Act.1〜A.D.208 長江


 もう、それはずっとずっとむかしのことで。
 わしは、零陵のしがない役人で。
 女房にもらう女は、もう決めておったが。先立つものがない。
 役人の俸給じゃあ、自分が食っていくのがせいいっぱいで。かといって、他の連中のように、ワイロをとるのはイヤじゃったしな…。
 そんな時じゃ。
 殿のお父上が、菫卓打倒の義勇軍をつのっておられて。
 ちょうど、このままじゃ、世帯を持つのもままならんと思うておったわしは、いちかばちか、乗ってみることにした。
 未来の女房と、こう、約束してな…

 きっと、手柄を立てて、戻るから。
 そうしたら、所帯を持とう。ちっちゃい家と、土地を買おう。
 平凡な毎日でいい。一緒に畑を作って。長江で魚を捕って。山羊も飼おう。
 ずっと、一緒に暮らそうな。一緒に働いて、子供を育てて。トシを取ったら一緒に白髪頭になって…。

 そう。
 ちゃんと、はらいっぱい、食うこと。
 女房子供に、はらいっぱい、食わせること。
 あのころわしが考えておったのは、それだけじゃった。
 じゃがな。
 それが悪いなどとは、誰にも言わせん。
 わしは、まちがってはおらん・・・・・





 長江。
 対岸に、おぼろに見えるのは、曹操率いる、北の兵。
 禁軍…。曹操が率いているとはいえ、漢室の軍勢である。
 江を渡って吹いてきた冷たい風に、黄蓋は、ぶるっと、身を震わせた。

 そもそも自分は、漢室のために、義勇兵になったのではなかったか。

 義勇兵になって。その大将と、なかよくなった。
 もう、ずっとずっとむかしのこと。
 殿のお父上は、いいかただった。勇敢で、気っぷがよくて。大将というより、親分みたいな感じで、わしは、とても、好きだった。
 「公覆」「公覆」と、あの、陽気な声で俺を呼んで、…「ついて来い!」と朗らかに笑って、敵の真ん中へ突っ込んでいくんだ。
 あのお方に惚れなきゃ、男じゃねえだろう。そう思わずにはいられないほどの、見事な男ぶりだった。
 友達もできた。
 頭のいい程徳謀(程普)、一本気な韓義公(韓当)。
 たのしかった…、あのころは。
 毎日が、お祭りさわぎのようで。わいわいさわいでいるうちに、気がついたら、別部司馬なんてものになっていた。
 手柄も立てた。もらったほうびは、惚れた女を女房にするには、十分すぎるほどの額で。
 さっそく、小さな家と土地を買って、世帯を持った。かわいい子供らにも恵まれた。
 そうして、わしは、孫家に仕えて…。
 武官で、なおかつ役人の経験もある自分は、ややこしい土地の県令や何かを命じられることが多かった。
 力量をみとめられていることがうれしくて、懸命に、つとめてきた。
 しあわせ…だったと思う。
 そうだ。自分はしあわせだった。しあわせで…、そのしあわせもご先祖さまのおかげと、日々、手を合わせて来た。
 そんな自分の人生に、迷いも疑いも持っていなかった。
 それが…。

 寒さが、身に凍みる。

 こんどの戦の相手が、禁軍だと言われると、おやっと思ってしまう、自分がいる。
 時は、流れるもの。時代は、変わるもの。だが、それにしても…。
 東呉を開戦へとひきずりこんだのは、周瑜・魯粛といった、若い連中だった。
 それは、若い者が、東呉の意地を見せたいという気持ちも、わからなくはないが。
 本当にこれでよかったのかと思う、自分がいる…

「黄中郎将どの…?」

 後ろから若い声が、黄蓋を呼んだ。
 振り返った目の前。端麗とでも言うしかないような顔が、憂いの色を濃く浮かべて、じっとこちらを見つめていた。
 周瑜のところにいる、陸という、若い校尉だ。字は…?
「陸…校尉であったな。わしに、なにか?」
 答えながら黄蓋は眉を顰めた。
 こういう呼び方は、好きではない。
 殿のお父上のころから、わしらはたがいを字で呼びあってきて…、その、仲間同士という感じが、とても気に入っているのに。
 しかし。この男の字を聞いたおぼえがない。
「はい。実は今、脱走しようとした兵を、捕らえたのですが…」
 若者は言いにくそうに目を伏せた。
「黄中郎将どのの部曲の、兵なのです」

