくさそうな顔をした。
「そんなんじゃないです。俺、ただ…、みんなの役に立ちたくて…」
澄んで輝くおおきな瞳。
「泣く奴ひとりでも少ない方がいいじゃないですか。だから…」
一生懸命、願ったから。
きっとその気持ちが、天に届いて。だからこんなことを思いつけたのだと。
「…おれ、みんな、好きだから…」
はにかんで。笑って。
ああ、…そうじゃ。そうじゃな、子明。
できることなら生きて帰りたい。生きて帰って来てほしい。
無事に故郷に凱旋したい。勝って帰ってきてほしい。
兵たちはそう願っている。彼らの家族もそう願っている。
それが当たり前なのだ。それが自然な気持ちなのだ。
それが悪いなどとは、誰にも言わせん。
わしは、…いや、わしらは、まちがってはおらん。
じゃから。
これでいこうと、黄蓋は言った。
「いけるとも。きっと…ご先祖さまがお守りくださろう」
わしらは。まちがってはおらん。