Act.3〜A.D.200 柴桑

 その夜。
 明かりを消した幕舎の中。眠れぬままに闇を見据える老いた男の姿があった。
 程普である。



 闇の中。
 過ぎ去った眩しい思い出が、かげろうのように儚く揺らめく。

 立っているのは、若き自分が惚れ込んだ、あの、日輪のような男。男の腕に抱かれているのは、まだ幼い娘。
「ああほら、とーたんが来た、仁!とーたんに教えてもらえ!」
 自分を見るやいなや、娘をこの腕に押しつけて。
「頼む、ちいと相手してやってくれ。ここんとこ何見てもどうしてどうしてってうるさくてよ」
 子守を押しつけられていいかげんうんざりしていたのか、あははと笑って、手を振って。
「俺は策の剣の相手してっからな!」
 一目散に逃げていった、あの、懐かしい背中。見上げてくる幼子の無垢な瞳。
「あのね、とーたん」
「はい」
「きょうね、…あかちゃんくるって、ばあやいったの」
「そうですよ。仁さまに弟御か妹御がお生まれになるのです」
「あかちゃんて、ははうえのおなかにいるのよね?」
「ええ。このところお腹が大きくてらしたのは、それでですよ」
 何となく、なぜあの方が逃げたのか、判ったような気がした。
「ねー、どうやっておなかにはいったの?」
 ほら来た。
「ちちうえはね、ちちうえがいれたんだっていうの」
「え」
 あの時儂は、逃げた男を本気で恨んだものだ。全く…、娘に何を言っているのだか。
「ねえ、どうやっていれるの?」
「さ、…さあ」
「とーたん、しらない?」
「え…ええ。きっと…、お父上は特別なのですよ」
「どうして?」
「え?」
「どうしてちちうえはとくべつなの?」
「どうして、って…」

 どうしてとーたんはしらないの?どうしてばあやにはできないの?
 どうして?どうして?どうして・・・・・



「どうしてっ!」



 かげろうが別の場面を映し出した。
 言われた言葉は、あの日と同じ。紡いだ唇も、あの日と同じ。
 ただ、…その唇は見事に成長した若い女のものになっていたけれど。その声はあのあどけなさの代わりに、鋭く切迫したもので満ちていたけれど。

 それは。先代の殿が非業に倒れられた、その翌日…。

 血相を変えて奥から飛び出して来られたあのかたは、いきなり儂に尋ねられた。
「本当なの?この知らせ…。公瑾が全軍を率いて戻ってきてるって…」

 公瑾に伯符さま危篤を報せた使者は、「すぐ戻ります」という口頭の返事だけを伝えてきていた。それでおかしいとも思わなかった。
 悲しみと衝撃で、誰もが、いつもの己を見失っていた。
 そうして昨日。とうとう伯符さまが亡くなったという知らせを運んだ使者は、夜明けと共に戻ってきて…、そうして、伝えたのだ。
 公瑾殿はもう全軍を率いて一日の距離まで戻って来ておられます・・・・・

 あのときのひめさまの瞳の鋭さ。そうして、口調の厳しさ。
 女だてらに表に出るなどと叱る言葉も出なかった。
「はい」
 頷いた儂を見つめてきた双眸の光の強さ。…忘れられぬ。

