Act.2〜A.D.208 長江
翌朝。
左右の都督が壇上から見守る中、罪人が兵士たちの前に引き出された。
あの、身重の妻を思って脱走を図った、黄蓋隊の兵である。
「脱走を企てた罪により、杖打ち百の刑に処する」
刑を言い渡す陸遜の声が、僅かに震えていた。
不審の色が、幹部たちの顔に走る。
常ならば、刑は、都督あたりが申し渡すものであるのに、なぜあのような若者が…?
傍らの呂蒙が小さく舌打ちをしたのを、黄蓋は、聞きとがめた。
「こんなところでまで、伯言を苦しめて…!」
周瑜には絶対忠実で、彼の行動を公然と批判したりはしない呂蒙が。
いつも明るいおおきな瞳に、苦痛という名の影を落として。
「これじゃ、…あいつ、みなに陸家を憎ませるための道具じゃないですか!何か理由あるのかもだけど…、これ、これは…あんまりです!」
その言葉に。黄蓋の中で、何かが、弾けた。
「暫し!暫し、お待ちを!」
飛び出したのは本当に自分の意志だったのか、それとも別の何かに背を押されたのか。
あとで考えても、黄蓋には判らなかった。
ただ…夢中で。
心の中に響いたのは、遠い昔の自分の声。
・・・・・キット、手柄ヲ立テテ、戻ルカラ…
刑吏の手から強引に棒を掴み取る。
「こ、…黄中郎将…」
制止しようとした陸遜の声は、兵士たちのざわめきに打ち消された。
その、ざわめきの底。確かに聞こえた、己の声。
・・・・・ソウシタラ、所帯ヲ持トウ。チッチャイ家ト、土地ヲ買オウ…
あっけにとられている両都督に向かい、黄蓋は、声を張り上げた。
「この者のこと、罪はこの、黄蓋にある!」
「公覆…?」
右都督・程普が腰を浮かせたが、流石に長いつきあいである。戦友の表情に必死の何かを見てとったのか、浮いた腰は、すぐに降りた。
その仕草に励まされ。黄蓋が声を張り上げる。
「みなも聞くがよい。留守宅との連絡は、許されなくなったが。その旨は、各郡の役所に、張り出されることになっておる。だから、おのおのは、急に連絡が途絶えた家族が心配するのではないかなどと、気をもむ必要はないのだ」
ざわめきの色が変わった。
今度の波には、確かに、まぎれもない安堵の色がある。
「わしは、そのことを、わが部下に伝えるのを、おこたった。そうしておれば、この者は、脱走など企てなんだ筈」
・・・・・平凡ナ毎日デイイ。一緒ニ、畑ヲ作ッテ。
遠い昔のごく慎ましい…、けれど、どんなことをしてでもと願った夢。兵たち一人一人が持っているに違いない、ささやかな、けれど、たとえようもなく大事な夢。
「わしが、至らなんだ」
この男から…家族から、その夢を取り上げないでくれ。
政の道具に、この男を、使わないでくれ。
この男は、道具ではない。人間なのだ。どんなにささやかなものでも、この男にはこの男の人生があるのだ。帰りを待っている家族があるのだ。
黄蓋の全身が、悲鳴のように叫ぶ。
「故に、上官のわしに、罪がある!」
・・・・・長江デ魚ヲ捕ッテ。山羊モ飼オウ。
すらりと、剣を抜くと。黄蓋は、震えている罪人の縄を一気に、切り放った。
「さあ、わしを打て」
がくがくと震える手に、杖を押しつけて。
・・・・・ズット、一緒ニ暮ラソウナ。一緒ニ働イテ、子供ヲ育テテ。
「それが、お前の罰だ。杖刑は、わしが、替わって受ける!」
・・・・・としヲ取ッタラ一緒ニ白髪頭ニナッテ…
場が、しいんと、静まった。
両都督をはじめとする幹部たちも、気を呑まれたのか、声もない。
「何をしている!さあ!!」
激しく、命じられて。
震える手が、杖を振り上げる。罪人の顔が、引きつり、そして…
ぱたりと。
杖が、地に落ちた。
「お許しください!!」
罪人が、地に、泣き伏すのと。あのあかるい声が、「公瑾殿っ!」と、悲鳴のように叫ぶのと。どちらが先だったろう。
左都督・周公瑾が、白い戦袍の裾を翻して、ふわりと立ち上がった。
その姿は。見るもの全てを凍りつかせる、冬の月のように見えた。
「黄中郎将どのは、私を責めておられるのか。責任者である私の配慮が足りなかったと…?」
…え?
