Act.5〜A.D.208 長江


 帰投してくる、水軍小隊。舳先に翻る旗は、「呂」。
 武将の鋭い頬の線は、旗を見た途端、柔らかく緩んだ。
 偵察の任務は、無事、終えたらしい。見たところ損害もないようだ。
「興覇!」
 陽気に手を振る、赤い軍装。武人にしては小柄な姿。昇ったばかりの朝日におおきな瞳を眩しげに細め、日焼けした手を額に翳す。
「うまくいったか?」
「当然」
 胸を張ってもやはり小柄だ。傍らの護衛兵の方がよほど体格がいい。大人に混じった子供が得意そうに威張っているようで、甘寧の頬がまた緩む。
「すぐにでも報告出来るから!公瑾どのに言って、皆集めてもらって…」
「一息入れたらどうだ?」
「入れたら、寝そうだ」
 夜を徹しての隠密行動だ。確かに、疲れてもいるだろう。
「わーった!」
 そう言って、甘寧は、傍らの兵を振り返る。
「李爺!公瑾殿に伝令!子明が戻ったってな」
「よっしゃ!」
 伝令が小舟で飛び出してゆく。
 長江を埋めた船団の帯びる気配が、俄に、慌ただしいものに変わった・・・・・



 偵察報告を兼ねた軍議の席。
 呂蒙のした報告は、一同の眉を顰めさせるものだった。黄祖の水軍は、江夏湾内の湊に停泊しており、そこへの入り口は二つの大きな蒙衝(闘艦)に塞がれている…
「やっかいだな」
 上座で、孫権と周瑜が眉を顰める。呂蒙が頷いた。
「あれが防衛線になってるんです。弩兵を山ほど積んでるから…」
「うかつには近づけんか…」
 その時、若い声が言った。凌統である。
「火船を突っ込ませては、どうでしょうか?俺が行きます。決死隊を募って、火船をぶちあてて、あの蒙衝を沈めてしまえば…」
 …馬鹿!!
 言いかけて、慌てて呂蒙は口を噤んだ。ここは軍議…感情的に怒鳴ってはならぬ。
 …けど、そんなことしたら…部隊まるまる潰すようなもんじゃないか!んな…、そうせずに何とか出来るように考えるのが俺たちの…指揮官のつとめだろ!わざわざ人死なせる策立てるなんて…
 助けを求めるように、上座を見る。
「うーん…」
 孫権は考え込み、ちらりと周瑜の方を見た。それは…そうだろう。総大将が、これだけ犠牲が出ると判っている策に、たやすくうんといえるわけはない。
「無駄無駄」
 末席から甘寧の声がした。
「あの辺は、浅いんだ。あんなでかいもん沈めたら、こっちの船が通れなくならあ。邪魔になるのは同じことよ」
 流石に、以前、黄祖の下にいただけのことはある。このあたりの長江は、彼にとっては、庭のようなものなのだろう。
「浅いのか…」
 成る程。戦術を考えるなら、江のことをまず知らねばならぬ。
「流れは?えらくどっしり落ち着いてるが、流れは緩いのか?」
 菫襲が何か思いついた顔で言った。
「いや、かなり速いぜ?そうだな…、普通の碇でなしに、何か重いもんに船括ってんじゃねえか…」
 甘寧が、首を傾げ。
「ああ!道理で、碇綱がやたら太いと思った!」
 呂蒙がぽんと手を打った。
「普通の船よりずっと太い綱使ってましたよ。船同士も括ってあるみたいでしたし!」
 そこまで見たということは、いったいどこまで近づいたのか。弩の射程ぎりぎりまで行きでもしたのだろうか。
「んじゃ、それ切ったら、流れるんじゃねえか」
 菫襲が、ゆっくりとした口調で言った。
「船同士括ってあんだったら…流れ出したらどうしようもなくなるな…、殿」
 日焼けした顔の中で、目がきらりと光る。
「俺を行かせちゃあくれませんか?その綱、切って来ますよ」
「行ってくれるか!しかし、…一人では」
 孫権が一座を見回し、甘寧が、口を開けた。
「俺が…」
「いや、お前は本隊に欲しい。このへんの江に一番詳しいのは、お前だから…」
 周瑜が緩く手を振った。孫権も頷く。ならば自分がと呂蒙が思ったところへ。
「俺が行きますっ!」
 勢い込んだ声がした。凌統である。
「おお!お前が行ってくれるか」
 心意気を是としたか。孫権がにっこり微笑み、周瑜も頷いた。
「じゃあ、元代(菫襲)、公績(凌統)と打ち合わせして…、頼むぞ」