「どうしてっ!どうして、葬式に、全軍が要るのよっ!」
 
 …おかしいとは、儂も思った。
 軍を率いて戻る必要など、みじんもない。こちらの軍には、叛乱の動きなど、何もない。
 叛乱どころか。
 悲しみにうち沈んでいる者。人前も憚らず泣きわめく者。…誰もが、親を亡くした子供のように、いったいどうしていいのかも判らずにいる有様である。
「だいたい誰がそんな命令を出したの?仲謀兄上は泣いてばかりで、まだ何にもしてはいないでしょう?」
 遺憾ながら、その通りだ。
 曲がりなりにもしゃんとして動き回っていたのは…、ひめさまくらいのものだった。
 それだけ伯符さまのの求心力が大きかったのだ。後継に指名されている仲謀さまを含め、突然にその中心を奪われた我々は、ただ、右往左往するばかりで。
 こんなところを他の豪族にでも衝かれたらどうなるか。考えただけでも怖ろしい。
 だから儂も、懸命に軍を叱咤し続けていたのだが…
「公瑾め血迷ったとしか思えませぬ。こちらの状況を案じてのことでしょうが…」
 それなら、本人が少数と急行し、軍をちゃんと纏めてくれるだけでよい。周家という名家を背後に持つ公瑾なら、十分それが出来る筈。
「全軍を引き上げてしまったのでは、劉表に攻め込んでくれと言っているようなものですからな」
 そう。あの時公瑾は、全軍の半数を率いて荊州国境に出ていたのだ。
 伯符さまが…、残りの半数で都を急襲し、帝を江の南に攫ってくると仰有って…、その間、荊州の劉表が余計な手出しをせぬよう、抑えとして・・・・・

「だからどうしてよっ!」

 きりきりと吊り上がった、女にしては太い眉。
「ひめさま…?」
 何がどうしてなのか、咄嗟に判らなかった。
「判らないの?劉表のことに気づいてて、どうして何も思わないの?ずっと戦場に出てたあなたが!」
 どうして。どうして。どうして。どうして。

 どうしてちちうえはとくべつなの?どうしてとーたんはしらないの?どうしてばあやにはできないの?どうして?どうして?どうして?

「どうして戻って来られるのかと聞いてるのよ!そうでしょう!対峙してたんでしょう、劉表と!どうして追撃されないと判るの!どうして攻め込んでこないと判るの!」
 本当に判らなかった。答えられなかった。…儂もあの日どうかしていたのに違いない。
「仰有ることが判りませぬ!」
 口調がつい、怒鳴るようなものになった。ひめさまの唇がきゅっと歪んだ。
「…わたくしに、言わせるの」
 何をだ。何のことだ。

「戻れるのは周家が劉表と話をつけたからではないの…?!」

 ぞっと、した。

「そうでしょう?戻れる筈ないでしょう?いきなり国境から全軍引き上げるなんて…、向こうも警戒して軍出してるっていうのに!攻撃されないという保証でもなければ…」
 それはそうだ。確かにそうだ。
 しかし、…しかし、まさか。
 それでは…、こうなってしまうではないか。

 公瑾の周家が伯符さまを暗殺させ、この孫家に取って替わろうとしているということに…!

 そんな…、そんな馬鹿なことが!

「公瑾は誰より伯符さまに近かった!公瑾がそんなことをする筈がない!あいつは悲しみに目が眩んでいるだけで…」
 信じたかった。誰より儂がそう信じたかった。
「わたくしだってそんなこと考えたくはないわよ!ましてわたくしの口から言いたくなんてない!…公瑾義兄上なのよ?」
 ああ…そうだ。言わせたのは、…儂だ。
 公瑾を兄とも慕っておられた、このかたのこの口に!
「でもね…、公瑾がどんな男でも、周本家が義兄上の意を汲んでくれるとは限らないでしょう?」
 ああ、そうだ。周本家の先代は確か、漢朝の大尉にまで昇った筈。
 漢朝大事のあの家が、帝を江南に攫ってくるなどという伯符さまの策を、是とする筈などなかったのだ…!
「あの時から…何か、不安だったの。わたくし」
 なのに我らは…、これで我らは天下に近づくと浮かれるばかりで、周家の力を見落としていた!
「ものごとは…、いちど転がりだしたら、止められない。そうでしょう?それに…、たとえそうでなくても」
 かつて儂を「とーたん」と呼んでくれた唇は、悲痛な言葉を紡ぎ続ける。
「大軍を率いた美周郎と、兄上のていたらくと。見比べた人はどう思うか…考えてもごらんなさい!」
 こんなことはわたくしだっていいたくないのだ。あの日無垢だったあの瞳が、蒼ざめた顔の中でぎらぎらと燃えた。
「情で全てが動く程…、乱世は、甘くはない。そうよね?そうでなければ父上も…伯符兄上だって、まだ、生きてるわ!」

 このわたくしがこれほどまでに彼らの無事を願っていたのだから。
 情で全てが動くものなら…、二人はまだ生きている筈だ!