目をまんまるにした黄蓋が、きょとんと、周瑜を見上げた。
…そんな、そんな大それたことをしたつもりなど、なかったのだが。咄嗟に躰が動いてしまっただけなのだが…
それでも、降ってきた月光のような声は、冴え冴えと冷たく。
「そうであろう?私自身が、きちんと兵たちに、留守家族のことを通達すべきであったと。至らないのはこの周公瑾だと、そう仰有りたいのであろう?」
表情のない闇色の瞳が、じっと、黄蓋の目を、見つめ返す。
…違う。わしはただ…、この者が、道具にされるのが、嫌で…
黄蓋だけではない。誰もが、唖然として、周瑜を見上げた。
それは、そうだろう。総大将が…、一般の兵たちの前で、幹部の間に亀裂があると匂わせるようなことを口走ったのだから。
「いや、わしは…」
この瞳は、何を見ているのだろう。
この瞳に、何を言えばいいのだろう。
何も、映さない。虚無を湛えた、闇色の…
言葉を失った黄蓋の頭の中を、魚と山羊がぐるぐる跳ね回る。
「ち、中郎将どのは、私をかばってくださっただけです。どうぞ、どうぞ、俺を罰してください!俺が、悪かったです!」
罪を得た兵士が、悲鳴を挙げた。
申し訳ありませんでしたを繰り返し、バッタか何かのように叩頭する…、その姿に漸く、幹部たちの呪縛が解けた。
「公瑾…、ここは、もう…」
程普が低く囁いた。言わんとしたことが、伝わったのか。
「このたびのこと。私にも、至らぬ点があった。今回は、不問に付す!二度と、このようなことが、ないように。次は、許さぬ」
一つ、きっと、唇を噛んで。
「解散!」
周瑜の戦袍の裾が、ざっと、地を払う。
茫然と。
黄蓋は、その後ろ姿を見送った。
「何をやっておるのだ!儂は、冷や汗をかいたぞ!満座の中で周都督に盾突くなど…」
程普の鞭のようにしなう声に、びしびしと決めつけられ、黄蓋が亀のように首を竦めた。
「…いや、そんなつもりは、なかったのだが…」
昔から、こうだった。こいつにこうやって喚き立てられると、いつもわしは言い返せなくなってしまう。
喚き立てるのは、わしのことを心底案じてくれているからではあるのだが。
口ではきついことを言うけれど、こいつは、情に脆い、優しい男だ。今だって、あんなに気遣わしげな目をして。
そういうところは、何一つ、昔と変わっていないのに…
「なぜ、こうなったのじゃろう?」
「…何がだ?」
ぼそっと呟いた黄蓋に、程普のげじげじ眉がぐいと寄った。
「わしはただ…、女房子供に、はらいっぱいめしを食わせてやりたかっただけなのに。なんで、こういうことになったのじゃろう…」
心底不思議そうに呟かれ、程普が今度は呆れ顔になった。
「…そら、お前。大殿が、玉璽なんか拾ったからに、決まってるだろうが」
孫堅が、洛陽の井戸の底で見つけた、玉璽。
あの辺りから、何もかも変なふうに転がりだしたのだ。
「あれで、…大殿は、天命は自分に降ったと思ってしまわれたからなあ。単純な方だったから…」
懐かしそうに、程普は、遠い目をした。
「あれよう考えたら返すべきであったのだよなあ」
黄蓋がかりかりと頭を掻く。
「でも、大殿があんまり喜んでおられたから…、つい」
「ああ。お前と義公と儂でちょうど三公揃うじゃねえか、やっぱこれは天命なんだぜ、とかな…」
程普もまた、苦笑を浮かべる。
「儂も、そうかも知れぬと、思うたこともあった。討逆どのの頃は…」
討逆将軍、孫伯符。亡くなった、殿の、兄上…。
「…そうじゃの。あの方なら、天下をうばうことも、できたかもしれぬが…」
太陽のような不思議な魅力で、僅か4年で江東を平定した、あの方なら。
しかし…
黄蓋には、どうしても、天下を治める孫伯符を思い浮かべることが出来なかった。
じっとしていられないあの性格では、皇帝など、3日もやらせれば発狂してしまったに違いない。
天下は、奪えばよいというものではない。天下には、人が住んでいる。人は…めしを食う。
あの、突風のように江東を席巻した男の目に、黙々と働き家族を養っている普通の人間が映っていたとは、黄蓋には、どうしても、思えなかった。
突風が吹き荒らして行ったあとに出かけていって、民の暮らしを心配し、面倒を見ていたのは、いつも…弟君。
今の、殿。