 軍議は、そこで終わり。

 …公績のヤツ…、とっちめてやらなくちゃ!
 勢い込んで立ち上がった呂蒙の肩を、菫襲が、ぽんと叩いた。
「あ」
「説教は俺がすらあ。あいつと組むのは俺なんだしよ」
 菫襲を見上げたおおきな瞳を、ちらと懸念の色がよぎる。菫襲が肩を竦めて笑った。
「何もとって喰やしねえって。どうせあれだろ、あのガキ、麻屯のことがあるから変なふうに気負ってんだろ」
 こいつを生かしておいてよかったと、殿に思っていただかなくてはとか、何とか。
 見抜いたようなことを言って、菫襲がまた、肩を竦めた。呂蒙がほっとした顔になる。
「…お前、陳の奴とけっこうウマ合うみたいだったから…」
 陳の奴。
 あの麻屯で、酒の上でのいさかいから、凌統に殺された男。
「ガキじゃあるめえし、戦に私情なんざ挟むかっての。人のこと心配してねえで、お前、一息入れてろ。目の下、クマになってんぜ」
「…ん」
 照れくさそうに、呂蒙が笑った。
「射程ぎりぎりまで行ったんだろ?お前怖いってこと知らねえのな。…けど、疲れたろ」
 相当に気を張っていたに違いない。呂蒙の顔に、疲れが見える。
「だいじょぶだよ」
 それでも呂蒙は、明るく笑う。
「何か、手、あるのか?」
「おう。俺が潜って綱切ってこよっかと思ってる」
 さらりと怖いことを言って、菫襲が笑った。
「元…」
「心配ねえって。俺は泳ぎ達者だし…、公績がうまく敵さんの注意引きつけてくれりゃあ、何とかなるって。死ぬヤツは一人でも少ねえ方がいい。綱さえ切りゃあ、船は流れる。だろ?」
「・・・・・。」

 …ああ。そうだ。
 死ぬヤツは、一人でも少ない方が。
 判った。俺に、出来ること。
 味方だけじゃない。敵も…、出来るだけ殺さずに、戦を終わらせる。
 江夏の民はこっちに移される。それは、俺にはどうしようもない。
 けど、敵軍には、江夏の出の連中もいるだろう。せめて…身内を俺たちが殺したと恨む人を、一人でも少なくする…、それなら俺にも出来る。
 黄祖の水軍は、殲滅しなくてはならない。けど。一隻残らず沈めることはないのだ。一隻でも多く、拿捕出来れば。そうして…俺たちの水軍に組み込むことが出来れば。曹操に渡さずに済むだけじゃなくて、こっちの力を増すことにもなる。
 だいじな身内がうちの軍に入ったと聞けば、移された民だって、東呉にいやすくなるだろう。うん。これなら、俺にも出来るじゃないか。
 そのためには…



 やはり、先輩には、こちらから挨拶をするのが、礼儀だろうからと。
 訪ねた菫襲は、ひどく、難しい顔をしていた。
「…引き受けたからには、どうするか、存念があるのだろう。まずそれを聞こうか」
「はい。小舟をたくさん、出します。兵には鎧を二重に着せて、盾を持たせて…」
 数があれば。どれかは側まで行き着けるだろう。その、行き着いた船の奴が、綱を切れば…
 凌統が答えている間も、菫襲の眉は険しくなるばかり。挙げ句。
「…お前、馬鹿か」
 馬鹿呼ばわりされた凌統が、流石にむっとした顔になる。だが。
「いったい、何人殺すつもりだ?」
「…え?」
 その顔は、次の言葉で、ぽかんと間抜けた顔に変わった。
「お前が死にたいのは、お前の勝手だがなあ。なんでそんな、人を巻き込むような真似するんだよ?」
「…死にたい?」
「お前はな、死にたがってんだよ!だからそんな馬鹿な策立てるんだ!あの火計だって、そうよ」
 唖然として黙り込んだ凌統に、菫襲は容赦なく浴びせかける。
「火船突っ込ませるってお前、向こうは川上にいるんだぜ?当然、漕ぎ手やら何やら、いるだろうがよ。あの矢の雨の中、どうやってそいつら脱出させるつもりだった?」
「だから、決死隊を…」
「決死隊ってのはなあ、決死の覚悟で任務に当たる隊ってことだ。最初から死ぬつもりで行くのは、自殺隊ってんだよ!俺あ、お前の自殺につきあうのは、ごめんだね」
「元代どの、俺は…」
 それでも抗弁しかけた凌統だが、
「殿に命を救って貰った恩返しとか何とか思ってんのかもしれねえけどなあ、たった一度の活躍で帳消しに出来るほど、てめえのしたことは軽くねえんだよ!死んで罪から逃れようなんて甘いこと考えんな!」
 陳の野郎は確かに酒癖が悪かったから…、お前でなくても、いずれ誰かと、そういうことになってかもしれねえ。けどなあ。