「疑いたくなんてないけど…、こんなこと言いたくないけど、もう、奪われるのは嫌なの!嫌なのよ!」



 どうしてちちうえはとくべつなの?どうしてとーたんはしらないの?どうしてばあやにはできないの?
 どうして戻って来られるの!どうして追撃されないと判るの!どうして攻め込んでこないと判るの!
 どうして。どうして。どうして。ドウシテ・・・・・



 そこにあるのは、ただ、闇。



 どうしてと…、あの時儂も思うた。
 どうして乱世はこのかたにかくも厳しい運命を担わせたのかと。
 父を奪われ…、兄を奪われ。その上さらに、全てを奪われる危機に立たされ…。
 あれほど愛らしかった、あのお子が。
 どうして、と。

 まあ…、危機というのなら、今も、そうだが…。

 昼間見た、あの、闇色の瞳。

 あの日のひめさまの危惧。
 果たして杞憂だったのかどうか…、今もそれは、判らない。
 殿はあの日、柴桑に残留していた全軍に招集をかけ、武装させた上で公瑾を迎え。
 公瑾は何も言わず馬を降り、殿によどみなく忠誠を誓った。
 本心だったのか、どうなのか。
 確かにあれ以来、公瑾が妙な動きをすることはなかったが…、それは…。

 程普の眉間に深い皺が刻まれた。

 陸家だ。
 江東第一の豪族である彼らが孫家に膝を折ってきたことで、我らが、周家の力を借りずとも江東を保ってゆけるようになったからだ。
 逆に…、ここで仮に殿を暗殺したとしても、陸家という存在がそこにあれば、次に江東を纏める者が公瑾になるとはもう、限らぬからだ。
 此度の公瑾の振る舞い。
 この国難を利用してここで陸家を皆に憎ませ、彼らを追い落とそうとしているように、儂には見える。
 だと、したら。公瑾の狙いは…。

 …わたくしだってそんなこと考えたくはないわよ!ましてわたくしの口から言いたくなんてない!…公瑾義兄上なのよ?

 しかし。
 奪われたくなければ。守りたければ。考えざるを得ない…、それが、乱世。
 殿もそれをお考えになったのだ。そうしてそれを恐れておられるのだ。だからこそ…、指揮系統が混乱する可能性を承知で、儂を右都督に任じられたのだ。

 殿はもう公瑾を信じてはおられない。

 どうして。
 どうしてこんなことに。
 孫家にとって家族同然だった公瑾が。あれほど伯符さまと仲が良かった公瑾が。妻の縁で孫家のきょうだいとは義兄弟にまでなった公瑾が。

 …情で全てが動く程…、乱世は、甘くはない。そうよね?

 ああ…そうだ。あなたのおっしゃる通りだ、ひめさま。
 こんなことを考えている場合ではない。
 勝たねば。
 何としてもあの禁軍に勝たねば。あの方の寄せてくださったご信頼に応えねば。
 そうだろう…、程徳謀。
 陰謀の話なら、張公(張昭)の方が理解が早かっただろう。信頼出来るといえば、母方の縁者で呉の豪族たちとも縁が深い、君理(朱治)であってもよかっただろう。
 お父上の代からお仕えしていたのも、儂ひとりではない。公覆もいる。義公もいる。
 けれど。

「程公っ!」

 あの日あの声が呼んでくださったのは、儂だったのだから。
 この程徳謀…、かつて、「とーたん」と呼んでくださった・・・・・

「もう、奪われるのは嫌なの!嫌なのよ!」

 勝たねば。
 だが、…どう、やって?



 とーたん。



 無理矢理閉じた瞼の裏で、幼い姫が笑っていた。