 黄蓋の目が、まんまるになった。

 確かに、滞陣が長引くにつれ、兵の脱走が目立つようにはなっていた。
 しかし、それらはおおむね官が集めた…いわゆる官兵で。個人の部曲、いわば私兵の中からは、脱走する者はほとんど出ていなかった。
 だいたい自分の部曲から脱走者が出るなどというのは、初めての経験である。
 まず感じたものは、怒りというより、当惑であった。
「なぜだ?わしのやりかたに、何か、まちがったところがあったのだろうか…?」
 滞陣は確かに長引いていた。だが、外敵と当たるときにはそうしたものだと自分は言い、部曲の者たちも、歴戦の自分の言うことに納得してくれているものだと思っていたのに。
 言うてはなんだが、結束ということにかけては、自分の部曲は他のどれにも負けぬ自信がある。匹敵するのは親分子分の絆で結ばれた甘寧水軍くらいのものだろう。
 それが…なぜ。
 しきりに首を捻る黄蓋に、若者が、遠慮がちに言った。
「事情を聞くと、…可哀想なのですよ。もうすぐ、子供さんが生まれるのだそうで…」
「ああ、あいつか」
 一人のまだ若い兵の顔が、脳裏に浮かんだ。
「今朝の軍議で、脱走兵の多さに鑑み、留守の家族と兵たちの連絡は今後一切禁止するという決定がなされたそうですね。それで…、突然連絡が途絶えたら、おかみさんが心配するだろう、子供に障っては大変だと思い、脱走を決意したと…」
 黄蓋の眉が、険しくなった。
「あれはそなたが言い出したのだろう?」
「は?」
 そう。今朝の軍議で周都督から…、公瑾から、聞いたこと。
 曹軍の間者を洗い出させている陸校尉から進言があった。敵の間者が、留守家族を装い、士気を下げるような伝言を兵たちに伝えていると。だから、今後一切、留守家族との連絡は禁止したいと言ってきたと。自分としては、彼の進言を取り上げたい…。
 そういう事情ならやむを得まいと、自分も兵たちに伝えたのだが…
 きょとんとしていた若い校尉の顔が、ふっと、暗くなった。
「違うのか…?」
 それまで、冷静を絵に描いたようだった端麗な顔に、はっきりと、動揺の色がある。
「いえ…、曹軍の間者が、そういう手を使っているのは、事実です。そのように、報告はいたしました」
 その返事も、何か、考え考え口に出されたという感じで、黄蓋の眉がさらに、顰められた。
「正直に申せ。あの禁令は、そなたの進言ではないのか?」
「…。」
 若者は、困ったように口を噤んでいる。
「そういえば。軍議の席で、あの禁令の話が出たとき、義公め妙な顔をしておったな…。言い出したのは、あいつか」
 端麗な顔が、こくんと、縦に振られた。
「だからあいつは、兵に好かれぬのだ!」
 黄蓋は忌々しげに舌打ちをした。
 義公(韓当)の部曲はいつも脱走する兵が多い。これまでも彼が手を焼いていたのを知っている。
 一本気なのは良いのだが、どうもあいつには人情の判らぬところがある。兵が嫌うのも、無理はない…
 しかし…。
 白髪頭をひょこりと傾げ、黄蓋は若者をじっと見た。
 何故公瑾は、それを、この男の進言だということにしたのだろう。
 あのような禁令の出所がこの者だと知れれば、兵たちの恨みはこの者に集まる。
 公瑾としてはそれでなくとも人気のない義公を庇ってやったつもりかもしれんが、それではこの者が可哀想だ。まだ、若いのに…。
 こんなに育ちの良さそうな顔をしておるのだ。つまらぬ苦労などとは無縁に育ったのであろうに…
 訝しげに男を眺めていた目が、何を思いついたか、ぱちぱちと瞬いた。
 …育ちの良さそうな…?もしかして?
「そなた、陸家の出か?あの、豪族の…?」
 陸家。江東一の、大豪族。
 現在の当主、陸遜…陸伯言の養父を、孫家の先代・孫策は、廬江で討っている。
 そういういきさつがあったため孫家とは反目を続けてきたが、孫権の代になって、向こうから膝を折ってきたという。その時自分は地方に出ていて、直接会ったわけではないが…。
 この若者も、その陸家の出なのだろうか。
 若者は一瞬戸惑ったような顔をしたが、こくんと素直に頷いた。
「陸家のご当主は、伯言どのとおっしゃるそうだな。わしは、面識はないのだが…。」
 自分は、支配地の民を搾取する豪族というものが嫌いでなるべく近付かないようにしてきたから、よくは知らないが。
「陸家は下の者に、なかなか手厚いと聞いておる」
「…そのように、つとめて参りましたが…」
 水を向けた言葉に答えた声が、何か、妙だった。
「そなたのような若者にも、きちんと注意をしておるのか。陸家のご当主は、立派な方のようだ」
「あの!」
 たまりかねたように、若者は言った。
「あの、…その伯言というのは、私のことです!」
 黄蓋の目が、また、まんまるになった。
 陸家の当主、陸遜、陸伯言と申します、と。
 若者は改めて名乗り、作法通り、丁寧に礼を執った。