「そんな奴でも、おふくろさんには、大事な一人息子だったのよ」

 興覇が許せねえお前なら判るな。おふくろさんが今、どんな気持ちでいるか。

 凌統の背筋を、ぞっと、何かが走った。
 突きつけられた現実の重さが、それ以上の抗弁をぴたりと封じる。

 …そう、だ。
 人の命を奪うということは…、そういうことなのだ。
 奪われるのはその人の命だけではない。
 それは自分が誰よりも判っていたことではないか。
 …俺の…夢は・・・・・

「麻屯(まのとりで)のときのこと、お前忘れちゃいねえよな。攻撃の朝だ。陳の野郎が死んだって、目付がお前を捕らえに行って」
 縄目の恥を受ける気はないとかって、お前、いきなり敵に突っ込んでってよ。
「指揮官が突っ込みゃあ、部下は、ついてかなきゃあしょうがねえ。…あんときはまあ、大した損害もなくて済んだし、お前の奮戦で、敵さんが気を呑まれて、あの砦は陥ちた」
 確かに、それは、事実だ。だが。
「だからってお前のやったことがいいわけじゃねえ。てめえが死にたいからって、人を巻き込むのは最低だ。そんなに死にたきゃ一人で死ね!この上部下の身内の恨みまで背負い込む気か?!」
 畳み掛ける菫襲の気迫は、逆らうことも弁解することも許さない。
「俺あ、死にたがってる奴につきあうのは、ごめんだ。俺も死ぬ気はねえし、部下も死なせる気はねえよ!」
 強ばった顔で凌統が俯いた。
 腹が立つ、悔しい、悲しい…、いやどれとも違う。わけのわからない感情で、頭の中がぐるぐるしている。
 だが、…あらわにされたのは、自分の、本心。
 自分でも認めようとしなかった、心の奥底の真実。重い現実から逃げ出したいという、…自分の、弱さ。
 …逃げ出してしまいたい。
 そう思った時。
 不意に菫襲の口調が和らいだ。

「だから、な。死に急ぐな。」

 声は、穏やかに、優しく。

「生きろ。生きて、手柄立て続けろ。おふくろさんには、恨ませてやりな。…それが生きる支えになってんだ」
 杖とも頼む一人息子だった。誰かを恨まねばやりきれまい。
「殺した敵の命、死なせた味方の命、全部背負って行く。それが、武人だ。殺した奴の身内に恨まれてやるのも、仕事だと思え。」
 その為に、生きろ。
 言葉の中身は厳しかったが、声は痛いほどに暖かく。
「…わかったか」
「はい」
「もう、あんな馬鹿は、言わねえか」
「はい」
「俺の言う通り、出来るか」
「はい!」
 …もう、連れて行って貰えないかと、思ったのに…!
 ぱっと顔を上げれば、そこには、暖かい笑顔があって。
「いいか、言う通りにするんだぞ?お前がしくじったら、俺が、死ななきゃならねえからな。俺まで殺すなよ?」
 策は…



 菫襲の策は、見事に当たった。
 凌統隊が囮になり、敵弩兵の注意を引きつけている間に、菫襲に率いられた水練自慢の兵たちが、敵船を繋いだ碇綱を切る。
 ゆらり。
 大きな壁となっていた敵の蒙衝が、流れに押されるまま方向を変え…