あの兄と弟が、一人の人間として生まれていたなら。それならば自分も、孫家に天命が降ったのだと信じたかもしれぬが…
「天命が、東呉に降ったとは…、わしには、思えぬ」
程普の目が、大きく見開かれた。
「お前っ!不用意に、そんなことを言うな!義公(韓当)あたりに聞かれてみろ、殺されるぞ!」
韓当。彼ら二人の大事な戦友。
孫家に降った天命を心から信じ、孫家の天下を夢見て戦い続けている猛将…。
「ああ、…あいつは、討逆どのに心酔しているからなあ…」
一本気な所が合うのだろうと。黄蓋は、くすりと笑った。
「公瑾も…、同じなのかのう?天下の夢が、捨てられぬのか…?」
天下の夢。孫伯符が見せた夢。
あの闇色の瞳は、その夢だけを、追っているのか。
「・・・・・。」
不意に、程普が黙った。
その顔は、黄蓋がこれまで見たこともないような、暗い翳りに覆われていて…
「いっそ、…そうであったらな」
それ以上は、聞けなくなった。
「とにかくだ!何がどうあれこの戦、勝たねばならんのだ。それが、儂らの仕事だ」
何かを振り切るように、程普が言う。
「ああ…」
畑の作物と魚と山羊が、また、黄蓋の脳裏で踊った。
…平凡ナ毎日デイイ。一緒ニ畑ヲ作ッテ。長江デ、魚ヲ捕ッテ。山羊モ飼オウ。
…一緒ニ働イテ、子供ヲ育テテ。としヲ取ッタラ一緒ニ白髪頭ニナッテ…
天下国家は、どうでもいい。渡したくない…、渡せない。
自分の夢。兵たちの夢。ささやかな、けれど、大切な夢。
だが…、そのためには…。
「上がわけのわからんことをしてくれては、困るのじゃがな」
「困るというても仕方あるまい。公瑾が当てにならぬのなら、儂らでどうにかするまでよ」
そうなのだが。それが…仕事なのだが。
「徳謀も、曹操を覚えているじゃろう?菫卓を討ちに行った時に、会うた…」
「ああ」
「そんなで…、勝てる、相手か?」
二人の将は、じっと互いの目をのぞきこんだ。
否、と。程普の目が言った。
されば?と、黄蓋の目が問うた。
だから必死に考えておる。程普の目が、苦しげに揺れた。
それでも、勝たねばならぬ。ならぬのだ。
勝つことが、武人の務め。勝てぬ将軍や武人など、何の意味もない。散り際の美しさなどと人は言うが、勝つこと。それが全て。それが仕事。
自分たちの給金も兵糧も、皆が収めた税から出ている。そのことの重さを忘れてはならぬ。
勝つと信じるから、敵から守ってくれると信じるから、苦しい生活の中から皆は税を納め、働き手を我らのもとに差し出すのだ。
…裏切っては、ならぬ。この国を、渡してはならぬ。
だが、…どうやって?
息苦しいほどの沈黙が、狭い幕舎を支配する。
やがて。
程普はゆっくりと立ち上がり、黙って幕舎を出て行った。
「公瑾も…、同じなのかのう?天下の夢が、捨てられぬのか…?」
いっそ、そうであったらな…、公覆。
重い足取りで、程普が己の幕舎へ向かう。
あれは純朴なよい男だ。しっかりと地に足をつけて生きている。天下の夢だ大義だといった浮ついた言葉に踊らされることは決してない。
だが…それゆえに。
あいつの目には映らぬものも、この東呉にはあるのだ。
ああ、公覆、公覆。
お前は何も気づかなかったのか?
あの時。伯符さまが…亡くなった翌日。
お前の優しい心は志半ばで倒れた主君を悼むことで一杯で、他のものなど何も目に入らなかったのか?
遠い、遠い情景が、記憶の底に蘇る。
「とーたん」「とーたん」と、この程徳謀を呼んでくださった愛らしい声。
膝に抱き上げて差し上げると、嬉しそうに髭を引っ張られた、紅葉のような小さなお手。
その手はだんだん大きくなった。
孫家ほどの家の娘の手でありながら、そこらの農婦と変わらぬような、逞しく強い手になった。
儂の目にはそれが辛くてならなんだ。
大殿亡き後の孫家の辿った道の険しさが、その手に凝縮されているようで…
公覆よ。
お前は…知らぬのだ。
「程公っ!」
あの愛らしかった声があの日、どんな風にこの儂を呼んだか。
「本当なの?この知らせ…」
かつてあれほど愛らしかったお手が、どんな風に握りしめられ震えていたか。
あの日。
伯符さまの葬儀を前にして、周公瑾が戻ってきた、あの日。
そうだ…、彼は、戻ってきた。
任されていた荊州戦線から。
…麾下の、全軍を率いて。