 その幕舎には、まだ、灯りがともっていて。
「公覆どの?」
幕舎の主は、おおきな瞳をぱちぱちさせて、突然の来訪者を迎えた。
「ご用でしたら、俺の方から、行ったのに」
 何でしょう。
 迎えた呂蒙が黄蓋に微笑みかける。
「いや…、どうも、わしにはわからぬことがあって…、そなたなら…」
 陸遜にも周瑜にも近しいように見える、このあかるい瞳の持ち主なら、わかるのではないか。そう思って。
「あの…陸、伯言。あの者は、陸家の当主だというではないか。そのような大豪族のあるじが、なぜこんなところであんな汚い仕事を…?」
 間者を洗い出すというのは、はっきり言えば、汚れ仕事だ。
 味方を疑わねばならぬし、それゆえに、誰からも嫌がられる。
 東呉は豪族の連合体だ。孫家は、豪族たちに気を遣うことなしに、この東呉を保ってはゆけない。それなのに、中でも最も力の強い陸家を、あのように扱っているのは、何故なのだ?
 今日も今日とて、陸家が人から恨まれるような偽りを、軍議の席で、周瑜は…
「公瑾どのは、伯言を疑ってるんですよ。曹操に通じて、東呉を敵に売り渡すんじゃないかって」
 あまりにさらりと言われたので、意味を取るまでに、一呼吸かかった。
「な…何じゃと?!」
 それは…どういうことなのだ。黄蓋にはわけがわからない。
「だから、伯言を、間者探しの役にすれば、ちょうどいいって。絶対に、曹操は、あいつに接触してくるって」
 …根拠あってのことなのか?公瑾が言うのなら何かあるのだろうが、しかし…。
「…あいつは、そのような男には、見えなんだがの」
 呂蒙が、力をこめて頷いた。
「そうでしょ?俺も、…俺、あいつの監視役なんですけど、絶対そんなことしそうにないでしょ?なんで、大将があんなにあいつのこと嫌うのか、それだけは判んないんですけどさ」
「嫌う?」
 また阿蒙がくだらぬことをと、一瞬、黄蓋は思った。
「好き嫌いの話ではあるまい?何か…根拠でもあるのではないのか?」
 けれど。
「あったら子敬どのだって賛同すると思いませんか?」
 見上げてきたおおきな瞳は、どこか、これまでの彼の瞳とは違っていた。
「子敬どのも心配してるんです。そやって苛めてたらしまいにほんとに裏切るぞって…。しまいにってことは…、今は裏切らないって子敬どの思ってるってことでしょ?」
「ああ」
「根拠あったら子敬どのそんなふうに言わないと思うんです。だから…、大将、伯言のこと嫌いなのかなあって」
 …そういう結論に達するあたり、やはり、阿蒙だが。
 いったい公瑾は何を考えているのだろう。
 黄蓋は、首を捻った。
「あいつ、でも、すっごく頑張ってますよ。昨日も言ってました、これまで曹操はほとんど間者とか入れてなかったのに、このところ、士気を下げるような情報を流しはじめたって。あっちはもっと士気が下がってるんじゃないかって」
「ほお」
 あの男、若いのに、なかなかよく見ておるではないか。
「それで、俺、興覇に頼んで、調べてもらったんです。あいつ、荊州の方に伝手とかあるじゃないですか。そしたらね、荊州の商人が、曹軍に薬を沢山納めたって…」
「薬?」
「ええ。疫病が流行ってるみたいですよ。それから…、もうひとつ、木材をたくさん…」
「木材…」
 灰色の眉がぐっと寄り、呂蒙もこっくり頷いた。
 疫病というのは、恐らく、水に慣れない北の兵が発病したのであろう。曹操は、陣中で疫病が流行ったので、いったん北へ退こうとしているのではないのか。
 しかし、折角烏林を確保したのである。何もせずに退く筈はない。しっかりとした拠点だけでも作りたい筈だ。
 そうだ。木材は、そのためだ。あの、ずらりと並んだ船団、その向こうでは…
「そうなんです。あそこに、砦だか何だか、とにかく拠点を作ろうとしてるんですよ、絶対。だったら、船を鎖で繋いでるのも、納得いきますもん。」
「そんなことを、しているのか?」
 それでは…船を出すといっても出せまいに。
「ええ。俺も、今日偵察に行って気づいたんですけど…、大きな船並べてみっちり繋いで、防波堤みたいにしてんです。あれなら中の作業しやすいだろし、こっちが中見ようったって入るとこないし…」
「お前!いったいどこまで近づいた!」
 えへへ。
 けろりとした顔で、呂蒙が笑った。
「…お前怖いという言葉を知らんのか?」
「いやけっこう怖かったですよ。矢、飛んできたし…」
「無茶しおる」
 …この子はいつも、そうだった。
 先代の殿のもとに来た時から、ずっと、そうだ。
 ちょっと目を離すとすぐ敵に突っ込んでいく討逆殿(孫策)を、一生懸命追いかけて。ぱたぱた、ぱたぱた、走り回って。
 殺されそうになったことも、一度や二度ではなかろうに…
 それでも明るく笑う姿が、何か急に、胸に迫って。
「しかし、それでは火攻めに遭ったら、ひとたまりもあるまい?」
 咄嗟に思いついたことを、あわてて黄蓋は口にした。
「あ、公覆どのも、そう思います?」
 呂蒙が嬉しそうな顔になる。
「俺もね、さっき、大将に報告に行ったとき、そう言ったんですよ。ほら、もうすぐ、南風吹くじゃないですか。船に火をつけて、風に乗せて、突っ込ませれば…」
 確かに、そうだ。
 この季節、このあたりではずっと北風が吹くが、冬至の頃の何日間かだけは、必ず、風が南に変わる。今夜も何となく空気がなまぬるい。その日は、もう、近いはずだ。
 その風に乗せて、大量の火船を、北岸の曹軍の船に突っ込ませれば。船同士が鎖で繋がれていて、なおかつ、その中に大量の木材があるのなら、敵はひとたまりもないはずだ。
 うまくすれば、陸上の陣まで焼くことも、出来るかもしれない。
 ただ、問題は。
「で…、公瑾どのは、何と?」
「ええ。それだけの船をそこまでどうやって近づけるか。それが、問題だって。でも、それさえ何とかなれば、火攻めが一番いいと思うって…」
 目をきらきらさせて、呂蒙が言う。どうやら、今まで、その方法を一生懸命考えていたらしい。
 やはり、そうか。
「偵察に行った感じでは、どうじゃった?近づけそうか?」
「…難しいですね」
 しかしおおきな瞳は曇った。
「火攻めにするんだったら、燃えるもの、いっぱい積んどかなきゃならないでしょ?そしたら、兵はあんまり乗せらんないじゃないですか。風が変わった時は向こうも警戒するだろうし…。突っ込ませる前に小舟くっつけられて斬り込まれたら…」
「そうじゃなあ…」