 今だ。

「よし…」
 出撃の命を出そうと、旗艦の周瑜が手を挙げた時。
「公瑾殿ー!」
 するすると近づいてきた一艘の船から、空のようにあかるい声が飛んだ。
 見下ろせば。赤い軍装。腕を振る、小柄な姿。
「…ああ、子明?どう…」
「俺、敵のアタマ、狙いますから!援護願います!」
 澄んだ瞳で、まっすぐ、こちらを見上げて。
「え?」
「まっすぐ旗艦に突っ込みます。敵の都督…陳でしたっけ?あいつ、狙いますから!」
「どれが旗艦か判るのか?艦隊は湾の奥にいたのだろう?偵察でそこまで見えたのか?」
「…それは、見えなかったけど…、でも、大丈夫、出来ます。入り口塞いでるヤツが流れたら…、絶対、旗艦、前に出てきますから!」
 おおきな瞳は、自信ありげに輝いた。
 湊の中の黄祖水軍には、今ひとつ緊張が感じられなかった。あそこに蒙衝を置いていれば、安心だと思っているのだ。
 あの蒙衝が流れたのだ。敵は混乱している筈。そこにこちらが攻めかかるのだ…、態勢を立て直すためにも、皆を落ち着かせるためにも、旗艦は率先して動く。…その筈だ。後ろに引っ込んでいるわけにはいかないだろう。それを、狙う。
 そうだ。必ずそうなる。なぜかそれが判る。なぜか見える。俺には判る。
 …いける。
「俺が旗艦の大将殺ったら、絶対、みんな浮き足立つ筈ですから…」
 水戦では、旗艦…つまり、司令塔の役割が、陸戦以上に重要である。それを真っ先に倒してしまうことが、出来れば。そうしたら。
「あと、奴ら分断して、出来るだけ投降させるように…」

 見えた。湾内。三隻並んで直進してくる艦。
 中央の、あれ。甲板の動きが、一番慌ただしい。
 …あれだ。

「行きます、公瑾殿!」
「よし!」

「目標中央、敵旗艦!弓!旗手を狙え!指令を出させるな!」
「子明を援護する!左右の僚艦を切り離せ!甘寧隊は後続を切る!菫襲隊に湾口の封鎖を・・・・・」

 

 そうして。そうなったのだ。
 呂蒙の言った通りに。

 慌てて突出した陳就は呂蒙に討ち取られ、混乱したまま分断された荊州水軍の艦船の多くは拿捕された。
 孫軍は無事上陸、黄祖の首級をあげ、江夏を落とすことに成功したのである。
 孫権は「事がうまく運んだのは、陳就を先に始末することが出来たからだ!」と、呂蒙の働きを絶賛。横野中郎将に昇進させ、褒美に銭を賜り…



 江夏が、燃えている。



 戦勝を喜ぶ陣に背を向け、じっと炎を見据える姿があった。
 凌統である。

 …殺した敵の命、死なせた味方の命、全部背負って行く。それが、武人だ。殺した奴の身内に恨まれてやるのも、仕事だと思え。
 …おふくろさんには、恨ませてやりな。…それが生きる支えになってんだ。

 菫襲の言葉が。この地で死んだ父親の言葉のように思えて…

 俺は違う。
 俺は、独りぼっちにされた孤独な老女じゃない。自分の人生これからどうでも切り開いて行ける、若い男だ。
 人を恨まなきゃ生きていけないような…、そんな弱くて悲しい人間じゃない。背負わなきゃならないものは、ちゃんと背負っていける。
 そうとも。
 年取った女の人から息子奪った俺に、親父を奪われたとか夢を潰されたとか、そんなこと言う資格はもう、ないんだ。
 そこらじゅうで誰かが誰かの仇…、それが、乱世なんだから。
 ああ。でも。
 こんな時代でなかったら。
 そうしたら。俺は。…俺は・・・・・
 


 燃え上がる城は、夢の墓標。
 見つめる凌統の目に、涙が滲む。
 そうして。
 その背を見つめる、おおきな瞳。
 かける言葉を思いつけぬまま…



 もっと、学問をしよう。
 『孫子』あたりをしっかり読んで、戦場で有効な策が出せるようになろう。
 戦が起きる起きないは、俺なんかがどうにかできることじゃない。でも、敵も味方も、出来るだけ殺さずにすむ…、そんな戦い方を工夫することなら、俺にだって出来る。
 だって今日、出来たもの。
 俺に出来ること何かないかって、頑張って偵察行ったら、…おかげで策、思いつけたじゃないか。
 一生懸命願って頑張ったら、きっと、この気持ち、天にも届くんだ。
 そうだ。
 こんなふうに泣く奴が一人でも少なくなるような、…戦そのものは避けられないとしても、そういう戦の仕方、あるはずだ、きっと。
 仕方ないでは、済ませたくない。いや、済ませちゃいけないんだ。
 俺の力なんてちっぽけだけど、それでも、できることを、精一杯やろう。
 だって…

 俺、みんな、好きだから。



 踵を返した呂蒙の背を、凌統の啜り泣きが追いかけた。