 まともな方法では、無理か。

 しかし…



 自陣に戻った黄蓋を迎えた、警備の兵の顔は、どこか元気がなくて。
「…あの。あいつ…、やっぱり、杖刑になるんでしょうか」
 脱走を図った者は、杖打ち百。悪くすれば生きてはいられまい。
「…わしの部曲の者だけえこひいきをするわけにはゆかぬじゃろう」
 …女房の具合が、ずっと悪くて。俺から連絡が行った時だけは、それでも少しは元気が出るって…
 涙ながらに語った兵の顔が、目の前にちらつく。
 しかし。上に立つ者として、わしも、悪かったのだ…
 先ほど呂蒙の言ったことを、黄蓋は思い返した。
 あの禁令が出た時。呂蒙は、配下の兵に伝えるとともに、「連絡が出来なくなったということは郡の役所に張り出してもらうようにするから、家族が心配するのではないかと気をもむ必要はない。それでもどうしても念を入れたいと思う者は、申し出るように」と言ったのだそうだ。
 自分には、そこまでの配慮がなかった。自分も、責任を問われるべきなのだ。


 きっと、手柄を立てて、戻るから。
 そうしたら、所帯を持とう。ちっちゃい家と、土地を買おう。
 平凡な毎日でいい。一緒に畑を作って。長江で魚を捕って。山羊も飼おう。
 ずっと、一緒に暮らそうな。一緒に働いて、子供を育てて。
 トシを取ったら一緒に白髪頭になって…。


 誰しも、思いは同じであろうに。
 こんなところで、刑を受けて死ぬのでは、浮かばれまいに…。



 その夜。黄蓋は、眠れなかった。